小紺碧湖の周囲には、ささやかな遊歩道が巡らされている。
箱柳の並木がさしかける影の下にアランはしばらく歩を進めていったが、
やはりこの時間帯は、漁撈民どころか木陰に憩う宮廷人の姿さえ見かけることはなかった。
時折の微風に揺れる梢のさざめきを別にすれば、あたかも水辺と水中とを問わず生けるものすべてが眠りに就いたかのような静けさである。
(―――あれは)
湖の周囲を三分の一ほど巡ったところで、アランはふと立ち止まった。
遊歩道の左手、岸辺に近い側に群生する白樺の幹の向こう側に、ひっそりと移ろう人影を見た気がした。
よくよく見つめていると、その人影はゆるやかな岸を下ってゆき、水際の岩場にまで降り立ってゆく。
その無駄のない動き、乱れない姿勢は明らかに武芸の心得があることを示しているが、
その輪郭は鋼のように鍛え上げられているというにはやや細身であり、まだどこか成長の余地があるように見受けられた。
(エマニュエルのあの、年若い護衛か)
そう思っただけで、アランの心臓は不自然なまでに早鐘を打ち始めた。
彼の身分から言えば他国の王族の護衛騎士など本来は意に介する必要もないのだが、
それだけにまた、かくも微賤な男に己の密事の動向を握られているやもしれぬという危惧は、いっそう耐え難い屈辱として彼のなかで膨張せざるをえなかった。

(宮室に戻るべきか)
この静謐な空間をひとりで占めたいのなら、相手が何人であれ離宮の主人である自分が退去の命を下せばいいだけの話である。
しかしことあの青年に対しては、向かい合ってひとこと交わすだけの接触さえ、心が据わらないうちは避けるべきであるように思われた。
そしてまた、自分が無意識のうちにかくも臆病な道を探っているという事実を前にして、アランの自尊心はさらなる小さな亀裂を負った。
だが、青年の姿を眺めつづければつづけるほど、胸腔が刻一刻と圧迫されるのはもはやいかんともしがたかった。
視界の縁さえもがおぼろになり、徐々に狭められてゆくような気がする。
手負いの猛禽のように息を潜めながら、アランは石畳の道に目を伏せた。そして往路を引き返そうとした。




そのとき、彼はふと足を止めた。
辺りにはほのかに陶然とするような香りが漂っていた。
清々しい芳香というよりは何かが燻されるときの香ばしさのようであり、おそらくは草花が自然に発するものではない。
正体の分からぬものでありながら、アランのなかに疼きはじめた恥辱の念さえも和らげてゆくような、不思議に気分を落ち着かせる香りだった。
一瞬、衣服に舶来の香を焚き染めた女官でも近づいてきているのだろうかと彼は怪しんだが、しばらく耳を澄ませても足音が響いてくる気配はない。
やはり、香りの源はあの青年が佇む岩場だと考えるのが妥当であった。
アランは我知らず振り返り、青年をふたたび目で探した。
頭上に伸びる白樺の枝に頭が届きそうだった彼の長躯は、いつのまにか岩の上に跪いていた。
しかしアランの目を見開かせたのは、座り込むようにして両膝が屈せられていることではなく、
岸辺に打ち上げられた藻のように、上体までもが岩の上にぴたりと伏せられていることだった。
両腕は両耳の脇にまっすぐ伸ばされ、額とともにしっかりと岩盤に押し付けられている。
頭上の枝葉から取りこぼされた陽光が、広い肩や背中にまばらな艶を与えていた。

(一体、何を)
先ほどの焦燥を忘れ去ったわけではなかったが、アランはつい、足を止めたまま見入らずにはいられなかった。
すべてを地に投げ出して許しを請うような青年の姿態は、たとえこの静かな湖畔の情景のなかでなくとも、傍目には十分異様に映るものである。
やがて青年は立ち上がり、両手を胸の前で組み合わせると恭しくこうべを垂れた。
その後彼はふたたび地にぬかづき、同様の所作を三回ほど繰り返した。
これほど奇異な行為を黙々とつづけながら、物腰はあくまでも粛々と落ち着いていた。
その足元には球形の磁器のようなものがあり、件の香りはそこから立ちのぼってくるのだと察せられた。

白樺の木陰から眺めているうちに、アランはふと何かが腑に落ちた気がした。
あの一連の動作には既視感があると記憶をたぐり寄せていたら、それはずっと昔、
彼がまだほんの小さいころに東大陸の異教国からガルィア宮廷を訪ねてきた使者たちの挙止に似ている、と思い至ったのだ。
ただし彼らはアランの父王の前でそのような最上級の平伏をおこない、臣従を誓ったというわけではない。
アランが使者一行の跪拝を見たのは、彼らの言う「宵の讃」に立ち会ったときのことである。
われらの教えで定められた礼拝はたとえ外遊中でも欠かしてはならないことになっております、という使者からの請願を容れて、
ガルィア王は使節団の滞在中、宮中御苑の噴水に面した静謐な一角を彼らだけに開放し好きなように使わせていた。
外国の、それも異教を奉ずる国の使者にそこまで好待遇を与えたのはむろん歓待精神ばかりからではなく、
父王と外務筋にはそれなりの企図があったに違いないのだが、幼いアランにはそこまでの事情は分からなかった。
何しろ「異教徒の大陸から来た」というだけで、正確にはどの国からの使者であったかもおぼえていないのだ。
おぼえているのはただ、夕陽の射しかかる噴水前の広場に整然と並んだ人々と、彼らが膝を折ってぬかづくたびに地に揺れていた羽飾りの影だけである。

羽飾り。
そう、彼らはみな色鮮やかな鳥の羽を正面に留めた大きな帽子をかぶり、
ガルィア宮中の当時の流行とは対照的に、好んでゆったりした服をまとっていた。
幼いアランは諸外国から父王の宮廷を訪ねてきた人々をみな「外国人」という枠のなかでひとくくりにしていたにもかかわらず、
その一行にだけは別格といっていいほどの興味をおぼえ、謁見の間の物陰から横顔を垣間見るだけでは飽き足らず、
一行の「おいのり」を見学したいとさえ言い出したのは、
ひとえに彼らの風体の粛然とした華やかさのため、
そして彼らが携えてきた文物の幻想的なまでの精緻さのためであったかもしれない。
金と暇さえあれば着道楽に走るという点でガルィア人の悪癖は西大陸諸国に相当鳴り響いているが、
彼ら異教徒のまとう華やぎというのはガルィアの風流人たちがめざすものとはだいぶ趣が異なっており、
それはいわば彼らの神によって「清淡であること」が求められるあまり簡素と調和の妙が極めつくされ、
意図せずして至美の境地に達した、そんな逆説的な成り立ちを感じさせるものであった。

ともあれ、エマニュエルの若き護衛の姿を遠目に追いながら、アランが思い出していたのはあの日の夕刻のことだった。
彼らがあの一連の動作を「讃」と呼んでいたのは―――正確には通訳官がガルィア語でそのように訳したのは―――
彼らの「おいのり」の目的は創造者に「おねがいをすること」ではなく
その御心の慈悲深さを「たたえること」にあるためだ、という説明を受けたおぼえがあるが、
いま湖岸の岩場に跪く青年の姿は、たしかに創造者の偉大さを全身でたたえようとするかのようであり、
いまだ世の穢れに染まぬ嬰児にも似た一種の無心ささえ感じさせた。

そしてそのようにとらえてみれば、眼前に展開される光景はすべて整合されているのだった。
単に南国スパニヤの出身というだけでなく、どこか海を隔てた遠い土地を感じさせるほど肌色の濃い青年に、
異教徒の礼拝を模したような動作、そして東洋産とおぼしき香炉から立ち上る蠱惑的な香り。
この香りの種類をアランはしばらく判じかねていたが、ここに来てようやく沈香だと気がついた。
その素材である香木は主としてヴァネシアかスパニヤ経由でもたらされる熱帯産の植物で、
ガルィアでは市井どころか貴族社会でさえ珍重される舶来品だが、
南海諸島との通商に不自由のないヴァネシアあるいは東大陸南岸の異教諸国では比較的入手が易しく、
一定以上の富裕層であれば日常の香料として嗜む人間も少なくないのだという。
してみれば、そこにはたしかに明白な符牒があった。

(あの男は、果たして)
何者なのか。アランは口の中で問いをつぶやいた。
一見したところ異教徒と見紛う行為に及んでいるが、本物の異教徒ならばスパニヤのような厳格至極に聖教を奉じる国で公職に就けるはずがない。
まして同じ聖教を奉ずる他国へ王女が嫁ぐ際、その護衛として随行を許されるはずがない。
ならば人目を忍びつつ信仰を保とうとする隠れ信徒なのか。
そもそも彼の出自はどこへさかのぼるものなのか。
アランの足は我知らず、今ふたたび前へと動き出していた。

先ほどとは違う理由で、常ならぬ動悸が彼のなかで高まりを見せている。
もしあの男が隠れ異教徒だとすれば、どうなるか。
輿入れ以来彼を長らく召し使ってきたエマニュエルがそれを知らぬはずはなく、
異教徒と知った上でなお身辺に置いているのだとすれば、宗教的情熱に燃える彼女の母国のみならず、
ヴァネシアのように比較的自由開明の気風が盛んな土地でさえ、決して喜ばれることはあるまい。
むろん、たかだか護衛の正体について確証を得ることがエマニュエルの弱みを握ることにつながるとは言い切れないが、
彼女との忌まわしい関係を覆すための手がかりならば、今のアランはどんな些事であろうと這ってでも掘り起こす覚悟があった。
そうしたいのではなく、そうしなければならないのだ。
エレノールとの間に築いたすべてを守るためには、エレノール自身の心の平安を守るためには、どうしてもそれをなさねばならない。
さらにいえば、青年が自ら異教徒だという事実を隠しているのだとすれば、
たとえ女主人と義兄の不義を把握しているのだとしても、彼とアランの手の内は互いに五分五分になる。
踏み込むにはいましかない。
本能がアランにそう呼びかけた。




白樺の群生を抜けて湖岸に降り立つと、水際に張り出した平らな岩の上に、先ほどと変わらず湖面に向かって跪いたままの敬虔な姿があった。
岩場の縁は澄んだ湖水に洗われ、清涼にして侵しがたい舞台をつくりだしている。
アランの目の前に広がるのは、吐息をもって空気を震わせることさえ惜しまれるような、どこか厳かささえを漂わせる風景だった。
生まれてこのかた自分の魂を管轄させているはずの聖教の諸典礼に対してさえ、彼は大してありがたみを感じたことはなかったが、
いまこの場に居合わせてみると、ふしぎと身体の芯が引き締まるような感覚に襲われた。
だがそれも一瞬のことだった。
アランはそれ以上ためらわず、落ち着きを保って声をかけた。
「失礼する」

「―――王太子殿下」
青年はぼんやり顔を上げると、一瞬自失したようにこちらを見つめ返したが、すぐに身体の向きを改め、
今度は正面から王太子に跪拝の礼をとった。
この礼にはすでに異教の色彩はなく、いわゆる騎士の作法に立ち戻っていた。
アランは手振りで免礼を伝えた。青年は戸惑いがちながらも、ゆっくりとその場に立ち上がった。
夏期のためごく軽装ではあるが、スパニヤ王家の紋章が胸元に縫い込まれた淡青色の麻の上衣を羽織り、細身の剣を腰に帯びている。
さしずめ十八、九というところであろうか。今朝がた巡礼の帰路で耳にした声の落ち着きが印象に残っていただけに、この若さは意外だった。

アランは彼の躯体を黙って観察した。
こうして正面から眺めてみると、その外貌にはたしかに、単に整っているという以上に特筆すべき点があった。
朝方の巡礼のひとときのようなほんの一見の場では気づけなかったことだが、
珍しいほど強くつややかに波打つ黒髪に加え、その一筋二筋がほつれ落ちた目元や大きな双眸を色濃く縁取る長いまつげは、
若々しい潔癖さと緊張感を滲ませる表情とは対照的に、どこか真夏の夜の気怠さにも似た妖しささえ感じさせた。
そしてすでに気づいていたことだが、
瑞々しいオリーブを思わせるその肌の浅黒さは、アランよりは肌色の濃いエレノールやエマニュエルたちともいくらか異なる趣があった。
それだけにまた、緑色の瞳の淡さがその容姿のなかでいくらか異彩を放ってもいる。
アランは彼の腰に下げられた剣の柄にも視線を走らせたが、
その紋章にはとりたてて馴染みがないため、生家はガルィア貴族にゆかりをもたないのだろうと察せられた。

「邪魔をしてすまなかった」
「―――いいえ」
アランの詫びに、青年もガルィア語で答えた。
スパニヤの貴族層なら当方の国語に通じているのは当然だと見なし、アランはそのまま母国語で話を進めることにした。
「たまたま通りがかったものでな。ひとつ尋ねたい」
「はい」
「貴殿がいましがたおこなっていたのは、何の儀式か」
青年は黙っていた。視線が一瞬伏せられたあと、唇がゆっくり開かれた。
「あれは、―――儀式ではありません」
「ならば礼拝か」
答えはなかった。アランはかまわずつづけた。
「あれは異教徒がとる作法だな。貴殿は、隠れ信徒か」
「いえ、聖教の洗礼を受けております」
「ならばなぜ、人目を忍んであのような真似を」
「―――母の供養に、なるかと」
「供養?」
「異教の信仰についてはよく分かりませんが、母は生前、日々あのように香を焚きながら、水辺で天を拝しておりましたので。
 わたくしも同じように営めば、母の魂の救済に―――いえ、母が喜んでくれるのではないかと思い、つい、習慣を断ち切れずに」
「御母堂というのは―――」




捕虜となった婦人か。
青年が答える前に、アランはとっさに思い至った。
ガルィアやスパニヤ、ヴァネシア等聖教を奉じる国々を包括するこの大陸の南岸は、
南海と通称される内海を挟んで、東方に位置するもうひとつの大陸の西南部方面に臨んでいる。
東大陸はもとより異教諸国の割拠する地であるが、殊に西の大陸南部に迫るように突出した西南半島には、
アシュマーンと呼ばれる磐石の帝国が広大な領地を有し、今も着々と四方へ版図を広げつつあると伝えられる。
ガルィアに限らず西大陸南岸に領地を有する諸国は、ときには個々に、ときには合従して、
制海権ならびに陸上の勢力範囲をめぐってかねてよりアシュマーンと終わりの見えぬ抗争をつづけてきたが、
殊にエレノールたちの母国スパニヤはかの国と矛を交えること盛んであった。

ひとつには、三方を海に囲まれた同国にとっては海上交易による利潤が欠くべからざる歳入源である以上、
海路の要衝は自ら固守せねばならないという経済的事情が大きいわけだが、
それに劣らぬ精神的要素として、王室から平民に至るまで普遍的に見られる宗教的情熱と、
護教者としての義務感に満ちた独特の国風が挙げられるだろう。
古来より異教徒との交易圏・活動圏が大きく重なるため、長きにわたり彼らと絶え間なき交渉、融合、そして分離を繰り返してきたスパニヤには、
「聖教を奉ずる諸国の砦はわが国を措いてほかになし」
という歴史的経緯に裏付けられた自負があり、さらにいえば、
「邪教の魔手より民びとを護持するだけでなく、邪教徒の改心こそわれらが祝福された軍隊の目的である」
という高らかな標榜が数々の殺戮者と殉教者を生み、英雄譚を育み、悲劇の種を蒔いてきた。
少なくともアランは隣国の為政者としてそのように理解している。

この大陸の大半の国では、古代的な意味での奴隷制度は消滅して久しいが、
海を隔てたアシュマーンとの戦いが本格化するにつれ、異教徒の捕虜はすなわち奴隷的労働力の再来である、という認識が双方に確立されていった。
敵方に捕獲された兵士、航行中の旅行者や商人、もしくは沿岸地域の住民たちは、
交換条件として提示された身の代金もしくは相手方の捕虜が母国にいる親族や後援者の手で用意されない限り、
受刑者のように鎖を付けられたまま土木事業などに動員されるのが常だった。
これが女であればいっそう悲惨で、軍中で婢女として分配されるのでなければ、たいていは城下の娼館に売却される運命が待っている。
ただし、かの国からの使節や書物などから知るところでは、
アシュマーンを始め東大陸諸国の奉ずる異教は一夫多妻をみとめており、ことに王侯は権力と財力に飽かせて蓄妾に執心する者が少なくないため、
捕虜のなかでも際立って見目の佳い女は、都の王侯の後宮に納められ寵愛次第では妃の地位を与えられることもあり、
改宗さえ受け入れられれば栄転とも呼べる境遇に恵まれることもあるらしい。

一方スパニヤでは聖教の定めるところにより一夫一婦制が建前であるが、
富裕層が妾をもつのはガルィアほど公然ではないにしろ自然なことであり、
指揮官として従軍した貴族が異教徒の虜のうち気に入った者を別邸に囲ったり身辺に召し使ったりするのは、考えられない話ではなかった。




「ええ」
王太子の洞察の推移を見越したように、青年はようやく口をひらいた。
「わたくしの母はアシュマーンの出身です。
 乗っていた旅船がかの国の北西沖を航行していたところスパニヤ海軍に拿捕され、副司令官を務めていた父に側妾として納れられました」
(やはり、貴族の庶子か)
アランはまたひとつ腑に落ちたように軽くうなずいた。
ガルィアの有閑階級全般にいえることだが、彼もさして人に誇れるような貞操観念を持ち合わせていないので、
対話の相手が私生児だからといってとくに心象を害するようなことはない。
むしろ、スパニヤのような土地で庶出かつ異教徒の腹として生まれ育つというのがどういうことなのか、純粋に興味を覚えなくもなかった。
この男が異教徒の血を引くというのはスパニヤやヴァネシアの宮中ではおそらく公然の事実であろう。
由緒正しい貴族が改宗していない捕虜を正妻に迎えるのなら狂気の沙汰だが、
妾として側に置き子どもを産ませる程度なら、褒められた話ではないにせよ隠すほどのことではない。
つまりこの青年の出自自体はさほど陰影を帯びたものとはいえないということになる。

しかしだからといって、アランの手持ちの札がなくなったということにはならない。
どんな動機があるにせよ、日々の習慣として異教徒の信仰表現を模するというのは聖教徒として許されざることであり、青年もそれを分かっている。
分かっているからこそ、人目を忍びつつここまで足を運んできたのだ。
だからこそ、今ここでこの男に取引を持ちかけねばならない。
そして願わくば、エマニュエルの立場をいくらかでも揺らがせうるカードを引き出さねばならない。
アランは自分を抑えるように、ゆっくりと問いかけた。

「もうひとつ尋ねたい」
「はい」
「今朝がたみなで離宮に帰還し、エマニュエル妃が下車したあと、貴殿はなぜ彼女を諌めた」
青年は口元を引き締めたように見えた。しかし開こうとはしない。
果たしてこちらの意図をつかみかねているのか。それともこちらを納得させうる釈明を組み立てているのか。
アランの掌にはうっすらと汗が滲んだ。
本当の山場はここからだった。
アランは自分を優位だとは思っていない。握っている秘密は互いに五分五分である。
青年がここで語調を改めてこちらへの脅迫に転ずるようなら、相応の態度を見せねばならない。
これまでエマニュエルに対しては、妻の肉親だと思えばこそかろうじて服従を貫くこともできたが、
他国の臣下風情に、それも二十歳にもならない若輩者にまで足元を見られるのは彼の自尊心の耐えざるところだった。
何より、エレノールの心の安寧がエマニュエルのみならずこの男の胸算用によっても左右されることになるのかと思うと、
運命の理不尽さへの怒りが胸中に沸き滾るあまり、目の前が暗くなるようだった。
万一にも事態がそのような方向へ動き出す兆しを見せたならば、外交問題に発展せぬ範囲でこの男を何としても「処理」しなければならない。

(―――だが)
一方でアランは、それはまず起こりえまい、と漠然とした結論を抱きはじめてもいた。
彼は決して楽観主義者というわけではない。
何も、この男は俺とエマニュエルの関係については何も知らないにちがいない、
ただ主君に思慕を寄せるあまりあのときは諫言に熱が入っただけだ、と見込んだわけではなかった。
いや、その可能性とて全くの無ではなく、だからこそ藪の中の蛇を突くような真似を避けんがため慎重にことばを選んだのだが、
アランはそれよりむしろ、目の前に立つひとりの人間の品位について考えていた。
この年若い護衛については、たったいま明かされた略歴以外何ひとつ知らないが、
今朝がた彼の声を聞き、そして今また真正面から彼の態度と挙措を、とりわけ人を探るような狡猾さをかけらも感じさせない瞳を直観したことで、
(この男は、人の弱みに乗じて利を得るような浅ましさからは遠いところにいる)
という確信が、あたかも潮が満ちるようにアランの胸を占めたのだった。

仮にこの青年が口を閉ざし抜こうとするなら、それはガルィアの王太子相手にどこまで有利に取引を運べるか思案しているのではなく、
おそらくはただ、主君エマニュエルの名誉を守るためなのだ。
すなわち、彼女はアランとの契約を堅持し誰にも密事を漏らしていないという名誉である。
(今このような状況にまで及んで、そんな忠誠が何になるというのか)
アランは苦々しく唇を噛んだ。
だが、青年の口を割らせるために、そして彼がいずこからか知りえた自分とエマニュエルの関係について永遠の緘黙を誓わせるために、
今しがた現行でつかんだ祈りの場面を取引材料にするようなことはできれば避けたい。アランは急速にそう思い始めていた。
われながら非合理的な転向ではあった。
しかし、この男にはおそらく節度がある。アランは己の直観を信じる主義である。
そして、節度には節度で応えるのも彼の主義であった。

(仕方がない。直截にゆくか)
アランは腹を決めた。決めたものの、掌の汗がまだ乾いてはいなかった。
「貴殿は、われわれのことをどこまで知っている」
青年は目を伏せたまま唇を閉ざしている。その視線は足元の岩盤のある一点に注がれているようだった。
婦人のように長いまつげだけが時折かすかに揺れている。
下問に対し黙秘を貫くという行為自体は非礼だが、しかし王太子が自分の前に急所をさらしつつあることを知りながらあえて触れまいとする彼の態度は、
その人品に対するアランの見積もりが誤たなかったことを物語っていた。

「今朝の会話だけに鑑みても、貴殿はわれわれの関係を知っている。何が契機だ?
 エマニュエル妃からじかに告げられたか」
「―――いえ」
「ならば第三者から伝聞したと?」
アランの声が険しくなった。この男以外にもまだ秘密を知る者がいるとすれば、何があっても捨ててはおけない。
「いいえ」
「ならばどうして知ることができた。まさか貴殿自らが立ち聞きしたわけではあるまい」
そもそも、書斎の外には離宮付属の衛兵が居並んでいる。誰かが興味本位で近づけるはずがない。
アランは青年の沈黙を受け止めつづけた。
岩の上の一点に固定されていた彼の視線が、わずかにさまよい始めたように見えた。
(この男は嘘をつくことに慣れておらぬか、あるいは一生慣れないのだろう)
ほんの一瞬だけ、アランは憐憫をおぼえないでもなかった。

「立ち聞きを、したことになるのかもしれません」
「どういうことだ。書斎の扉付近には衛兵がいる」
「扉側ではありません。
 あの日、二日ほど前のことですが、わが主の不興をこうむることがありました。
 懲罰として、深夜、―――中庭に面した書斎の窓の外に侍すようにと」
アランの顔色がはっきりと変わった。
青年はうつむきを深くした。
「つまりはあの女の命により、われわれの密事に『立ち会った』ということか」
青年は答えなかった。
謝罪も弁解も意味をなさないと知っているのだろう。

(―――何ということだ)
アランの胸中は文字通り屈辱に煮え立つようだった。
目の前の男を今すぐ湖中深くに投じ、永遠にその口を封じたいとさえ思った。
だがひとつ呼吸を置くと、この青年もまた被害者であることは間違いない、と自分に言い聞かせようとした。
彼が事実上の寵臣であるかどうかはともかく、少なくともエマニュエルに主君として以上の好意を寄せていることは明らかである。
それゆえに、ある意味ではアランより耐えがたい経験を強いられたと言えるだろう。

(あの女はなぜ、こうまで酷烈な振る舞いに及べるのか)
最初に暴騰しかけた激情を一通り飲み込んでしまうと、
アランは自分のためというよりはむしろ青年のために、エマニュエルへの不快感を蘇らせた。
二日前にどんな過失を犯したか知らないが、この男はともかくも彼女に対して忠良な臣下であることはまちがいない。
主君が家臣を罰するには、たとえそれが最下級の兵卒であっても、法と礼に則った相応の方法というものがある。
ましてこの青年は曲がりなりにも貴族である。
(あの女の悪意はもはや、常軌を逸している)
ふと慄然とした思いが沸き起こった。
その恐怖は彼女への怒りさえも脇に追いやり、ひたひたと肌膚の上を這い登ってくるかのようだった。
だがアランはなんとか平静を保とうとした。いまここで、物事の筋道を見失うわけにはいかなかった。

「いずれにせよ、あの女は俺との約定を破ったことになる。
 恥を知らぬ虚言者だ。問い詰めねばならん」
「誠に畏れながら」
青年は初めて顔を上げた。緑色の瞳がふたたびアランのまなざしと邂逅した。
「わが主は、あなた様との約束をたがえられたわけではございません。
 こたびのことにつきましては、ご胸中まことに拝察申し上げますが、どうかあのかたをご容赦くださいますよう。
 どうしても罰せられたいとの思し召しであれば、どうかわたくしに罰をお授けくださいますよう」
「何を言っている。道を外れているのはあの女だ。約束をたがえていないはずがあるまい」
「いいえ、たがえておられぬのです。  ―――あのかたにとって、わたくしは」
青年の反駁がわずかに淀んだ。
「わたくしは、一個の独立した人格ではございませぬゆえ、
 あのかたは決して、あなた様との密事を『他者』に漏らそうと企図されたわけではございません。
 誠に畏れながら、王太子殿下におかれましてもそのようにご理解いただければ幸いです」
「―――独立した人格ではない、とは」
「畜獣に変わらぬ、ということでございます」
「畜獣」

アランは険しく眉をひそめた。
一瞬、聞き違えたのかと思った。
やがて青年のその言葉が本意であることを知ると、彼ははっきりと胸が悪くなるのを感じた。
青年に対して先ほどから漠然と芽生え始めた好感情さえ、湖畔の静けさのなかでたちまち瓦解してゆくかのようだった。
よくもここまで根底から自尊心を放棄できる人間がいるものだ。そう心に唾棄せざるを得なかった。
「それほどの扱いを受けていながら、たいそうな忠臣ぶりよな」

それとも、あの女の肉体にそこまで飼い慣らされたか。
アランは苛立ちまぎれにそう諷しようかと思ったが、結局思いとどまった。
この青年の発言はたしかに愚劣で、理性の片鱗さえ捨て去ったかのような卑屈さそのものだが、
それでも主君を弁護しつづけようとするその口吻には至誠があるとみとめざるをえない。
彼を貶めんがためにあえて穢言を口にするのは、こちらの品位を下げるばかりだと感じたのである。
そして何より、己の素行を恥じることもない淫婦のために訥々とことばを連ねるこの青年のひたむきさは、
肉欲の虜どころか、明らかに女を知らぬ人間のそれだった。




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