「わたし、今日からねむりひめになるの」
「楽しんで来い」
妹姫の一句一句区切るような力強い発言に、アランは卓上の書類から目を上げないまま相槌を打った。
先日出席した御前会議の議事録である。
王位の第一継承者とはいえまだ十八歳の彼はとりたてて有意な発言が期待されている身ではないが、
出席が許されている以上は都度の要点を明確に整理し、次回の争点に備えておきたい。
「兄さまご存じ?ねむりひめはね、数々の困難をのりこえて助けにきてくれた王子さまのくちづけでねむりから覚めるのよ」
「壮大だな」
「兄さまに、王子さまの役を振ってあげてもいいわよ」
「すでに王子の身だ」
「ただの王子さまじゃないのよ。ひめを永遠の呪いから救ったというほまれを得られるのよ」
「身に余る光栄だな。辞退せざるを得まい」
ふだんの彼の傲岸きわまりない言動を知っている学友が聞いたら肩をすくめそうな言辞を発しながら、アランは会話を打ち切るように席を立った。
「兄さま、どちらへ?」
「半時間後にカディーユ公爵の子息たちと狩りの約束がある。装束を整えねばならん」
「翠煙の森?」
「そんな手狭なところで馬を駆れるか。夜光の森だ」
右から左へ流すように、アランは淡々とした声で答えた。
翠煙の森とは御苑の一角に広がる楢の木を中心とした散策地であるが、
一方夜光の森は王宮の西北方に位置する広大な御禁制地であり、王族が催す狩猟や乗馬の場所として好まれることが多い。

「ふうん。でも、翠煙の森でも、すてきなことが起こるかもしれないわよ。
 森番小屋の脇の道を奥に向かってずっと進んで、小さな泉に行き当たったら左に折れて、」
「よく分かった。おまえがすばらしい王子さまに見つけてもらえるよう郊外の空の下で祈っておいてやる」
「淑女の話を最後まできかないなんて、兄さまったら失礼ね。
 せっかく、ふだんのかたき役ぶりに目をつぶってかがやかしい主役をさしあげようとしているのに」
非礼なのはどちらだ、とアランは苦々しく唇を噛みながら、しかしさすがに十も歳の離れた妹を力ずくで黙らせるわけにもいかないので、
ばたんと音を立てて書斎の扉を開け放つにとどめた。
ロクサーヌが、というよりは、自身の職務を奪われた傍らの小姓のほうが驚いた顔をしている。
「お先にご退室を、眠り姫。―――俺が仇役だの何だのと、誰が出所だ」
「あら、わたしよ」
「おまえか!」
「だって、アラン兄さまはいつも違う貴婦人や令嬢がたといっしょにいらっしゃるでしょう。
 そういうとのがたは、たとえばお芝居の第一幕では皆からどんなにもてはやされ、女主人公の心さえ射止められるように見えても、
 終幕では必ず愛の力に―――いちずな主人公の前にうちまかされるのよ」
「ためになるな」
そう言いながらアランは妹姫の小さな背中を廊下に押し出し、彼女が抗議の声とともに振り返るのも待たずに速やかに扉を閉めた。
更衣のためにこの部屋を出るつもりだというのは本当だったのだが、
ロクサーヌの最後のことばを聞いたことでほんのわずかだが気分に波が立ち、それが静まるまでは従僕たちの前に出てゆきたくはなかったのだ。
ただひとり同じ書斎内にいる小姓は、昔から仕えてきた主人の気性をよく弁えているのでただ黙って壁際に待機している。

(―――やれやれ)
ロクサーヌの歯に衣着せぬ主義主張は毎度のことであり、アランはむろん彼女に怒りを覚えたのではない。
半年近く前に娶って以来手も触れていない―――手を触れないのはある意味、相手の意向を尊重してのことではあるが―――
隣国スパニヤの王室から娶った妃エレノールと自分の関係の本質を、そのことばが暗にほのめかしたような気がしたからである。
(愚かな)
ひとつ間を置いてからアランは首を振った。
すべての端緒は、あの娘の頑なさ、公人としての意識の低さにあるのだ。俺が我が身を省みねばならぬ必要がどこにあるというのか。
「ゆく」
窓際から再びこちらがわに向き直った主人の短い言明に小姓は目礼し、音もなく黒檀の扉を開けた。




「ほんとうに失礼だわ、アラン兄さまったら」
数日に一度の割合で天啓のように脳裏に沸き起こるすばらしい提案を兄たちから二言三言で退けられるのは今に始まったことではないが、
自分の発言は国運の隆盛を左右する機密のごとく尊重され採用を検討されてしかるべきだと堅く信じ抜くロクサーヌは、
いつものように頬を膨らませながらアランの元を去り、マテューの部屋へと向かった。
長兄が駄目なら次兄へ、次兄が駄目なら三兄へ、という不撓不屈の精神は時として兄たちからさえ一目置かれていると言えなくもない。




「マテュー兄さま、いらっしゃる?」
「いないよ」
うつぶせになって長椅子に横たわるマテューは、頭までかぶった外套の下からくぐもった声を発した。
今朝がた城下の馴染みの酒場から二日ぶりに王宮に戻ってきたばかりの身体である。
風邪のひき始めのようにのどがしわがれているのが自分でもよく分かる。
そしてまた、ぼんやりした頭で訪問者の声をなんとか聞き分けると、
脳裏にはゆるゆると若干の脅威ならびに後悔が沸き起こってくるのをみとめざるを得なかった。
つい数時間前、自分を出迎えた従僕たちに
「俺はいつ起きるか分からないからおまえたちも休んでてくれ」
と告げて下がらせ控えの間を無人にしてしまったところなのだ。
防波堤もしくは人柱になってくれそうな存在がさしあたって近くにいないということである。
一つしか離れていない上の妹のナディーヌは小さい頃から何を話すにしても声も目も据わりきっているのとは対照的に、
八つ年下のこの妹は、八才という年齢相応に、あるいは年齢から想定される以上にというべきか、
とにかくどこにいてもにぎやかにまくしたてる娘なのだ。
いつ聞いても驚くほど独尊的かつ前向きなその主張に触れているとたまには気が紛れることもあるが、
二日酔いの憔悴しきった身で間近から浴びせかけられるには全くもってありがたくない声だった。
しかし軽やかな足音は枕元まで来て止まり、小さな手が容赦なく彼の防備を剥ぎ下ろした。

「うそつき」
「うそじゃない。ここにいるのは俺の抜け殻だ」
「それなあに、インユ?」
「実感から言えば直喩だな」
例によって頭蓋にきんきんと響くロクサーヌの声に早くも意識を手放したい気分になりながら、
マテューはかろうじて上体を起こし、開けたままの襟元の紐をおぼつかない手つきで結び直そうとした。
さっさと闖入者を追い返して寝入るつもりではあるが、この妹の前であまりにだらしない姿をさらして平然としていると、
「淑女の前なのに、兄さまったらどういうつもりなの!そんなことだからいまだにいいなずけも決まらないんだわ」
とか何とか話がどんどん面倒なほうへ転がってゆく定めなのだ。

「どちらでもいいわ。あのね、兄さまにいいお話があるの」
「俺の本体が戻ってきたときに、また今度な」
「ブンガクシに残る名詩を生み出せるかもしれないまたとない機会なのよ。
 あのね、これからしばらくしたら、翠煙の森の奥には美しいねむりひめが現れるの。
 あたりは静まり返っていて、こずえの音だけがさらさらと鳴って、ねむりひめの顔には木漏れ日がさしかかって、妖精の国にいるみたいなの。
 ねむりひめは王子さまのくちづけで目覚めるさだめなのだけど、王子さまが耳元ですてきな詩をささやいてくれたら、
 自分から起きて手の甲へのくちづけを許してあげてもいいわ」
「そりゃ恐れ多い話だと思うが―――とりあえず俺には詩人も王子もしばらく休業させてくれ。
 布団のなかで英気を養わなきゃならない」
「それは外套よ。大体、お外はもうこんなに明るいのに」
「詩人の霊感は世俗の習いに背を向けるものなんだ」
平素の己が最も嫌うたぐいの高踏的な言説でしめくくりながら、マテューはまたくず折れるように横になった。
太陽がすでに高いというのは本当であり、窓から窺われる空の色のすがしさに、彼としても少しは後悔を覚えないでもない。
こんな晴れ渡った朝に野を歩けば、どんなに気負いなく軽やかに詩想が沸き起こってくることだろう。

(―――そろそろ夜遊びも、けじめをつけるころかな)
十五で城下の盛り場に身を投じてからまだ一年ほどにしかならないにも関わらず、マテューは妙に悟ったようなことを思った。
が、それを実行に移すのはだいぶ先だろう、と自分でも分かってはいる。
そして何より、今は健やかに眠りに落ちたかった。再び勢いよくかぶった外套越しに、なんとふがいない兄か、と言いたげなロクサーヌの声が聞こえる。
「マテュー兄さまは、ご自分にこそ王子さまが必要なようね」
「寝てるあいだに掘られさえしなけりゃ何でもいいよ」
アランに聞かれたら「おまえは八つの妹の前で何を言っている」と顔を青黒くして襟首をつかみかかられかねないことをもぐもぐとつぶやきながら、
マテューは長椅子の背に向かって寝返りを打ち、今度こそ本当に眠りの淵へと落ちていった。




「ルネ兄さま、だいじなお話があるの」
「どうした、ロクサーヌ」
穏やかな声とともに振り向いた三番めの兄の優しい目元に、ロクサーヌは彼に負けないくらいの晴れやかな笑顔を見せた。
と同時に、やっぱり最初からルネ兄さまを当たるべきだったんだわ、と上二人の兄たちの冷淡ぶりへの憤りがふつふつと甦ってくる。
「とてもすてきなことよ。聞きたい?」
「聞こう」
「あのね、わたし、今日からねむりひめになるの。翠煙の森で」
そう言ってからロクサーヌは三兄の気質を思い起こし、
「だけど、正午と日没前のお祈りの鐘が聞こえたら、そのときは森のなかで身を起こしてお祈りするからだいじょうぶよ。
 きちんとしたねむりひめなの」
と付け足した。
「それはまあ、立派なことだが………どちらにしろ祈祷するなら聖堂に来ればいいだろう」
翠煙の森、と聞いて妹の今度の遊び場は御苑の一角なのだとルネにも見当はついたが、
たとえ猛獣や盗賊が出現するおそれのない場所であれ、
花壇とは違って庭師たちもあまり足を踏み入れないような場所へ小さな妹をひとりで横たわらせておくのは不安な気がした。
それはつまり、彼自身は森の奥まで付き合ってやる暇がないということでもある。

「だめよ、ねむりひめはひっそりした森の奥にいないといけないのよ。
 そして、助けに来てくれた王子さまにくちづけされたそのとき、あたりは光のうずに包まれて愛の力がまがまがしい呪いに勝つの」
「そういうことばを軽々しく使うべきじゃない」
仮にも王族たる者、地獄に落ちろ、といった卑俗で罪深い罵倒を口にするのが堅く禁じられるのは当然だが、
幼少時から自ら好んで信心深い生活に身を置いてきたルネはそういった方面の―――呪いや悪魔といった、神の意思に逆らう存在を指す―――
用語の濫用についてはことのほか厳しく、ややもすれば王室付き司祭よりもさらに厳格に臨む風さえあった。
貴人たると庶民たるとを問わず、
新しい猥談をひとつ覚えたら自らの箔付けのように吹聴して回らずにいられないこの年配の少年としては極めて珍しいことであるが、
ルネだからそういうものだ、と肉親たちも今では自然現象のように受け止めている。
そんな兄からの叱責なので、ロクサーヌもわりと素直に言い直した。

「愛の力が最後には勝つの」
「それならいい」
「兄さま、見つけに来てくださる?」
「聖堂の敷地内にいるならね。午後の礼拝の合間に探しに行くよ」
「そんなついでみたいなのはだめ。ねむりひめは森の奥で発見されなくちゃいけないの。
 王子さまはカンナンシンクを乗り越えて会いに来てくれないといけないの」
「トマとオーギュストを誘ったらどうだ。ふたりとも森が好きだろう」
「だめよ。ふたりとももので釣らないと動かないもの。子どもなのよ」
おまえは子どもじゃないのか、という呆れと、
いっそ自分こそ弟たちをもので釣ってロクサーヌの相手をさせようかという代案がルネの胸中を一瞬交錯したが、結局それらは退けられるに至った。

(ロクサーヌはどうも、男女の浮わついた交際に関心を持ちすぎるようだ)
まだ八才だというのに、と十三才のルネは老僧のように遺憾げに口元を引き締め、妹に改めて向き直った。
「ロクサーヌ、こういうのはどうかな。
 今日の午後は僕と一緒に内陣でひざまずき、心を平らかに静かにして、神さまにじっと感謝を捧げるんだ。
 おまえはまだ半日祈祷はしたことはないだろう」
「したことはないけど、―――そんなのぜんぜん、ねむりひめじゃないわ」
さすがのロクサーヌもやや唖然とした顔で言った。
「だが愛の力に触れたいと言っただろう。神の庭に身を置けば、この世の何よりもたしかな愛に包まれていられる。
 おまえの言う眠り姫や王子やらの絆―――いずれは滅びゆく造形の美から始まる恋情とは及びもつかない」
「神さまがいつもわたしたちを愛してくださってるのは知ってるわ。みんなそう言うもの。でもねむりひめでしかできないことが―――」
「神の愛はすべてを包括するものだ」
「でも、それだけじゃ足りないんだもの。兄さまのばか!」
仔猫が背中の毛を逆立てるように一声叫ぶと、ロクサーヌは自ら身を翻して兄から離れていった。
ひとりで森へ行くんじゃない、とルネは声を上げかけたが、妹の向かった先が長兄夫妻の起居する棟であることを知り
―――また長兄のほうは先ほど宮室を後にしたことを思い出し―――結局義姉上にかまってもらうことにしたのか、とやや安堵を取り戻した。
その一方で、訪ねたいときに義姉の居室を訪ねられる妹姫の屈託のなさがどこかうらやましいような気もして、そんな自分にふっと浅ましさを覚えた。




「ごきげんよう、エレノールねえさま」
「あら、いらっしゃい、ロクサーヌ」
ぱたぱたと扉をくぐってきた客人から丁重な挨拶を捧げられ、 エレノールも膝から編みかけのレースを下ろして立ち上がると、自らの裾を上げてにっこりと答礼した。
この小さな義妹は姿かたちの人形のような可憐さとは裏腹に、
香辛料のように強烈な娘だということはエレノールにもよく分かってはいるのだが、
その一方で世に冠たる淑女を目指して重ねる努力もまた真摯であるだけに、
彼女のあらゆる強烈さは究極的には愛らしさに還元されてゆくようにエレノールには思われ―――ロクサーヌの兄弟たちは誰も肯首しないかもしれないが―――、
主人役としての礼儀とは関係なく口角を上げずにはいられないのだった。

「あら、ナディーヌねえさまもいらっしゃるの」
扉を入ってから向かって左手、南向きの窓辺近くに据えられた書架の前に立つ人影に気づき、ロクサーヌは声をかけた。
軽く巻き毛がかったロクサーヌ自身の髪とは対照的な、ほぼ直線に近い金髪を背や肩の上で波立たせながら、
白く瓏たけた面立ちがこちらを振り向く。
偶然の邂逅をさして喜んでいるわけでもないが、しかし兄たちのように最初から一種の警戒を示すわけでもない、いわば起伏のない表情である。
「ええ、本をお借りしに」
「スパニヤ語の?お母さまに読んで差し上げるの?」
「そうね、次のお見舞いのときにお持ちしようと思って」
ナディーヌはそう答えただけでゆっくりと書架に向き戻り、両手の上でひらいた書物の頁に目を落としてしまった。
ロクサーヌが来るまで義姉と談笑していたわけでもないようだった。
書架から少し離れた卓についていたエレノールは小さいほうの義妹に着座を促し、「今日はどうしたのかしら」と尋ねた。
「うさぎさんを、半日だけ貸してくださらない?」
「あら、あのうさぎさん?もちろんいいわ」
「ありがとう、ねえさま。草の葉とか落ち葉とかが毛に絡まらないようにして、必ずきれいなからだでお返しするわ」
「お散歩に連れてゆくの?」
「お散歩じゃないの。翠煙の森の奥で、ねむりひめの付き添い役なの」
「まあ、ではあなたが眠り姫なのね。すてきだわ」
「すてきでしょう!」

義姉をややうろたえさせるくらいの勢いを込めて、ロクサーヌは力強く応じた。
今朝がた眠り姫になるという着想を得て以来この思いつきのすばらしさに同意してくれる人間に初めて出会えたのだから、無理もないことではあった。
「え、ええ、すてきだわ。永遠につづくはずだった眠りから王子さまのくちづけで目覚めて、別世界のような幸福が始まるのだもの。
 ―――女の子ならみんな、そういう瞬間を心のどこかで待ち焦がれているものよ」
「そうでしょう?ねえさまもそう思うでしょう?兄さまたちはぜんぜん分かってくれないの。
 淑女の気持ちをおもんばかってくれないなんて、ことごとく王子さまどころか騎士役として失格だわ。
 みんな『白銀騎士の冒険と遍歴』を二十ぺんくらい読み返せばいいのよ」
「兄さまたち?」
「アラン兄さま、マテュー兄さま、ルネ兄さまよ」
「あら、トマは?」
「トマ兄さまはオーギュストとおんなじだもの。のりものとかいきものにしか興味がない子どもなのよ」
「あら、まあ」
「エレノールねえさまは?」
「わたくし?」
「ねえさまは、ねむりひめになったことがおありなのでしょう?」
「えっ、いいえ」
「でも、さっきはそうおっしゃったわ。女の子なら誰もが夢見るって。スパニヤにいらしたころに、ねむりひめになられたのではなくて」
「ええ、そうね。―――遊びをしたことはあるわ」
「やっぱり?ねえさまもねえさまのお兄さまに王子さまをお頼みになったの?それとも」
「用件が終わったなら帰りなさい、ロクサーヌ」

書架の前で黙って頁をくくっていたナディーヌが初めて口を挟んだ。
「ナディーヌねえさまはわたしより前からいらっしゃるじゃない」
「わたしももう自室へ戻るわ。一緒においとまを申し上げましょう。森の入り口までは送ってあげる」
「あら、もう?ふたりともお菓子くらいつまんで行ってくださればいいのに。りんごの砂糖煮があるのよ」
ナディーヌに向かって唇を尖らせていたロクサーヌは砂糖煮という一語に小さからぬ反応を示したものの、
「淑女は予告なく訪れた先では長居をしないのよ」
という姉姫のことばを受け、しぶしぶといった顔でその後に付き従ったのだった。




「ナディーヌねえさまは小さいころにねむりひめをなさった?」
「しなかったと思うわ」
「どうして?」
「なりたいと思わなかったからよ」
「どうして?」
「おまえはなぜなりたいの」
「どきどきするもの!」
よくぞ聞いてくださったわ、と言いたげに生気をみなぎらせた妹の表情に、ナディーヌはそれだけでやや飽和した気分になったが、
ここで発言を止めさせると果てしない抗議のうずに巻き込まれることを経験的に知っているので、とりあえずは言いたいだけ言わせることにした。
「―――というわけなの。ねえさまにもお分かりいただけるでしょう」
女の人生の目的は眠り姫に集約されるのよ、と言いたげな断定ぶりでしめくくりながら、
ロクサーヌは姉姫を先導するように軽やかな歩みを進めた。
ふたりはすでに御苑の南門を抜け翠煙の森の入り口に近づきつつあった。
それまで小道の左右に広がっていた色とりどりの菫の花壇や蔓薔薇の垣はようやくとぎれ、
代わりに華奢な若木がぽつりぽつりと現れては通行者の頭上に枝を重ねはじめている。
この道をもう少しゆけば木々は本格的に密になり、右手に森番の小屋とささやかな渓流が見えてくるはずだ。
まだ正午にもならないというのに、道の先にうかがわれる森の懐は鬱蒼と薄暗かった。
森が暗いのはいつものことではあるが、あるいはロクサーヌにとってみれば、
今日はオーギュストやトマ―――脅したりもので釣ったりすればたしかについては来てくれる連中―――を連れ回さずに
ひとりで入ってゆくのだと今さらのように気づいたがゆえに、いつにもまして暗く重々しく映るのかもしれなかった。

ロクサーヌはふっと足を止め、年齢差を差し引いてもなおすらりと背の高い姉姫の顔を見上げた。
「ねえさま」
「どうしたの」
「あのね、ねえさまもねむりひめをしたかったら、特別に―――」
「年増は遠慮しておくわ」
ロクサーヌは陶器のような頬をぷくりと膨らませかけたが、姉姫の表情が変わらないのを見て少しずつしぼませていった。
そして鬢に結わえつけた絹細工の造花を結び直すともなくいじりながらしばらくその場に留まっていたかと思うと、
じゃあ別にいいわ、と言うかわりに足音を高く立てながら、森の奥へと自らを鼓舞したのだった。




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