黙り込んだまましばらく青年と対峙したのち、アランはゆっくり口を開いた。
「貴殿は海軍勤めを志望しなかったのか」
「ええ。自分の向き不向きを考えるようになる前に、父の意向で宮中に上がっておりましたので」
「それほど早くから?」
「八、九歳からになります」
青年の口調はあくまで穏やかだったが、アランは少し居心地の悪さをおぼえないでもなかった。
海軍副司令官を務めるほどの父親をもつならば、彼の家格は中小領主級どころかかなりの名流ということになる。
アランがスパニヤ上流社会について知る限りでは、貴族や富裕層の子弟は基本的に中央の学府に籍を置き、
よほど成績優秀な者を除いてはそれぞれの家柄に応じて官途に就くそうだが、
この男は庶子だというだけで高等学府に学ぶ権利さえも父親から与えられず、
平民の子が徒弟修業に出るように、ごく幼い時から宮仕えに出されたという。
後ろ盾のない母親をもって貴門に生まれた非嫡出子としては、スパニヤではあるいは標準的なのかもしれぬとはいえ、
やはり彼の境遇に思いを致すとあまり踏み込んで聞きたくなる話ではない。

「なるほどな」
アランも短く受け答えた。
他人の事情に興味をもつことが乏しい彼にしては珍しく、
この控えめな、二十にもならぬ若年にして心中の波瀾を着実に抑制するすべを身につけているかのような青年の来歴について、
もう少し知りたい気がしないでもなかったが、
今ここでは彼と女主人との関係を明らかにすることのほうがはるかに重要だと、そう思い直したのである。
感情の起伏を容易に見せないことで宮中に知られる王太子は、ふだんの平坦な口調からさらに慎重に情意を抜き取りながら、簡略に尋ねた。
「いつごろからエマニュエル妃の護衛を」
「宮廷に上がった当初は従士見習いから始め、その後従士として兄王子殿下のご身辺に仕えておりましたが、
 十六のとき、エマニュエル様のお輿入れに際して随員となることを希望いたしました。
 先ほど申し上げましたようにわたくしは嫡出ではなく、母もごく小さい頃に他界しておりましたので、
 もとより家人から止められることもなく、国王陛下よりお許しも授かった上で出国叶いました」
「エマニュエル妃は、嫁ぐ前から―――王女だった頃からあのような素行があったのか」
エレノールの話を信ずる限りそれは考えがたいことだが、という思いを滲ませながらアランは問うた。
もしこの答えが是とすれば、あの女はほんの少女だったころから、幾星霜重ねた魔女のように自分を演じ分けていたことになる。
青年はほんの一瞬まなざしを硬くした。そして、いいえ、と首を横に振った。
「エマニュエル様は天性大変慎み深く、また周囲の者に愛情深くあられるおかたです。エレノール様がそうであられるように」

青年の口から妻の名を聞かされると、アランの心中には音もなく波が立った。
つい先ほど書斎でひとり目覚めたときの暗い思いが頭をもたげ、湿った濃霧のように彼の意識にまとわりつく。
王太子は声を強めた。怯えにも似た己の揺らぎを、目の前の若い男に悟られることだけは許せなかった。
「それがまことならば、なぜ今はあのような所行に及んで毫も恥としない。
 こたびの発端は俺の軽率さにも一因があることだ。我が一身の不利益についてはこの際措く。
 だがエレノールに何の非がある。あれが妹を愛する思いは本物だ。
 己を愛する者に憎悪の刃を向けるのは、神をも畏れぬ所業ではないか。
 ―――汲めども尽きぬようなあの憎悪は尋常ではない。
 エレノールが自覚しておらぬだけで、あのふたりには生国にいたとき何か決定的な仲たがいでもあったのか」
「いいえ。そのようなことは。
 おふたりの睦まじさは決して表層を取り繕うものではなく、真実でございました。
 ―――そのように、拝見申し上げておりました」

青年はそれ以上ことばを継ぐことはなかった。
伏せられたその視線の先を追いながら、アランは軽く唇を噛んだ。
つい昨夜「立ち会い」を許したという屈辱にかろうじて目をつぶりこの男と対話をつづけてきたが、
これ以上問答をつづけたとて、己を取り巻く状況を少しでも好転させうる糸口を彼から引き出せるとは思われない。
もはや潔くきびすを返すべきときだった。しかしアランは動かなかった。
はっきりした理由があったわけではない。
けれど、目の前の青年に一種の共感をおぼえていることは自覚していた。
それは、この男もまた自分と同じように、あの女の無軌道な玩弄のために暗く狭隘な淵にとらわれ、身動きがとれないでいるのだという直感だった。
「貴殿は壊れるぞ」
自分でも意図せずして、アランは独語のように呟いた。
それは脅しでも嘲りでもなく、理の当然のように心に湧き上がってきた思いだった。
そしてまた、いまだ閉塞感に甘んじ打つ手を探しあぐねている自分自身に対する短い宣告でもあった。
青年はまなざしを上げた。
淡い色の瞳は一瞬驚きを浮かべたようだが、不快感を映し出すでもなく、
小石を投ぜられた後のゆるやかな渓流のようにじきに静けさを取り戻した。
「そうかもしれません」
「分かっていてなお、あの女に従うか。自棄の道を進むは人の子の務めにも我らが戒律にも反するぞ」
「自棄になったつもりはございません。
 このままわが主の身辺に侍りつづければ、あるいは私は壊れるかもしれませんが、そうならぬように、己を失わぬように、努めております」
「それほど己を磨耗させ仕えつづけたとして、一体何の得るところがあるというのだ。
 貴殿がどれほど真摯な誠意を捧げようと、すでに人倫を手放しきったあの女の前にあっては、
 底のない胃袋を抱えた蛇に遭遇したようにただ嚥下されるだけのことだ」
「―――報われる日を待つために、お仕えしているわけではございません」
自らのことばを自分自身で噛み含めるかのように、青年はゆっくりと言った。
「あのかたは生来、まこと心清らかで愛情こまやかなかたなのです。
 愛する者を必要とするかたなのです。
 わたくしが待つのは、ただ―――」

言いかけて、青年ははっと口をつぐみ、ふたたび跪拝の礼をとった。
視線の先を追ってアランが振り向くと、そこにはエマニュエルの姿があった。
厳しく躾られた深窓の姫君の常として、無意識のうちに足音を立てずここまで近づいてきたのだとしても驚きではないが、
たとえ武芸の心得がある者でも、己が気配を完全に消し去ることは困難である。
つまり男たちはふたりとも、今このときまで第三者の接近に気がつかないほど互いのことばだけに意識を尖らせていたということであった。




「そこまでにしておきなさいな」
彼女は微笑んではいなかったが、不機嫌そうというわけでもなかった。
ただ声音だけがある種不気味なほど平板だった。
「セルヒオ、―――いえセルジュ、おまえはよくも、愚にもつかぬたわごとをアラン殿下に開陳できたこと」
「―――お許し下さい」
「最初に問いただしたのは俺だ」
アランはできるだけ冷静な口調を保ちながら義妹に向き直った。
「この者は事実を述べただけであろう。
 貴様という女は、ひととの約定を破って平然としているばかりか、己の背信を無辜の家臣になすりつけるか」

「心外ですこと、お義兄様」
エマニュエルの顔に初めて笑みが浮かんだ。心から可笑しそうに口角が上がる。
「わたしがこの者を問責するのは、そのようなことのためではありません。
 そもそも、この者は自分で『畜獣に等しい』身だと言明いたしましたでしょう?
 わたしは今でも、この者を立ち会わせたことでお義兄様とのお約束を破ったとは思っておりません」
「貴様……!」
「なぜわたしの怒りを買ったかは、この者だけが承知していればよろしいのですわ。ですから、お義兄様」
エマニュエルはいつのまにかアランのすぐ右手に来ていた。
セルヒオと呼ばれた青年を含めると、三人の立ち位置はほぼ二等辺三角形を描いている。
「ご協力いただけるかしら」
「協力だと」
「分を弁えぬ愚か者への、見せしめのためですわ」
「―――馬鹿な」
言い終える前に、アランは自分の唇がふさがれるのを感じた。
とっさに華奢な両肩をつかんで引き剥がすが、女は取り乱した様子もない。
「お忘れになったの?わたしのお願いは、いつでも聞き入れて下さらなくては」
「―――調子に乗るでないぞ」
「いいえ、お義兄様こそ、この者の口が堅いことを知ったからといって気を大きくなさってはいけませんわ。
 今朝がたの遊戯のような機会は、これからもいつでもございますもの。なければ、創り出すまでですわ」

すでに怒りで青くなっていたアランの顔は、いままた一層その色を濃くした。
だが結局、彼は何も言わなかった。
エマニュエルはふたたび義兄に一歩近づいた。互いの鼻先がほとんど触れ合いそうになる。
「ご寛容にもお聞き入れいただき、誠に幸甚ですわ、お義兄様」
そしてふたたび唇を重ねてきた。
アランは今度は義妹を押しのけることはなく、嵐の通過を待つように目を閉じた。
傍らに跪いて侍りつづける青年の様子が気にならないわけではなかったが、彼はあえてそちらを見なかった。
じきに柔らかい力が唇を押し分け、あたかも本来の主人が帰還するかのようになかに侵入してくるのを感じた。
それは時折アランの舌を絡めとりつつ、口腔内をくまなくなぞるように、時間をかけて丹念に嬲ってゆく。
いつもながらの舌使いの巧みさに加え、胸から下肢まで女の柔弱さをぴたりと押しつけられた今、
アランの若く壮健な肉体はごく自然な反応を示さずにはいられなかった。
エマニュエルからの奔放な接吻にさらされるのは何もこれが初めてではない。
けれど、今の彼女は明らかに、アランに屈辱を味わわせるためではなく、この護衛に顕示したいがために自ら情事を主導しようとしている。
アランの背後に回された繊手はいつになく入念に、数年の時を経て再会した恋人への愛撫のように、後頭部から背中へとなまめかしく這い回りつづけ、
その演劇的な執拗さにさえ、女の仄暗い底意が込められているかのようだった。

「お義兄様、可愛いかた」
歌うように囁きながら、エマニュエルは顔と身体を義兄から少しだけ離し、彼の下腹部を服の上からいとおしそうになぞり上げた。
そして革帯の留め具に手を伸ばすと、下衣と肌着の前を開け、ためらいもなく彼自身を取り出してゆく。
それはまだ直立には及ばなかったが、七割がた硬直しているのは人目にも明らかであった。
エマニュエルはかすかな衣擦れの音とともに跪いた。
アランはわずかに目を開けた。
今初めて気づいたことだが、彼女は貴婦人の外出用とは言いがたいごく簡素な麻織りの夏服を来ていた。
エレノール母子との午睡を終えたあと、そのままここまで歩いて来たのだろう。
レース地の白い被りものとあいまって、淡い藍色が目に涼しかった。
(なぜこんなところへひとりで足を運んだのか)
今さらのように、彼は義妹の出現を訝しく思った。
アランのように彼女までもが、偶然従者も連れずに通りかかったということはないだろう。
考えられるとしたら、かねてよりこの場所でこの護衛と落ち合う約束をしていたということだ。
彼が愛人のひとりではないのだとしても、わざわざふたりきりで過ごす時間を設けるほど近しい家臣に対してなぜ、
この女はこれほど理不尽かつ非情な真似ができるのか。
いくら自問したところでアランには分からず、考えれば考えるほどエマニュエルの瞳の奥に呑み込まれてゆく気がして、彼はついに思考を停めた。

エマニュエルの唇が先端に触れた。
ふだんの彼女は猫が鼠を弄ぶような愛撫を施すことを好むが、
今日はなぜか、文字通り忠切なる奉仕というべき恭しさで彼の隆起に入念な接吻を始めた。
やがて先端から透明な液体が滲み出るようになると、動き慣れた舌がその滴りを優雅に掬い取り、最後に口全体を使った慰撫となる。
しばしの反復運動のあと、唾液にまみれたふたりの接点から、清浄無垢な湖畔の静けさとは決して相容れない生々しい水音が上がった。
エマニュエルが意図してひときわ強く吸い上げたのであろう。
ほぼ同時に、傍らから深く息を飲む音が聞こえた。
アランはとうとう薄目で青年のほうを見下ろした。
彼の恥辱感はかつてなく高まっていたが、それでも青年の挙動をたしかめずにはいられなかった。
セルヒオと呼ばれた若い護衛はそれまで主君たちふたりを横から仰ぎ見る位置に跪きながら、何ひとつ視界に納めぬよううなだれつづけていたに違いないが、
今はいっそう深々と、ほとんど自身の胸を凝視せんばかりにして、眼前で結合を果たした彼らから面を背けていた。
それでもアランの目には、彼の肩も膝に置かれた手も、痙攣するように小刻みに震えていることが分かった。

(これほどの仕打ちに耐えて、この男は主君のなかに何を見るのか)
訝しみというよりはほとんど憐れみに近い感慨に襲われながら、アランは青年の肩を眺めていた。
それは同じ女から愚弄を受けている男に対する同病相哀れむという共感ではなく、正常な感覚を失った者に対する戦慄にも似た憐憫だった。
(二日前の夜に限らず、いや、このレマナの地に来る以前から、この男はこのような『懲罰』に晒されてきたに違いあるまい)
ただの直感に過ぎないが、アランはそれを疑わなかった。
この青年の尋常ならざる忍従ぶり、文字通り自我を放棄したかにも見える従順さ忍耐強さには、
ほとんど殉教者になぞらうべき趣があり、それはすでにあらゆる責め苦をくぐってきたことの証だと彼は思った。

エマニュエルの唇の往復運動は、少しずつだが激しくなってきていた。
収束のときを間近に控え、アランもさすがに呻きを押し殺しつづけることはできなくなった。
白みゆく意識に抗いながらふたたび傍らを一瞥すると、自らの膝に置かれた青年の手は、
爪が食い込まんばかりに強く握りしめられていた。
それでも彼は立ち上がって去ろうとしない。黙って全てを甘受し、主君の命を最後まで履行しようとしている。
(この者たちは、そろって狂気で結びつけられているのか)
次々に押し寄せる快感の波に洗われながら、アランは一方で寒々しささえおぼえた。
エマニュエルがふと顔を離した。濡れた唇と彼の先端との間に透明な橋が架かる。
上目遣いに向けられる面立ちが際立って清楚なだけに、その眺めの卑猥さは形容しがたいものがあった。
彼女は限界まで硬直しきった彼自身を両手でいとおしむように擦り上げながら、義兄に優しく話しかけた。

「お義兄様、どうか余計なことはお考えになられませんよう。
 わたしの『ご奉仕』だけをお楽しみいただかなくては。
 ほらもうこんなに、怖いほどに硬くなって、張り詰めていらっしゃる。
 お果てになるのももうすぐかしら?
 最後にはどうか、いつものようにすべて、口に出してくださいませ」
そしてまた彼女は義兄のものをためらいなく口に含んだ。
先端から根元にかけて、アランにはまた痺れるような快感が蘇ってくる。
エマニュエルの口舌の動きは当初は穏やかだったが、徐々に激しさを取り戻してゆく。
アランは唇を強く噛みしめた。が、獣じみた喘ぎはもはや抑えられそうにない。
やがて彼女の唇とアラン自身の摩擦から生じる水音は湖面すら震わせそうなほど淫靡に高まり、
彼の思考はそこで立ち止まらざるをえなくなった。
ある一瞬、激しい振動とともに彼のなかで何かが弾けた。
しかしさきほどの自問は霧散することなく、アランの胸の一隅にひっそり留まりつづけていた。

「分かったこと?」
アランの荒い息が収まらぬうちに、最初に聞こえたのはそのことばだった。
一瞬彼は己に問いかけられたのかと錯覚したが、声のするほうに目をやれば、
すでに立ち上がった義妹が朝露を含んだ桜桃のような唇を絹の手巾で拭いながら、傍らに跪いたままの年若い家臣を見下ろしていた。
「わたしの目の届かぬ場所だからといって、つまらぬことを口にすれば相応の罰を受けるのよ。
 覚えておきなさい」
(―――いったいこの女は、何を言っているのだ)
呼吸の回復とともにアランの思考は本来の明晰さを取り戻し始めた。
だがどう考えても、自分とふたりきりで対話していたときの青年の発言に何らかの非があるとは思われなかった。
青年とて彼女を誹謗する意図など微塵も持たなかったのは間違いない。それでいながら一言も抗弁することなく、主人の前でただ従順にうなだれている。
「それでは、お義兄様」
エマニュエルはふたたびアランを仰ぎ見た。
潤いを残した唇の両端が、ちょうど真昼の夢に見たあの紅の微笑のように、優雅に愛らしくほころんでいる。
「晩餐の席でお会いしましょう」




夜の食卓は思いのほか静かだった。
アランが食堂の扉をくぐったときには、エレノールはまだ来ておらず、エマニュエルひとりが着座していた。
彼女の傍らにはルイーズがいる。この幼い姫はむろん大人たちと同じ食卓を囲むわけではないが、
主客が揃って晩餐が始まるまでの間、その豊かな表情とたどたどしくも愛くるしい発語でもって、
大人たちに喜びを供する役目を毎晩果たしているのだった。
エレノールのほうは晩餐用の衣装の支度が長引いているのだろう。
彼女が到着するまでは義妹と実質ふたりきりで会話を進めねばならぬという状況がアランにはひどく気鬱だったが、
それ自体は不安の種ではなかった。

ルイーズが座る背の高い椅子のすぐ背後には乳母が控えており、
厨房へ通じる扉から漂い来る佳香がもう一方の扉付近には未だ行きわたらぬほど広い食堂の四方の壁面には、
男女の給仕が整然と立ち並び、主人たちの会食の間中、いささかの手落ちもなく機敏に職務を全うすべく待機している。
エマニュエルのなかで義兄をできうる限り長く漸々と苦しめたいという思いが本物であるかぎり、
彼女がこのような場で軽々しく彼の弱みを口にのぼすはずはない。
アランは義妹に軽い挨拶を送って主人側の席に着いた。
エマニュエルも彼に丁重な礼を返してから、ふたたびルイーズのほうを向き、 彼女の父親を仲間に入れるべく会話を再開した。
その口ぶりには、数時間前の湖畔での出来事など全くの白昼夢だったのではないか、とアランをして自ら疑わせしめるほどに、
曇りも誇張もない親愛の情があふれていた。

「さっきのつづきよ。お父さまの前で申しあげられるかしら。ルイーズの次のお誕生日は?」
「つぎのお、つぎの、つき」
「そのとき、ルイーズはいくつ?」
「ふたあつ」
「えらいわ、賢い子ね」
警戒心を緩めるつもりはなかったが、アランも思わず知らず口元がやわらいだ。
ルイーズは元々発語の早い赤子だったが、
自らが外国人であるがゆえにこの国のことばの習得を遅らせてしまうのではないかと恐れる母親から
朝晩何くれとなく語りかけられていることも相まって、
二歳にならない今でさえ、かなりの数の語彙を身につけつつあることは彼も知っていた。
けれどものの数えかたはごく最近おぼえ始めたばかりだと思っていたから、何度も復唱させられた結果であろうとはいえ、
幼い娘がすでに自分の歳まで言えるようになったと知るのはやはりうれしい。

「ふたつ、ふたあつ」
言えば言うだけほめてもらえると知っているためか、ルイーズは何度もうれしそうにくりかえし、叔母の手をつかんで上下に揺する。
背後に立つ乳母がさすがに止めようとするが、エマニュエルはくすくす笑いながらそれを制し、
色づき始めた桃の実のような姪の頬を両手で挟み顔を近づけると、小さな額に優しい接吻を落とした。
「二歳ならもう、赤ちゃんよりずっとお姉さんね」
「おねえさん」
「分かるかしら?」
「おねえさん、おおきい」
「そうよ、おりこうさんね。
 二歳のお姉さんになったらすぐに三歳だわ。聖具拝領の衣装も、いまから考えないといけないわね」
蝋細工のように白く小さな姪の指に自らの指を握らせながら、エマニュエルはつぶやくように言った。

「しぇいぐ?」
「聖具拝領よ」
「せいぐはいよお」
エマニュエルはいとけないほどに目を細めた。
それはエレノールが揺籃をのぞきこむときに見せるのと寸分も変わらない、目の前の幼子にとこしえの幸いを願う笑顔に違いなかった。
青緑色の一対の瞳を見つめながら、年若い叔母はさきほどにもましてゆっくりと語りかけた。
もとよりすべての内容を理解させるつもりはないのだとしても、
世界を疑うことを知らないほんの小さなこどもに相対する大人としては、稀有なほどに誠実な話し方だった。
「そう、聖具拝領よ。
 自分の名前をあやかった聖人さまにご挨拶をして、聖人さまゆかりの品をかたどった飾りものを、神父さまのお手からいただくの。
 あなたの守護聖人は”春待つ谷”の聖ルイーズさまだから、ひばりをかたどった髪留めをいただくことになるかしらね」
「ひばり?」
「ええ」
「ひばり、とりさんね」
少し考えてから、ルイーズはうれしそうに言った。
その手放しの喜びにつられるようにしてエマニュエルも笑みを深くし、姪のやわらかい黒髪に指を入れてそっと梳き始めた。

「そうよ、おりこうさんね。
 聖具拝領を行うその日はとても大切だから、男の子も女の子も真っ白なお服を着て、
 教会のなかが雪であふれたようになるのよ」
「まっしろ?」
「ええ、被りものもお服も、お靴まで真っ白」
「まっしろ、およめしゃまね」
「そうよ、賢い子ね」
「おかあしゃまと、おんなじ」
「―――ええ」
「おかあしゃま、およめしゃまだったの」
「ええ、よく知ってるのね」
「ルイーズも、おんなじね?おかあしゃまと、おんなじ」
ルイーズは先ほどよりもっとうれしそうに笑った。
何の作為もない、春風にほころびかけたばかりの野薔薇のつぼみのような笑いだった。
「おかあしゃまと、おんなじ」
「そうね、同じね」

エマニュエルは変わらぬ優しい声で応じた。
だが、これまでその底に敷き詰められていた羽毛のような柔和さは、すでに別のものに変じてしまったことを、
傍らに座るアランはふっと感じ取った。
「いつか、その日がきっと来るわ。あなたには」
「いつか?」
「ええ、いつか」
「いつか、―――いつか」
時間を表す副詞はまだ手に余るのかもしれない。ルイーズは聞きなれない単語を繰り返すばかりだった。
「おばしゃま、いつか、ね」
「ええ、いつか、きっと。大丈夫よ、いつかあなたには、必ず、―――ええ、あなたには、必ず」
「エマニュエル殿」
アランは初めてことばを挟んだ。
義妹の声音は最初から一貫して平穏で、何かしらの激しさを滲ませていたわけではない。
けれど先ほどから少しずつ、無意識に平衡を失ってゆくような、どこか尋常でない響きを帯び始めたのもたしかだった。
エマニュエルは無造作に義兄のほうを向いた。その平板な瞳には何の色もなかった。驚くほど、何もなかった。

「おかあしゃま」
大人たちの沈黙を破るようにして、ルイーズがふと口をひらいた。
小さく手を振るその先を見れば、衛兵の手でひらかれた食堂の胡桃材の扉の向こうに、エレノールの姿が現れたところだった。
「お待たせしてごめんなさい。
 衣装室の窓辺の近くに咲いていたから、少し摘んで来たの」
そう言ってエレノールが卓上の花瓶に挿し加えた白い花々は、
山地育ちならではの瑞々しいたくましさとでもいうべき生命力を放ちながら、凛とこうべをもたげて七分ほど花弁を広げていた。
「山百合ね」
エマニュエルが言った。
「そう、百合の花よ。わたくしたちの花」
エレノールは微笑みながら応じた。
そのことばが、姉妹の血を結びつけるスパニヤ王家の紋章を暗に指していることはアランにも分かった。
しかし当人同士にしか分からない親密な空気が流れる間もなく、ルイーズが突然、大きな声で会話に割り込んでくる。
「まっしろ!」
「そうね、真っ白ね」
自分自身に似て母音を強調しがちな娘の発音を案ずるかのように、エレノールはゆっくりと繰り返す。
「まっしろ、およめしゃま」
「そうね、お嫁さまもこの花のよう。いつも真っ白ね」
「ルイーズも、ルイーズも」
「あら、ルイーズも?」
「もうよかろう。これは休む時間だ」

先ほどの「まっしろ!」にも増して唐突にアランは話を打ち切らせ、乳母のほうを振り返ると、ルイーズを子ども部屋に連れ帰るよう命じた。
エレノールは軽く驚いた顔で口をひらきかけたが、元は自分が遅れてきたために苛立たせてしまったのだと自省したのか、
有無を言わせぬ夫の語気をそれ以上訝しむことはしなかった。
「今日はどのようにお過ごしになられました」
気持ちを切り替えたようにいつもの笑顔に戻ったエレノールは、いつもの問いをアランに向けた。
アランはひとつ間を置いた。エマニュエルのほうは見なかった。
とりたてて何もない、と前置きしてから、昼下がりの出来事だけを拭い去って、彼はゆっくりと語り始めた。




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