静かな夕べだった。
ナディーヌの居室は夕べに限らずたいていは静まり返っている。
兄弟たちの訪れがあるときでも、主人側の佇まいの静けさが自然と彼らにも伝播するのか、部屋の調和は粛然と保たれるのが常だった。
が、ナディーヌの膝の上に広げられた大判の人体図解書の右半分が朱色の陽ですっかり覆われるころ、
侍女に導かれるのも待ちきれぬように扉の向こうから現れた客人のせわしげな足取りは、この部屋の安寧を珍しく乱しかけた。






「―――エレノール義姉さま」
「突然ごめんなさいね、ナディーヌ。ロクサーヌは、―――ここにはいないのね」
「あの子にご用事が?」
「用事というほどではないのだけど……あの子は、うさぎのぬいぐるみを借りてゆくときは必ずその日のうちに返しに来てくれるものだから」
「昼前に別れて以来、わたしも見かけていないわ」
「では、まだ森に?」
「思いを遂げられていないなら、おそらくは。こういうことになるとなんとしても初志を貫徹したがる子だから」
「そんな、もう日没なのに」
「御苑の森だもの。危険はないわ」
「いいえ、そうではなくて、―――午後中ずっと待ちつづけて、誰にも見つけてもらえなかっただなんて」
「あの子の発作的な思いつきに応えてやる義務は誰にもないのよ、義姉さま」
それどころか、一度でも応じたら次からどうなることかご想像なさいませ、といい機会だから諭してやりたいところだったが、
義姉の豊かな黒髪に燦然と反昭する夕陽に目を細めているうちに、その柔和な顔立ちが予想外に色濃い曇りを浮かべていることを知り、
ナディーヌは少しことばを探した。
「あの年ごろの子に、我を張りさえすれば世界は自分のために動くと学習とさせるのは害ではないかしら」
「それはそうだけれど、―――でもこんな、罪のない遊びなのに。ひとりくらい応じられてもよろしいのに」
「ではアラン兄さまをご説得になる?そろそろ郊外から戻られているかと思うけれど」

エレノールは一瞬こわばったような顔になった。そして、しばしの沈黙を置いたあとで口をひらいた。
「いいえ、わたくしは、―――あのかたには」
「そう」
「マテュー殿かルネ殿がご自室にいらっしゃるなら、いずれかにお話ししてみるわ。
 丁重にお願いすればきっとご快諾くださるでしょう。ナディーヌ、あなたも来てくださらない?」
「なぜ?」
「なぜって、―――おふたりともわたくしよりは年少だけれど、トマやオーギュストのようなほんの子どもではないもの。
 日が落ちかけてからわたくしがひとりでお部屋に伺うのは、その、あまり、外聞のいいことではないわ」
「あのふたりでなければいけない理由はないでしょう。
 アラン兄さまをお訪ねになるなら、おひとりでも無問題だわ。夫婦だもの」
「―――ナディーヌ、あなたはお分かりだと思っていたわ」
「義姉さまがたの不和を?」
「―――ええ」

「わたしのほうから配慮して差し上げなければならないかしら。最初に原因を作ったのは義姉さまだと仄聞しているけれど」
エレノールの大きな漆黒の瞳が、ある種の緊張感とともにいっそう大きく広がるのがナディーヌの目にもそれとなく判じられた。
彼女の虹彩は義姉とは対照的にかなり色が淡いので、一日のこの時間帯、西南方に面したこの部屋でものを看取るのにはやや不自由をおぼえることがある。
エレノールは唇をほんのわずかにひらいたようだったが、それ以上は動かなかった。
自分たち夫婦の間の公然の秘密は、これまでもこれからも宮中の誰もが見ないふりをしてくれるはず
―――あたかもそう信じ込んできかのような硬直ぶりに、ナディーヌはふっと、己の心と視界が冷えてゆくのを感じた。
その気配を察したかのように、エレノールはためらいがちに義妹を見つめ返し、吐息に溶けこむような声で言った。

「ええ、―――その通りだわ。あなたがわたくしたちの関係をお気遣いになる義務などないわ。
 どうかお思いになるところを、言いたいことをおっしゃって」
「結婚の神聖性や拘束力について一家言あるわけではありませんわ。
 でも、こんな他愛ないきっかけとはいえ、義姉さまにとってはアラン兄さまに詫びて借りをつくるいい機会ではなくて?」
「―――借り」
「自尊心が盛装で身を固めて歩いている兄さまのような人間は、
 自分が軽んじられたり拒まれたりしたと感じると、ただでさえ度しがたい傲慢さを果てしなく膨張させるものだけれど、
 相手がひとたび非をみとめて下手に出てくれば、案外容易に耳を傾けるものよ。自身の寛容さを示したいがために」
「非を、みとめる」
「ええ。―――まあ、非をあげつらうにふさわしいのは、大体においてアラン兄さまの人間性のほうだとは思うけれど」
「ま、まあ、そんな」
「ともに生まれ育った身だから自信を持って申し上げられるけれど、
 義姉さまを妻としてお迎えする前もその後も、兄さまの素行に関して弁護の余地はほとんどないわ」
「で、でも、あなたはお兄さまを思えばこそ、わたくしに考えを改めさせようとなさるのでしょう」
「兄さまのためというか、母さまのためかしら。あなたがた夫婦の間に早く子どもが生まれればと思うわ」
「子ども……」
「そうすれば、母さまも安らかに逝かれる」
「何ということを、ナディーヌ!」
「長くないということは、義姉さまもお分かりでしょう」
「でも、あなたのお母さまでしょう。そんな平然と口にするなんて!」
「口にしなければ、『そのとき』は遠ざかるのかしら」
ナディーヌの声から一切の抑揚が消えた。
「涙ながらに口ごもれば病魔などなかったことになるのかしら。
 泣けば母さまが死なないで済むなら、この身が乾ききるまで泣くけれど」

エレノールは息を止めたように義妹を見ている。
見苦しいほどの狼狽、というわけではない。
だが、ほとんど臨死の人を思わせる静止ぶり、衝撃を受けたようすのその深刻さは、
ナディーヌの心に訴えかけるでもなく、彼女の苛立ちをいっそう深めさせただけだった。
(このかたは)
およそこの歳に至るまで、己を客観視する習慣を築いてこられなかったのだろうか、とナディーヌは思った。
エレノールのような婦人、誰に対しても共感が深く温柔そのものの婦人は、自分自身に対しても分析ではなく憐憫を向けたがるのはよくある話ではある。
「―――ごめんなさい」
「わたしに謝っていただいても事態は変わらないわ」
「ええ、そうね。わたくしが変わらなければ、何も変わらない。みなを不幸にしたままだわ」
「分かっておられてなお、兄さまの子どもを生むことは―――そのために兄さまを受け入れることは、おできになりませんか」

「好きなひとがいるの」
エレノールは小さな声で答えた。
そこに込められた廉恥は本物だったが、悔やんではいないようにナディーヌには聞こえた。
「侍女たちの噂から、わたしもそのように伺ってはおります。
 ですが、お輿入れとともに連れてこられたわけでもありませんでしょう」
「ええ。たぶん、もう二度と会うことはないでしょう」
「ならば、お諦めなさいませ」
エレノールは義妹のほうを見た。怯んだ眼でも、憎悪の眼でもなかった。ただひっそりと、ナディーヌを見ていた。

「ナディーヌ、―――あなたには、そのようなひとはいらっしゃらない?」
ナディーヌは口をつぐんだ。だがそれは、ほとんど気づかれないほどの空白に過ぎなかった。
「いたとしても、義務を優先することに変わりはありません」
「―――ええ、そうね。あなたならきっと、それができるわ」
「わたしこそ、義姉さまにおできにならないとは思われません。
 義姉さまは、とても母親に向いておられるように思われるけれど」
「ええ、子どもはとても好きだわ。本当に好きなの。でも」
「『そのかた』の子でなければ意味がないのかしら」
エレノールは再び双眸を見開き、すぐに伏せた。
長いまつげに覆われかけていながらも、夕陽の残照を吸いこんだ漆黒の虹彩がいつにもまして透き通るように輝いている。
本当に美しい瞳、とナディーヌは胸の内で小さく呟いた。
須臾の間見つめるだけで対面者の心にここまで訴えかけるものをもつのは、造形の秀麗さだけでは無理であろう。
何がこのかたにこれほど切実な美しさを付与するのか、とナディーヌはいぶかしみ、やはりひたむきさゆえであろうか、と思った。
ひとつの思いを貫くことは、その思いを捧げられる者だけにではなく、外界から彼らを見ている者たちにまである種の振動を伝えるのだ。

(このかたなら―――その気さえあれば、あの多情なアラン兄さまの心にさえ楔を打ち込むことができるかもしれないのに)
そんなことを思いながら、ナディーヌは斜め上からなぞるように義姉の面差しを眺めていた。
ふと、薄紅色の唇がわずかに動くのが見えた。
「―――どうしてそう思うの?」
「深くお考えなさいますな。仮定したまでですわ」
「あなたにも、そのようなひとが?」
ゆっくりとした瞬きとともに、今度はナディーヌが黙る番だった。
かといってエレノールは、相手の弱みの端緒らしきものを見出だしたことに満足をおぼえたようすは微塵もなく、
むしろこいねがうようにこちらを見つめるばかりだった。

「そうならば、―――もしそうならば、わたくしの気持ちもいくらか、分かっていただけるような気がするの」
「想う相手がいようといまいと、それが婦人一般の自然な感情であることは否定いたしません」
「あなたも、そう思われて?」
どこかためらうような、けれど震えるような切実さを帯びた声でエレノールが言った。
「思いますわ。ただし、われわれ王侯貴族なるものは存在自体が原初の自然に―――創世時の、万人がすべて平等な状態に反するものではないかしら。
 不自然な存在であるがゆえの恩恵を享受して生きつづけられるおつもりなら、人の子の自然な喜びとは決別するべきだと、そうお思いにはなりませんか」
「―――ナディーヌ、わたくしは」
エレノールの声は吐息のようだった。直截すぎたかしら、とナディーヌは思った。
だが訂正するつもりもなかった。誰かが言ってやらねばならぬことだから、いま自分から告げたまでだ。

「わたくしは、身分も富も、すべての恩恵を捨てるつもりだったの。そのつもりでクレメンテに―――想っていたかたに会いにいったの」
「そう。空回りなさったのね」
「空回り。―――そうね、結局はあのかたに選ばれなかったのだから、その通りかもしれません。
 誰もいない広間の中央で、わたくしひとりだけが踊っていたのね。―――愚かしい、恥ずかしいこと」
「恥ずかしいとお思いなら、思ったときにお止めになるべきでしたわ」
エレノールはナディーヌをふと見つめてから、その通りだわ、と言った。
奇妙なかた、とナディーヌは思った。
義姉のまなざしには辱しめられたという怒りの色はなく、たしかに自らを恥じているようだった。
それでいながら彼女の口調に自虐の響きはなく、
むしろ何か大切なものを掌中に包みこみその輪郭をなぞってたしかめているような、そんな静謐さすら滲ませていた。
奇妙なかた、とナディーヌはもう一度思った。

「そうね、本当にその通りだわ。間違っているのはわたくしだわ。
 ―――でも、間違っていると分かっていても、やめることができないの。
 空回りしていた記憶さえいとおしくて―――やめることができない」
エレノールは面を伏せたまま微笑んでいた。
やわらかに上げられた口角の脇を涙の珠が滑り落ち、小さなあごの下へと消えていった。
「―――ごめんなさい。泣いたりして、本当に恥ずかしいわ」
「お好きなように」
ナディーヌは義姉から視線をはずし、窓の向こうを眺めやった。
夕景はすでに濃紺の闇に溶けはじめ、窓辺近くに並んで佇む月桂樹の合間から見える落日は炭火のなごりのようだった。
「同情を乞われるのでない限りは、気にいたしません」
そしてまた義姉の姿に目を戻し、薄闇のなかで震える華奢な肩をぼんやり眺めた。

「ロクサーヌのためにお心を砕かれるのは、だからなのかしら」
「え?」
「あの子も大体は空回りだわ。当初の目標が壮大に過ぎるから、仕方ないとは思うけれど」
「―――そうね、あるいはそうなのかもしれません。
 ロクサーヌのことが気になるのは、あの子がいつも報われればいいと思うのは、わたくし自身の代償なのかもしれない」
「そう。―――それで、どうなさりたいの」
「え?」
「ロクサーヌもいつかは現実に向かわねばならぬ日がくるけれど、義姉さまはアラン兄さまを拒みつづけたまま、この王宮で無為に朽ちてゆきたいとお望みですか」
「それは、―――」
「柩に眠るそのときまで」

「―――それは」
自らの最も脆い部分をそのまま露呈したような声だった。
青い夕闇が深まりゆくなかで、ナディーヌはふと割り切れたような思いになった。
他者への追及に手心を加える習慣がない彼女にしては、珍しいことだった。
「もういいわ、義姉さま」
ナディーヌは断ち切るように短く言った。けれど、その声の温度はことばそのものほど冷淡ではなかった。
「悪くおとりになられませんよう。
 兄さまのもとに嫁いでこられてからのお暮らしぶり―――自ら孤閨を選ばれたことについて、義姉さまに信念というほどのものがおありなのか、
 それとも、追い詰められれば翻意なさる程度の意地なのかどうか、知ってみたかったのです。
 知ったからと言って、義姉さまを支持する、しないというわけではないのだけれど」
「ナディーヌ」
「ひとつだけたしかなのは、母さまは、―――わたくしたち兄妹の母は、
 アラン兄さまに幸福であっていただきたいのと同様に、あなたにも幸福であっていただきたいのです。
 たとえ孫の顔を見られても、それが誰かの失意の上に築かれた喜びならば、母さまはやはりお心安らかではいられないわ」
「ええ、叔母さまが、―――王妃さまが誰よりご慈愛深いかただということは、よく存じ上げているわ。ありがとう、ナディーヌ」
長いまつげをゆっくりと伏せて、エレノールはそっと言った。
わたしに礼を述べられるくらいなら、アラン兄さまを愛するように努められるべきではないかしら、
とナディーヌは先ほどと似た感想を持ったが、口には出さなかった。
理詰めで誰かに誰かを愛するように仕向けることができるほど世の中は簡単ではなく、
そしてそれゆえにこそ人の子の生は興趣に満ちているということは、十五になったばかりの彼女とてすでにいくらかは分かっていた。






「さて、では」
ふっと息を抜くような間をおいてから、ナディーヌが平坦に言った。
「われらが眠り姫を探しにいきましょうか。
 まずは、マテュー兄さまかルネを説き伏せに」
「―――ええ、そうね、ナディーヌ」
エレノールは伏せていた目を上げ、にっこりとしてうなずいた。
清らかな眉宇にはいまだ淡い陰りが宿っていたが、ナディーヌはそれ以上突き詰めようとはしなかった。
今この場をこうして締めくくったとしても、
自分が投げかけたところの問いは義姉のこれからの日々に横たわりつづけることは間違いなく、それをどう扱うかは義姉自身の問題だからだ。






そのとき、扉の外の控えの間から取り次ぎ役の侍女の声が聞こえてきた。
「あ、殿下、お待ちくださいませ」
抑制がありながらもどことなく焦りを滲ませた声が、―――おそらくは男の声が、短く問い返したようだった。
「いいえ、そういうわけではなく、ご先客がおいでなのです。
 たとえ殿下であっても、お伺いを立てなければお通しできません」
ふたたび短い誰何の声があった。
「エレノール妃殿下でございます」
つづくはずの返事はなかった。
その沈黙の不自然な唐突さに、エレノールは小さく深く息を呑み、だが何事もなく了解したように、目だけでナディーヌにうなずいた。
ナディーヌは扉に向かって声を放った。

「カロリーヌ、王太子妃殿下は新しいお客人をお気になさらぬそうよ、お通しなさい」
そしてつやのある黒檀の扉がひらかれた。
入ってきた人影は、ふたりが想定していたよりもひとまわりほど小さかった。
というより、ナディーヌとエレノール自身よりさらに小さい。
「―――おまえだったの」
ナディーヌはいささか拍子抜けしたような声で弟を迎えたが、ルネのほうはいつになく緊張に満ちた面持ちをしていた。
先ほどの侍女との問答ではすでに何かしら焦っていたようだから、そのためかもしれない。
義姉に軽く礼を捧げると、すぐに姉のほうに向き直った。

「どうしたの、こんな夕刻に」
「あの、ロクサーヌとお会いになりませんでしたか」
「朝方にエレノール義姉さまのお部屋で会ったけれど、翠煙の森の入り口まで送ってそれきりよ」
「やっぱり……ではまだ、森に」
「そういえばあの子、おまえの反応の薄さにも苦言を呈していたわね。
 おまえ、朝方の対応を後悔して、宵の礼拝前に少しは相手をしてやる気になったの」
「後悔というか……僕があれに諭したことが間違いだったとは思いません。
 でも、こんなに遅くになってなお誰にも見つけられずにいたら、やはり不憫だと」
「義姉さまと共鳴しているみたいね」

ナディーヌは大した意図もなく口にしたつもりだったが、ルネはいくらか奇妙な反応を示した。
小刻みに目をしばたたかせ、一度もエレノールのほうを見ないでいる。
一方のエレノールは喜色に頬を染めて彼に向かいあい、手を取らんばかりにして問いかけた。
「では、ルネどのはロクサーヌの王子さまになってくださるおつもりなのね」
「え、ええ」
「よかった、本当によかったわ。一緒に探しに参りましょう」
「あの、義姉上がたも行かれるのですか」
「ええ、もうだいぶ暗いから、あなたおひとりで行っていただくわけにもいかないわ。
 ナディーヌ、お忙しければあなたには無理にとは言わないけれど……」
ナディーヌの見地からいえば、たとえ日が落ちてもほぼ確実に安全な御苑の森へ年長者が三人も肩を並べてゆくなど
大がかりに過ぎると思われたが、ふとルネのほうを見ると、何か訴えかけるような目をしている。

(―――ああ)
幼いころから聖職者の生き方に親しみと憧憬を抱きながら成長してきたルネは、
この歳になっても婦人との同席を避けたがるところがある。
この間のサフランの花の残り香は、ナディーヌの知る限りむしろ例外に属する一事件だったのだ。
この謹厳な弟は、従来あまり接点のなかった義姉とふたりで過ごす緊張感に耐えられないのだろう、と思い至るとナディーヌも若干の憐れみをおぼえ、
「わたしも行くわ」と答えた。
エレノールはうれしそうに笑い、ルネも控えめに微笑したが、
弟のほうのまなざしには感謝だけでなくかすかに恨めしげな色が混ざっているのを感じ取ると、
ナディーヌはふだんは動きの少ない瞳を少しだけ見開いた。

(―――ああ)
先ほどと同じ感嘆詞とともに、そういうことね、とナディーヌはやや興を込めて胸中に呟いた。
たった六才のオーギュストでさえ時々は、
「エレノールねえさまはほんとにきれいだねえ」と感心したように目をぱちぱちしたりしているのだ。
ルネのような思春期にさしかかったばかりの少年が、匂うように美しい兄嫁に憧れを抱くのは何も不自然なことではない。
エレノールを前にしたルネのそぶりは、憧れというにはぎこちなさすぎる気もしたが、ナディーヌはそれ以上注意を払おうとはしなかった。
色恋沙汰への関心は、彼女のなかではもとよりきわめて希薄なのだった。

「では参りましょう。日がすっかり落ちる前に」
ほほえみかける義姉に目を合わせないまま、ルネはいましがた入ってきた扉を自ら開け、どうぞ、と年長の婦人たちに先を促した。




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