「今宵からよろしくおねがいいたします、オーギュスト様」
マリー公女は寝台と王子の前で恥じらいがちに目を伏せました。
長かった華燭の典も終わり、ついに床入りの儀です。
昼間に着ていた重厚で絢爛な婚礼衣装からようやく解き放たれ、
ふたりは白絹の夜着をまとってほっとしていました。
しかしまだ重大な務めが残っています。
ある意味では一連の儀式のなかでもっとも肝要な務めです。
マリーは初婚ではないとはいえ、やはり恐れと不安を隠せません。
「こちらこそよろしく、マリー姫」
今年十六になるオーギュスト王子はひとつ年上の新妻に微笑みかけ、彼女の手をとって寝台にいざないました。
ふたり並んで横たわると、マリーの心臓はますます大きく脈打ちます。
(この方は昼間はとてもお優しかったけれど、寝室でもそうだろうか)
二年前に死に別れた先夫とのことを思うと、気分は暗くなります。
「ずいぶん緊張しておいでですね」
「いいえ、そんなことは」
「花嫁衣装の重さは花婿の比ではないから、たいそうお疲れになったでしょう」
口先だけではないいたわりの言葉に、マリーもつい不安がほどけてきます。
(この方となら大丈夫、きっと大丈夫なはず)
「いいえ、オーギュスト様こそ」
「そうですね、少しだけ。ではおやすみなさい。よい夢を」
そういうと、布団をかぶってあちらに寝返りを打ってしまいました。
マリーは呆然としています。
「あ、あの・・・オーギュスト様・・・?」
「何でしょう」
「わたくしたち、その・・・大事な務めを果たし終えておりませんわ」
「大事な務め?」
やり残したことは何だったかと、王子は真剣に思い出そうとしています。
そこまで悩むのはどうかとマリーが危ぶむくらい真剣です。
「ああ、そうか」
「それですわ」
マリーはほっとしたように言いました。
「失礼、就寝時のくちづけを忘れておりました。母を亡くして以来その習慣がなかったもので」
マリーの唇に軽く接吻すると、彼はまた布団をかぶろうとします。




「お待ちください!」
「まだ何かありましたか」
「あの、わたくしたち、子どもをつくらなければなりません」
とても言いづらかったのですが、マリーはついに言ってしまいました。頬が真っ赤です。
「ですから、その―――まだお休みになってはなりません」
「そういえばそれも務めでした。まずどうすればいいのでしょう」
「え?」
マリーは耳を疑いました。
まだ少年といってよい王子はにこにこしながら花嫁の話のつづきを待っています。
「―――教育係からは何も聞いておいでではないのですか」
十六にもなれば別に人に教わらなくても分かっているはずだと思いつつ、マリーはあえて尋ねます。
「ええ、何も。床入りの儀についてはマリー公女のおっしゃるままにすればいいのだと申していました」
(あ・・・あの者たち!)
まだ顔もおぼえていない王子の家臣たちを思って、マリーは腹が煮え繰り返りました。
(わたくしが初婚ではないからといって、王子の性教育を丸投げにするなど、よくもそんな無責任なことができたわね)




もちろん、王子の教育係たちが無責任でないどころか、とても熱心に務めを果たしていることはマリーも聞き及んでいました。
オーギュストはたいへん学業優秀で、若年ながら文化政策にも大いに関与しているといいます。
マリーが嫁いだこのガルィアという南方の大国は、軍事力の増強以上に学術振興に力を入れており、
文化・芸術の水準はこの大陸のなかで群を抜いています。
王都にはたくさんの留学生が集まり、先進的な技術を祖国に持ち帰ろうと熱心に学んでいます。




そもそもマリーがこの国に嫁ぐことになったのも、
ガルィア王家との婚姻関係を通じて文化を輸入したい、という父の思惑があったからでした。
マリーの生まれたルース公国はこの大陸の北辺に位置し、周囲を山脈で囲まれているので国防的には恵まれていますが、
いかんせん外部との人や物の流通が乏しいため、文化水準がなかなか向上しません。
当代のルース公は新進の気風に満ちた人物で、
南方各国に留学生や文官を送り込んで先進的な文化を吸収させようと努めていますが、
それだけでは飽き足らず、とうとう娘をガルィアの王族にかたづけることにしたのです。
開明的なガルィア王家のなかでもオーギュストという五番目の王子はとくに学問を愛好すると聞いて、
ルース公はぜひ彼を娘の夫にと願いました。
ガルィア人はルースなど北の蛮族だと思っているので、これは並大抵のことではありませんでしたが、
さまざまな工作の末なんとか婚約にこぎつけたのです。
娘夫婦の仲がうまくいき、さらに宮廷に人脈をつくることができれば、
ガルィアから最先端の技術者集団や最高水準の学者たちをルースに招くことも夢ではありません。
花嫁の馬車に乗り込む前、マリーが両親に最後のあいさつをしたとき、ルース公は父親としての感慨に打たれながらも、
くれぐれも夫に尽くし、彼の愛と信頼を得て、祖国発展に貢献するような人材と親交を結ぶように、と言い渡しました。
マリーは涙ながらにこうべを垂れて父母の手に接吻し、祖国の土に別れを告げました。




本当はマリーは結婚などしたくありませんでした。
相手が文化大国ガルィアの王族であればなおのことです。
マリーは二年前、十五歳のときに最初の結婚をしました。
相手はサクスン公国の公子で、ジェラルドといいました。
サクスンはガルィアの隣国で、やはり先進的な国と目されており、ルースの未開発ぶりとは比べものになりません。
このときの婚約もなかなか難渋しましたが、ルース公が強引に押し切って、
金銀琥珀およびクロテンの毛皮50枚を婚資として娘を送り出したのです。
十五歳のマリーにとっては父母の膝元を離れるのはたいそうつらいことでしたが、
南方の文化国家への憧れがそれをしのいでいました。
サクスンの宮廷に着いてみれば、大理石の巨大な建築に、壮麗な彫琢を施された室内の調度、
庭園には複雑な仕組みの噴水と、目を見張るものばかりでした。
そして花婿のジェラルドは男盛りの二十七歳、噂以上のたいへんな美男子で、
しかもその振舞はルースの男には決して真似できないほど洗練されていました。
婚礼の席で初めて顔を合わせたとき、自分より幸せな娘は地上にいるまいとマリーは神に感謝したものです。
ところが、初夜の床で彼は本性をあらわにしました。
マリーが処女だと分かっているにもかかわらず、何度も荒々しく求め、
ことのあとで彼女が夫婦らしく語らいあいたいと思っても、
優しい言葉ひとつかけるでもなくさっさと寝てしまいました。
昼間は昼間で、蛮族の娘など話し相手にならないと公言して、
宮廷ではサクスンの貴族の令嬢たちと戯れてばかりいるのです。
マリーは婚約が成立したときからサクスンの言葉を一生懸命勉強しており、
夫と心を通わせたいと思ってなんとか会話をもとうとするのですが、ジェラルドは動詞のまちがいなどを鼻で笑うばかりです。
それでいて夜は無言で新妻の幼い肉体を求めてきます。
夫の家臣たちも主人の態度に倣って、ルース公女の訛りやテーブルマナーの拙さなどを露骨に見下していました。
それでいて正しく教導してくれるわけでもありません。
結婚して一ヶ月、寝室でしか夫に必要とされない自分など家畜と変わらない、とマリーが悲嘆に沈んでいたころ、
侍従から知らせがもたらされました。公子ジェラルドが狩猟地で落馬して亡くなったというのです。
せいせいした、とまでは思いませんでしたが、マリーは半ば夫を悼みつつ半ば解放された気持ちでルースに帰りました。
もう結婚は、とくに南方国家との政略結婚はこりごりだ、と思いました。
亡夫の喪に服したいから、という理由で修道院に入ることさえ願い出たのですが、父に却下されました。
それでもルース公は娘の意を汲んで、しばらく再婚のことは言い出しませんでした。
ところが今年に入って娘を説き伏せ、ガルィア王国に嫁ぐことに同意させたのです。




サクスンに輿入れしたときと同様、雪深い山脈を越えてガルィアの宮廷に着いてみると、
やはり人々は好奇の目でこちらを見てきます。
北方の蛮族の姫君とはどんなものだろう、熊のように毛深いというのは本当だろうか、という目です。
しかしマリーが馬車から降りてその姿をあらわにすると、出迎えの人々から感嘆の声が漏れました。
女官の声には嫉妬も混じっていたかもしれません。
なんと光り輝く白金の髪でしょう、という者もあれば、
あの水色の瞳をみてごらん、氷のように澄んでいる、と囁きあう者もいます。
でもマリーには分かっていました。
これらの人々もいずれはマリーの作法のいたらなさを細々と指摘して陰で笑うでしょう。
彼女とてガルィアのことばを学んでおり、こちらの生活に馴染む努力は精一杯するつもりですが、
生粋のルースの娘がガルィア人と同じように振舞うのは容易なことではありません。
ジェラルドとの短い結婚生活を思い出してマリーは胸が痛くなりました。
出迎えの群衆の中からひとりの少年が前に出てきました。栗色の髪に栗色の瞳をしています。
美男で長身だったジェラルドと比べるまでもない、ごくふつうの容姿です。
彼はほかの人々と違ってマリーの美貌に心を奪われたふうもなく、おおらかな物腰で花嫁にあいさつをしました。
「僕がオーギュストです。ようこそガルィアへ」
破顔するとますます若く、ますます人がよさそうに見えます。
(―――今度こそ、うまくいくかもしれない)
マリーはそう信じることにしました。




(うまくいく、はずだったのに)
憮然としながらマリーは寝台の上に座っていました。
オーギュストは相変わらず好奇心に満ちた顔で彼女のことばを待っています。
婚約中にガルィア使節から聞いた話では、この王子はたいへん頭脳明晰で、天文学とか古代哲学とか東洋諸言語とか、
ルース人が想像もつかないようなあらゆる高等な学問に精通しているといいます。
それがどうしてこんな生物学の基礎の基礎を知らないのでしょう。
(わたくしたちに継嗣ができたら、教育係の方針を変えさせなければ)
しかしとにかく継嗣をつくらなければ話が始まりません。
本当のことをいえば、別に今夜から夫婦にならなくても時間をかけてお互いを理解しあえればいいのだ、
ともマリーは思うのですが、父からの嘆願ともいうべきあのことばを思い出すと、
一刻でも早くルースとガルィアのあいだにかすがいを儲けなければ、という気持ちに駆り立てられます。
「―――オーギュスト様は、子どものつくりかたをご存知ですか」
恥を忍んでマリーは小さな声で尋ねました。
ルースで彼女にこんなことを言わせる男がいたらぶん殴っているところです。
「種類にもよります」
(まあ、種類だなんて)
短い結婚生活でジェラルドに教えられたさまざまな卑猥な体位を思い出して、マリーは頬をさらに染めました。
もう、ほんの子どもだと思ったのに、と心の中でつぶやきます。
「植物でしたらたいがいは分かります。動物だと、鮭の産卵なら見たことがあります」
「・・・そうですの・・・」
せめて哺乳類を例に、と思いましたが、とりあえず知っているところから始めることにします。
「鮭ならわたくしの生国にもたくさんおりますわ。彼らが子どもをつくるには、まず卵と―――」
マリーは口ごもりました。話の途中で口を挟むのは無作法だと思っているのか、オーギュストはのほほんと新妻を見ています。
「―――ええと、その、精液が必要です。そうですわね?」
「そうですね」
「彼らは卵に精液をかけて生殖します。人間が子どもをつくるときも、そうするのです」
我ながら要領を得ないことを言っていると思いながら、マリーは無理やり締めくくりました。
「待ってください。でも人間の女性は産卵しないでしょう」
「もちろんですわ」
「じゃあ、人間の場合―――精液は生まれてきた赤子にかけるのですか」
そんなのただの変態です、というかそれでは赤子は生まれてきません、と言いたいのをこらえながら、
マリーは我慢づよく年下の夫に言い聞かせました。




「魚を例にしたのがいけませんでしたわね。―――犬や馬の交尾をごらんになったことはありませんか?」
「交尾?」
「雄が雌の背中にのしあがろうとする姿勢で、―――腰を前後に動かしているあの状態です」
「ああ、見たことがあります。そうか、あれも子作りのためにしているのですね」
どうして馬丁や家畜番たちはそういうことを教えないのかしら、と憤りながらマリーははたと思い至りました。
(いやだわ、人間もそのように子どもをつくるのだと教えたら、あんな恥ずかしい姿勢をとらされてしまう。初夜なのに)
突然口をつぐんでいっそう真っ赤になった花嫁を、オーギュストは心配しながら見ていました。
「姫、大丈夫ですか」
「は、はい」
「ひとつ疑問があるのですが」
「何でしょう」
「精液というのはどこから調達するのでしょう。人間も自分の体内でつくれるのですか」
これにはマリーも愕然としました。
(つまり、この方は―――)
オーギュストは十六歳にして、まだ精通を迎えていないようなのです。
さすがのマリーもこんな事態は想定していませんでした。
幼いころから勉強漬けで脳にばかり栄養が行っているせいで、そちらのほうの発育が遅れているのでしょうか。
(でも、そんなはずがあるかしら)
なにしろ十六歳です。
宮中の規律があまり整っていないルースでは、公族や貴族の子弟が十五、六で私生児を儲けることは珍しくありません。
ひょっとして生来の不能なのでしょうか。
それならそれで責めても仕方ありませんが、事実確認はしなければなりません。
「恐れながらうかがいます。現在、その、下半身の疾患で医師にかかっておいででしょうか」
「いいえ、両脚ともに壮健です」
がっくりとしながら、マリーはそれでも追及します。
「では、オーギュスト様におかれましては―――もしかして、殿方がお好きなのですか?」
言ってしまった、と思いながらマリーは目を伏せました。
相手がジェラルドなら、こんな不躾なことを尋ねたら顔が腫れるまで殴られていたかもしれません。
「はい、好きです」
やっぱり、と思いながらマリーは顔を上げます。しかし夫の顔に後ろめたさは微塵もありません。
「僕は家族と同じくらい友人を愛しています。学友たちはみな男子ですから、男が好きといってさしつかえないでしょう」
「・・・・・」
ものを言う気力もなくなったマリーのようすを見て、オーギュストは少しあわてました。
花嫁を不機嫌にさせたのだと思ったのです。
「いえ、もちろん、わが国では女子教育施設の整備も進めています。
将来的には、男性と女性が学び舎を同じくする日も遠くはないでしょう」
「・・・そうですの・・・」
不安そうな夫の顔を尻目に、マリーは悩んでいました。
不能でも男色家でもない。この方は一体どういうつもりなのだろう。




(つまり、わたくしを抱きたくないのかしら)
マリーがいちばん恐れていた結論でした。
彼は実は精通などとっくに来ていて、宮中の女官たちと経験も積んでいるけれど、
周囲が勝手に縁結びした北方の蛮族の娘など、手を触れるに値しないと思っているのでしょうか。
最初の夫との惨めな結婚生活がまた思い出されてきました。
(それでもあのときはまだ、夜だけは妻として扱われたけれど、ここでは昼も夜も、ただの居候、ただの徒食者なのだわ)
そして周囲からは蛮族の石女とそしられることになる―――そう思うと、人前だというのに涙がこみ上げてきました。
(いけない、自分を哀れんではだめ)
マリーが顔を上げたそのときに、オーギュストの手が肩に置かれました。
「大丈夫ですか?祖国を遠く離れて心細いのですね。無理もありません。
僕だって、外遊のために父上や兄弟と別れ都をあとにするときは不安でしかたありません。
もう十六で、男なのにこんなことを言うのはどうかと思うけど」
はにかむようなその微笑を見て、マリーはやっぱり違う、と思い直しました。
(この思いやり深い方が、妻のことを触れるもけがらわしいと思っているはずがない)
それから昼間の饗宴の席のことを思い出しました。
マリーは努めてガルィアの作法にのっとり食事をしていたのですが、骨付きの肉を出されたとき、
つい母国の流儀で手にとって口に運んでしまいました。
周りの王族がただ失笑するなか、花婿は「わが国ではこうするのですよ」と懇切に手本を見せてくれました。
聖職者の前で永遠の誓いをするとき、マリーは緊張のあまり、
必死に覚えたはずのガルィア王家の誓詞をひどい文法で口にしてしまいましたが、
オーギュストが手を握ってくれたので途中からはなんとかまともなことが言えました。
寝室に入る前、不安でたまらないマリーが母から贈られた首飾りにくちづけていると、
ご両親にはなんと呼ばれておいでか、と彼が尋ねました。
マルーシャです、と答えると
「いい響きですね」
と微笑んでくれました。
これらすべてのことがいちどきに思い出されました。
(この方と、ちゃんと、心も身体も結ばれたい)
まだ夫ではない夫に肩を抱かれながら、マリーはそう思いました。




「オーギュスト様、少々お待ちください」
マリーは寝台を降り、部屋の隅に行くと自分の持ち物を入れた包みをがさごそ開けました。
戻ってきた彼女の手には数冊の本がありました。
「読み聞かせですか?懐かしいな」
能天気にうれしそうなオーギュストのことは放っておいて、マリーは彼の隣に横たわり、
枕を背もたれとしてふたりで本が読めるようにしました。
「こういうものをごらんになったことはありますか」
どの本にも革で覆いがしてあり、題名も分かりません。
彼女がためらいがちにその覆いをはずすと、あらわれた表紙には、
いずれも裸の男女が睦み合う図が描かれていました。
「―――いいえ」
興味を引かれたのか、オーギュストは一冊を手に取り、ぱらぱらとめくりはじめました。
どのページでも一対の男女が―――たまにふたりの男とひとりの女、あるいはひとりの男とふたりの女が―――
裸でお互いの四肢を絡ませていました。文章は申し訳程度に添えられているばかりです。
「これは、なんと―――」
感心しているとも驚愕しているともとれないオーギュストの声に、マリーはまた不安になりました。
(軽蔑されてしまったかしら)




最初の結婚が早々に終焉して以後、マリーは自分から再婚したいと思ったことはありませんでしたが、
肉体上の欲求はありました。
ジェラルドによって荒々しく処女から女にされてしまったことで、
夫婦生活自体は不幸だったとはいえ、マリーは着実に女の歓びに目覚めてしまったのです。
夫を亡くして帰国してから、彼女は自慰をおぼえてしまいました。
けれど、亡夫とのことは思い出したくないので、マリーはあらゆる空想にふけりました。
城の門番や年若い文官、その日彼女に拝謁した将校、年老いた羊飼い―――
こんな浅ましいことを考えてはいけないと思いながら、
マリーは喪服の下で自分の指を動かすのを止められませんでした。
姫君がそのうち妄想を実行してしまうことを恐れたのでしょうか、
「下々の者はこういうもので欲求を解消しております」
とあるとき腹心の侍女から薄い本を渡されて、マリーは春画というものを初めて目にしたのでした。
なんてけがらわしい、とマリーは最初目をそらしましたが、
好奇心には勝てずにページをくくっていくうち、下着が濡れている自分に気がつきました。
(―――いやらしい)
自己嫌悪にひたっても、彼女の火照った身体は慰めを欲していました。
そうして、春画を見ながら夜毎自分を慰めるのが日課になってしまったのです。
ルースは文化的には後進国で、出版事業もあまり発達していませんが、
なにしろ三大欲求に正直な国民性なので、こういう類の本には事欠かないのです。
マリーは婚礼の日取りが決まってもなおその恥ずかしい習慣を断つことができず
―――結局、長らく秘匿してきた春画をこの国へ持ってきてしまったのです。




(どう思われたかしら)
マリーは心配そうにオーギュストのようすを横目で見ます。
(こういうもので、殿方として目覚めてくださるかしら)
「すばらしい」
とオーギュストは突如顔を上げました。その瞳は輝いています。
「姫、あなたが古美術を愛好される方だなんて知らなかった」
「え?」
「わが国でもつい最近、このような素朴な線画の描きこまれた壷が古代の城址から発掘されたばかりなのです。
その絵のモチーフは葡萄摘みでしたが、これらの本は―――」
オーギュストは再び本に目をやりました。
「裸体芸術を集めた画集なのでしょうか、まさに古代人の独壇場ですね」
(―――わが国で現在流通している実用書ですわ)
とはいえず、マリーは唇をかみしめていました。
いくら文化程度に差があるとはいえ、ルースの描画水準を古代のものと認定されるとは。
これで性的満足を得ていた自分がまるで馬鹿みたいです。
しかしガルィアの宮廷の至るところに飾られた絵画や彫刻の精緻さ、
写実性を思い起こせばたしかにこの春画など児戯のようなものです。
しかも活版や製本の技術も拙劣なので、ガルィア人からすれば百年以上前の古書に見えるのかもしれません。
すっかり脱力して、マリーはオーギュストの手に本を押し付けました。
「さしあげますわ」
「本当に?うれしいな、ありがとうございます」
(妻から春画を贈られて喜ぶものではありません)
年下の夫を心中で叱責しながら、マリーは一体どうしたものかと考えていました。
腹心の侍女の話では、市井の者たちはたいてい春画や、他人の情交の覗き見で男として目覚めるのだそうです。
身体の仕組みが同じなのだから、王族も大して変わらないでしょう。
(だからといって、まさかその辺の侍女や侍従を呼び入れて、われわれの前でまぐわってみなさい、などと命じたりできないわ)
マリーは弱りきりました。他人の情交に準じるもの―――?
ふと思い至りました。とても簡単な方法があったのです。
でもそれは実に、とても勇気のいる方法でもありました。




(―――仕方ないわ)
マリーは決心しました。オーギュストに向き直ります。
「オーギュスト様、子どもをつくるための前段階として、妻の務めを果たさせていただきますわ」
そういうと、彼女は寝台脇の燭台も消さずに、自ら寝衣を脱ぎ始めました。
恥ずかしくて消えてしまいたい気持ちを必死に押さえつけていました。
ジェラルドの前でさえ、明かりをつけたまま裸になったことはありません。
オーギュストは驚いたように彼女を見ています。
一糸まとわぬ姿になってしまうと、マリーはものも言えずにいる夫のほうにそっと身体を傾けて、
布団の上から股間をそれとなく探ってみました。
(硬くなってる―――のかしら)
そういえばそんな気もしますが、本当に勃起したらそこだけ膨らむはずです。これだけではまだ足りないのでしょうか。
(やっぱり、しないとだめかしら)
泣きたいような気持ちでマリーは身体を起こしました。
ベッドの反対側に行き、ちょうどオーギュストと向かい合わせになるように布団の上に座ります。
「姫、どうしてそちらに?」
やっとのことで彼がことばを発します。
「こちらにいるほうがちゃんとお見せできると思いましたの。
 妻として―――すべてを見ていただかなくては」
呆然と彼女を見つめるオーギュストの前で、マリーは恥ずかしさに耐え切れず乳房と股間を手で隠していましたが、
ついに思い切って手をどけました。ゆたかな乳房と頭髪と同じ色の恥毛が灯火のもとに浮かび上がります。




「あの、わたくし―――」
両手で自らの乳房を持ち上げ、揉み始めます。
「決して―――」
日課のせいでしょうか、自然に親指が乳首をこすり始め、マリーの吐息が熱くなります。
「こんな、ことを―――」
おずおずと脚を開くと、オーギュストが身を乗り出してきます。
すぐに閉じてしまいたい気持ちに駆られますが、
妻としての義務と、見られていることの興奮から、結局大きく開いてしまいます。
「ふだん仕付けているわけでは―――」
乳首から得られる快感にたまらなくなり、片手を脚のあいだに持っていきます。
そこはすでにしっとりとしていて、彼女自身の指を素直に受け入れます。
「ない、のです―――」
マリーの泉はすぐに音をたて始めます。
オーギュストが唾をのむ音が聞こえ、ますます身を乗り出して彼女の股間を注視するので、泉はますますあふれてきます。
「分かって―――」
片手で硬くなった乳首をこすり、片手でふくらんだ秘芽をこすりながら、マリーはオーギュストの反応を見ます。
でも、快感と羞恥のあまり彼女自身の意識が朦朧としているのであまりよく分かりません。
「くださいます、ね―――?」
その瞬間、はい、という代わりにオーギュストの身体がびくりとしました。
彼は肩で息をしながら、呆然とマリーのほうを見ています。
「あ、あの、僕はいま、なんだか」
(ひょっとして)
自分が絶頂までいけなかったのは残念でしたが、とにかく最初の目的は果たせたかと思い、
マリーは彼の隣にすべりこみました。
「オーギュスト様、肌着を脱いで―――マリーに見せてくださいませ」
彼はおそるおそる妻のことばに従いました。しかし寝着の下の己の下半身を見ると、
彼女に見せる前に慌てて覆ってしまいました。
「姫、僕から離れてください」
「え?」
「僕は病気みたいです。侍医を呼ばなくては」
「いったいどうなさったのです」
「ご婦人に申し上げることでは」
「わたくしはあなたの妻です。知る権利があります」
マリーの強い口調に、彼はとうとう小さな声で告白しました。
「前についている器官から、白い液体が」
それは正常です、という気力も萎えて、マリーは彼にもたれかかりました。
とにかくこれで精通は果たしたということです。
「オーギュスト様、それがつまり―――精液なのです」
「えっ、ということは、人間も自分で精液をつくれるのですね」
彼は感動のおももちで自分の股間を見ています。どうやらまた頭をもたげてきたようです。
「それで次になすべきことは―――」
マリーが言いかけたとき、オーギュストが裸の肩を抱き寄せました。
「ご無礼を」
ことばでは詫びながらも、切実なものに突き動かされるようにして、マリーの唇や首や肩に接吻します。
乳房にくちづけしかけたとき、彼ははっと気がついたように顔を上げました。
「どうしても、我慢できなくて―――いま、あなたに触れたいのです。よろしいですか」
ええ、という代わりにマリーは自分からくちづけました。




「すごい。なんて柔らかい。なんて滑らかなんだろう」
マリーの弾力ある乳房をそっと握り、またその端整な肉体の各処に触れながら、オーギュストは素朴な感動を隠しませんでした。
マリーは気恥ずかしい思いをしながらも、自分が宝石のように丁重に扱われ、賞賛されていることを幸せに感じました。
この方にならどんなことでもしてあげたい、させてあげたい、とさえ思いました。
とうとうオーギュストの指が彼女の秘所に至りました。
そこはすでに十分潤っているため、彼の指先が触れると蜜で滑ってしまいます。
「あ、―――ここだけ濡れている」
「や、やんっ」
マリーは小さく叫びました。その反応が面白かったのでしょうか、オーギュストはより丹念に触れてみます。
「い、や、やだ、あ、だめ、あっ・・・だめ・・・」
「かわいい」
オーギュストの言い方が無心なので、かえってマリーの恥ずかしさは増してしまいます。
「もう」
「触れれば触れるほど濡れてくるんですね。女の人の身体って不思議だ。
 それとも姫だけなのでしょうか」
「や・・・そういうことは、言わないで」
ほとんど吐息と化した声で、マリーはやんわりとたしなめました。
「マリーとお呼びしてもいいですか。僕のことはオーギュストと」
「ええ」
「マリー、なんて美しいのだろう。あなたと今すぐひとつになりたい」
思いがけないほど熱っぽい声が、耳元で聞こえました。
「ええ、いらして」
姫君としてははしたないことばながら、オーギュストの幼くもむきだしの情熱に触れて、
このときは自然にマリーの口からこぼれでてしまいました。
「でも心配なのです。こんな小さなところに入るでしょうか」
「大丈夫ですわ」
「だって・・・もし裂傷ができたりしたら」
「心配なさらないで。ここは見た目より大きさが自在なの。赤子だってここから生まれるのですよ」
「そうか、実はゆるいのですね」
一瞬マリーは玉を蹴り飛ばしてやろうかと思いましたが、
この政略結婚の本来の意義を思い出してなんとかこらえました。




「―――とにかく、あなたが心配なさることは何もありません。
 男女双方が結婚可能年齢に達していて、病気ももたず健康で、
男性が硬くなっていて、女性が十分濡れていれば、子作りというのは基本的にちゃんと成立するものです。
受胎するかどうかは別の話ですが」
「分かりました」
マリーのうえに覆いかぶさったまま、オーギュストは素行正しい生徒のように神妙な顔でうなずいています。
「なお、子どもが欲しくない場合はですね―――」
ロマンチックな寝物語というものからどんどん逸脱していると思いつつ、
教えるべきことはちゃんと教えなければという義務感からマリーは滔滔と夫に諭しました。
(それもこれも、教育係がこの方面の教育を放棄するから悪いのよ)
文明国をなのるここの連中は、形而下的なことがらはすべて蛮族に任せようと思っているんじゃないでしょうね、
とだんだん腹がたって来たとき、オーギュストが彼女の唇を自分の口でそっとふさぎました。
「たいへん失礼ながら―――その、お話はあとでうかがってもよろしいですか。
 あなたの中に入りたい。そろそろ我慢できなさそうなんです」
本当につらそうな声に、マリーの心は揺さぶられました。
(―――この方のことを本当に好きになってしまったみたい)
マリーは承諾の代わりにもういちど自分からくちづけしました。
オーギュストは彼女の入り口を指で確かめながら、そろそろと自分自身の先をあてがいます。
「本当に大丈夫かな。痛かったらどうかすぐおっしゃってください」
すぐにでも貫きたい欲望と必死で葛藤しながら妻を気遣うその声を、マリーはとてもいとおしいと思いました。
これが自然なことのように、オーギュストのものに手を添えて、自分のなかにいざないます。
「いいのよ、いらして」
「ああ、マリー」
とうとう夫婦になるときがきました。
オーギュストは快感をかみ殺したような表情で妻のなかを突き進みます。
二年間寡婦だったマリーの身体は恐ろしいほど彼を締め付けて、ゆるいなどという表現が非常に不適切であったことが分かりました。
たとえ彼女がやめてと言っても、いまさら引き返すことはできそうにありません。
「ああ、すごい、マリー。すごい。知らなかった、こんな・・・素敵な・・・ことだなんて・・・」
「わたくし・・・も・・・ですわ」
高まる体温と歓びとを共有しながら、マリーも囁きました。
正直にいうと、オーギュストのサイズはジェラルドほどではなかったのですが、
「こんな素敵なことだなんて知らなかった」というのは全くの真実でした。
自分の名前を切なげに呼ばれ、自分の瞳を優しく覗き込まれながら奥の奥まで愛されるのがこれほどすばらしいことだとは、
マリーはたしかにこのときまで知らなかったのです。
予想の範囲内ながら、オーギュストはあっけないほど早く達してゆきました。
マリーはまだ高みに至っていなかったので、人生最初の絶頂感に痺れるように打ち震える彼のようすを、
なんだかかわいいと思いながら眺めていました。
やがて夫は彼女の上に倒れ伏せました。まだ肩で息をしています。
「ああ、マリー」
きれぎれの声で、今ようやく妻とした女性の名を呼びます。
「すばらしかった。あなたは僕の天使です。天国そのものです。
 一体どのように報いればよろしいのでしょう」
「簡単ですわ」
マリーは彼の頭をかき抱きました。
「もういちど、もしくは二度、三度、愛してくださいませ。
 わたくしがあなたと高みをともにできるまで」
これは決して無謀な頼みではありませんでした。
精を放ったのちも、彼自身はまだ硬さを失っていないことをマリーは知っていたのです。




 * * * * * * * * * * * * * * *




華麗に装飾された窓から差し込む朝の光に、マリーは目を覚ましました。
(ええと、ここは―――)
南国らしい明るい色調で統一された、周囲の見慣れぬ調度類に目を見張ります。
(ここは―――そうだ、オーギュスト様)
瞬時にして、昨晩の骨折りとその後の花婿の健闘を思い出しました。それだけで頬が赤くなります。
(でも、とっても素敵だったわ)
オーギュストの愛撫はぎこちなく、性急なあまり痛いこともあったのですが、いつでもマリーへのいたわりがありました。
よろしいですか、と常に気遣ってくれました。技巧からいえばジェラルドよりずっと拙かったのは間違いありませんが、
そんなことは問題にならないほど、マリーを尊重して心も身体もいとおしんでくれました。
そのことを思うと、今度こそ何のためらいもなく、わたくしはなんと幸せな花嫁だろう、と神に感謝することができました。
しかし肝心のオーギュストが隣にいません。ずいぶん早起きのようです。
(もう。初夜の翌朝くらいは一緒に目覚めて、おはようのくちづけをしたかったのに)
少し腹をたてながらも、マリーはまだオーギュストのぬくもりが残る枕を手で撫でていました。
そのとき、寝室の扉が開きました。
「姫、おはようございます」
「おはようございます」
目覚めの接吻をするために枕元までオーギュストが近づいてきますが、
マリーはまだ自分が裸だと気がついて、布団を肩まで引き上げます。
「オーギュスト様は、朝はずいぶんお早いのですね」
「そうでもありませんよ。今朝は特別です」
「今朝こそ隣にいていただきたかったですわ」
マリーはわざと拗ねてみせます。夫に甘えたくてしょうがないのです。
「申し訳ありません。実はたった今、国立文書館の館長に会ってまいりました。
老人なので、朝がたいそう早いのです」
「まあ、そんな重大な用事がありましたの?」
あなたの新妻よりも、とマリーはますます不機嫌そうです。
「いえ、危急というわけではありませんが―――ほら、姫が昨夜僕にくださった本」
「え?」
「あのうち一冊を、彼に渡して文書館で所蔵するように命じたのです。
鑑定作業が終われば、わが国と初めて通婚したルース公女の嫁入り道具として、
つまりあなたの国の由緒ある古書として、子々孫々まで閲覧できるよう館内に陳列されると―――」
「いやああああああ!!」
昨晩オーギュストの腕のなかで上げたどんな叫びよりも鋭い悲鳴を上げながら、
マリーは枕で彼をぶん殴ると、急いで夜着をまとって寝室を走り出ました。
ルース公女のものすごい剣幕と疾走ぶりに驚いたのでしょうか、廊下から女官のきゃあという声が聞こえました。
オーギュストは呆然としながら、開いたままの寝室の扉を眺めていました。




そんなふうにして、彼らの結婚生活は幕を開けたのでした。




(終)




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