朝靄は白亜の壁のように立ち込め、馬車がそのなかを掻き分けるように進もうと、いくらも散じる気配はなかった。
簡素な御者台の一隅に座を占め、抱えの御者が手綱を振るう音を聞きながら、
山間の早朝とはこういうものか、とアランはひどく清新な思いに打たれていた。
後方の絹張りの座席には妻と妻の妹が並んで歓談している。
今日の主役であるルイーズはといえば乳母とともに後続の馬車に乗せられ、
耳を澄ませている限りではむずかりもせずいい子にしているようであった。

ごく短いあいだながら、いまは旅の途上である。
本来ならアランこそ車上での談話の主人役となるべきであったが、彼はむろん、後ろへ赴いて妻たちに加わるつもりはなかった。
左右の緑がふいにまばらになった。山道は岩がちな地帯にさしかかったようである。
馬車が前触れもなく大きく揺れた。ほぼ同時に、息を呑みこむような女たちの声なき悲鳴が空気をかすかに震わせる。
アランは慌てて振り返ったものの、むろん左右の頑強な手すりを越えて落ちた影など見当たらない。
ただ一対の鏡像のような姉妹が、肩を寄せ合いながら笑いさざめいているのが見えただけだった。
エマニュエルの両手は、エレノールを車上につなぎ止めるかのようにその細い胴体にしっかりと掛けられている。
こうしてふたりはしゃいでいるのを目にすると、一児の母と人妻どころかまだろくに宮中から出たこともないほんの少女のようだ、
とアランは一瞬不思議な気持ちに襲われたが、すぐにまた、形容しがたい陰鬱さに包まれた。

(―――あの女は夜毎あのような振る舞いに及びながら、なぜ今こうして、エレノールの身を案じることさえできるのか)
しかも姉の身体を支えようとしたのは作為的なそぶりではなく、明らかに反射的に出た挙動のように見えた。
(女は分からぬ)
微笑ましいというよりむしろ、割り切れない思いを新たにしながら、
アランは努めて周囲の景色に注意を向けようとした。
ひらけた山間の湖畔に建造された離宮とは違い、薄暗い山中に分け入っていくこの道はさほど景勝に恵まれているとはいえない。
けれど、ようやく彼方の稜線を越え此方の朝靄を貫くようにして姿を見せ始めた黎明の荘厳さは、
やや眠気に襲われがちな王太子夫妻一行を刮目せしむるには十分だった。

御用馬車はある三叉路で脇に入り、今までにもまして岩がちな道を進んでゆく。
道幅が急速に狭まったため、ここまでその左右に付き従ってきた騎馬兵たちは
やむを得ず御用馬車の前後に回り込み、新たな護衛配置に就いた。
山越えをする本道ではないにもかかわらず、一応の馬車道と歩道が並んで敷かれているのは、
教会の意向を奉じたガルィア政府により正式な巡礼路として認められ、国費による舗装の対象となったがゆえである。
国内外の巡礼者の大半は徒歩ではるばるレマナを訪れることに加え、
老人や病人には近隣の修道院にて乗合馬車が提供され、
また富貴の者たちの多くは自家用の馬か馬車で乗り付けるのが常であるがゆえに、
巡礼路の整備維持は定期的に欠かすべからざる公共事業だった。

この少し先は荒々しい岩肌に閉ざされて行き止まりになっているが、
その隅には大人がようやく入れるほどの小さな洞窟が口を開け、
件の伝承の舞台につづく細長い道を万人に開放している。
アランたちが本日あえてこのような時刻に参拝に訪れたのは、
「王太子夫妻ご参拝」のお触れによって、
遠路はるばる聖地を踏みにきた信心深い平民たちを無碍に追いたてるような事態を避けるためだった。
実際、薄まりつつある朝靄のなかで見晴るかすかぎり、馬車道の両脇に広がる歩道には人影らしい人影もほとんどなかった。

「こちらで下車していただくことになります」
王太子夫妻の接待と道先案内を司るため、ここからほど近い山間の修道院
―――聖リュシアンが後半生を送ったまさにその修道院より遣わされてきた副院長が穏やかな声で告げた。
両脇に山葡萄の並木が始まるこの地点から洞窟までは、すでに前方に岩壁が見えているとはいえまだいくらか道のりがある。
しかし聖人への表敬作法は世俗の君侯とて受け入れるのが当然であり、
アランたちは老僧のことばどおり最後は徒歩で聖域の入り口へと辿り着いた。




洞窟に一歩踏み入ると、外界が徐々に朝の陽光に包まれつつあるだけに、どこか別世界のように冷然と感じられた。
番僧の手により最奥部には常に火が灯されているらしく、
小さくゆらめく明かりが入り口付近からでもすでに窺われ、ほのかに足元を照らしてくれる。
洞窟自体がそれほど深いつくりではなく通気もよいため、訪問者が煙で燻されるということはないようだ。
エレノールは乳母の腕に抱かれたルイーズの小さな顔を覗きこみながら、
この子にはもう少し厚着をさせてあげればよかったかしら、と案ずるかのようにそっと額に接吻すると、
ぬめりがちな足元に気をつけながらアランとともに副院長の先導に従った。
その後ろにはエマニュエルと乳母と護衛たちが、さらに恭しく間をおいて従僕たちがつづいてゆく。

広く語り伝えられているとおり、聖なる鉱水は洞窟の突き当たり手前の、
すなわち「暗き柩」にさしかかる間際の粗い岩壁から突如として湧きいでていた。
大人の胸ほどの高さにある穿孔から糸紡ぎのように細々と流れ落ちる清水は、
同じく膝下ほどの高さに突き出ている水盤めいた形状の岩に受けとめられたのち、再び岩壁の隙間に染み込んでゆく。
静寂の底に奏でられる水音は聖リュシアンそのひとのように穏やかで調和に満ち、
聖域にて粛然と襟を正していた一行の心さえも少しずつ解きほぐしてくれるかのようだった。

湧き水の周囲には囲いらしい囲いもなく、巡礼者たちが蝋燭や貴金属などを奉納するための祭壇もなかった。
いくら清貧を以て称えられる聖人ゆかりの地とはいえ、あまりに質朴なしつらえにアランはやや呆気ない思いにとらわれたが、
エレノールはあくまで厳粛な面持ちで進みいで、老僧に促されるまま地に跪いて祈りを捧げてから、流れ落ちる鉱水に指先を浸した。
それを合図にルイーズを抱いた乳母が歩み寄り、幼子の頭部を恭しく王太子妃のほうに向けると、
エレノールは額、首、右肩、左肩の順で娘の身体に触れてゆく。
最後にもう一度指先を濡らして額に触れ、以て儀式の締めくくりとした。
この一連の所作は近親者に祝福を授ける作法としてはガルィアの一般的なそれとは若干異なっており、
ゆえに王太子妃はかつて王室付き司祭より厳しく咎められたこともあるのだが、
アランは信仰の本質に関わる問題ではないとして父王の同意も得、妻に矯正を強いることはなかった。
実際、ガルィアの廷臣や民の不興を買うほど頑なにスパニヤの流儀を通そうというのでない限り、
エレノールが母国にいたときと変わらず心安らかに過ごせるよう極力取り計らってやりたいものだ、
というのが彼の偽らざる思いであった。

エレノールが一歩退くのと入れ替わるようにしてアランは進みいで、
細かい順序や仕草には違いがあるものの、ほぼ同様の流れにのっとり鉱水の滴りによって娘に祝福を与えた。
少量だとはいえ冷え切った水を何度も降り注がれるのであるから
ルイーズはよほど儀式の途中で泣き出すのではないかと思われたが、
幼子は意外にも、不思議そうな面もちで両親の仕草をじっと見守っているだけだった。
肩まで伸びた黒髪は母親と同じ艶やかさを示しているものの、透き通るような青緑色の双眸はアランの母后譲りであり、
そのまなざしに触れるたび、アランは愛らしく思うというより心慰められる心地がしたものだった。
だが今は、妻への背信と周囲への欺瞞に首まで浸っていながら平然と聖域を訪れた我が身の不遜を、
この無垢なまなざしは何もかも見通しているのではないかという虞れが何より先に彼を襲った。
生まれて間もない幼子ほど罪から遠く神に近い者はいない。
アランは娘と目を合わせるのを最後まで避けた。




「わたしにもお許しいただけるかしら」
義妹の控えめな問いかけに、彼ははっとして顔を上げた。
彼女から話しかけられるのは今日初めてのことである。
だが一息間を置いて聞き返してみればそこに何も含意はなく、
エマニュエルは姉夫婦が儀式を終えたのを機に、自分も姪に鉱水の祝福を授けてよいかと許可を請うているだけだった。
「貴意のままに」
アランは短く答えてそのまま義妹から目をそらしたが、エレノールの返事は少しだけ間が開いた。
違和感を覚えてアランが見やると、先ほどまで厳かに引き締められていた妻の顔は、かすかだが戸惑いを浮かべているようだった。

「―――ええ、もちろん。うれしいわ、マヌエラ。
 ありがとう、ルイサのために祈ってくれて」
そう言うとエレノールはいつもの柔らかい微笑を浮かべたが、その実彼女の動揺がかなり深いものであることは、
今はアランを交えた三人で話をしているにもかかわらず、唐突に母国語に戻ってしまったという異状からも明らかだった。
母后がスパニヤ王家の出身であるためアランもその国語に関してはそれなりに教育を施されており、
書面の読み書きはもちろん、会話を主導できるとは言わないまでも口語もある程度は理解できる。
それを知っているエレノールが夫から何かを隠すために母国語に切り替えようなどとは思いつかぬはずだし、
何より今の彼女の返答にはアランに聞かれて困る点など何もなかったはずである。
つまるところ、妹のことばにあまりに気をとられたがため、
本来この場で口にすべき夫の母国語ではなくエレノール自身にとって最も自然な言語が口をついて出た、ということなのだ。

(だが、なぜだ)
エマニュエルの申し出には何も奇妙なところはなかった。
近親者の幸福を祈ること、とりわけ年若い叔母が愛くるしい姪のために祝福を授けることなど
身分の貴賤を問わずどんな家庭でも自然におこなわれ、受け入れられていることである。
エマニュエルは一歩前に進み出で、姉夫婦と同様に冷たい鉱水に指先を浸した。
(まさか)
アランはある危惧に駆られて義妹の動作を凝視した。

わたしは姉様を憎んでおります。
アランの牡を貪るように愛撫しながら、彼女は何度となく語りかけてきた。
そしてそれが真情だということはもはや疑いようがなかった。
ならば、エマニュエルの憎しみがルイーズの上にまで及んでも決しておかしくはないはずだ。
エレノールの幸福の最大の源、彼女の生活を日々満ち足らしめているその小さな命の上に。
エレノールはよもや、最愛の妹が自分に苛烈な憎悪を向けているなどとは微塵も気づいていまい。
だが母親としての直感で、妹がルイーズに対し何らかの害意を抱いているのだと、たった今悟ったのではないか。
アランは再び妻を見やった。彼女もやはりどこか緊張しながら妹のなすところを眺めていた。

だが予期に反して、それはアランたちと同様、つつがなく終わった。
エマニュエルは悪霊の力を呼びだすとされる禁忌の仕草をしたり呪詛を吐いたりするわけでもなく、
ましてルイーズの首に手をかけるでもなく、非の打ちどころのない粛々とした挙措で以て祈りに入った。
彼女が優雅に踏襲してゆく作法のひとつひとつはエレノールやアランが執りおこなったものとほぼ同様であったが、
全体としてはスパニヤのものでもガルィアのものでもない独特の順序―――恐らくはヴァネシアの流儀に則っているものと考えられた。
エマニュエルはルイーズに祝福を与えるとまた一歩後ろに下がった。
しかしそのまなざしが姪の顔から逸らされることはなく、
まさにこの鉱水のようにひそやかに注がれつづけていることがアランにも分かった。




「マヌエラ様は、すっかりあちらのお作法に染まってしまわれたのですね」
ルイーズを抱いた乳母がスパニヤ語でぽつりと呟いたのは、
幼子の心身に聖人の加護を乞う儀式が無事に終わり、
一同が再び副院長の先導のもと、洞窟の口に向かって歩き始めたときのことだった。
「―――そうね」
つい習慣が出てしまったわ、とエマニュエルは穏やかに答えた。
彼女に語りかけた人の好い中年の乳母はエレノールが輿入れの際に生国より伴ってきた随員のひとりであり、
王女姉妹自身の乳母を務めたことはないとはいえ、恐らく幼少時からふたりに親しみ身辺の世話をしてきた身なのであろう。
齢を経れば経るほど、ものごとの変容に感傷を抱きやすくなるのは人として当然である。
アランはとくに気に留めることもなく、乳母の呟きを聞き流した。
ふと傍らのエレノールが振り向き、妹姫に語りかけるのが聞こえた。

「何だか寂しいわ」
「姉様ったら、子どものようなことをおっしゃる」
「だって、あなたがすっかりあちらの人になってしまったのだと思うと」
「嫁ぎ先の家風なり国風なりに合わせて自らを変えていくのは、わたしたちのような者の務めではありませんか」
「でも……、ねえマヌエラ、わたくしたちがスパニヤで共に培った習わしも、どうか忘れないでいて。
 そうでなければ、きっとお父様お母様も寂しくお思いに」

「レオノール妃殿下」
ごく控えめながら、かすかに刺を含んだ若々しい声が王族たちの背後から上がった。
「誠に畏れながら、そのようなおことばは妹君の御成婚このかたの御辛労を軽んずるものではないでしょうか。
 マヌエラ様におかれましては、ヴァネシアの国俗を御自らの血肉として習得せんがために大変な御精励を重ねてこられました」

あなた様は単に、恵まれておられるにすぎません。
抑制の効いた語調の裏に、アランは暗黙の非難を聞いた気がした。
しかしその情意の所在を探る前に、エマニュエルの無感動な声が彼の思考を分断した。
「おやめなさい」
女主人の短い命令によって、発言の主はまた自らの隊列に戻ったようだった。

アランが振り返って見やると、
それはエマニュエルが今回の参拝に際して自らの従者たちのなかからただひとり同行させた青年だった。
一瞬こうべを巡らしただけなので、つかんだのはあくまで雰囲気に過ぎないが、
全体によく日焼けしており、体つきは日ごろの鍛錬の成果をうかがわせながらもやや細身の感があった。
面立ちのほうもいまだ少年の趣を残しているとはいえ、
貴人の血が感じられる眉目はまずまず整っている。
ただその深い緑色のまなざしだけは、初々しい顔の輪郭と控えめな物腰に不釣り合いなほど、くっきりと尖鋭な印象を見る者に与えた。
あるいは今だけに限った険しさなのかもしれないが、
エレノールの発言はそれほど深く彼の憤慨を揺り動かしたということなのか。




先ほどのスパニヤ語の会話からも明らかなように、
彼はヴァネシア出身ではなく第三王女の輿入れに従って祖国を後にした随員のひとり、すなわちエマニュエルの直臣なのだろう。
王族の随員といっても下働きから廷臣までさまざまだが、彼の挙措やことばづかいはごく自然に名家の素養を感じさせる。
だが父兄の威光を背負い将来の栄達を約束されている貴公子と見るにはその身なりはあまりに慎ましく、
今日の参拝においては護衛たちの列に身を置いているという事実からしても、彼の序列は窺い知ることができた。
恐らくは中流貴族の庶子か、とアランは大まかな見当をつけた。

妻の母国はその民びとの敬虔さと聖職者の強権ぶりで名高いとはいえ、
王侯貴族が愛人を抱えるのはガルィア等他国と同様に当然のこととされており、
またその結果として生まれた庶子は、神の祝福によらざる生として疎まれる傾向が強いのも他国と同様であった。
彼らは正妻の子たちと対等な相続権を主張することはおろか、父の姓の継承さえ許されないのがふつうだが、
身分相応の経済力を誇る大貴族の家ならば、
嫡子たちとは別に「祝福されざる」子どもにも何がしかの領地や財産を分け与え、新興貴門としての地位を保証する例もしばしば見られた。

だが大抵の家庭では庶子に対しそこまで寛容な待遇がとられることはなく、
そもそも父親である家長自身が家産の分散や奥方の不興を被る事態を嫌って庶子を厄介払いしたがることが多い。
その方策のひとつとして王子の親征や王女の出嫁の際に「祝福されざる」我が子の身柄を差し出し、
王族の側仕えという誉れとともに辺境や異国に追いやり終生をそこで送らせる、というのはよくある話だった。
エレノールが母国から伴ってきた侍女たちのなかにも、
明らかに名流の育ちでありながら貴族身分を示す辞が姓に冠せられていない者が何人かおり、
彼女たちはあえて自らの生家について語ることはない。
この若い男の出自もおそらくはそんなところであろう、とアランは見当をつけた。

生まれはさておきこの凛として瑞々しい存在感からすれば、
並み居る随員のなかで公妃エマニュエルの目に留まり、
空虚な結婚生活を補う愛人のひとりとして彼女との距離を縮めるに至ったのだとしてもおかしくはない。
そして年若くして寵臣の地位を得た者であればなおさら、自らの忠心を公妃に知らしめんがため、
また公妃によって保証された自らの重みを周囲に誇示せんがため、
あえて人前で声高に主人を擁護してみせたとしてもさほど奇妙なことではなかった。

だが、とアランは訝しんだ。
発言に及ぶ際の慎ましい物腰、そしてその芯にあるものを反芻する限り、
この男の行動規範は見た目ほど若くはなく、つまり自己顕示欲に動かされて主張を行うたちの人間ではない。
さらにいえば、内面のある部分はそのように成熟を経ながらも、
精神のより原初的な部分および壮健な肉体は、エマニュエルどころかそもそも女そのものを知らないように見受けられる。
別に何かしら根拠があるわけではないが、エレノールひとりを妻と定めるまでさまざまな女を渉猟してきたアランは、
単に女たちの類型だけでなく、女の生々しさから遠いところにいる男、女色を知りそめて耽溺する男、
ひいては惰性で色事をつづける男たち等の識別にも慣れているつもりだった。

(いわゆる、無私の忠臣か)
すでに斜陽を迎えつつある騎士道の名残というべきか、
肉欲に汚されない愛と称して美しい貴婦人に一定の距離を保ちつつ賛美を捧げる者たちが世の中に少なからずいること、
とりわけスパニヤのように禁欲と清名が尊ばれる国ではそのような風潮がガルィアより盛んであることは、アランもかねてより了解している。
若干懐疑的ではありつつも、彼は青年の立場をなんとなく理解したように思った。
けれど同時に、この男はエマニュエルのような女には青すぎるのではないか、という思いもよぎった。

しかしながら、公妃の寵臣であろうとなかろうと、
言上の許可も得ずに他国の王太子妃に向かって発せられた青年の諌請はたしかに僭越というべきであり、
エマニュエルが制止したのも当然のことではあった。
だがエレノール自身は怒るでもなく、むしろ臣下に指摘されて初めて気づいた自らの短慮を悄然と悔やむような、
少女のようにいたたまれなさそうな表情を浮かべていた。

「まあ、ごめんなさい、マヌエラ……わたくしそんなつもりはなかったの。
 ただあなたが、遠い人になってしまったと思うのが寂しくて」
「いいのよ、姉様。分かっておりますわ」
微笑を含んだ穏やかな声でエマニュエルは答えた。
「姉様はお変わりでないことが、わたしはうれしいわ」
普段は感情を抑えがちな妹姫からの愛情の言明に、エレノールの顔がたちまち喜色に染まったのがアランにも分かった。
だが彼は妻の思いとは裏腹に、背筋のこわばるほどに虚ろな冷ややかさを義妹の声のうちに感じてもいた。




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