(この女と共にあることでエレノールが満ち足りるのなら、俺が言うべきことは何もない)
諭すように自らに言い聞かせながら、アランは一行に先んじて馬車を停めた地点に着いた。
留守居を務めていた御者は主人たちの帰還を知ると羽根つきの帽子を脱いで敬礼し、後部座席の昇降口を恭しく開く。
先に車中に昇って妻と義妹との乗車を助けると、アランは座席から降りて前方の御者台に向かった。
アランはむろん、帰路も妻たちの談話に加わるつもりはなかった。
御者もそれと心得て主人の登台を助けるべく待機している。

「あら、お義兄様、お帰りの道くらいわたしたちと同席してくださればよろしいのに」
やや咎めるようなエマニュエルの声が背後から聞こえた。
それも実に遺憾だと言いたげな―――非礼にならない程度の非難を込めたうえに、寂しさを滲ませた声だった。
「そうよ、アラン。帰路ぐらいはこちらにおいでになられませ」
「いや、俺はいい。気兼ねせずにふたりで話していてくれ」
「お義兄様はかねてより、わたしをお避けになっておられる気がいたします」
エマニュエルが遠慮がちに口を挟んだ。
「こちらに参って以来、わたしひとりが姉様を占有しつづけているからでしょうか」

自分をよく律しながらもどこか臆しがちなその声は、
何も知らない者が聞いたら同情を寄せずにいられぬような、深い自責と遺憾の念に満ちていた。
アランが腹も煮え繰り返らんばかりの思いに耐えているとも知らず、
エレノールは妹をなだめるように語りかけた。
「まあエマニュエルったら、そんなことがあるはずないでしょう。我が君は子どもではないのよ。
 わたくしたちがふたり水入らずで過ごせるようにいつも心を砕いて下さっているから、それだけよ。
 でもアラン、あなたも」
そう言って今度は夫のほうに向き直った。
「ここのところ、少しお気を遣ってくださりすぎではないかと思いますの。
 お食事の席でもずっと黙っていらっしゃるのだもの。エマニュエルが誤解するのも無理はありませんわ。
 今日の帰り道ぐらいは三人で一緒に過ごしましょう」
「―――分かった」
姉妹ふたりは瓜二つの顔をともにほころばせ、細められた漆黒の瞳は全く同じ弧を描いた。
そして座席の両隅に座りなおすと、アランを中央に迎え入れた。

「ルイーズは今日、とてもお利口でしたわね。
 わたしたち三人に次々と冷たい指で触れられても、少しもいやがらなかったわ」
乳母に抱かれた姪が乗っている後続の馬車をちらりと見やりながら、エマニュエルが朗らかに口を開いた。
むろん同席する義兄への礼儀として彼の国語で話している。
「ええ、わたくしも驚いたわ。あの子がおとなしくしてくれるとはあまり期待していなかったものだから。
 これも聖リュシアン様のご威光のおかげかしら」
「あら姉様、あのかたはいかめしさではなく、ご慈愛の深さでもって称えられておいでなのに」
「そうね、『忘れ去られし者、見捨てられし者たちの守護者』ですものね」
「ご威光というよりむしろ、幼子への慈しみの霊気があの洞窟には満ちているのでしょう」
「きっとそうなのでしょうね。ルイーズがあんなに長い間おとなしかったことはめったにないもの。
 ねえアラン、あなたはお小さいときにこちらへいらっしゃることはなかったの?」

合槌を打つだけの夫を会話にいざなおうとしてか、エレノールがやんわり水を向けた。
アランは依然として気詰まりだったが、かといって妻に気を遣わせるのは彼の望むところではない。
不自然でない程度にぽつりぽつりと応答することにした。
「いや、生後一年やそこらで参拝の話は出たようだが、そのころこの山間部で土砂災害があったとかで、
 王室の巡礼行列を差し向けるどころの騒ぎではなくなったようだ」
「まあ、大変だったこと」
「だが都近郊の何箇所かの大寺院には、幼いころ母上にしばしば連れられていったおぼえがある。
 ずいぶん長い祈祷に参加させられたものだ」
「いずこの聖人のご加護にせよ、お義兄様がお健やかにご成育なされてよかったわ。
 姉様とわたしも小さいころからお祈りや参拝をともにしておりましたのよ」
「そうね。わたくしたちはいつも一緒だったわ。
 年子だからかしら、周りのみなからもふたりで一組と扱われておりましたし」
「都から遠く離れた地方に赴いたことはあまりなかったけれど、長くても短くても、巡礼の行き帰りは楽しかったわね、姉様」
「ええ、道中の風景は宮廷ではとても目にできないものばかりだったものね。
 田園も牧草地も町並みも、土地によって少しずつ表情が違っていたわ」

「姉様、おぼえていらっしゃる?
 馬車の上で風景を眺めながら、わたしたちが好きだった遊びのこと」
「ああ、そういえば―――目に入るものを次から次に題材にして、即興で詩を作ったりしたわね。押韻をすっかり無視しながら」
姉妹はそろってくすくすと笑った。
「ごっこ遊びも楽しかったわね。
 今から外国の宮中舞踏会に出かけるのだとか、落飾を控えた修道女志願者になりきったりだとか」
「それから、あてもの遊びもしたわ。お義兄様はお小さいときになさったことがあって?」
「あてもの?」

「告解式をまねたような遊びですわ。
 最初に題目を決めて、ひとりが三つずつそれにまつわる自分の秘め事を話して、そのうちのどれが本当かをあてるのです」
「いや、そういうのはないな」
「あれも楽しかったわね。
 ねえアラン、エマニュエルったらどんなことでも詳細に本当らしく話すから、
 わたくしはいつも言い当てるのに迷ったものですわ。
 あのころからとても賢い子だったの。女優の才能もあったようよ」
「大方、そなたのほうは常に見抜かれていたと見える」
「そのとおりですわ、姉様ったら嘘がつけないのだもの。
 ―――でも、ふたりとも大人になった今なら事情が違うかもしれませんわね。
 どうかしら姉様、もういちどあてものをしてみませんこと?今度はお義兄様を交えた三人で」

首筋に刃を添えられたような悪寒が、アランの皮膚をゆっくりと覆いはじめた。
義妹の顔は相変わらず、いとしい日々への懐古に染まりきったかのような無邪気な微笑を浮べている。
少なくともエレノールの目にはそう映っていることだろう。
「それもいいわね。アラン、やってみましょうよ。まだまだ離宮まで山道は長いのだもの」
「いや、俺は―――」
「決まりごとはごく簡単ですわ、お義兄様。
 三つのうちひとつだけ、本当のことが語られるのです」
アランは黙っていた。
義妹の声の末尾は冷気のように彼の耳朶にまとわりつき、余韻を漂わせながらやがて消えた。
馬車が一瞬、轍から逸れかけて大きく揺れた。




「題目はどうしようかしら」
「奇跡の地にて徳高き聖人のご加護をお祈りしたあとですから、
 己のこれまでのおこないへの悔悟も込めて、誠意と不実というのはどうかしら」
「いいわ。ではあなたから始めて、エマニュエル。
 今度はきっと見破るんだから」
「そうね、期待しておりますわ」
茶化すような声で応じつつ、エマニュエルはほんのしばらく思案するような顔になった。

「―――ではひとつめ。
 わたしは六歳の頃、アルフォンス兄様のお部屋でとある侯爵令嬢にあてた手紙を見つけましたの。
 読めたのは宛名ぐらいだったのだけれど、兄様はすっかり狼狽なさってしまって、
『黙っていれば菓子を好きなだけくれてやる』とおっしゃいました。
 わたしはむろん大喜びで、絶対に黙っていますと誓ったわ。
 その翌日に兄様はお約束どおり大籠一杯の焼き菓子をわたしの部屋まで届けてくださったのだけれど、
 たぶんご存じなかったのね、わたしの嫌いな干し葡萄が入っているものばかりで、
 ひどく腹が立ったからばあやにこっそり話してしまったの。

 ふたつめ。
 九歳のとき、わたしの更衣の世話を受け持っていた侍女のひとりが、家畜番から譲られたという仔猫を大切に育てておりました。
 もこもこした毛並みの手触りは絹糸そっくりで、瞳はエメラルドのようで、妖精のように可愛らしいの。
 わたしは羨ましくて羨ましくてついに一晩貸してもらったのだけど、
 うっかり逃がしてしまって、内緒で別の猫を返してしまいました。
 処女雪のように真っ白な猫だったから代わりはすぐに見つかったけれど、
 これが模様の入り組んだぶち猫だったりしたら大変な思いをするところでしたわ。
 絵筆と顔料に頼るほかなかったかもしれません」

「まあエマニュエル、ずいぶんと人道に悖る不実を重ねてきたこと」
エレノールはくすくす笑いながら言った。
妹姫は少しだけ口角を上げたが、何も答えずにつづけた。
「みっつめ。
 姉様の御輿入れを間近に控えたころ、わたしたち、宮廷の御用商人から一対の耳飾りを買い上げましたでしょう。
 『離れ離れになっても、いつまでも互いを身近に感じられるように』そう言って分かち合った白金の耳飾りですわ。
 けれど、いつまでも身に着けていると姉様に誓ったそれを、わたしはしばらくして人にゆずってしまいました。
 名前は挙げないけれど、姉様を崇拝していた貴公子たちのひとりですわ。
 一身を捧げた報われざる恋慕のせめてもの名残りにと、
 あまりひたむきに哀願するものだから、つい断りきれなくて差し上げてしまったの。
 ―――代償に、とても美しい栗毛の馬を贈っていただいたし」

エレノールは一瞬固まったような表情を見せた。
だがすぐに、冗談ぽく咎めるような姉らしい顔になる。
「まあエマニュエル、ひどいことをしてくれたわね」
「本当のことはひとつよ、姉様、お義兄様。さあ当ててごらんになって」
(まさか三番目ということはあるまい)
そうは思いつつも、万が一これが真であったならエレノールの胸中はいかばかりか、とアランは息が詰まるほどの苦しさを感じた。
妻はくだんの耳飾りを片時も離さず身に帯びていることを、彼はよく知っている。

エマニュエルの身に着けているものに関しては、アランは自信がなかった。
あの晩以来毎夜のように彼女の裸身を目にし、何ひとつ隔てるものなく肌を重ねているにもかかわらず、
その肉体の存在感が―――正しくはそのうちにほとばしる悪意の激越さが―――全てを圧倒するがゆえに、
最後に肌に残された装飾品の詳細などに気を配る理由もないのだった。
また盛装時を除けば、エマニュエルは姉と同じく、長い髪を緩やかに下ろしたその上に被りものを被るのが常なので、
朝夕となく共に過ごすエレノールでさえ、妹の耳元を観察する機会など
就寝前に髪を掻きあげるのを目にしたときぐらいであろうと思われた。

「ひとつめではないのか」
笑い話で流せればいいと念じながら、アランは妻に先んじて口を挟んだ。
「昔俺も上の妹に―――ナディーヌというのだが、同じようなことをやらかされた覚えがある」
「あらお義兄様、本当に?」
「アランったら、そのようなお話は伺ったことがありませんわ」
エレノールの声音が優しい姉のそれから嫉妬深い妻のそれに突如変容したことに、アランはむしろ安堵をおぼえた。
とにかく彼女の注意をこの遊戯から、ひいては妹から引き離すことさえできればよかった。

「そうだったろうか?余計なことを口にした。早く忘れるがいい」
「お逃げにならないで。お相手の詳細をお聞かせ下さいませ」
「ずいぶん昔のことだ。髪の色さえ忘れてしまった」
「あなたというかたは、そんなにたやすくお心変わりばかりして」
「移り気な求愛は若き日の通過儀礼のようなものだ。大したことではあるまい」
「まあ、何ということを―――」
「姉様、お義兄様とおふたりきりの場ではないのですよ」
たしなめるような妹の声に、エレノールははっとして顔をかすかに赤らめた。
片手でそっと口元を覆いながら、釈明を試みようとする。
「そうよね、ごめんなさい。つい見苦しい真似をしてしまったわ。
 ええと、あなたの告白を当てるのよね。
 ―――わたくしもひとつめにするわ。その実例がここにいるのだもの」
「過去に流せばいいものを」
「では申し上げます。正解は」
妻からの厳しい視線も一瞬忘れ、アランは小さく息を呑んだ。

「そのとおり、ひとつめよ。あの後まもなくアルフォンス兄様にことの次第が伝わって、ひどく叱られてしまったわ。
 『おまえにはしばらく甘味を与えぬよう侍女たちに申し渡しておく』とまでおっしゃって、
 そのとおり厳命を行き渡らせておしまいになったの」
「思いだしたわ、あなたが六つだからわたくしが七つのときね。
 たしかに一時期、ひとりでアルフォンス兄様のお側に伺うと、
 兄様は不思議とそっけなくいらっしゃって遊んでも下さらなかったわ。
 あれはあなたとわたくしを見間違えておいでだったのね」
「あら、そんなことがあったの?姉様には申し訳ないことをいたしましたわ」
ふふ、と笑いながらエマニュエルは詫びた。
そこにはたしかに、昔を偲ぶときの肉親同士だけに見いだされる親愛の情があった。

「では次は、姉様がどうぞ」
「ええと、そうね……」
エレノールは眉を寄せながら膝の上に視線をさまよわせ、長いこと沈黙していた。
緊張が解けてほっとしたばかりのアランには、これはいささか考え込みすぎではないかとも思われたが、
よくよく考えてみれば矛盾のない嘘を即興でいくつも思いつくには相当な機転と俊敏さが必要である。
ゆえに妻の長きにわたる呻吟は決して魯鈍と言われるべきではない。

むしろ尋常でないのは、とアランは思った。
尋常でないのはあきらかにエマニュエルのほうだ。
あの女はほとんど逡巡もせず三つの告白を述べ立て、いずれもそれなりに筋の通った話だった。
彼女の明敏さをもってすればこれくらいの思いつきは文字通り児戯にひとしいのか、
あるいは―――このあてもの遊びのための話をわざわざ前もって考えていたのか。
仮にそうであったなら、何かの事態を誘発したいという意図がそこには働いているのか。
アランが義妹の目の奥をそれとなく探ろうとしたとき、ふいにエレノールが顔を上げた。
ずいぶんと晴れやかな表情を浮べていることから察するに、まずまずの着想を得たに違いない。

「お待たせてしまってごめんなさい。では告白するわね。
 ひとつめは八つのときのこと。
 お母様がかなり重い風邪をお患いになって何日も寝込まれたとき、エマニュエル、あなたと一緒に
『お母様がよくなられるまで大好きな蜂蜜を絶って毎朝毎晩お祈りしましょう』と誓い合ったわよね?
 たしか斎戒は十日間ほど続いたと思うのだけど、
 あのとき一度だけ、我慢できずに厨房に忍び込んで蜂蜜をひとさじ食してしまったことがあるの。
 でも結局、あなたと一緒に禁欲を守り抜いたような顔をして、お父様お母様からお誉めのことばをいただいてしまった。

 ふたつめはそれのおよそ数日後で、わたくしも風邪を引いて寝込んでしまったの。
 あなたも覚えているわね、エマニュエル。毎日枕元でご本を読んでくれたものね。
 本当は、熱は最初の二日ぐらいで引いていたのだけれど、お医者様に頼み込んで少しだけ『治療期間』を延ばしていただいたの。
 わざわざ一日三回の回診までつけてね」
「あら、あのときはたしか一週間ほど臥せっていらしたと思うのだけれど、退屈ではありませんでしたの?」
「少しもよ。みなが心配して代わる代わる寝室を訪ねてくれるし、
 我慢していた蜂蜜も好きなだけ食べさせてもらえるし、お母様を独り占めできるし」
「まあ、姉様もひとのことは言えないわね」
エマニュエルは呆れたように姉を難じたが、その声音は軽やかに愉快そうだった。
エレノールも少し笑って先をつづける。

「ええ、でも仮病はあれきりなのよ。
 みっつめは十歳ごろのこと。
 初めて読んだ騎士物語の女主人公に影響されたのかしら、あのころは淡い色の髪にとても憧れていて、
 世の殿方もみな金髪の婦人を真っ先に崇敬するのだと思っていたわ。
 外見を気にしすぎるのは虚栄の罪につながることだと聴罪司祭様に戒められていたから、決して口には出せなかったけれど」
「そういえば、心あたりがあるわ。
 そのころ姉様はなんだかいつも、鏡を見てはため息ばかりついていらっしゃったもの。
 北国に旅行したら髪の色が淡くなるのかしらと呟いたり」

「もう、よくおぼえているのね。
 そうよ、もしあのころ、世の中には脱色という方法があるのだと知っていたら、
 侍女たちに命じてどんないかがわしい薬品でも試させたことでしょう。
 幸いなことに当時のわたくしは、自分にできるのはお祈りすることだけと思っていたから髪を傷めずに済んだけれど。
 本題はここから。
 ちょうどそのころ、わたくしはようやくガルィア語の読み書きが板についてきたから、
 お母様に言われてアランに手紙を書くことになったの。いいなずけとしてね。
 まず時候の挨拶、ご機嫌伺い、こちらの近況等を型どおり綴っていったのだけれど、
 自己紹介をする段になったとき、―――つい『わたしの髪は少し暗めの金色です』と書いてしまったの」
「無茶なことを」
アランはつい口を挟んだ。
ことさら興がるような口調を装いはしたものの、
それまで囚われつづけていた得体の知れない緊張感から、ふと逃れ出たような気分になる。
そして全く唐突に、この女を失ったら俺の人生から色彩らしい色彩は永遠に失われる、
これを不幸にすることだけはどうあってもできない、と強く思った。

「わたくしは嘘をついたつもりはなかったのよ。それはいずれ本当になると信じていたの。
 心を込めて朝夕お祈りをつづければ―――実利的なことをお祈りしてはいけないと戒められてはいたけれど―――
 きっと神様が聞き入れてくださると」
「それで結局、どうなったのだ。そなたとの文通のなかで、そのような記述を読んだ覚えはないが」
「ええ。阻止されてしまったの」
「阻止?」
「語学の先生に。手紙を書き終えたあとで添削のために目を通していただいたら、
『姫様、これに許可をお出しすることはできません』と遺憾な顔でおっしゃるの。
『文法上の間違いはほとんどありませんが、ある一点でアラン殿下への誠意を欠いていらっしゃる。
 それだけならまだよいのですが、姫様、残念なことに、このお手紙はご肖像画とともにガルィア宮廷に送られるのです』
 みっつめのお話はこれでおしまい。
 では、あててごらんになって」

「最後のでしょう」「最後のだろう」
ふたりの答えが発せられたのはこれもほぼ同時だった。
エレノールは少しがっかりしたように目を瞬いたが、潔く首を縦に振った。
「そのとおりよ。ふたりとも分かってしまうなんて」
「それだけ詳細に語れば仕方あるまい」
「それに姉様、ひとつめのお話だけれど、お母様が罹られたのは夏風邪で、七月の終わりごろだったでしょう。
 真夏の時期は、蜂蜜は厨房の一角ではなく地下貯蔵庫に置かれたはずよ」
「まあ、よくおぼえているわね。やっぱり嘘をつくときは、細部まできちんと気を配らなければだめなのね。
 ではアラン、次はあなたですわ」
「俺か。俺は、―――」




「お義兄様はまだ、不慣れでいらっしゃるかしら」
エマニュエルがふと顔を寄せ、彼の耳元で囁いた。
「姉様、お義兄様はこの遊びが初めてでいらっしゃるから、よろしければもう一巡わたしたちふたりで進めましょう」
「それもそうね。アラン、では一回飛ばして―――」
「いや、いい」
アランはほとんど反射的に口走った。
このたわいない遊びに動員されようと疎外されようと、そのこと自体には拘泥もなかったが、
彼を思いやるように提案されたエマニュエルのことばのなかに、その温雅な微笑の向こうに、
何か抗すべきものがふと感じられたのだった。
それが何なのか、果たして実体を伴うものなのかどうかも分からない。
だが膝に置かれた彼の掌には、少しずつだがふたたび汗がにじみ始めていた。

(―――嫌な気分だ)
唇を噛みしめてから、彼はゆっくりとことばを紡いだ。
一方で考えながら一方で話しつづける。
それはこのたぐいの遊びでは誉められたやりかたではなかったが、時を費やすことさえできれば、彼には勝ち負けなどどうでもよかった。
(もうまもなくすれば、湖畔に離宮の正門が見えてくる)
ひとつめ。ふたつめ。みっつめ。最後の問いかけと答え。
極力微に入り細を穿ちて語ったつもりだったが、
離宮の正門をくぐるどころか、山道の終点を過ぎたばかりのころに、彼の番は終焉を迎えてしまった。
たった今語り終えたばかりなのに、自分で何を語ったのかもつまびらかには思い起こせない。
正体の分からない仄暗い懸念が、それほど心の奥深く根を下ろしているということなのか。

「ではまた、わたしの番ね」
エマニュエルの落ち着いた声で彼の沈思は破られた。
エレノールは合図の代わりに微笑む。
外の風景に目をやりながらアランは額の汗を拭った。
背中まで汗ばんでいるように感じられるのは、先ほどまで長々と倦まず休まず話を主導していたからだろう。
そうとしか考えられない。それ以外のことは考えたくなかった。

「食べものの話がつづいたから、少し艶やかな話題にいたしましょうか。
 わたしが十三、姉様が十四のころだったかしら。
 アルフォンス兄様の小姓のひとりにロベールという少年がおりました。
 おとなしい子だからその存在さえほとんど気づいていらっしゃらなかったと思うけれど、あの子は姉様のことをとても慕っておりましたわ。
 殉教を覚悟した信仰と呼んでいいくらいに。
 ある夏の夕べ、わたしがひとりで宮中の百合園を歩いていたとき、ロベールが木陰から近づいて参りましたの。
 そして全く出し抜けに、姉様への恋心を告げたのです。
 わたしが妹のほうだと弁明する間もないくらい彼は唐突に話し出したものだから、
 こちらも結局、最後までエレノール姉様だという顔をして耳を傾けてしまいました。
 あの子も初めから想いの丈が報われることなど期待していなかったのでしょう、
 告白だけ告白すると満足したように去って行ってしまったから、
 わたしも結局返事さえせずに、自分の胸のうちにだけしまいこみましたの」
「あらエマニュエル、それは―――」
言いかけたものの、エレノールはまた口をつぐんだ。
しかし何か思い当たることがあるかのように、その唇の端にははっきりと笑みが浮かんでいる。

「いいわ、つづけて」
「あら、姉様にだけ有利な告白をしてしまったのかしら。
 それでは公平を欠きますから、ふたつめはお義兄様にお心当たりのあることにいたしましょう。
 これはつい最近のことですわ。
 こちらの離宮にお招きいただいてからのことです」
「まあ、本当に最近ね」
「その晩、もうだいぶ更けてしまったころ、わたしはふと姉様の隣で目が覚めてしまいました。
 ずいぶん経ってもなかなか寝付けないものだから、
 なんとなくお義兄様の書斎にお邪魔することにしたのです。
 今思い返せば全く子どものようですけれど、
 淡い灯火に頼るほかないこの夜陰でも、わたしと姉様を見分けてくださるだろうかとふと思いついたのですわ。
 案の定、お義兄様はお気づきになりませんでした。
 わたしは迷ったけれど、結局自分から真実を告げることはいたしませんでしたの」
「まあ、―――それで、どうしたの?」
「お義兄様はわたしを妻として遇し、情熱的に愛してくださいましたわ。姉様に夜毎そうなさるように」

まばたきのような静けさが降りた。
車上の空気が冬の湖面のように凍結するのを、アランはたしかに肌で感じた。
だが一瞬後、彼の目に映ったのはエレノールの翳りなき微笑だった。
もうこの子ったら、とどこか姉らしく困ったような顔でもある。
「いくら公正を期すためだといっても、そのような形でアランを告白に登場させるのはおやめなさい。
 あなたたちは義理とはいえ今では兄妹なのだから。
 それにマヌエラ、―――いえエマニュエル、ひとつめが本当だということをわたくし知っていてよ。
 実はその日の夕方、あなたを探してわたくしも百合園を歩き回っていたの。
 あなたたちふたりの姿が遠目にも分かったわ。
 ロベルトは、―――ロベールはすぐに立ち去ってしまったから、話の中身までは聞けなかったけれど。
 だからこれでは、公正を期したことになっていないわ」
「まだ、すべてではありませんわ」
エマニュエルは淡々とつづけた。

「みっつめ。これは簡単だけれど、誠意と不実という題目に最もよくかなった告白かと存じます」
アランは外の景色から車内に目を戻した。
その先にある漆黒の双眸は、何も語ることなく彼を迎えた。
「わたしは今、この遊びの決まりごとを守っておりませんの」




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