エレノールが戻ってきたのはちょうどそのときだった。
彼女は扉を軽く叩いたが今回のそれはただの合図に過ぎず、
夫の答えを待たずに扉を開けると静々と中に入ってきた。
先ほどまでここにいたエマニュエルと同様、彼女もやはり髪をうしろで軽く束ねていたが、寝衣に重ね着をしているのが違っていた。
夏の盛りにもかかわらず、ふいに訪れた秋口のような今夜の涼気が身体にこたえるのかもしれない。
文机のそばに立つアランの姿を見定め、彼と目が合うと、
エレノールは携帯用の燭台に据えた小さな蝋燭の向こうでほんのりと笑った。
彼のすべてを信じ、何もかも許しきっているかのようないつもの笑顔だった。
そして他ならずそのことが、アランの呼吸を苦しくさせた。

「使い走りのような真似をさせて、悪かった」
「かまいませんわ、ついでですもの」
「どうもそなたが来るまで机の上でうたた寝をしていたようだ。火が消えたことにも気がつかなかった」
そういって彼は妻から受け取った燭台を掲げ、書きかけの便箋にちらばるインクの染みを示して見せた。
自分がこれほど卑しい小細工に頭を回す人間だとは、彼はこのときまで思いも寄らなかった。

「―――話とは」
エレノールに手近な安楽椅子を勧めながら、アランは机の前の椅子に腰掛けた。
彼女は言われるがままに一旦座ったが、ふいに立ち上がると少し恥ずかしそうに、
だがそれを切実に求めているというように、夫の膝の上に座りなおした。
アランの鼻先に突如現れた潤いある黒髪は、やはり白檀の香りがした。

「どうしたのだ」
慎み深い妻が自ら接触を求めてくるなど、これまでのアランなら諸手を上げて歓迎していたはずだが、
今ばかりはそういった高揚からは程遠い気分を抜け出せずにいた。
しかし何ひとつとして異状を気取られるわけにはいかない。
アランは強いて自らを奮い立たせながら、そのかぐわしい髪や首筋、肩にゆっくりと接吻を落としていった。
じらすようにしたあとにようやく唇を重ねてやると、エレノールはそっと小さな口を開き、夫の舌を自発的に受け入れるに至った。
アランとしても、挨拶ではない本物のくちづけを彼女と交わすのは久しぶりだった。
腕の中で熱を帯びてくる華奢な身体の素直さに彼の胸もつい熱くなり、舌のみならず指先も動員せざるをえなくなる。
横向きに座る妻の腰を左手で支えたまま右手で布越しにゆっくり乳房をまさぐってやると、
エレノールの息は如実に熱くなっていった。
だがその下肢の裾を割って肌着越しに秘所に触れようと試みたとき、彼女は夫の愛撫をやんわりと押し留めた。

「ごめんなさい。今夜はそのつもりではなかったの。
 なんとなくあなたに触れて、体温を感じてみたくて」
「何があった」
「目を覚ましたら妹が寝室にいなかったのです。
 しばらく起きていたのだけれどなかなか帰ってこないものですから、なんだか心配になってしまって。
 部屋部屋を探しておりますの」
「そうか」
アランは相槌を打った。声に震えが滲むことのないように、とただそれだけを念じていた。

「思い当たるところはたいてい探しつくしたのだけれど、見つかりませんでした」
「―――それで、この書斎に?」
「勘違いなさらないでね。妹が今朝がた帰り道で口にした戯れを気にしているわけではありませんわ。
 たぶんあの子は入れ違いで寝室に戻っているか、庭園の奥でひとり月を愛でながら涼んでいるのでしょう。
 昔から屋外で横になるのが好きな子だったから」
「ならば、何も案じることはあるまい」
「ええ、案じることはありませんわ。案じることはないはずなの。
 ―――でも、なんだかあなたにお会いしたくて」
「俺に?」
「ごめんなさい。なんだか支離滅裂なことを口にしているわね。
 わたくし、―――なんと申し上げたらよいのかしら、不安なの」
「やはり妹御を案じているのか」
「いいえ。あの子がいま寝室にいないことではなくて、あの子が―――遠く感じられること」

アランは少しだけ強く妻の身体を自らに引き寄せた。
エレノールは従順にその力を受け入れ、彼の肩に頭をもたせかけた。
「そなたがこれまで妹御のことを、身近に感じすぎていたのではあるまいか。
 あたかも彼女の時間はそなたが嫁いだ日を以て停止したかのように。
 だが心も身体も、人は移ろいゆくものだ。ことに乙女から人の妻に、それも一国の主の妃になったのであればなおさらだ。
 変わらずにいることのほうが世の摂理に反している」
「ええ、それはそうだわ。でも、ちがうの。
 うまく申し上げられないのだけれど、あの子はただ成長してしまったのではないわ。
 あの子は遠くなっていく。まるで少しずつ別人に生まれ変わろうとするかのように。
 今朝の最後のあの問いかけ。嘘だということは分かっておりましたわ。
 でもあの子は、あんな問いをいたずらに口にして人を惑わせたり傷つけたり、
 周囲の人間の間に不信の種を蒔こうとするような子ではなかった。
 あの子をここに迎えた日から少しずつ、ほんの少しずつ違和感をおぼえていたのだけれど、
 今日はとうとう、あの子が―――見知らぬひとに見えてしまった」

その語尾は何かをこらえるように震えていた。
アランが彼女を抱く腕に力を込めると、それが堰の決壊を促したのか、エレノールは静かに落涙した。
「―――ごめんなさい」
「謝ることはない」
「こんな、見苦しいふるまいをするつもりではなかったの。
 ただ、あなたの体温を感じると、安心してしまって」
エレノールは嗚咽を小さく呑み込んだ。
そしてふと、透き通る夜の泉のような瞳で夫の顔を覗き込んだ。

「あなたはあの子を、厭うておいでですか」
「いや、そんなことはない」
「いいえ、そうだわ。あなたは明らかにあの子を忌避していらっしゃる。
 ヴァネシアに放った密偵から噂を聞き及び、それゆえにご心証を害されたのでは」
「噂?」
「お教え下さい。あの子について何をご存知なのです」
漆黒の双眸が、柔和な顔立ちには似合わぬほど突如鋭くなる。
かつてない変貌に、アランは思わず気圧されるようなものを感じた。

「いや。―――ヴァネシアの交易体制や有力商会の動向については逐一報告を受けているが、
 公室の内情への言及はほとんど耳にしたことがない。
 俺が知っているのは、ヴァネシア公はエマニュエル殿を娶った後もあまたの側妾への惑溺をやめず、
 彼女との間にはいまだ子がないということだけだ。
 ―――ああ、大事なことが抜けていた。
 公はすでに初老に達したこともあり、近年、
 公位継承者をまだ生まれ来ぬ我が子ではなく親族の男子のなかに求めはじめたとも聞いた。
 その候補者のひとりは母方がガルィア貴族の血筋なのだ。
 ゆえに間諜たちも定期報告書の中でヴァネシアの後継問題に紙幅を割いたのだろう」
「―――そうですの」

ふっと安堵したような、けれど夫が自分と何か大切な事実を共有していないことにどこか心細さをおぼえたような声で、
エレノールは小さくつぶやいた。
「あなたがご存じないのなら、―――ご存知なのがそれだけなら、それでいいのですわ」
「どういうことだ」
「まつりごとを左右するような事柄ではございません。どうか今の問いはお忘れになって。
 ほんの、内々のことにすぎませぬから」
「だがその内々のことを心に懸けるあまり、そなたはひどく憔悴している。
 今まではついぞ思いも寄らなかったが、―――離宮に着いた日以来妹御をそばに呼び寄せ、
 朝も夕も片時も離そうとしなかったのは、実は旧交を温めるという以上の目的があってのことなのか」
エレノールは答えなかった。
潤いを帯びたその瞳はただ自身の膝を見つめ、
細くたおやかな指はアランによって今さっき乱されかけた裾を念入りに直しては、その光沢ある表面をなぞっていた。

「目的、―――あるいはそうかもしれません」
しばらくの沈思のあと、エレノールは小さな声で言った。
「このレマナの地であの子と偶然にも再会できたとき、わたくしは本当に幸せでした。
 むろん、ともに昔を偲びあうことができる、そう思えたのが何よりうれしかったのです。
 わたくしたちはどれほどの土地と時間に隔てられても多くを共有しつづけ、これまでもこれからも愛し合っているのだと、
 それをたしかめられるのがうれしかった。

 けれど一方で、これを機に妹に面と向かって、今まで伝聞してきたことの真偽を問うことができると、
 そう焦燥に駆り立てられたのも本当です。これこそが天機だとわたくしには思えたのです。
 あなたもご承知のとおり、わたくしたちのように外国の王室に嫁いだ王女は実質上、
 生家と婚家の同盟関係をより補強するための人質、生きた楔でございます。
 楔は突き立てられた場所から抜かれてはなりません。
 王位継承権において上位に位置するのでもないかぎり、父母が亡くなったとて容易に里帰りすることもできず、
 戦争で捕虜にでもならぬかぎり、その後の人生で兄弟姉妹に再会できる保障はほとんどないと申せましょう。

 それゆえに、避暑に訪れたこの地で偶然に与えられた機会、妹に巡りあえた幸運を逃すわけにはいかないと思いました。
 時を浪費せず、一刻も早くこの子とふたりで向かい合わなければ、と。
 いえ、必ずしも偶然とは呼べないかもしれません。
 ある意味では必然だったのだわ。あの子が国境を越えてまでこの地を訪れたのは。
 ―――聖リュシアンの故地をめざしたのは」




エレノールはふと口を手で押さえ、しばらく黙り込んだ。
自分で意図していた以上に語りすぎたと思ったのかも知れない。
だがアランは言い逃れを許さぬように妻の瞳を覗き込んだ。
あの女について知っておかねばならぬことがある。本能的にそう思った。
「どういうことだ。
 俺はたしかにエマニュエル殿の血縁ではないが、そなたの伴侶だ。
 そなたの心を日夜煩わせていることがあるならそれを知りたい。知らねばならない」
エレノールは自らのうちに閉じこもるように目を伏せた。だがそれも長くはかからなかった。
あるいはこの部屋に足を踏み入れた当初から、すでに心を決めていたのかもしれない。

「やはり、知っていていただいたほうがいいのでしょうか。
 ええ、そうですわ。知っていていただいてほしい。
 わたくしはずっと、あなたと分かち合いたかったのです。あの子をめぐる状況を。それを解決するための模索を。
 お話いたします。
 エマニュエルがこの地を訪れたのは、自身の静養のためなどではなく、
 ―――赤ちゃんを亡くしているからですわ。
 無事に育っていたらきっと今ごろ、御加護を乞うために連れてくるつもりだったのでしょう。
 そしてもう、産めない身体なのです」
「子どもが、いたのか」
心に不思議なものが差し込んだ感触をおぼえながら、アランは言った。
義妹にはついぞ、そのような気配を感じたことはなかった。

「ええ。
 あまりにも早く亡くなり、しかも女児だったために、あなたの密偵もわざわざ言及することはなかったのでしょう。
 わたくしも、出産後の経緯は全て、あの子の侍女からの手紙で知ったのですけれど。
 あの子自身はわたくしとの文通のなかで、結婚生活の不満や苦痛を訴えることなど一度もなかったから。
 昔からそういう子だったの。
 新調したドレスの袖飾りが取れかけていても、それを周りの大人に訴えたらお針子がひどく折檻されてしまうからと言って、
 拙くても自分の手で直して着て、しばらくしてから『舞踊のお稽古の最中に取れてしまいました』
 と母に断って修繕に出すような子でした。まだ十歳かそれぐらいのときのことですわ。
 わたくしならきっとすぐに母に泣きついて、何も考えず事を露見させたでしょうに。
 昔からあの子は、―――エマニュエルはわたくしよりずっとよくものが見えていて、自制心があって、そのうえ心優しかったの。

 そう、あの子の赤ちゃんのことでしたわね。どこからお話したらいいのかしら。
 ヴァネシア公に嫁いでから一年後、今から二年前ですわね。
 あの子は初めての子どもを、女の赤ちゃんを生んだのです。
 けれどひどい難産で、分娩後は長い産褥熱にも苦しめられ、
 侍医からはおそらくもう身ごもることはない、身ごもることがあっても産まないほうがいい、と宣告されましたの。

   あなたもそれとなく報告を受けていらっしゃるでしょうけれど、
 あちらでは女児には基本的に公位継承権が認められておりませんし、
 エマニュエルは元々寵愛を受けていたとは言えないこともあって、夫君の足はますます閨房から遠のいていきました。
 けれど命を身籠ったそのときから、妹は心より幸せだったと、わたくしは信じますわ。
 全身で愛を注ぐことのできる対象をいつも自分ひとりのそばに置くことが許されたのですもの。
 わたくしも驚いたのだけれど、あの子は自分で乳を与えてさえいたのだと、侍女は手紙に書いておりました。
 けれど一年もしないうちに、すべてが変わってしまいました。
 赤ちゃんは生まれて初めて迎えた冬のある日に、高熱で死んでしまったのです」

「そうか、―――気の毒に」
「どこの家庭にもありうる話、かもしれませんわね。
 ええ、それはいつでも、誰の身にでも起こりうることですわ。
 口にすることさえ恐ろしいけれど、
 まだ二歳にならないわたくしたちのルイーズとて、半年後にも、今日明日にも天に召されてしまうかもしれない。
 近年は陸路海路の発達を受けて遠方の風土病が続々もたらされていることもあって、
 子どもが無事に生まれて丈夫な身体に育つということ自体がすでに、神の御慈悲の領域ですものね。

 ―――でもたとえ、万が一ルイーズを失うことがあっても、
 わたくしはあなたと悲しみを、喪失に伴うすべてを分かち合うことができますわ。
 自分のなかの空虚さにただひとり放り込まれずに、あなたとともに悲しみに向かい合うことが許されるのです。
 でもあの子は、エマニュエルは」
「ただひとりで、喪失に耐えなければならなかったと?」
「ええ、
 ―――でもそれならば、それだけならばあの子はまだ耐え抜くことができたのかもしれない。
 あの子は本当に強い子だから。
 でもやっぱり、限界はやってきたのです。あの子は強いけれど、とても強いけれど、けれど鋼鉄ではないから」
「何があった」

「夫君は、喪失そのものをなかったことにしたのです。喪失を分かち合おうとしなかったのではなく。
 エマニュエルの娘が亡くなってから半年が過ぎたころ、ヴァネシア公の愛妾がやはり女の赤ちゃんを産みました。
 公はその子に、エマニュエルの娘と同じ名前を与えたのです。ジョヴァンナと。
 わたくしたちの間ではフアナと呼び習わす名前です。
 女児の名としてはとてもよく好まれるものだから、公は迷うことさえなかったのかもしれません。
 誰にでも愛されるこの佳名を、愛する女に産ませた愛する娘に授けるのは当然のことなのだと。

 むろん家臣のなかには反対し諫言を呈する者もおりましたが、
 その婦人は公の側妾のなかでもとりわけ寵愛が深く権勢を誇るがゆえに、
 結局はみな口をつぐんだということです。
 そしてあの子は、エマニュエルは、その命名の事実を知った日にきっと、何かが壊れてしまったのだと思います。

 娘を失ってからそれまでずっと、あの子は祈祷と供養を重ねつづけ、
 ついには『もう嗣子が産めないのだから』と出家さえ願い出たのだけれど夫君の承諾はどうしても得られず、
 はたで見ているのが苦しくなるほどに心うつろな日々を過ごしていたと、侍女から伝え聞いております。
 ヴァネシア公は個人としては妻に関心を持っておらずとも、中継貿易で栄える都市国家の首長である以上、
 わがスパニヤのような巨大水軍を擁する海洋国家との連携はどうしても維持したかったのでしょうし、
 何より、エマニュエルの出家を許して入れ替わりに別のスパニヤ王族を娶るにしても、
 あの子が修道院に入るために帰国すれば、夫君からいかに粗略な扱いを受けていたかが歴然と証明されることになり、
 わが父王の不興をこうむることはまちがいありません。下手をすれば問責の使者さえ飛ぶでしょう。

 それゆえに、スパニヤ以上に結ぶに適した国が現れない限り、
 ヴァネシア公としてはあの子を正妃の地位から退けることだけは避けたかったのだと想像されます。
 継嗣の問題は小さくはありませんが、あなたも報告を受けておられるように、公族につらなる男子は探せば探せるものですから。
 けれどそういった思惑の一切が、あの子の心をじわじわと侵食し、
 取り返しのつかないほど損なっていったに違いありません。
 そしてある日、亡き娘の名が別の女児に与えられたという知らせがもたらされ、あの子は―――」
エレノールは初めてことばを切った。

「―――あの子は、姦淫に慰めを見出してしまったのだと、侍女はそう書いておりました。
 もちろん、宮中の公族や貴族のなかから心の通い合う相手を愛人として選び出すのなら、
 賞賛はされないにしろ、一般に黙認される行為ではございます。
 けれどあの子はひとりだけにはとどめず、常に何人もの貴公子を侍らせ、寝台に招き、
 あまつさえ、―――時には城下町の辻に立ち私娼のふりをして客をとり、
 時には馬車を走らせて平民の男を拾い、『歓楽の館』と称する場所に連れ込むのだとか。

   どうかアラン、お分かりでございましょう。
 これら一切がわたくしのなかのあの子の思い出とはあまりにかけ離れていて、
 信じるも信じないもなく、何をどう考えればいいのか分からないのです。
 この噂はスパニヤの父母の元にもすでに届いており、とりわけ父は母にすら宥めきれぬほど赫怒しているようすです。
 もしこれが事実ならば、我が王家開闢以来の不名誉、父祖の名に唾する冒涜だと。
 けれどわたくしはあの子の助けになりたい。
 わたくしだけは何があっても味方だと、あの子に信じていて欲しい。
 あの子の腹心の侍女もそのために、主人の怒りを買うかも知れぬという禁を犯してまでわたくしにひそかに書き送ってくれたのです。
 けれど離宮に招いて以来、朝から晩まで一緒にいても、妹はこれまで何ひとつ語ってくれません。
 わたくしが嫁ぎ先の暮らしについて尋ねようとすると、あの子はいつもかわしてしまう。
 ただひとこと、幸せです、とだけ答えるのです。
『わたしは今いる場所でとても幸せです。姉様と同じように、姉様がそう望んでくださるように』と」




エレノールは口をつぐんだ。
そのまなざしはアランの肩を越えて窓の外に懸かる白い月へと注がれ、そしてまた、彼のもとへと戻ってきた。
「あの子は怒っているのでしょうか」
「怒る?」
「わたくし自身が偽りを抱えたまま、あの子の真実を聞き出そうとしているそれゆえに。
 あの子はそれに気がついてしまったのかしら。
 だからわたくしに腹を立て、何も語ろうとせず、憎しみさえ抱くのかしら。
 今日あの子がわたくしの前で別人の顔になってしまったのは、―――あれは憎しみのせいではないのでしょうか。
 あなたはもしや、あの子の口からわたくしへの怒りを聞き及んでおいででは」

エレノールの語尾はふたたび震え始め、湿り気を帯びた吐息はアランの首筋にまつろわった。
ただの気体でありながら、それはあたかも絞首台のささくれ立った縄のように彼の気管をしめつけ、臓腑をゆっくりと圧迫した。
彼にとって他者の苦痛をこれほど切実に共有したのは生まれて初めてのことだった。
「そんなはずはない」
妻を両腕で抱擁しながら、アランはゆっくりと囁きかけた。
「そなたがこれほど愛しぬいている妹御が、他ならぬそなたに憎しみなど向けようはずはない。
 それは他人の俺でも分かることだ」
「でも」
「馬鹿な考えは捨てるがいい。
 姉妹と言えど、秘密のひとつやふたつ隠し持つのは当然のことだろう。
 殊にそなたの語るように、それほど賢明なエマニュエル殿のことだ。
 ひたすら口を閉ざす理由はひとえにそなたを案じさせまい、自分ひとりで解決しようと心に決めてのことだろう。
 だが、ひとつ気になることがある。―――そなた自身の、妹御に対する偽りとは何だ。
 俺すらも知りえないことか」

吐息のような声で問いかけながら、アランは妻の口元に耳を近づけた。
それがどんな種類の嘘であれ、エマニュエルに聞かせたくないというならば
書斎の奥に隠れる彼女の耳に届かぬように計らわなければならない。
だが予期に反してエレノールは口を開かなかった。
夫の褐色の瞳を見つめ、ゆっくりとまぶたを閉じ、それからまた開いた。
「お許し下さい。あなたにも、申し上げられません」
「なぜだ」
「あなたを信じていないというのではありません。
 けれどそのことをお知りになったら、必ずや、じきにあの子の知るところとなるでしょう」

ふしぎなほどの確信を帯びたその口調に、アランは急速に動悸が早まってゆくのを感じた。
(もしや、妹と俺の関係をすでに察しているのか。―――いや、そんなはずは)
だがそうでなければこのような物言いをするはずがない。
今度はアランが瞑目すべき番だった。けれどそうする前に彼は息を殺しながら妻の瞳を見つめた。
奮い起こした勇気は報われた。
漆黒の双眸には疑念も非難の色もなく、そこに読み取れたのはただ、伴侶にさえ真実を伏せなければならぬことへ罪悪感のみだった。

「どうしても口にできぬというなら、仕方がない」
アランはわずかに下を向き、絨毯で覆われた床の上に降り積もる月光の断片を眺めやった。
椅子の上で寄り添い合うふたりの影は天上の月と卓上の灯火によってそれぞれの方向に投じられ、
二種の影の重なり合った部分は夜陰そのもののようにひときわ黒々と床の上に刻印を押していた。

「ありがとう、アラン」
彼の耳元でエレノールがつぶやいた。
「そろそろおいとまいたしますわ。
 あの子が寝室に戻ってきたときわたくしがいなかったら、
 この書斎であなたと、その、夫婦の務めに励んでいると勘違いされるかもしれないし。
 姉妹の間とはいえそれはやはり気恥ずかしいものね」
エレノールは少しはにかむような表情になった。
その恥じらいに嘘はなかったが、これは同時に別のことを案じてもいるのだ、とアランには分かった。
われわれがいかに離れがたく睦まじい夫婦であるかを妹に示す機会など、願わくばないほうがよい。そういう意味なのだ。
「おやすみなさい、アラン」
卓上の蝋燭に火を分けたあとの携帯用燭台を手にしながら、エレノールは夫に別れを告げた。
そして彼の唇に短く接吻すると、白檀の香りを残して去っていった。




「愁嘆場だこと」
エマニュエルが最初に発したのはそのことばだった。
アランはゆっくりと振り返って義妹を見た。
書斎の奥からふたたび現れたしどけない寝衣姿は先ほど見送った姉姫のそれと空恐ろしくなるほど似通っていたが、
その無関心な表情と口調はことさら彼の敵愾心を煽り立てようとするものに他ならなかった。
さまざまな思いが錯綜する胸中に一塊の苦味を味わいながら、アランはできるだけ冷静に言った。

「言い放ちたいことはそれだけか」
「わたしの口から何をお聞きになりたいのです?」
「そなたは何も思うところがないというのか。
 ―――エレノールからあれだけ愛されているのを知りながら」
ほんの一瞬、エマニュエルの瞳から何か暗い膜のようなものが去った。
けれどアランがその奥にあるものを見届ける前に、彼女はすぐに平坦なまなざしと声を取り戻した。

「何度も申し上げるようですけれど、わたしも姉様を心から愛しておりますわ。
 ただ少し、憎しみのほうが勝っているだけ」
「貴様、―――」
言いかけたところで、アランはためらいがちに口をつぐんだ。
この先のことばを見失ったような、それ以上の踏破を禁じられているようなもどかしい思いだった。
そしてその気配はエマニュエルに如実に伝わり、彼女の口元を優美に歪ませた。
「あらお義兄様、どうされましたの?
 いつものようにわたしを存分に罵られたらよろしいのに。
 ひょっとして、姉様から聞かされたわたしの来歴を気の毒に思って、自重しておいでなのかしら」
エマニュエルの顔にはこぼれそうな微笑が広がる。そしてアランに一歩近づく。

「善良なかた。
 姉様は何度もおっしゃったでしょう?わたしは強いのだと。
 そのとおり、わたしは強い女ですわ。
 だから過去など必要ないの。過去を振り返る必要などないの。
 過ぎ去った昔を偲びあい慰めあうなど、無力で怠惰な者たちがすることよ。
 わたしには今があればいい。今目の前の歓楽を手に入れるためならどんなことでもできますわ。
 他の人々、たとえばあなたや姉様がそれをなさらないのは、何も信仰心のためだけではありません。そうでしょう?
 単にその機会に踏み切るだけの強さが、勇気が欠けているだけですわ」

エマニュエルはついにアランの眼前に立った。
そして彼の顔を優しいまなざしで見上げ、なめらかな右手でその頬に触れた。
「さあ、邪魔が入ってしまったけれど、先ほどのつづきをいたしましょう。
 一晩中、可愛がってさしあげますわ」




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