その朝も空気は清涼だった。
よく晴れた日の常として、離宮の東面に広がる小紺碧湖は宮室内からでもその麗景を見晴るかすことができた。
今日のような美しい夏の朝にゆっくりと眺望を楽しむことができないのはただ惜しまれる、と思った侍臣は少なくなかったであろう。
彼らの多くはいま、離宮正門前の広場に粛々と居並び威を正していた。

首都に鎮座する王宮と同様、レマナ離宮も複数の館舎と礼拝堂などの付属建築物、ならびに外苑、内苑から構成されている。
正門が穿たれた外壁は外苑のさらに縁辺にあり、王族が起居する主翼の館からは相当に離れているが、
家族の一員として迎えた賓客の出立に際し正門まで見送りに赴くのは、王家とてやはり平民と同じことだった。
左右に開け放たれた巨大な門扉を背にし、どこまでもつづく街道の先をうっすらと呑みこむような前方の山並を見据えながら、
アランは少し離れたところに立つ妻をひそかに案じていた。
エレノールは賓客の送別にふさわしい盛装に身を包み、普段と変わらず背筋を美しく伸ばしてはいるが、
その静かな立ち姿が却って痛々しくなるほどに、伏し目がちに隠された大きな黒い瞳は遠目にも分かるほど濡れて赤みを帯びていた。

それは無理のないことであった。
今朝起きたとたんに、枕元にかしづくエマニュエル付きの侍女から妹の突然の暇乞いを知らされ、
しかも従者たちばかりか妹自身もすでに旅装を整え正門前に馬車を整列させている、と告げられたのである。
エレノールはむろん一日二日でも長く引き止めんと妹のもとに向かおうとしたが、侍女たちに押しとどめられ、
昨夜ひそかにヴァネシア宮廷から早馬が着き、
公が持病が悪化したため妃を急遽召還したのだと説かれれば、
彼女としても妹の帰国を遅延させる正当な理由は見つけようがなかった。
エマニュエルには妻として昼夜病床に侍るという第一の義務があるのはもちろんだが、
それに加えヴァネシアの場合、公の継嗣がいまだ定められていないがゆえに、
正妃が暫定的に摂政として立たざるを得ない可能性が十分考えられるのだ。

それにしても、眠っている間に一切が進行し、目覚めと同時に最愛の肉親と過ごせる時間はあと半日もないと知ったときの衝撃の大きさは、
余人には測りがたいものがあるのは当然だった。
ましてエマニュエルは、今回は帰国の事情が事情であるだけに、
旅装を整えてから出立の直前までの限られた時間、夫の快復祈願のため離宮附属の聖堂に籠もるとの意向を示し、聖堂付の僧侶を除いてすでに人払いをしてしまっていた。
つまりは、エレノールが妹と親しくことばを交わすことができるのは実質上いちどだけ、
彼女が馬車に乗り込むその直前だけという仕儀に相成ったのだった。

ある程度予想していたこととはいえ、今こうして妻の悲嘆と憔悴のさまを目の当たりにすると、
アランにはかけることばもなく、彼女に近づいてゆき細い肩を抱き寄せることさえできなかった。
(これしかなかったのだ)
自分自身にそう言い聞かせながら、アランもやはり口中に残るかすかな苦味を嚥下しきれずにいた。




彼方の山陵を覆う朝靄が徐々に薄れかけてきたころ、馬に乗ったエマニュエルがようやく正門の内側から姿を見せた。
聖堂は離宮の比較的内奥に位置するため、移動には時間を要したのであろう。
前後にはごく少数の護衛と侍女たちが付き従っている。
彼女は礼拝を終えたばかりであり、馬車に揺られる長旅を控えた身でもあれば、
服装は従来とは見違えるほどゆったりと簡素に整えられ、豊かな黒髪もまた装飾のない麻のヴェールで慎ましく覆われてしまっている。

エマニュエルは馬から降りると、最初にアランの前に立った。
父王の名代としてレマナ離宮に逗留する王太子は、名目上とはいえ彼女を招待した主人役であるため、
挨拶の序列において優先されるのは当然のことであった。
エマニュエルは儀礼通りに右手を差し出し、アランもやはり完璧な作法を守りながら、その手の甲に接吻した。
その後彼らは二三語形式的に別れを惜しむことばを交わしたが、
アランにとってエマニュエルとの真の告別の瞬間となったのは、
彼女のなめらかな手の甲を唇に引き寄せたそのとき、細い手首にあの腕輪が復しているのを見届けたそのときだった。

そして彼らは他人となり、エマニュエルは姉の待つほうへと去って行った。
ふいに空虚な気分に襲われた自分を、アランはひどく不思議に思った。
エレノールに駆け寄ってゆく義妹の背中は思っていたより小さく見えた。
この虚ろさは葬送に臨む人間のそれなのだろうか、と彼は思った。

エマニュエルは姉姫の前に立ち、いたわるようにその背中を抱いた。
王女姉妹が交わしたことばは短かったが、無言で抱きしめあう時間は永遠のように長かった。
むろん当人たちにとっては、明け方のまどろみのように儚い一瞬だったに違いない。
アランの立ち位置からは、エマニュエルの華奢な背中とその肩越しに妻の顔がようやく見えるばかりだった。
妹に支えられていなければ、エレノールは地に膝を突き泣き崩れていることだろうと彼は思った。
昨夜彼女自身が語ったとおり、別々の国に嫁いだ王族の姉妹が再会できる機会など、まさに天恵と呼ぶしかないのだ。
だからこそ、これが今生の別れとなるのは全くあり得る話だった。




ふと、エマニュエルの肩もほんのわずかだが上下に震えていることに気がついた。
(まさかあの女が)
そうは思いつつもアランは、昨夜の別離を、書斎を出るときに見届けた最後の情景を思い出さずにはいられなかった。
この女とて涙を流すことはある。それぐらいの弱さはある。愛する者がいればこそ弱いのだ。
戻れない歳月を分かち合ってきた姉姫を、そして名前と黒髪だけを残して去った小さき者を愛するがゆえに弱いのだ。

ふとエマニュエルの肩が静止し、首だけがゆっくりとアランのほうを振り返った。
エレノールに生き写しのその瞳はやはり姉姫と同様に濡れ、平素にも増して深みのある漆黒を湛えていたが、
エレノールより少しだけ朱い唇はほんのわずかに両端を上げていた。
周囲の者たちはそれを微笑と見たかもしれない。
だがアランの目には、義妹の口元の動きは歪みと映った。
さらに言えば、歪みというよりもむしろ、
(―――嗤った)
と彼は思った。




その表情の意図を探らせまいとするかのように、エマニュエルはすぐに姉姫のほうに向き直った。
そして彼女の耳元に顔と手を近づけ、何事かを短く囁くと、
絶ちがたい嗚咽のために震えつづけていたエレノールの頭部と肩が、突然凍りついたように静止した。
エマニュエルはそれ以上何を告げることもなかった。
最後に姉姫の両頬と唇に接吻を捧げると、 彼女は自らの御用馬車に向かって歩いて行った。
少し離れたところに立つ義兄のほうを見ることはついになかった。

「マヌエラ」
すでに馬車の昇降台に足をかけた妹に向かって、エレノールが叫ぶように呼びかけた。
エマニュエルは返事も振り返ることもせず、そのまま座席の奥のほうへと乗り込んでいった。
聖リュシアンの故地へ参詣したおりに姉夫婦と同乗した馬車とは違い、
こちらは天蓋も四方の覆いもある長旅用の箱馬車であるから、一旦乗車して窓に帳が下ろされてしまえばもう、
彼女の姿を視界に収めることはできなかった。

妹にはっきりと呼びかけたにもかかわらず、エレノールは地に根を張ったかのようにそこから一歩も動けずにいた。
エマニュエルに影のように付き従う年若い護衛―――つい昨日、湖のほとりで虐待といってもよい仕打ちを受けてなお無言だったあの青年が馬車の扉を閉めると、
すでに御者台に座を占めていた御者は天をも打つかと見えるほどに鞭を高らかに振り上げた。
公妃の馬車を中心にして、一団はついに動き始めた。




アランは我知らず目を閉じていた。
醒めない悪夢のような予感が総身を少しずつ侵食し、鼓動の間隔が狭まってゆくのをはっきりと感じた。
(そんなはずはない。―――そんなはずは。あの女の誓言は本物だったはずだ)
たとえエレノールほどの敬虔さをそなえておらずとも、自らの限界を知る人間であれば誰であろうと、
神の御名において誓った約定を破ることはありえない。
彼自身決して模範的な信者ではないが、アランはそう信じていた。

いや、エマニュエルの自己破壊的な不遜さゆえに仮にそれがありえたとしても、
あの誓言が嘘であったなら、彼女があの腕輪へ注ぎ込んでいたまなざしも汚濁を映していたはずだ。
腐臭を放っていたはずだ。
だが実際には、あの女は―――
そこまで考えてアランは首を振った。
まずは何よりエレノールとことばを交わさねばならない。
彼女の黒い瞳に自らをさらさねばならない。
その一瞬後にたとえ何が起ころうとも。

馬車の隊列を見送りながら妻が立ちつくすその場所へ、アランはゆっくりと近づいていった。
本来十歩も離れていない距離でありながら、これほど遠く感じられる目的地はいまだかつてなかった。
アランはついに彼女の前に立った。
エレノールは夫を見たが、潤いを残したその双眸は対象物を失ってしまったかのように虚脱として、
感情のたゆたう先を推しはかることが難しかった。

「エレノール」
アランが声をかけると、彼女はようやく我に帰ったかのように焦点をゆっくり彼に合わせた。
しかし動転が決して収まっていないことは、その顔色を見るだけでも十分分かった。
最初に何を言えばいいのかアランには分からなかった。
謝罪か、釈明か、それともエマニュエルが告げた事実を否定しつづければよいのだろうか。
それはエレノールを救うのだろうか。
それはわれわれふたりを救うのだろうか。

深く息を吸い込んでから、アランは改めて妻に声をかけた。
最初に言えることはやはりこれしかなかった。
「エレノール、―――今、エマニュエル殿に何を告げられた」
エレノールの呼吸の間隔も、やはり尋常とは言い難かった。
自らの吐息をなだめるように沈黙をくぐってから、彼女はようやく口を開いた。
「祝福を」




「―――何?」
「おめでとう、とそう言ったのです。
 知っていたのだわ、あの子は」
そしてまたことばを切った。
「わたくしが身ごもっていると知っていたのに、ずっと言わずにいたのだわ」
「身ごもっ……」

茫洋と自分を見上げる妻のまなざしに、アランもやはりことばを失い、傀儡のように立ち尽くした。
「どういうことだ。俺にまでずっと隠していたのか。いつ懐妊が判った」
「―――妹を離宮に迎えた、ちょうど次の日ですわ。
 都を発ってからの旅中でもぼんやりと予感はあったのだけれど、でも確信はなく、ひとり胸のうちにしまっておりました。
 離宮に着いた最初の晩、あなたとあんなふうに何度も愛しあったのは、本当はよくなかったはずだけれど、
 今後一年近くは節度をもって過ごさねばならぬことを身体が分かっていたから、
 最後の名残につい、あられもなく求めてしまったのかもしれません。
 侍医に診断を告げられたのは翌日でした。
 これが一日早ければ、妹に出会う前ならばあなたに真っ先に告げたのだけれど、わたくしは彼に口外を禁じました。
 それ以来、わたくしたちふたり以外はだれも知らないはず、だったのです」

「なぜ、俺にまで告げなかった。
 そなたがしばらく周りに伏せておきたいというのなら、それくらいの秘密は守れる」
「お許し下さい。あなたを信じていなかったのではありません。
 あなたはご自分の誓約を誰より重んじられるかた、一度誓ったならば決して口外なさらぬかただと存じ上げております。
 でも、わたくしの懐妊をお知りになったなら、例えことばになさることはなくとも、
 あなたはきっとふだんの挙措にそれが出てしまわれる。
 わたくしのことを風にも当てられない温室の蕾のようにお扱いになって、
 ―――じきにあの子の知るところになるのだと、そう危惧せずにはいられなかったのです」

アランは口を開きかけたものの、結局反論しなかった。
彼方の空の下に、規則的な馬蹄の重奏音が少しずつ遠ざかっていくのが聞こえてきた。
エレノールは言った。
「そうまでして妹に隠しておきたかったなんて、おかしな話ですわね。
 もちろん、わたくしは信じておりました。
 もしも懐妊を伝えれば、あの子はきっと誰よりも、あなたや故国にいる父母よりもさらに強く、
 わたくしと喜びをともにしてくれるだろうと。
 でも、―――どうしても、言えなかった」

エレノールの大きな黒い瞳に、ふたたび潤みが浮かぶのが分かった。
アランは初めて妻の肩を抱いた。
その拍子にふと、彼女の左耳の上に小枝が差し込まれているのが目に入った。
その先端は房状になっており、よくよく見れば花が落ちたばかりのような小さな緑の実がいくつも寄り集まっている。
これが大輪の薔薇ならばさして珍しい眺めでもないが、ごく地味な木の枝を髪飾りに、
しかも今日のような盛装に併せて用いるなど、ふつうはありうべからざることである。

「エレノール、この枝は」
「枝?―――あら、何か差し込まれているわ」
エレノールは耳の上に手をやるとそっと抜き取り、ぼんやりと不思議そうに見つめた。
うつむいた妻の頭部を見下ろしながら、アランはまた、彼女の身辺にかすかな違和感をおぼえた。

それは香りだった。
エレノールが身にまとっているのはふだんの白檀ではないことに彼は初めて気がついた。
正確には、彼女の髪に焚きしめられた白檀の上に、ほのかな移り香を感じとったのだった。
(ああ、―――これはそういえば、エマニュエルの香りだ)
先ほどの告別はほんの短いあいだに終わってしまい、彼女の漂わせる香に意識を配る暇もなかったが、
たしかに今朝のエマニュエルは、旅支度の身であるがゆえに髪に焚き染める時間を惜しんだためか、ふだんのように白檀を用いてはいなかった。
そのかわり彼女は、果実を思わせる瑞々しいこの香り、
そしてどこか酩酊をいざなうようなこの香りを全身にゆったりとまとっていた。
今日はなぜ調合を変えたのだろう。
だがこの香りは、一般の精製された香料に比べるといかにも野趣を残していた。
アランは目をつむった。何かを思い出せる気がした。

(そうだ、昨日の参拝の途上でも、以前の山中の散策でも、このような房をつけた木は見たおぼえがある。
 ―――これは山葡萄の花実だ。この香りは、山葡萄の香りか)
そして朝靄が晴れゆくように、視界を覆うものが去ってゆく感覚をおぼえた。
エマニュエルがつい先ほどまで離宮の聖堂にて祈念を捧げていた相手は天上の主ではなく、
まして実際は壮健であるはずの夫君の守護聖人などではない。
それは他ならぬ聖リュシアンであり、
祭壇に捧げたのは庭園の花々ではなく今朝がた山中で手折ったばかりの山葡萄の枝なのだ。
そして近隣の酒倉から買い上げた数年来の果実酒も、ともに奉納したのだろう。

山葡萄はかの洞窟の鉱水と並び聖リュシアンの象徴であり、
聖人そのひとの故事をふまえて、一般には樽職人や果樹園主等から職業的な護符の代わりとして崇められている。
しかし一方でまた、属すべきギルドなどを持たない、よりいっそう寄る辺なき人々から深く仰がれているのも事実だった。
人の世から見捨てられ、忘れ去られし者たち―――殊にいまだ罪を知らぬ小さき者たちは、
象徴物を通じて聖リュシアンの加護にあまねく浴する、そう信じる人々もやはり少なくないのだった。
ゆえに彼は往々にして、男性の聖人としては非常に珍しいことながら、
幼な子のみならずいまだ世に生まれ来ぬ子の守護者、生を望まれぬ子の庇護者、
そしてすべての母子の安産寧育を司る聖者としても広く信仰を集めていた。

房のついた小枝はエレノールの手に包まれながら、湖畔より吹きわたる風にときおり自らをそよがせていた。
アランは妻の背中を抱いて強く引き寄せ、先ほどエマニュエル自身がそうしていたように彼女の髪に顔をうずめた。
小枝を指先でなぞっていたエレノールは驚いたように一瞬身をすくめたが、やがて夫の力に身を任せた。

洗練とほのかな野生が溶けあう香りの輪のなかで、アランはひとり目を閉じた。
馬車の隊列が街道の舗石を踏みしめ遠ざかる音が、ふたたび彼方から聞こえてきた。
ふと耳元に、アラン、と恥じらいがちな囁きが上がった。
護衛や侍従たちが周囲に居並ぶ前で夫がこのような挙に出たことに、
腕のなかのエレノールは戸惑いをおぼえているに違いなかった。

アランは答えず、ただ黙って瞼を上げた。
耳に残る蹄の響きはもはや過去に属するかのように、現実のざらつきをゆっくりと失いかけていた。
街道の果てゆく先にかろうじて見いだされた隊列の後塵は、起伏多き山肌の陰に今にも融けこもうとしていた。




(終)




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