厩舎のなかは広々として薄暗かった。
王室お抱えの調教師に先導されて夫とともに歩き進むうちに、藁を荒々しく踏みしだく音と激しい鼻息、
そしてむっとするような生々しいにおいが徐々に近づいてくる。
マリーが思わず足を止めてそちらを見ると、
引き締まった体つきの牝馬の上に牡馬の巨躯が後ろから覆いかぶさっているところだった。
両頭とも全身汗にまみれて毛が身体に張り付いている。
数人の馬丁が傍らや後ろに立って掛け声をかけているが、
その場の雰囲気に圧倒されてしまったマリーの耳にはよく聞き取れない。
荒い鼻息と唸るような鳴き声だけが周囲を支配している。




「マリー、こちらです。行きましょう」
オーギュストに声をかけられてマリーはようやく我に帰り、ここに来た目的を思い出す。
一ヶ月前に結婚したばかりのふたりだが、
北の最果てにある妻の母国では馬というと脚が短く体がどっしりした物資運搬用のものばかりだと知り、
オーギュストは王室で飼育している駿馬たちを見せようとここへ連れてきたのだ。
さすが諸国の富が集まるガルィア王家だけあって、
はるか東方の砂漠地帯を産地とする名馬の血統を取り揃えているのだという。




種付け風景を後にして彼らの厩舎までたどりついたとき、
その脚の長さ、たてがみの優雅さ、体躯の引き締まりぶりに彼女は目を見張った。
「なかなかのものでしょう。走らせるともっと驚かれますよ」
マリーが感心したように彼らの筋肉を眺めているのを見て、オーギュストは誇らしげに言った。
彼はそれほど乗馬に巧みなわけではないが、馬という生き物が可愛くてたまらないのだ。
とりわけ数年前父王から東方産の純血種を下賜されてからというもの、
二日に一回は厩舎に顔をのぞかせて馬の体調や機嫌について馬丁たちとことばを交わす。
「東方産の馬をごらんになるのは初めてですか」
「ええ。―――いえ、そういえば、サクスンの宮廷でも見たことがございます。
 ジェラール殿もやはり馬が好きで、たびたび購入しておられたのです。
そのなかの最も高価な馬がたしか東方産でしたわ。
正確にはその血筋ということだったかもしれませんが、
でもたしかに、この子たちのような美しい体格をしておりました」
マリーはふたたび彼らの長い顔を見上げる。




ルースは今でこそ農耕を国の基としているが、
本来狩猟民族なので、マリーも公女とはいえ幼いころから乗馬や狩には慣れ親しんできた。
夫ジェラルド、ガルィア風にいうとジェラールに侮蔑を受けつづけた最初の結婚生活において、
寝室以外で唯一彼の歓心を買うことができたのが馬の早駆けだったのである。
日ごろあれほど惨めな思いをさせられていたにも関わらず、
気まぐれに誘われた駆け比べで彼を負かして「たいしたものだ」
とあの端麗な顔で微笑まれたとき、それだけでマリーの胸は高鳴った。
これを機にわたくしを省みてくださるだろうかという無謀な期待さえ抱いた。
しかしむろんそんなことにはならず、一瞬のちには彼は妻から離れ、
近習を従えて遠駆けに出かけたり通りすがりの乗馬中の貴婦人に戯れかかったりするのだった。
それゆえに馬術とか名馬というものは、
マリーにとっては以前の結婚生活におけるほんの一瞬の幸せと後に続く寂しさを思い起こさせるものであり、
このガルィア王室の厩舎に立っていてもその思いをとどめることができなかった。




(―――あの方が馬に殺されたというのも皮肉なものだわ)
あの日、いつものように幼な妻を館にひとり残して狩猟地に赴いたジェラルドは、
何かの拍子で興奮した愛馬から振り落とされてしまい、
手綱が腕に絡まったため長時間地面を引きずり回された。
その名馬の堂々たる巨躯と狂奔のために従者も助けに入ることができず、
死亡時には彼の美しい面立ちはもはや跡形もなかったという。
葬儀のとき棺に横たえられたジェラルドの全身は布で覆われ、
それが何者であるのか生みの親にさえ分からなかった。
マリーに対してはほぼ常に冷酷といっていい夫であったが、
そのむごい死に様を思い出すと今でもやはり胸がつまった。




「ジェラール公子は落馬で亡くなられたのでしたね」
マリーの表情を読み取ったのか、オーギュストが静かに言った。
「今でも思い出されますか」
「時折は」
マリーは短く答えた。
夫を悼む気持ちはあるにしても、
サクスンでの惨めな結婚生活を思い起こすのはマリーにとって苦痛でしかなかった。
そう感じる理由を尋ねられたらジェラルドがいかに妻に対して非情な男であったかを明かさずにはすむまい。
しかしたとえ事実の告白であっても故人に鞭打つようなことはするまいとマリーは固く決めていたので、
早々に口をつぐんだのだ。
オーギュストは彼女の控えめな態度の意味をとりちがえたようだった。
先夫を偲ぶ気持ちが強い分、極力それを隠したがっている。そう感じたのである。
彼は一瞬妻を見つめたがすぐに顔をそらした。
「―――去年生まれた葦毛が今外におりますが、これも優れものです。
もしお気に召したら差し上げましょう」
マリーは礼を述べ、夫に従って光の差し込む出口へ歩いていった。




珊瑚の櫛が上から下へとおろされるたび、
マリーの白金色の髪は機織りにかけられた絹糸のようにぴんと張り詰め、柔らかい光沢を放った。
(本当に美しくなられたこと)
姫君の髪と鏡に映る顔を交互に眺めると、アンヌは満足を覚えつつ彼女の髪を梳きつづけた。
マリーはもとより白百合の様な清らかさをそなえている娘だが、
二年前の最初の結婚のときは常に寂寥と屈辱に苛まれていたためか表情は晴れず、
その美貌も人目を引くことがなかった。
しかし一ヶ月前にガルィア王国の第五王子に嫁いでからというもの、
十七歳の主人は日に日に美しく生まれ変わっているかのようにアンヌには思われた。




アンヌはマリーの幼いころからの腹心の侍女である。
姫君より二歳年上なだけだが、その冷静沈着さと聡明さはマリーの母であるルース公妃からも高く評価され、
侍女というよりは姫の相談役のような立場を任されている。
二年前マリーがサクスンに嫁いだときと同様、
今回の結婚に際してもアンヌは主人に付き随ってここガルィア宮廷に赴いた。
マリーとふたりきりのときはマルーシャ、アニュータというふうに
祖国にいたときからの愛称で呼び合って心を許し合う仲であり、
もしアニュータが側にいてくれなかったら
わたくしはジェラルドに先立たれる前にルースに逃げ帰っていたかもしれない、
とマリーが今でも感謝するほど影に日向に支えとなってくれた頼もしい存在である。
アンヌは灰色がかった金髪に深みのある灰色の瞳をもち、その目鼻立ちは端整と呼べる域だが、
笑顔と愛嬌に乏しいためか異性から魅力的と評されることは少ない。
しかし当人はほかの女官たちのように宮廷流の恋愛遊戯に身をやつす性向ではないので、
別にそれを気に病むこともなく、姫君の喜怒哀楽を見守りながら淡々と暮らしている。




マリーの髪を梳きながら、
ふとそこに自分の顔が映し出せそうなほど艶があるということに気がつき、アンヌは内心ますます感嘆した。
(―――あの王子にも見るべきところはあるということだろうか。
結婚生活の安寧のおかげでマルーシャ様の美質にますます磨きがかけられたのだとしたら)




アンヌはオーギュストに対しては概して辛口である。
マリーが最初の結婚でひどく傷つけられたことに本人以上に心を痛めていた彼女は、
二度目の婚礼で初夜が明けた直後、
今回は虐げられなかったどうか、優しい夫であるかどうかを主人に詳しく尋ねた。
彼女たちは互いを姉妹のように思っているので、
マリーもつい起きたことをありのままに告白してしまったのである。
結果として、二番目の夫オーギュストがマリーを大切にする善良な少年であることが判明し一安心したが、
同時にアンヌの脳裏には
「机上の学問に秀でているだけのぼんくら王子」
という印象がしっかり刻みつけられてしまった。
マリーはその評価を取り消そうと躍起になっているが、的をついているだけになかなか払拭できないでいる。




「ねえアニュータ」
アンヌがオーギュストのぼんくらぶりを心のなかで数え上げていたとき、
マリーが鏡の中で彼女の顔を見て話しかけた。櫛を動かす手が止まる。
「あの方にレパートリーを増やしていただくには、どうしたらいいかしら」
「何のレパートリーです」
「つまり、その・・・寝室での」
頬を染めながらマリーが答える。
いくら姉妹のような主従とはいえ、こんなことは姫君がおいそれと口にするものではない。
叱責されることを恐れてマリーは徐々に小声になる。
かといってアンヌは厳格な処女というわけではない。
持ち前の淡白な気質から純愛というものにこだわらないので、
面白みのありそうな求愛者には肌を許すことが時々ある。
ふつう未婚の侍女の不身持ちが露見すればすぐに宮中から放逐されるものだが、
アンヌはマリーから一目も二目も置かれているのでこれぐらいの所業はむしろ主人から感心されるだけである。
とはいえ淫乱というにはほど遠く、男がいなければいないで困らないたちなので、
姫君の素行を監督する権利は十分もっている。




「寝室での、でございますか」
ありがたいことに監督者の声はそれほど驚いてはいない。
「ええ。だって・・・あの方と夜を過ごすのはとても素敵なのだけれど、
ほら、わたくしを娶るまで女体を知らずにいらっしゃったから・・・
その、どうしても、初夜にお教えしたことの繰り返しになってしまうの」
「体位がでございますか」
「―――そうよ」
顔色も変えず言い放つ侍女を鏡の中に見ながら、マリーはますます頬を赤らめる。
「この一ヶ月ずっと正常位だったということですか」
「ええ」
あのぼんくら王子、といいたげにアンヌが眉を顰めるのがマリーにも分かった。
今回ばかりは多少同意してもいい気がした。




「しかし他に教唆する者がいないのなら、殿下がひとつ事ばかり繰り返されるのも仕方ありませんわね。
きっと世の中には男女の営み方はひとつしかないと信じておいでなのでしょう。
ならばマルーシャ様が新たに手ほどきしてさしあげればよろしいではありませんか」
「わたくしも、そう思ったのだけれど―――
でも、体位のような技巧的なことって夫婦の愛においてはいわば枝葉でしょう?
肌を重ねるだけでは満足できずにそんなつまらぬことに執着していると思われたら、
わたくしの愛情が疑われてしまうかもしれないわ」
「しかしながら、仮に殿下のほうから愛の歓びをより高めるためにいろんな方法を追求したいといわれたら、
マルーシャ様はあの方の愛情を疑い拒まれますか」
「―――いいえ」
鏡の中でアンヌの口元が少し緩んだのが見えた。マリーはまた真っ赤になる。
「もう、アニュータったら。わたくしだって恥を忍んで話しているのよ」
「失礼いたしました。でもご決心はついたでしょう。
今夜にでも何か新しいことをご提案なされませ」




オーギュストが寝台脇の燭台を吹き消そうとしたとき、マリーはとどまらせた。
「どうなさいました。何か読み物を?」
「いいえ、―――お話したいことがございますの」
妻の口調がやたら改まっているので、オーギュストも自然と寝台の上で居ずまいを正した。
「この寝台はたいそう広うございますわね。
あの、わたくしたち、もっといろんな可能性が試せると思いますの」




オーギュストは白い海原のようなシーツをざっと見渡した。
「そうですね。五、六人で七並べくらいできそうです」
「・・・それも素敵ですわね。でもここはほら、わたくしたち夫婦の寝室ですから、ふたりで楽しめることを」
「チェスはどうでしょう。でも盤を置いたら羽根布団が傷んでしまいますね」
「・・・ええ、ものを粗末にしてはいけませんわね。民の血税ですから」
腹心の侍女によるオーギュスト評がますます妥当性を帯びてくるのを感じながら、
マリーはそれでも夫に訴えかけた。
何しろ妃たる者がなかなか自分から言えるようなことではないのだ。




「わたくしたち、今朝厩舎でひとつがいの馬を見かけましたでしょう」
「ええ」
「彼らは何をしておりましたか」
「牡が牝の後ろに立って種付けを」
「あれは、―――人間の場合でも有効なのだそうですわ。子作りに」
恥ずかしさのあまりわけのわからぬことを口走ってしまい、マリーは夫の顔が見られない。
「つまりマリー、あなたは―――僕たちもああいう姿で交わるべきだと?」
「べきだなんて、そんな。その、たまにはそういうのもいいかしらと思いましたの」
オーギュストは答えない。マリーがおそるおそる顔を上げると、
思いがけないことに怒ったような表情をしていた。
「僕はいやだ」




一言そう言うと彼はさっと布団に入り反対側を向いてしまった。
全く予想していなかった事態にマリーはことばを失う。
(征服欲を煽られるから、殿方はああいう体位がお好きだとばかり聞いていたのに)
わたくしのあまりのはしたなさにお怒りになったのかしらと思うと、
マリーはもともと後ろめたさがある分、なんとか夫に詫びようとする。
「オーギュスト、こちらを向いてくださいませ。
 マリーが悪うございました。
王子の妃ともあろう者が、こんな汚らわしい考えを起こしてはなりませんでした。
畜生の行いなど倣いたくないとおっしゃるのももっともですわ」




「―――そうではありません」
妻のいじらしい声を無視することはできずに、彼は結局また起き上がった。
「僕がいやなのは、つまり―――後ろからというのは、互いの顔が見られない。
 僕はあなたを抱いているということがわかるけれど、
あなたは誰に抱かれているかは分からないではありませんか。
 あなたにはいくらでも想像の余地がある。―――前の夫君とか」
「まあ、なんということを」
マリーは目を丸くした。
「―――思いもよりませんでしたわ。なぜそんなふうにわたくしをお疑いになるのです」
「聞き苦しいことを言っていると分かっています。でも、どうしようもないのです。
あなたを好きになればなるほど、そのことばかり考えてしまう。
今朝厩舎で駿馬を見たときのあなたの反応を見て、ますますその思いが抑えがたくなってしまいました」
「まあ―――」
マリーは夫のことばに困惑を隠せなかった。
そんなつもりは全くなかったので、罪悪感さえすぐには沸いてこない。
しかしオーギュストが傷ついているのは事実なのだ。
マリーがいうべきことばを探しているうちに、彼はぽつりぽつりと語り始めた。




「僕もジェラール公子には何度かお会いしたことがあります。
我が宮中で毎春催される園遊会へ、サクスン公の代理としてたびたびお運びいただいたのです。
お年がひとまわり上なので、誼を結ばれるのはもっぱら上の兄たちとばかりでしたが、
でも、遠目にも分かる美丈夫でたいそう凛々しい方でした。
そのお姿と機知あふれる会話、
優雅な物腰で貴婦人や女官たちの崇拝の的になっておられたのはむろんですが、
乗馬やチェスで腕を競っても全くたいした男だと兄たちも賞賛しておりました。
今年はじめ、マリーという名のルース公女との婚約を父上から告げられたとき、
僕はその姫君が遠い異国の出身であることよりも、故ジェラール公子の妃だったいうことのほうが気になりました。
僕を好きになってくださるかどうか心もとなかったのです。




花嫁行列が宮廷に到着したその日、
馬車から降り立ったあなたは蝋人形のように綺麗だったけれどまるで生気が感じられず、
正直にいって、気持ちを通わせることができるだろうかと心配になりました。
でも婚礼当日、祭壇であの白いヴェールをはずしたとき、あなたの瞳は真っ赤で、
どこか怯えながらそれでも毅然とした表情をしていらっしゃった。
あのとき僕は分かりました。あなたも心細くてたまらないのだと。
けれどそれでも何とか己を奮い立たせているのだと。
涙で化粧が崩れてしまっていたけれど、あのお顔の美しさが僕には忘れられません。
そして夜になり、たぶんあなたも不安だったと思うのだけれど、
一から優しくご教示くださり、僕を男にしてくださいました。
初夜の明け方ごろ、あなたの柔らかくてかぐわしい金髪に顔をうずめながら、
僕はなんという幸福者だろうと思いました。
でも同時に不安だったのです。
あのような完璧な男性の妻だった方が、本当に僕みたいなのに心を傾けてくださることがあるだろうかと。
僕は分不相応な幸運を手にしてしまったのではないかと。
あなたを愛してしまったからこそ、婚約成立時のあの最初の疑念が、
ますます頭から離れなくなってしまったのです。
ジェラール公子のもとにいらしたとき、マリー、あなたはとても誇らしく幸福だったと思います。
僕ももちろんあなたを幸福にしたいと思っています。心から思っています。
でも、そんなことが果たしてできるかどうか、あなたの心は彼から僕のほうへ少しでも向いておいでなのか、
それが心配でたまらない。ときどき平常心を失いさえしてしまう。先ほどのように」




マリーは黙っていた。
寝台脇で残り少なくなった蝋燭が小さな光を揺らしている。
あまり長い間沈黙がつづくのでオーギュストが何かいいかけたとき、マリーはとうとう口を開いた。
「わたくしの態度にそういうものが―――
あなたへの不実を匂わせる何かがございましたのなら、大変申し訳なく存じます。
ですがお聞きください。あの方はたしかに人より優れたところを数多く持ち合わせておいででした。
結婚当初はわたくしもたいそう光栄に思ったものです。でも―――
わたくしの思いを汲み心を通わせたいと思った下さったことにかけては、
あの方は決してあなたの比ではありませんでした」
故人を悪く言うことを避けるためマリーは極力淡々と言い切ろうとした。
しかし彼女の意思とはうらはらにその声は徐々にうわずり、やがて嗚咽が抑えがたくなった。
マリーを襲ったのはオーギュストの想像とは似ても似つかぬサクスンでの惨めな記憶だけではなかった。
それよりも、わたくしは今はこの方の隣にいて、この方はわたくしの心を切実に求めていてくださっている、
という思いが彼女の心を満たしていた。
オーギュストが心配そうに彼女を抱き寄せると、マリーは素直に身体をあずけた。




「―――そして、そのことがわたくしにとっては最も大切なのです。
二度の結婚に際して父からは、くれぐれも夫となる方に心身を捧げて尽くし、
ルースとの紐帯をより強固なものにせよとの訓戒を賜りました。
ジェラール殿と結婚していたときも、あなたの妻である今も、常にそのことばを守ろうと努めております。
ですがオーギュスト、あなたに対しては、
父から課された公女としての義務だからご奉仕申し上げるのではありません。
わたくしがあなたを知りたいと望んだように、あなたもわたくしのことを知りたいと―――
わたくしと身体だけでなく心も重ねたいと望んでくださったがために、
あなたにお尽くししたいのです。伴侶としてお力になりたいのです」
マリーは急に恥ずかしくなってオーギュストの胸に顔をうずめた。
自分でもここまで吐露してしまうとは思っていなかったのだ。
夫の手が彼女の頭に置かれ、より懐深くまでそっと引き寄せられた。
マリー、と耳元で囁くようにして名を呼ばれるのが聞こえた。




「ジェラール公子との間に何があったのかは存じません。
でも僕は決して、あなたのお気持ちをないがしろにはしません。
僕はとてもふつうの人間で、ふつうのことしかできないけれど、でも、あなたを大事にします」
彼の胸の中でマリーはまた少し泣きそうになった。
しかしゆっくり顔を上げて、目尻に涙をためたまま夫にそっと微笑んだ。
オーギュストがくちづけしたのを機に、ふたりは寝台のうえで愛撫を交わし始めた。
マリーは頬や首筋に接吻を受けながら、泣いた余韻で身体の芯が熱くなっていたせいもあるのだろうか、
今までにないほど激しく愛されたいとつい思ってしまった。




「わたくしの気持ちはお分かりいただけたでしょうか」
彼女の帯を解こうとしていたオーギュストは顔を上げ、もちろんです、とうなずいた。
「でしたら先ほどの提案も、もはやご疑念の対象にはなりませぬでしょう?」
妻に恥じらいがちな小さな声で説かれ、まだ少し潤みを残した瞳でのぞきこまれると、
オーギュストも否とは言えなかった。
馬の姿勢にずいぶんこだわるものだとは思ったが、
夫婦のかすがいのためにそうすることが必要なら甘んじて受け入れようと決めた。
しかし彼のほうにもひとつ条件があった。




「分かりました、マリー。そのように営みましょう。
でもひとつだけお願いがあるのです。
最初のときだけ、鏡の前でもよろしいですか」
マリーは耳を疑った。
「あの、今、何と」
「寝台の端に鏡を立てかけて、その前であなたを後ろから愛したいのです。おかしいでしょうか」
「お、おかしいというか、あの、それは」
どう考えても変質者の行為ですわ、とマリーは言いたかったが、
夫の顔には卑しげな笑いや後ろめたさといったものが全くなく、
その代わり淡い栗色の瞳でまっすぐにこちらを見つめてくるので何も言えなかった。
「あなたがさっきおっしゃったことを、僕は信じます。
僕に抱かれながらほかの男のことを考えるかもしれないなどとはもう疑いません。
けれど最初のときだけ、たとえ顔を向かい合わせていなくてもあなたを抱いているのが僕だと分かるように、
鏡をのぞいてお互いを確認できたなら、とても安心できると思うのです。
 それに、僕もあなたのお顔を見て安心したい」
「・・・・・」




マリーはことばを失ったまま、
この方はどうしてこうも健全な精神からこうも不健全な発想へと至ることができるのだろう、
と半ば感心していた。
実のところマリーはジェラルドと結婚していたころ、
ややサディストの傾向がある夫に強いられてさまざまな形の情交を経験しており、
鏡の前で辱められるというのもそのひとつだった。
あのときは妻としてではなく単に玩具として扱われていることが分かっていただけに
マリーの自尊心はぼろぼろだったが、
女にされたばかりの肉体のほうは危うい歓びに目覚め始めていた。
あのとき、鏡の中の己の痴態を見るよう命令されながら、
自分がどれほど興奮し濡れそぼっていたかを思い出すとマリーは顔から火が出そうだったが、
今オーギュストに同じことを提案されて、彼女の白い肌はまぎれもなく火照り始めていた。
自らの内にある熱に耐え切れなくなり、マリーはついに言ってしまった。




「よろしゅうございますわ」
「よかった」
その声と笑顔があまりに無邪気で幼いので、
マリーはこれから自分たちがしようとしている行為との落差にまたことばを失う。
そしてますます背徳的な気分に襲われてしまう。
「では鏡を運び込ませねばなりませんね。鏡台は寝台の上には動かせませんから。
 ―――誰かいないか」
「え?ちょ・・・」




マリーが阻止する間もなく、
王子夫妻の命があればいつでも動かんと待機していた宿直の侍女たちが控えの間から入ってきた。
「大きめの鏡をもってきて寝台の端に据えるよう、付近の従僕たちに伝えてくれ。若くて屈強なのがいい」
マリーが予測したとおり、侍女たちは一瞬目を丸くしたものの、
すぐに含み笑いを押し隠すようにして寝室を出て行った。
さらに悪いことには、そのなかにひとりだけ立ち止まり憮然としてマリーの顔を見つめる娘がいた。
アンヌだった。
(今夜はアニュータも宿直だったなんて)
観念したような顔でマリーは侍女の鋭い眼光を受け止めようとしたが、耐え切れずにすぐそらした。




アンヌは第三者がいる前ではふつうルースのことばは使わないのだが、
このときばかりは主人に母国語で詰問した。
「マルーシャ様、これはどういうことです。
昼間はたしかにあのように申し上げましたが、こんな悪趣味をお勧めしたおぼえはありません」
「いえ、これはね、その、オーギュストが」
「殿下のご発案ですか。
ついこのあいだマルーシャ様のお骨折りのすえ女人を知りそめたばかりだというのに、
誰の入れ知恵か、早くもこのような退廃的な淫行にたどりつかれたのですか」
「い、いえ、そういうわけでは」
「あなた様もあなた様です。厭わしい行為は毅然としてお断りなさらねばなりません。
さもなくば先の夫君のようにつけあがるばかりです」




いつ見ても冷静なルース人の侍女が珍しく強い口調でマリーに話しかけているのを見て、オーギュストは
(こんな夜中に主人の気まぐれで使用人を動員するものではない、と諫められているのだろうか)
と思い、妻にも使用人たちにも申し訳なく感じた。
「アンヌ、聞いてくれ。これはマリーではなく僕が言い出したことなんだ。
夜中に突然みなを呼びだして悪かったと思っている。もうこんなことは言いつけない。
そうだ、明朝また従僕に骨を折らせて撤去させるのも忍びないから、いっそ鏡をここに固定してしまおう。
寝台が広いというのはたしかに素敵なことですね、マリー」
妻が愕然として顔をこわばらせているのを同意だと見なし、
オーギュストはさわやかに微笑みかけた。
一方、アンヌは愕然とするどころか侮蔑の表情を浮かべんばかりだったが、
落ち着いて王子の思いやりをたしなめた。
「恐れ多いことでございます、殿下。
ですが、宿直の臣下というものはこういうときこそ主君のご意向に沿うために侍っておるのでございますから、
何もご遠慮なさることはありません。明朝すぐにでも撤去するよう男衆に言い渡しておきます。
なんなら今夜じゅうにでも。一時間後にでも。いえ十分後にでも取り払いましょう」




(もうアニュータったら、この方はそこまで早漏ではありません)
(いいから、姫様)
という視線を交わしながら妻たち主従が対立していることにも気づかず、
オーギュストは穏やかに侍女の好意をしりぞけた。
「いや、今夜はいいんだ。必要だから。―――あ、来たようだ」
四人の若い従僕たちに担ぎ上げられて、
銀製の額に入れられた長方形の大きな鏡が寝室に運び込まれ、寝台の足元のほうへ固定された。
「角度はどんな具合がよろしいでしょうか」
にやけた笑いを必死で押し殺しながら従僕のひとりが尋ねた。
彼らは若いだけに、今夜この鏡の前で美しいお妃がどんな恥ずかしい行為を強いられるのかと
想像してひそかに股間を硬くしている。
マリーにしてみればこの部屋ではすでに何かのプレイが始まっているとしか思えない。




「垂直でかまわない。ふつうの鏡と同じようにしてくれ」
マリーはもはや壁側を向き誰とも目を合わせようとしないが、
オーギュストひとりは落ち着いて指示を下し、
作業を終えた使用人たちをねぎらいのことばとともに送り出した。
アンヌは最後までその場に残ったものの、主人が振り向かないと分かると、マリーにだけ分かることばで
「明朝、事情をお聞かせいただきます」
とだけ言い残してようやく踵を返した。




「マリー、ご気分が悪いのですか」
壁側を向いて横たわったままの妻が心配になり、オーギュストは声をかけた。
気分が悪いという次元の話ではないのだが、何がどう恥ずかしいかを説くのも恥ずかしいことではあり、
何より彼には全く悪気がないのでマリーは説明を放棄した。
「いいえ、大丈夫ですわ」
彼女はもはや開き直って夫の腕に身を投げ出した。
アンヌたちの前では自分も耐えているのだというそぶりをしながらも、
その実彼女は差し迫る背徳行為にひそかに息を熱くしていたのだった。

「マリー」
思いがけない妻の大胆さに驚きながらも、オーギュストは彼女を抱きしめ深くくちづけした。
マリーの手ほどきをうけて、接吻の技法はここ数週間でずいぶん上達したものである。
「ん・・・あん・・・」
お互いの舌と唾液を絡めあい、ふたりのからだはますます熱くなっていく。
オーギュストの手でもどかしげに寝衣を剥ぎ取られながら、
マリーは早く深奥まで触れられたくてたまらなかった。
しかしさすがに姫君なので、自ら牝馬のような姿勢をとるのはやはりはばかられる。
夫に乳房を揉みしだかれ、敏感な乳首を吸われて呼吸を荒くしながら、
(あの姿勢になるようお命じくださるか、力づくでそのようにしてくださればいいのに)
とマリーがはしたないことを思っていたとき、彼のほうも実は妻が自ら動いてくれることを待っていた。
しかしじきに待てなくなり、彼女の望みどおりその身体をやや強引にうつぶせにして
手と膝を寝台の上につかせ、鏡に向き合わせた。




このような角度で妻の肢体を眺めるのは実に新鮮だった。
最初オーギュストは彼女の見事にくびれた腰から豊かな臀部にかけての曲線の美しさに驚嘆していたが、
その奥に隠されたふたつの秘門が後ろからだとはっきり見えることを知り、
ようやくこの体位の卑猥さに気がついた。
しかも割れ目のほうはすでに潤っていることまで見て取れる。
その濡れ具合をたしかめるために指をしのばせると、
花びらに触れただけで妻の華奢な身体は弓なりに反った。
「や、あん・・・」
「もう濡れている」
「や・・・」
「指が、こんなにすんなりと奥まで」
「いやあ・・・だめえ・・・」
オーギュストの優しい指が二本自らの内に入ってきたことを感じ、マリーの息はますます熱くなる。
その指の動きのせいで蜜の音が響くことも恥ずかしいが、
何よりこのような姿勢で後ろから夫に秘部をのぞきこまれているのがいちばん恥ずかしい。




しかもオーギュストは自然科学を愛好する者の常なのか、
目の前で起きている現象を客観的に観察して報告したがる癖がある。
ことばで妻を責めているという意識がないだけにかえって厄介である。
「マリー、ここはとても充血してきたようです。もうひとつの穴も感じているのかな。ひくひくしている」
「い、いや、見ないで・・・ひどうございますわ・・・」
「お許しください、あんまり可愛らしいから」
妻の美しい肉体を不躾に鑑賞する非礼をわびたものの、
この眺めを見せつけられて彼の分身はもう待てなかった。




「マリー、よろしいですか」
「え、ええ・・・あああっ」
オーギュストは彼女の腰をしっかりつかみ、自身を濡れそぼった秘門にあてがおうとしたのだが、
あまりに蜜があふれているのでつい滑ってしまい彼女の花びらを自身の幹でこすりあげたのだ。
すでにふくらんでいた秘芽は突然の摩擦をうけて過敏なまでに反応し、マリーの身体をますます反り返らせた。
「申し訳ない、ずれてしまった」
「い、いいえ・・・いいのです・・・」
夫には言えないが、これもいいかもしれないとマリーは思ってしまった。
「今度はちゃんと挿入します・・・・・くっ」
宣言したとおり、オーギュストは今度はまちがいなくマリーのなかに入ってきた。




「ああっ・・・はあんっ・・・・・」
まだ侵入され始めたばかりにもかかわらず、
ふだんの正常位とは明らかに違う感触にマリーは早くも歓喜をおぼえた。
しかしそれを露骨に示すのはためらわれるので、
オーギュストに聞こえるか聞こえないかの声を濡れた紅唇から漏らすばかりだった。
しかし彼が激しく突き進んでくるたびに彼女の理性は弛緩してしまい、
結局肉体のほうはより素直に快感を受け入れようと腰を高く突き出すに至った。
顔はシーツにうずまらんばかりだ。




「ああ・・・マリー・・・鏡を、見てください」
初めての体位に妻以上に興奮をおぼえながらも、オーギュストは本来の意図を忘れずに妻に声をかけた。
「か、かがみ・・・?」
「ええ、お顔を・・・あげて・・・」
言われるがまま半ばぼうっとなった頭を上げると、
そこにはねだるように腰を高くあげて後ろから責める夫に差し出している自分がいた。
牝猫のように浅ましい姿である。
彼に突き上げられるたび、下を向いた乳房が悩ましいほど激しく揺れる。
「いやああっ!」
かろうじて残っていた理性がマリーに顔を背けさせ、ふたたびシーツにうずめさせた。
「マリー、どうか見てください」
「いや・・・こんなのいや・・・」
「約束をしたではありませんか」
「できません・・・」
「僕を見るのがおいやなのですか?」
「いいえ、そんなこと」




オーギュストの声が急に悲しげになったことにマリーは罪悪感をおぼえ、
一瞬ためらいながらもまた頭を起こした。
鏡に映る姿はやはり同じで、すぐに目をそらしたくなる。
(だめ・・・ちゃんと見なければ。オーギュストのお姿だけ見ていればいいのよ。それが目的だもの)
そう自分に言い聞かせるが、しかし鏡に向かい合う姿勢からいって、
まず目に入るのは後ろからかぶさる夫ではなく自分の姿態である。
乱れた金髪は汗で額や肩にはりつき、乳房にも汗が伝って硬いままの乳首から滴り落ちようとしている。
次々迫り来る快感のために、大きな瞳はなかば夢見るようにとろんとしている。




(わたくしは何という姿をしているの・・・こんな、獣のような・・・恥ずかしい・・・)
理性がマリーをとめどなく叱責する。
そんなことはありえないにしても遠い祖国の父母にこの痴態を知られたらと思うと、
とてもではないが顔を上げてはいられなかった。
「マリー、どうか・・・お顔を上げて・・・」
「お許しください・・・わ、わたくしには・・・できません・・・」
「マリー、お願いだから」
「おゆる・・・や、やあああっ」




オーギュストの指が突然マリーの愛らしい芽を撫で上げたのだ。
その敏感ぶりに感心したのか、彼の指は執拗にそこだけを責めつづける。
人差し指と中指のあいだに挟まれて優しく擦りあげられると芽はつぼみのようにふくらんでますます充血し、
やがてマリーの全感覚を支配するにいたった。
愛液はいまや太腿を伝って膝まで滴り落ち、白いシーツにゆっくりと染みを作っている。
後ろから秘奥を突き上げられながら同時に秘芽をさすられるという拷問に、
マリーは息も絶え絶えになりながら抗おうとする。
「もう許し・・・て・・・お願い・・・です・・・」
「お顔を・・・上げてくださいますか・・・?」
(―――こんな取引の仕方を誰に教えられたのかしら)
マリーは夫に入れ知恵をした者を恨めしく思いながらも、同時に感謝したい気もしていた。
「わ、分かり・・・ました・・・」




マリーが恐る恐る顔を上げて再び鏡のなかの己にまみえると、
当然ながら夫の指が止まり、そこを去ろうとした。
「い、いやっ!」
気も狂いそうな絶頂の予感をおぼえていたマリーの本能は急いで彼の手を引きとめ、
そこに触れたままにさせる。
オーギュストは妻の非論理的な行為に驚いているが、
マリーはそれ以上に自分のはしたなさにびっくりしている。
「マ、マリー・・・あの、僕はどうすれば・・・」
「・・・つづけて、ください・・・」
もはや破れかぶれになってマリーは懇願した。
(ここでやめられたらわたくしは本当に気が狂ってしまう)




己の肉体の貪欲さにいたたまれない思いをしながらも、
開き直った彼女はオーギュストの愛撫を全身で受け入れ、
後ろから一突きされるたびに艶めかしい悲鳴を上げた。
雄の耳朶にまとわりつくようなその甘い声を聞けば、 どんな聖職者でも下半身を熱くせずにはいられないだろう。
オーギュストは妻の素直な反応をはしたないと思うどころかますますいとおしく思い、
情動に命じられるまま激しく突き上げた。
「ああ、マリー・・・このような姿も・・・とても綺麗だ・・・あなたの、表情も」
「やぁん・・・ご覧に・・・ならないで・・・」
「見ずには・・・いられないのです・・・もっとよく・・・知りたい・・・」
「は、恥ずかしゅうございますわ・・・あぁ・・・はぁっんっ・・・」




やがて抽送が素早く小刻みになり、マリーは彼の絶頂が近づいたことを知る。
(わたくしも・・・そろそろ・・・)
めったにないことながら、今夜はふたりが同時に上り詰めることができそうだという期待に花芯をうずかせて、
マリーは彼に突かれるがままいよいよ素直に身を反らせた。
認めたくないことだが自ら腰を前後に揺らせていたかもしれない。
オーギュストがほとんど自失の体で、妻の積極的な動作に気づいていないことだけが救いだった。
「マリー、すごい・・・ああ・・・僕は、もう・・・」
「ええ・・・一緒に・・・一緒に行きましょう・・・どうか・・・」
「・・・あああっ・・・」
「あああああっ!!」




―――ごぉん




「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・マリー?」
「・・・・・」
「マリー、大丈夫ですか」
彼女は答えない。絶頂感と額を打った衝撃が強すぎて気を失ってしまったのかもしれない。
「ああ、なんということだ。
 誰か、誰かいな・・・むぐ」
意識が朦朧としながらもマリーはとっさに起き上がって夫の口を封じた。
いくら妻の身を案じるあまりとはいえ、こんな全裸に愛液と精液をしたたらせた姿で、
しかもつながったままの姿で侍女たちを呼び入れられたらたまらない。
マリーはそれこそアンヌを連れて生国に逃げ帰るしかなくなってしまう。
「―――だ、大丈夫ですわ。驚かせて申し訳ございません」
強烈に痛む額を押さえながら、マリーはなんでもないふりをしようとした。
しかしオーギュストは彼女の手をどかせて打撲部をよく見ようとする。




「大丈夫とは思えません。とにかく早く冷やしましょう」
「かまいませんわ、どうか誰も呼ばないでくださいませ」
「僕が自分で氷を取ってまいります。それならよろしいでしょう」
オーギュストは急いで妻を横たわらせて夜具をかけてやると、手早く寝衣を羽織って外に出て行った。
(―――どうしてこんなことに)
マリーは憮然としながら高い天蓋を見つめていた。
しかし今回は快楽に溺れるあまり遠近感を失った自分の落ち度には違いないので、
誰を責めるわけにも行かない。
腫れた額は相変わらずずきずきと痛んで彼女を圧迫する。




(やはり古人のいうとおり、我を忘れるほどの姦淫に耽ってはいけないのね)
マリーが殊勝にもしみじみそう思ったとき、オーギュストが寝室に戻ってきた。
手には氷嚢と何かの皿をもっている。
「マリー、起き上がらないで。そのままでいらっしゃってください」
「申し訳ありません。お手数をおかけしてしまって」
氷嚢を額に当ててもらうと、ひんやりとした心地よさにマリーは目をつむった。
「ご気分はいかがですか」
「だいぶよくなりました。本当にありがとう存じます」
「あなたが気を失ったままだったらどうしようかと思った」




その場合は間違いなく、焦燥したオーギュストによって
彼女の恥ずかしい姿態がそのまま侍女たちの目にさらされることになっただろう。
物語にでてくる繊細な姫君たちの例に倣わずに自力でむりやり復活してよかった、
とマリーは心の底から思った。
「大丈夫ですわ。痛みは徐々に引いてまいりましたの。もう少したてばすっかり・・・これは?」
「食用の氷を一緒にもらってまいりました。
小さいころ病気になったとき乳母がしてくれたように、
本当は果物か菓子をお持ちしてお慰めしたかったのですが、就寝前なので。
僕はほっとしたいとき氷を口に含むのが好きなのです。
あなたもそうだといいのですが」




マリーは微笑んだ。
オーギュストが銀の匙で彼女の唇に小さく砕いた氷を運ぶと、口の中に涼風のような安息が訪れる。
薔薇の香りづけがしてあるようだ。
夫は案じるように彼女を見守っている。
マリーは手をとって傍らに横たわるよういざない、ふたたび彼の体温の中にみずからを委ねた。
これが姦淫であるはずはなかった。
だからいくら耽溺してもいいのだ、とマリーは眠りに落ちながら思いなおした。




* * * * * * * * * * * * * * *




盛大な音をたてて打ちつけたわりには、額の痛みはマリーの予想通り翌朝までに引いていた。
しかし痣ははっきりと残ってしまった。消えるまでに一週間くらいはかかるかもしれない。
未婚の娘のように前髪を下ろせば周囲の者には隠せるとしても、アンヌに対しては隠しようがない。
「どうなさったのです」
翌朝、マリーの身支度を手伝うために主人夫妻の寝室に入ったアンヌは落ち着いた声で尋ねた。
マリーはその落ち着きぶりをやや不穏に感じたものの、昨晩考えたとおりの回答をした。
しかし後ろめたさがあるためか、つい必要以上に饒舌になってしまう。
「これはね、寝台の支柱にぶつけてしまったの。
ほら、足元に鏡があるものだから、注意していつもより上のほうに枕を置いて寝たの。
起き上がったとき普段と位置が違うから感覚が狂ってしまって、
眠い目で寝台を降りようとしたらぶつかったの。
もう痛みはないから大丈夫よ、アニュータ。心配をかけてごめんなさい」
「さようでございますか。しかし念のため午前中に侍医をお呼びしましょう」
アンヌは主人の答えに納得したように、淡々といつもの朝の仕事にとりかかった。




(よかった)
腰まである長い髪を櫛で梳いてもらいながら、マリーはひそかに胸を撫で下ろした。
(まったく)
アンヌは主人夫妻のうかつさ、というかオーギュストのうかつさに立腹しながらも
黙って櫛を動かしていた。
客観的に考えれば明らかにマリー自身の不注意なのだが、
アンヌに言わせればこういう事故を未然に防ぐことこそ姫様の配偶者の仕事なのだ。
(昨晩はどんな痴戯をいい出すかと思えば、
マルーシャ様に獣のような姿勢をとらせ、あまつさえ怪我をさせるとは)
まったく、と再び口の中でつぶやいた。
しかしその憤りが本物ではなかったのは、マリーが今朝はいつにもまして美しく、
オーギュストと幸せそうに視線を交わしているからだった。




アンヌは二年前のある朝を思い出した。
あのときも姫君は顔に痣を負っていた。
彼女が心配して真剣に問いただしても、マリーは血の気のない顔をうつむけて目をそらしたまま、
ただ家具にぶつけたのですと小さな声で言うだけだった。
白絹の寝衣と肌着はなかば引きちぎられていた。
新婚の夫は早朝の狩りに出かけたためもう寝所にはいなかった。




(まあいい、今回は黙っておいてさしあげよう)
アンヌは部屋を出るとき、今朝取り替えたばかりのカーテンレースを
寝台の端に据えられた鏡にさりげなくかけておいた。
下男たちが運び出すときにも中が見えることはあるまい。
大きな鏡の足元のほう、ちょうど人が寝台に手をついたとき顔が来るくらいの高さには、
小さなひび割れが入ってわずかに鏡像を歪ませていた。




(終)




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