たんたたん、という軽快な間隔をとった足取りは比較的長くつづいたが、ロクサーヌが当初思い描いていたほどにはつづかなかった。
ただひとりでの道行きというのは、なかなか気分をもり立ててくれないものなのだ。
静かな思索を好むナディーヌなどにとっては、ひとり歩きこそ他に替えがたい安らぎのときなのだろうけれども、
これまで御苑の森に遊びに来るときは大抵トマかオーギュストが一緒だったロクサーヌにとっては、いまひとつ落ち着かなかった。
記憶のなかにある森よりもずっと静かで、たぶん静かすぎるのだ。

頭上にさし広げられた枝葉の間から漏れ聞こえるコマドリのさえずりやはばたきは、それが止んだときの空白をいっそう強く印象づけるだけだった。
けれど、アランに伝えかけた通りに泉の近くで本道から右に折れ、木の根に侵食されがちな小道をしばらく進むと、
その先にぽつんと広がる目的地―――まだ若い白樺の木に囲まれ、柔らかい下草で覆われた小さな空き地―――の情景は、
かねて想像していた以上にロクサーヌの気持ちを高揚させた。
よく晴れた春の日の午前らしい、どこか瑞々しさを感じさせる光が頭上の枝葉を透かして地に降り注ぎ、草の葉や白樺の根にまだらな紋様を施している。
白樺の途切れたあたりに沸きいづるささやかな泉は、ロクサーヌの金髪にもまして鮮やかな光の粒をたたえながらゆっくりと波打ち、
彼女がいましがた通ってきた方向に流れる渓流にひっそりと注ぎ込んでゆくのが見える。
空き地に至る数歩前というところで、ロクサーヌはぼうっとしたように立ち止まった。
森の他の場所と同様にこれまで何度となく訪れてきた遊び場ではあるが、ただひとりの来訪者である彼女を包み込んだ静謐は、
未だかつて触れたことのないほどに、優美で神聖なもののように思われた。

―――これこそねむりひめのための舞台だわ、と小さな王女は確信を新たにせざるを得なかった。
「みんな本当に分かってくれないんだから」
そう言いながら金糸で縁取られた藍絹の手巾をとりだし、白樺の木の根元近くに敷いてうさぎのぬいぐるみを横たえると、
ロクサーヌはその傍ら、ほどよく地面に盛り上がった木の根の上に腰かけた。
「こんなすてきなところでねむりひめにめぐりあえるなんて、またとない思い出になるんだから」
そして口には出さなかったものの、こんなすてきなところで見つけてもらえるのはきっとすばらしいことにちがいないと思った。
それは、もうまもなくすれば訪れる至福のときなのだ。
兄たちが自分の願いを最後まで省みないことがあろうとは、ロクサーヌはかつて考えたこともなかった。

「でも、まだ少し時間がかかるかもしれないわね」
遺憾至極な見通しではあったが、物分かりのよい妹らしく彼女はうさぎに向かってささやかに首を振るだけで、
多少の遅延については兄たちに咎を負わせないことにした。
冬の眠りから覚めた地上の生き物にあまねく陽光を注ぐ春天のような寛容さもまた、淑女にとって欠くべからざる美徳のひとつなのだ。
そのとき、帯の下から小さな音がくうぅと鳴った。
ロクサーヌは目元を赤らめたが、辺りに人影はないし、うさぎはこの件を伏せておいてくれるだろうと思ったので、そのまま素知らぬ顔をした。

「時間がかかりそうなら、前もってクウフクをみたしておくのも淑女のたしなみかもしれないわね」
いささか由々しい議題を列席者の前に提示せんとする議長のように重々しげな声でそう呟くと、
ロクサーヌは腰に結わえつけた小さな紅絹の袋に手をやった。
病床の母后が、体調の許す合間合間を見て手ずから縫ってくれたものである。
その表面に縫い取られた、向かい合うつがいのうさぎらしき刺繍は娘の目から見てもやや拙いが、
ロクサーヌは何か不安なことがあるとそれを撫でる癖があり、それぞれに名前も付けていた。

小さな絹袋の小さな口を開けて取り出したのは、「もしものときのため」に入れておいた保存のきく焼き菓子だった。
もしものときのため、という名目の割には入れ替わりが激しいのだが、
今回ばかりはどうやら本来の役目を果たさせることができそうだと思い、ロクサーヌは心中満足をおぼえた。
ただいま非日常のさなかにいる、という自覚は往々にして腹の底から気分を高揚させてくれるものである。
薄い円形に焼かれたひときれを取って食べようとしながら、ロクサーヌはふと手を止めた。

「うさぎさんも食べたいかしらね」
そして袋のなかからもうひときれ取り出すと、頭上から落ちてきたばかりの若葉でくるむようにし、うさぎの顔の横に置いた。
何しろ驚くような力を秘めたうさぎだから、人間のように時として滋養を必要としないとも限らないのだ。
ロクサーヌはそのまましばらくうさぎのようすを見守っていたが、
ふと思いついて少し離れたところに立つ樫の木の後ろに身を隠し、少しだけ顔を覗かせてうさぎの動向を窺った。
やはり何も起こらない。
そのうちに今度は本当の眠気がまぶたに寄りかかってきたのを感じ、ロクサーヌは観念したようにうさぎの隣の元の場所に戻り、横になろうとした。
しかしふと身体を起こすと、いつも就寝前に唱えるよう義務づけられている祈祷の文句をやや急ぎ足で唱えた。
そしてまた横になりかけたが、もうひとつやり残した務めを思い出すと、
先ほど通り過ぎてきた泉のある岩場まで足音高く駆けてゆき、口をゆすいでからまた戻ってきた。
「わたし、とてもきちんとしたねむりひめだわ」
深甚な満足をこめてそう独語すると、ロクサーヌはもう一度横になり、今度こそ覚悟を決めてまぶたを下ろした。

次に目を覚ましたとき、ロクサーヌには事態の進展が呑み込めなかった。
身を置くところは先ほどと同じ森のなかの空き地には違いないが、
枝葉に縁取られて円形上に広がる頭上の空はもはや濃い紺色をたたえ、宵の口にさしかかったことを告げていた。
つまり、この時刻になるまで兄たちは誰も見つけにきてくれなかったということになる。
「なんということかしら」
愕然とした思いをこめて呟きながら、ロクサーヌは改めて辺りを見回した。
微光を残した空と地平を背景に、木々の黒い立ち姿が闇の濃淡を成している。
夕陽はまもなく地上から完全に姿を消すだろう。

(にいさまたち、ひどすぎるわ)
先ほどの順次の探訪ではたしかに目に見える成果は上がらなかったが、それはいわば彼らの照れ隠しとして理解していたのだ。
こんなにも愛くるしくしとやかで、正しい淑女を目指す世の小さな乙女たちの模範と称されるに足る小さな妹の
ささやかな願いを最後まで無にするなんてあんまりな仕打ちだわ、三人それぞれに絶対忘れられない方法で仕返ししてやるんだから、
とロクサーヌは憤怒の炎を燃やしかけたが、その気持ちの高ぶりはまもなく後退し始めた。
眠りの余韻を抜けて五感が冴えてくるにつけ、刻一刻と濃厚さを増してゆく周囲の闇、露を宿し始めた草の香り、
そして森の奥から強弱をつけて響き至る蝙蝠のはばたきがかつてない現実味をもって差し迫り、自分の置かれた状況を否応なく認識させられることになったのだ。

(わたし、帰れる、わよね)
自分の意思とは裏腹に間隔を狭めてくる胸の鼓動をなだめるように、ロクサーヌは口のなかで繰り返し呟いたが、自分自身を信じきれているわけではなかった。
そのうちに、帯の下からくうぅぅという耳慣れた音が上がった。
ただし、昼頃に聞こえたときに比べれば、どことなく哀切さを増しているようでもあった。
(そう、落ち着くにはまず、お腹からだわ)
ロクサーヌははたと手を打ち、首に提げた絹袋に手を差しこんだ。布以外の手応えはなかった。

(あれが最後だったんだわ)
再び愕然とした思いに打たれながら、次の瞬間ロクサーヌは闇のなかに浮かび上がるようにして横たわる淡い桃色のぬいぐるみの前に目を走らせていた。
どうやら焼き菓子は葉にくるまれたままそこにあるようだった。
手にとり葉を剥いてみると、蟻にたかられるのも免れたらしい。
ふっと鼻腔をついた慕わしくも甘い香りに、ロクサーヌの心細さは一瞬和らげられ、
安心した反動か、思わず仔犬のように丸ごとの菓子にかぶりつきそうになった。

(――――だめだわ)
歯を立てる寸前で思いとどまったロクサーヌははっと辺りを見回し、
自分で定めた淑女規定に危うく触れかけるという、あるまじき恣行を目にした者はなかったらしいことをたしかめて安堵を得た。
が、すぐに首を激しく横に振った。
他者の目に映らなければ慎みを忘れても挽回が効くなどと考えた時点で、すでにその心は淑女の精神から遠ざかっているのだ。
仮にも淑女の誉れを我が物としたいならば、他者ならぬ自分自身に対して恥ずかしくないふるまいを常に保ち得なければならない。

(そう、淑女はいつもつつしみ深く、いっしょにいるひとのことを考えてあげなければいけないんだわ。うさぎだけど)
ロクサーヌはぬいぐるみを起こして抱き寄せ、紅玉髓の眼だけが炯々と光を宿す顔を覗きこんだ。
空腹を訴えているようには見えなかった。
ロクサーヌはうさぎを抱えたまま黙りこみ、考えを巡らせた。
そして結論に至ると、最後の一枚をふたつに割ってそのうち一方をさらに三つに割り、三回に分けて上品に口に運んだ。
咀嚼をすっかり終えてしまうと視線は自然と残りの半分にさまよったが、ロクサーヌはもう一度首を横に振った。

「これは、うさぎさんのお腹がすいたときのぶん」
自分自身に訓示を垂れるようにそう独語すると、彼女はようやく草地から立ち上がり、背中や下衣の裾をぱたぱたとはたいた。
そしてしばらく頭上の空を眺めわたしていたが、ゆっくり深呼吸をするとうさぎを胸に抱えて歩き出した。
食べ物を摂取したことで期待通りの平静を取り戻せたというわけではないが―――むしろ胃が活動を始めたことに若干の脅威を感じていた―――、
とりあえず昼間の往路をそのままに引き返せばこの森の入り口に、そして宮室へとつづく御苑内の煉瓦道に戻れることは間違いない、
とようやく腹をくくることができたのだ。
今しがたたしかめた星々の位置からいっても、空き地からこの方向に伸びる道こそが昼間来たあの小道に違いないはずだった。

(そう、この道をしばらくまっすぐ行って、泉に突き当たったら左に曲がればいいんだわ。
じきに森番の小屋が見えてきて、そうしたら森の入り口はすぐそこだもの)
泉、泉、と繰り返し呟きながら、ロクサーヌは草深い小道を歩きつづけた。
ところがどこまでいっても、泉の湧きいづる岩場には突き当たらないのだった。
闇の底をさやかに洗う清水の音の代わりに、芝草をひっそり踏み分け掻き分ける音、―――そしてさらに、どことなく生々しい息遣いが近づいてくるような気がする。

(何なの、あれは)
胸の鼓動がはち切れんばかりに高まりゆくのを感じながら、それでもロクサーヌは動けずにいた。
本物の恐怖は自身の立てる足音すら恐れさせるものだということを、彼女はこのとき初めて知った。
(どうしよう、近づいてくる)
近づくにつれ荒く大きくなる一方の息遣いは、それが獣のものであることを
―――もしくは獣じみた見知らぬ人間のものであることを―――今や如実に示していた。

(どうしよう、ねえどうしよう)
身体のなかで唯一硬直が解けたといえる両腕で、ロクサーヌはうさぎを力の限り抱きしめた。
けれどあの日のサフランの花をもたらした奇跡の力が再び顕現することはなく、うさぎは押しつぶされるがまま動かなかった。
ふと、ほんの少し離れた先で草の葉の蹴り散らされる音が立った。
息を呑むまもなく風が鳴り、ロクサーヌの視界から月明かりが失われた。
次に響きわたったのは、我がものとは思えない絶叫だった。






「そちらはどうだったかしら」
「いえ、人影はありません」
「またずいぶんと、奥に行ってしまったこと」

ナディーヌは淡々とつぶやきながら、念のため、ルネのたしかめてきた方角に灯火を差し向けた。
やはり、白樺の木立と背の低い茂み以外には何も浮かび上がらない。
「きっといまごろ、ずいぶん不安な思いをしているでしょうね」
胸の前で組み合わせた手を組み替えながら、エレノールは沈んだ声で言った。
ロクサーヌのひたすら前向きな性格を知り抜いているほかの二人にしてみれば、まあまあいい薬だと思えなくもない。

ルネはふと足を止め、道の脇を眺めやった。
「何か聞こえますね。―――水音か」
「ああ、このあたりは泉と渓流があったはずだわ」
「では、空き地が近づいているということね。ロクサーヌもきっとそこにいるはず。動いていなければ」
エレノールの声が少しだけ明るくなった。かと思うと、間髪置かず短い叫びに変わった。
「きゃっ」
「義姉上!?」
数歩離れた先を歩いていたルネがエレノールの眼前に飛ぶように戻り、その身をかばうようにしながら左右を見回した。異常は見当たらなかった。
―――と思ったが、異常はあったらしかった。
ナディーヌが灯火を高く挙げて、森の奥へと逃げてゆく小さな影を照らし出していた。

「蝙蝠だわ」
「―――まあ、ごめんなさい。あんな大きな声を上げてしまって」
「すぐ目の前を飛んでいったのね。それは驚かれることでしょう」
「―――あの、義姉上は、ぼくのすぐ後ろにいらしてください」
ルネが意を決したように言った。
おそらくこの道行きで初めて、彼が自分から義姉に向けて発したことばだった。
「まあ、ありがとう。でも大丈夫よ。わたくしのほうがずっと年長だもの。先ほどは頼りないところを見せてしまったけれど」
「でも、ぼくは」
その後のことばは、のどの奥につながれたままのように、やや不明瞭になった。
「え?」
「ぼくは、男ですから。義姉上を、―――その、ご婦人を、お守りしないと」

「まあ、ありがとう」
思いがけない幼い騎士の登場に、エレノールのえくぼが深くなった。
ルネのほうは耳まで赤くしてうつむいたまま、義姉の顔は見ようとしなかった。
(ふむ)
ナディーヌは興味深いものを見る思いで観察していたが、一方でややおもしろくない感慨もあった。

「ルネおまえ、もうひとりご婦人がいることはおぼえてる?」
「え?」
ルネは背の高い実の姉のほうを振り仰ぎ、質問の意図をつかみかねるような表情を見せた。
そしてたちまち、腑に落ちたように柔和な笑顔を浮かべた。
「ああ、姉上なら大丈夫です。禽獣も避けて通ります」

言い終わらないうちに脚を軽やかに蹴り飛ばされ、ルネはその場にうずくまりかけた。
「うぅ……」
「ナディーヌ、なんということを!」
「機敏性を鍛えてあげようと思って」
言い捨てたまま、ナディーヌはまた三人の先頭に立って歩き出した。
ルネはその背中を恨めしそうに見やりながらも、いましがた自分で宣言した任務を忘れることはなく、
エレノールが支えようと差し出した腕をも拒んで彼女のすぐ前を歩き出した。

やがて木立の間隔が広くなり、灯火に照らし出される前方の眺めが、少しずつひらけてきた。
空き地が近づいているということだ。
三人の靴音が、そろえたようにいくぶん早くなった。
「ロクサーヌ」
「ロクサーヌ!」
「ロクサーヌ?」
三人はめいめいに呼びかけながら、空き地に足を踏み込んだ。
みんなで連れだってやってくるなんて、眠り姫の神々しい舞台が台無しだわ、と唇を尖らせたような声が返ってくるのを期待していた。
しかし、どこからも返事はなかった。

「―――いないわ」
静まり返った空き地の中央で、エレノールのつぶやきが芝草の上に落ちた。すでに露が下りていた。
「ひとりで帰ってしまったのかな」
「いいえ、宮室に戻るには、わたしたちが来た道を必ず通るはず。
 そして、御苑の入り口の門番も、あの子が出てゆくのは見ていないと証言した」
平坦な声で弟に答えながら、ナディーヌの内心は声ほどには平らかではなかった。
(ああもう、ばかな子)

「ねえ、あれを」
エレノールが指し示した先に、ナディーヌははっとして灯火を向けた。
「あれも、道のように見えないかしら。たまたま、大勢に踏みしだかれた後かもしれないけれど」
「ああ、―――そうね。あの子、勘違いしてしまったのかもしれない」
安堵のひびきを露骨に見せないようにしながらも、ナディーヌは義姉の提示に感謝した。
「ありがとうございます、姉さま。手がかりがあってよかった」
「では、こちらを探してみましょう―――いや」

歩き出してすぐに、ルネは立ち止まった。エレノールの鼻先がその柔らかい髪に触れそうになる。
「どうなさって?」
「いま大勢とおっしゃいましたが、このように踏みしだかれているということは、大型の獣が通ったのでは」
「そう……かしら」
「御苑の管理は行き届いているから、熊や狼はまず入りこまないわ。
 おそらくだけれど、庭師が通用路代わりにして、何度も行き来するうちに道になったのでしょう」
「ですが、たとえ鹿や狐でも、突然向こうから飛び出して来たら大変なことになります。
 義姉上……と姉上は、ここで少し待っていらしてください」
「ルネ殿、おひとりで何を」
「安全だと確認できたらお呼びしますから」

やや気負いの込もったそのことばが終わらぬうちに、まさにその道のつづく先から、闇を裂くように甲高い叫びが響き渡った。
「きゃあああああっ!!」
「ロクサーヌ!!」
こちら側の三人の叫びもほぼ同時だった。しかし一人の動きが先んじた。

「しゃんとしなさい」
「……うぅ……」
我を忘れたエレノールに障碍物と見なされたか、ルネは道の脇に勢いよく押しのけられ、その身体をナディーヌは「報いだわ」と半ば思いながらも助け起こしてやった。
そして灯火を瞬く間に始末してから、エレノールの背中を猛然と追いかけはじめた。
足元は月明かりに頼るしかないが、左右から木々が枝を伸ばしている道では火を使えないのはやむを得ない。
母国では修道女のように粛々と暮らしていたという義姉のほっそりした肢体のどこにこんな脚力があったのかと疑われるほど、
その駆け足は飛ぶように速かったが、ナディーヌの靴のほうが実務向きで丈夫なこともあり、距離は確実に縮まっていった。

「ロクサーヌ、どこ!?どこなの?いま助けるから!!」
「ロクサーヌ!返事をしなさい!!」
「ロクサーヌ!!」
やや遅れてきたルネも二人に加わり、最後には彼が先頭になった。
三人とも目はだいぶ慣れてきたが、前方の木立の間隔がややまばらであること以外は、どの方角も同じように黒い木々の影が立ちはだかっているように見える。
そのとき、甲高い声が再び、先ほどより鮮明に宙を裂いて響き渡った。

「やだあっ!放して!!放してったら!!」
「そこか!」
ルネが急いで身体の向きを変え、道の脇の茂みをかき分けるようにして突き進んでいった。
婦人ふたりも続こうとしたが、レースの袖飾りや下衣の長い裾が仇をなし、手足の動きをたちまち阻害された。
それでも無理に歩き通して何とか三人でたどり着いた先は、先ほどとは違う空き地だった。

四方からさしかかる枝もまばらなので、月明かりが芝草をくっきりと浮かび上がらせていた。
その片隅に黒くもつれあう影があった。下に押し伏せられているのは少女だった。
上には巨大な影がのしかかっている。
「ロクサーヌ!」
ほとんど悲鳴のような叫びを上げながら、エレノールがまたひとり先んじて飛び出そうとしたが、下衣の裾がまた茂みに捕らわれた。
彼女を追い抜く形で、灯火を消した後の木の棒を固く握りなおしたナディーヌとルネが、もつれあうふたつの影に向かって突進した。
「ロクサーヌ!」
「その子を放しなさい!!」
「ロクサー……ヌ?」
ナディーヌの前をゆくルネの声が、ふいにおぼつかなくなった。

どうしたというの、と弟に問いかける前に、弟がロクサーヌの手前にしゃがみこんだので視界がひらけ、ナディーヌも事態を了解した。
芝草の上に押し倒されているのはたしかにロクサーヌで、―――その上にのしかかっているのは大型の黒い犬だった。
ナディーヌたちにも、おそらくはロクサーヌにも見覚えのある猟犬である。その証拠に、犬はロクサーヌの顔をうれしそうに舐め回している。
たしか雌犬で、キャリーヌといった。名前の通り、狩猟時以外は甘え好きなのである。
ふだんはかなり聞き分けの良い賢い犬だったはずだが、ロクサーヌがその出現に驚いて腰を抜かしたがために、
彼女が自分と同じ目の高さになったことがうれしくて、犬も愛情表現に歯止めが利かなくなったのであろう、とナディーヌはおおよその流れを推測した。
(それで、キャリーヌがここにいるというのは)

「―――おまえたちも、来ていたのか」
ルネと同様にロクサーヌの近くにしゃがみかけたナディーヌが顔を上げると、彼女たちが駆けこんできたのとは別の方角から、背の高い影が空き地に踏み込んできた。
狩猟用の装束を身に着けたままの、長兄の姿だった。愛馬と若干の従者をその後ろに引き連れている。
「アラン兄さま」
「兄上」
ルネも驚いて顔を上げた。一瞬、義姉のほうに目を走らせたのがナディーヌにも分かった。
当のエレノールはナディーヌたちに遅れてロクサーヌのそばへ近づいてきていたが、
アランの姿をみとめると、ふいに動きが強張ったようになり、そして裾を少し持ち上げて礼を捧げた。
アランも彼女に気づくと、一応の会釈を向けた。
およそ夫婦が思いがけず出会った瞬間とは思われぬ、寒々しい行礼でもあった。

「それで、キャリーヌを放ったのは、兄さまなのね」
「日が暮れたからな。犬に任せたほうが早かろうと思ったら、そのとおりだ。―――キャリーヌ、離れろ。こちらに来い。すぐにだ」
黒い猟犬はまだまだ旧交を温めたそうなようすであったが、さすがに本来の主人の冷ややかな声音には逆らえず、
しぶしぶといった調子でロクサーヌの上から降り、アランの足下に駆け寄った。
解放されたロクサーヌは、今なおなかば呆然としながらも、ようやく上体を起こすことができた。
エレノールがそのそばに跪くと、手巾で顔を拭ってやった。煌々と照り光るほどに、犬の唾液でまみれていたのである。
その摩擦の優しさにふっと安堵したのか、ロクサーヌは弾けたように泣き始めた。

「ひどい、―――こんなのって、ひどい」
「大丈夫よ、ロクサーヌ」
「大丈夫じゃないもん。王子さまじゃなくて、犬だなんて」
「そうね、今日は少し、見つけるのが難しい場所だったわね」
「ちがうもん。だれも来てくれなかったんだもん」
「ロクサーヌ、―――」

義姉の胸に抱きつきながら泣きつづける妹の姿を見ながら、またか、とナディーヌはやや苛立たしい思いに駆られた。
日が落ちてから兄姉たちを森へ駆り出すほど心配させておきながら、願いごとが叶えられなかったと泣き言をいう。
ナディーヌは妹に顔を近づけ、正視して告げた。
「ロクサーヌ、何よりもまず、エレノール義姉さまにお礼を申し上げなさい。
 おまえを真っ先に心配してくださったのは義姉さまなのだから」
「ナディーヌ、いいのよ、それは。
 ―――あの、ルネ殿」
草地に腰を下ろしたままこちらを振り仰いだ義姉からふいに呼びかけられ、姉妹のやや後方に退いていた少年は一瞬はっとしたように身構えした。
「何でしょう」
彼の緊張に気づかぬかのように、エレノールはロクサーヌには見えない角度で、唇だけを無言で動かした。
この子の王子さまになってあげて、と請うているのだ。
かたわらのナディーヌにもそれは分かった。

ルネは一瞬とまどってから、はい、とやはり無言でうなずき、改めてロクサーヌのそばに跪いた。
「ロクサーヌ」
呼びかけられた少女はすでに泣き止んでいたものの、唇を不機嫌そうに結んでいる。
「ロクサーヌ」
「―――見つけにきてくださらなかった」
「いま見つけたよ」
「ちゃんと、ねむる前にお祈りもしたのに」
「そうなのか。えらかった」
「ほんとうに、そう思う?」
「思うよ。きちんとした淑女だ」
涙が乾ききっていないロクサーヌの頬が、ようやく童女らしくほころんだ。
「じゃあ、めざめのくちづけをしてくださってもいいわ」

この堂々とした言いぐさには、さすがの温和なルネにも言いたいことがあったが、
その思いを口に出す代わりに顔を近づけ、ロクサーヌの唇の両端に、右、左、右と軽く接吻してやった。
とたんに機嫌が回復した妹を見て、ルネはなかばやれやれと思いながらも、温かい気持ちが涌いてくるのを感じた。
そして立ち上がろうとしかけたが、ロクサーヌを抱いている義姉の動作を
―――「よかったわね」とロクサーヌに語りかけながら、ルネと同じようにその唇の両端にくちづけを与えるのを目にして、
その場に凍り付いたように停止してしまった。
その不自然な硬直も、やはりナディーヌの気づくところとなった。
もしこの場に降り注ぐのが月光でなく昼間の陽光であれば、ルネの顔色が全身の血流を集めたかのように紅潮していることにも容易に気づいたにちがいない。

「アラン兄さまも」
ロクサーヌの声でルネの硬直がほどけた。その代わりに、後方で帰路に向かいかけていたアランの口元が苦々しげにこわばった。
「馬鹿をいえ」
「一回だけ」
「すでに目覚めただろうが」
「まだほんとうじゃないの。次々に王子さまがさがしにきて、そのなかでほんとうの愛を見つけるの」
「たわごともいいかげんに―――」
「たわごとじゃないわ、ほんとうだもん」
アランは深い息をついた。諦めではなく、朝からの政務と午後の狩猟で疲労がたまった末の、ほとんど怒りに似た反応だった。
「―――犬に見つけてもらっただけ、ありがたいと思え。おまえには相応だ」
口に出してしまってから、アランは自分でもやや悔やんだように唇を閉ざした。
ロクサーヌの小さな顔がふたたび歪み、喉の奥からこみ上げるような音が聞こえてきた。
今度は勢いまかせの癇癪ではない。傷ついた子どもの押し殺した嗚咽だった。

「アラン」
エレノールの静かな声が芝草の上に響いた。この場所で邂逅してから、初めて夫に呼びかける声であった。
「―――ロクサーヌの願いを断るにしても、いまのおっしゃりようは、あまりにひどいのではありませんか」
アランは答えなかった。
だがしばしの間をおいてから、身体の向きを変えてロクサーヌとエレノールのほうに歩み寄り、その傍らに膝をついた。
「言い過ぎた」
ロクサーヌひとりに語りかけるように、その顔を上向かせる。
「兄さまきらい、大きらい」
ロクサーヌはしゃくりあげながら言ったが、その声はすでに許すつもりであることは、周りの者にも伝わった。
「それは残念だ。どうしたらいい」
「―――めざめのくちづけをくださったら」
ほとんど執念といってもよいその答えに、アランは改めて閉口したが、今度は何も言わなかった。
そして顔を下ろし、ロクサーヌの唇の両端に、ちょうどルネやエレノールがしたのと同じように接吻を落とした。

「帰るぞ」
何事もなかったようにアランが立ち上がり声をかけると、ロクサーヌも素直に立ち上がった。
彼女の重みがなくなったエレノールも、膝をついて立ち上がりかけたが、急にはっと息をのむような声を上げた。
アランが目をやると、彼女の下衣の裾が散り散りに大きく裂け、その一部は太腿の裏側を露わにする高さにまで達しているのだった。
先ほど衣服の端々が深い茂みに捕らわれたときに、あまりに急いで逃れ出ようとしたので、勢いよく裂けてしまったのであろう。
兄と同様に義姉を注視しかけたルネは反射的に目をそらし、ナディーヌは裁縫道具を携帯していたか思い出そうとした。
アランも一瞬停止したが、弟妹たちが動き出すより早く、自分の外套を脱いで妻の肩に掛けた。
狩猟の乗馬時にまとうものなので、彼の外套にしては丈が短いほうだが、エレノールの膝下までは十分達する長さだった。

「―――お心遣い、感謝いたします」
ことば遣いはよそよそしいながらも、エレノールは伏し目がちに謝意を述べた。
それが聞こえたか聞こえなかったか、アランはとくに答えずに、妻と弟妹たちの輪から離れ、従僕たちと猟犬そして愛馬が控えるほうに向かっていった。
とくに示し合わせたわけではないが、残された四人はアランたちの一群が道の向こうに見えなくなってから、ゆっくりと後を追い始めた。

「義姉さま、おみ足にお怪我はありませんか。服だけでは済まなかったのでは」
「大丈夫よ。ありがとう、ナディーヌ。あなたは大丈夫だったかしら」
「大事ありませんわ。裾飾りが多少裂けただけで」
「ねえ、何かきこえる」

キャリーヌにのしかかられている間もずっと放さずにいたうさぎのぬいぐるみを片手で抱き直し、
その反対側でルネと手をつないで―――というか、ルネの手を逃さないように固くつかんで―――
姉たちの前を歩いていたロクサーヌが、突然立ち止まって叫んだ。

「本当だ。何だろう。歌みたいだ」
「なんだかきいたことがあるわ。これ、―――わたしの名前を呼んでる。わたしのための歌だわ!」
「え?―――ロクサーヌ、走ると危ない!木の根に気をつけるんだ!」
ルネの制止の声に耳も貸さず、ロクサーヌは朗々たる歌声と弦楽器の伴奏が少しずつ近づいてくる道の先へ、軽やかに駆けだしていった。
道の左右から伸びている茂みの端々に、うさぎの耳がひっかからないのが不思議なほどの速さだった。

「あら大変……でも本当に、何の歌かしら」
「―――ちょうど、マテュー兄さまが起き出す時間帯ですわ。二日酔いの後に」
「え?」
「少し前に宮中で流行ったバラッド―――『うるわしのジュリエット』だったかしら、その名前の部分を変えているのだと思うわ。
 この手の即興の弾き語りは本当に得意なひとなの。お調子者ともいうけど」
「まあ、―――たしかに、マテュー殿の声だわ」
エレノールは目をぱちぱちさせている。
前方では、眠り姫がようやく王子に邂逅したようであった。
不機嫌を装っていながらもけたたましい歓声が、ナディーヌたちの場所まで鮮やかに聞こえてくる。

「マテュー兄さま!おそいわ!おそすぎる!!」
地団駄踏まんばかりの熱い抗議に対して、マテューはリュートをかき鳴らしつつ適当に歌詞を作り変え、歌声であしらったようである。
しかし結局は妹の執念に屈したのか、曲を一通り弾き終わってから、ロクサーヌの前に恭しく跪くようすがナディーヌたちの目にも見えてきた。

「まったく、行動力をもてあました眠り姫だこと」
ナディーヌは心底やれやれと思いながらつぶやいた。
エレノールはふふ、と笑っている。

前方で繰り広げられる求愛劇を邪魔しないために、二人の歩みは先ほどよりさらに緩やかになった。
露の降りた芝草を踏みわける音だけが、さく、さく、とつづいている。
淡い月光に浮かび上がる義姉の横顔を見ながら、ナディーヌは、
(わたしはわりと、このひとが好きかもしれない)
そう思いはじめていた。




(終)













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