「どうして、離れてしまわれたの?」
書斎に横たわる静謐を最初に破ったのはその声だった。
アランは顔を向けず、何も答えなかった。
ほのかな微笑とともに紅唇から漏らされた吐息がすぐそばで聞こえたような気がした。
彼の未だ収まらぬ呼吸の間を縫うようにして、ひそやかなことばは続けられた。
それはもはや妻どころか義妹の声でさえなく、己の魂を獲物と定めた地中に潜む死霊からの呼びかけのようであった。
「何をためらわれたのです」
「ためらってなどいない。普段、―――普段からずっとこうしているではないか。
 そうだろう。そなたを一年中身重にしたくはない」
ほとんど自分に言い聞かせるようにして、アランはゆっくりと答えた。
そうだ、これが真実なのだ、とひとり胸中に繰り返しながら。

自分で自分の言を真実だと思わなければ、この女に信じ込ませられるはずがない。
そうだ、こちらが彼女の思惑に攪乱されるのではなく、こちらの思惑に彼女を従わせなければならない。
エマニュエルにどんな動機があってこんな所行に及んだのかは分からないが、
エレノールへの罪悪感を―――少なくとも後ろめたさを感じているのは彼女とて同じはずであり、
ならばこちらが「最後まで気づかなかった」ことにしておくのが双方にとって最善の処置なのだ。
それしかない、とアランは思った。
自らの服装を正し帯を締めなおしながら、彼は極力自然に、
情事のあとで夫が妻にかけることばとしては冷たすぎず熱すぎもしない程度の温度を込めて、できるだけ淡々と話しかけた。

「早く寝室に戻ったほうがいい。妹御がふいに目を覚まして、そなたの不在を不審に思っているかもしれん」
「『今夜は』冷たくていらっしゃるのね。
 ことが済んだら抱擁さえくださらないのですか?いつものように、慈しんでくださいませ」
「―――悪かった。そなたが気を急いているかと思ったのだ」
ますます膨れ上がる戸惑いと不可解さを押し隠しながら、アランは再び『妻』に近づき、未だ火照り鎮まらぬ細い肩を抱き寄せた。
彼女の願いに背かぬよう、すなわち彼女に疑念を抱かせぬよう「いつものように」額から首筋、肩へと接吻を降らせ、
エレノールとの親密な後戯を再現しながら、
なぜこの娘はわれわれの房事についてかくも審らかに知悉しているのだろう、とアランはふと栗然とするものを感じた。
いくら仲の良い姉妹だとはいえ、果たしてあの謹厳なエレノールが多少なりとも淫靡さを孕んだ話を妹に打ち明けるだろうか。
あるいは単なる推測に基づいて俺をけしかけているだけかもしれない。むしろそのほうが自然だった。
だが、そもそもこの娘は、この作為を通じて俺に何を望んでいるのか。




「わたくしの名を呼んで」
首筋への接吻を受けながら、エマニュエルが囁いた。
「あなたの声を聴きたいの。いつものように呼んで」
「妙なことを」
アランはできるだけ自然に微笑を浮かべようとした。
「これだけ近くにいてまだ不安か。―――エレノール。エル」
ふたりきりのときに妻に呼びかける愛称を、アランは初めて他人の前で口にした。
周囲の人間に情愛を示すことに全くためらいのないエレノール自身は、
公務の場でもない限りいつでもそう呼んで下さればいいのにと言うが、
弟妹たちをさえ愛称で呼ぶ習慣を持たずにきた彼にしてみれば、そんな昵懇は論外のきわみである。

だが今だけは、とアランは思った。
今だけは固執を捨ててこの娘の望みに応えるが吉であろう。
もっと、と腕のなかからひそやかな懇願が聞こえた。
「もっと、ある限りの名でわたくしを呼んで。あなたがいつもそうなされるように」
「可愛いことを言う。―――リュリュ。エラ。エレーヌ。ノーラ」
「うれしいわ、お義兄様」




天井が真冬の湖面と化したかのようだった。
部屋の空気が一瞬にして凍結するのを、アランは肌で感じた。
「いつもこうして、姉様にお呼びかけなさるのね。夜毎こうして、姉様をいとおしまれるのね」
その声音は誰のものでもない木霊のように虚ろに響いた。
アランは反射的に『妻』から身体を離した。
エマニュエルはもはやそれを制止しようとはしなかった。
ひとり文机の前の椅子に―――たったいま情事を交わしたばかりの椅子に腰掛けると、
何とか動悸を落ち着かせようとしている義兄とは対照的に、
奏者の手を離れたリュートの弦のように静謐なまなざしでただ彼を見つめている。

「やはりわたしだとお気づきだったのね。どうか怯まないで下さいませ、お義兄様」
「―――貴女は」
アランは深く息を呑んだ。
「何を考えている。一体何を企図してこんなことを」
「あなたをお慕いしているから、というのではいけない?」
「それはあるまい」
アランは間を置かずに答えた。
いくら自負心の強い彼だとはいえ、義妹の日頃の挙動には自分への特別な思慕を窺わせるものなど何もないことはよく分かっていた。
「世辞や韜晦は聞きたくない。貴女の真意が知りたい。なぜだ?」
「なぜかしらね。自分でもはっきりとは分かりませんの。強いて言えば、欲望を感じたからかしら」
「欲望だと」
「姉様の伴侶と寝ることに」




書斎の外から小さく物音が聞こえた。
廊下に詰めている衛兵たちの交代時間なのだろう。
エマニュエルはその雑音に乗じて義兄から目をそらすわけでもなく、きつく凝視するわけでもなく、
机の上の瑠璃杯のようにただそこにある静物として彼を眺めていた。
それはアランには侮辱的ともとれる視線だった。
そして同時に、彼女が姉への裏切りに対して何の後悔も抱いていないことを語るものでもあった。

「一体なぜだ。昼間は水が滴り落ちる隙間もないほどふたり仲睦まじく過ごしているではないか。
 エレノールが貴女に何をしたというのだ。あれは貴女を誰よりも愛している」
「存じておりますわ。そしてわたしも心の底から姉を愛しております。 
 あなたなど及びもつかないくらいに。
 十年後二十年後にあなたのご寵愛がどれほど保たれているかは疑わしいものだけれど、
 姉様が老いようとわたしに冷たくなろうと、わたしは姉様を愛します」
「ならばなぜだ」
「お分かりにならないのね」
幸せなかた、とでも嘯くかのようにエマニュエルはまたほのかに笑った。
「こんなにも深く愛しているからこそ、こんなにも強く憎むことができるのですわ。
 あなたには及びもつかぬほどに」
アランは視界が揺らぐような思いで義妹を見た。
妻に瓜二つであったはずのその美貌は、いまや悪魔の手になる彫琢としか見えなかった。




「―――分からん。俺には分からん。今夜のことは何もかも計画していたというのか」
「いいえ、全くの弾みでしたわ」
穏やかにそう呟くと、エマニュエルは憐れむようなまなざしで義兄を見返した。
「あなたのせいですのよ、お義兄様」
「何を言う。―――貴女が最初に人違いだと拒みさえすれば、あんなことは決して」

「ええ、そのつもりでしたわ。
 最初はほんの戯れだったのです。
 真夜中に目が覚めて、隣では姉様がまだ眠っていて、ふとお義兄様はどうしておいでかと思いましたの。
 わたしがこちらに参って以来独り寝をかこっておられるがために、
 最近は夜遅くまで書斎にお籠もりになられているというお話はかねてより伺っておりました。
 今日は常にもまして行く先々で姉様と取り違えられたせいかしら、
 突拍子もないことだけれど、もし衛兵たちにも見咎められることがなければ、
 書斎にお邪魔してあなたを試してみようと思いついたのです。
 おそらくは、晩餐でいただいた白葡萄酒の酔いにもけしかけられたのでしょう。

 ご入室なさったとき、衛兵たちと同じようにあなたも全く正体を見破れないと知り、
 わたしはとても可笑しくて楽しい気持ちでしたわ。
 互いの唇が触れる寸前、こちらから打ち明け申し上げるそのときまで、お義兄様は一片たりともお気づきにならなかった
 と明日の朝姉様にお聞かせしたら、ずいぶん面白がって下さろうかと、ただそればかりを考えておりました」

「なぜ、戯れに留めておかなかった」
絞り出すような声でアランは言った。
「あなたがいけないのですわ、お義兄様。わたしは本当にあのときやめるつもりでした。
 次の瞬間にでも笑い出して、かつがれたお義兄様にも笑っていただこうと、そう思っておりましたのに。
 あんなふうにわたしを、―――姉様を抱擁なさるから」
エマニュエルの声から最後の和らぎが消えた。




「確かめずにはいられなかったのです。姉様は夜毎どのように求められ、どのようにいとおしまれているのかと」
「馬鹿な」
「荒唐だとお思いになる?けれどこれが真実ですわ。わたしはどうしても確かめたかった。知りたかったの」
「分からん。なぜだ?エレノールを取り返しのつかないほど傷つけると知っていてなぜそんな衝動に身を任せた」
「申し上げましたでしょう、憎んでいるからよ。
 あなたが悪いのです、お義兄様。姉様があなたのもとで不幸でさえあれば、わたしは彼女を許したわ。
 国に残してきた恋人を想いながら日々泣き崩れて、好きでもない男に夜毎玩具にされていたなら許せたのに、そうではなかった。
 姉様は自分が心から愛し、自分を心から愛する伴侶と暮らしている。
 あなたの愛撫と囁きで、はっきりそれが分かったの。
 だからわたしは拒まなかった。拒めなかったのです。
 『わたし』を愛するひとに抱かれるというのがどんなことなのか、それを知りたかったの」




(2)←   →(4)




back