一瞬、幻を見ているような錯覚に襲われた。
書斎へ向かう途中に通りかかった吹き抜けの渡り廊下からは、中庭がよく見渡せる。
中庭の入り口付近には小さいが精巧な仕掛けの噴水があり、
その正面に置かれた長椅子にはふたつの人影が寄り添うように座っていた。
噴水のしぶきが宙に生み出す虹を愛でているのだろうか、ときどきかろやかな歓声が上がっている。
緑陰にて夏の朝の清涼を楽しむふたりの貴婦人。それは宮中ではありふれた風景である。
ただ、ふたりの顔かたちが鏡に映したように同じであるということだけが尋常ではなかった。
頭上に広がるポプラの枝葉から零れ落ちる陽光を散りばめた黒髪と、ときおりまぶしそうに細められる漆黒の瞳。
余人が彼女たちを目にしたら、その寸分違わぬ精緻な美しさに、
地上に降りた一対の守護天使のようだと評する者もいるかもしれない。
だがそのときアランをとらえたのは、何か軽い眩暈のようなものだった。
一瞬後、彼はすぐ事態を了解する。
あれは妻と妻の妹だ。何もおかしなことはない。一方が他方の分身などであるものか。
そして考えてみれば、自分はここのところふたりと顔を合わせるたびに
こんな錯覚に襲われているのだということに思い至り、ひとり苦笑いをする。




ことの起こりはまったくの偶然だった。
夏の盛りを迎えたのを機に、王太子夫妻は例年どおり国土の東北に位置する山間部レマナを訪れた。
ここは辺境州としてガルィアの王領に組みこまれてから日は浅いものの、
穏やかな気候とたぐいまれな景勝、そして豊かな鉱水により国際的にも名高い保養地であり、
ガルィア王室の離宮が構えられているのはもちろん、諸外国の上流人士の所有になる別荘も多々点在していた。
自国がガルィアと政治的緊張状態に陥らない限り、彼らも毎年のようにここを訪れては英気を養い帰ってゆくのである。
猛暑の訪れとともに久方ぶりに公務から解放されたアランとエレノールの夫妻も、
宮廷の喧騒から離れたこの清涼な土地で、一昨年生まれた女児ルイーズを伴いながら静謐閑雅な暮らしを数週間楽しむつもりだった。

だが、レマナに到着したその日の夕方、ある隣人の噂を離宮の廷臣から伝え聞くと王太子妃はかつてない喜色に頬を染めた。
ごくわずかな供回りを連れただけの貴婦人が、身元を隠すようにして数日前から近隣の城館に滞在しているが、
呼吸器の軽い疾患のために静養に来たというその女性は、
黒髪に黒い瞳ばかりか顔立ちの隅々までがエレノールに瓜二つだというのである。
奏聞が終わるやいなやエレノールはアランに口を挟む暇も暇も与えずに浮き足立つようにして離宮を出てゆき、
数時間後まさにその貴婦人を連れて戻ってきた。
それが彼女の妹エマニュエルだった。
嫁ぎ先の呼称ではエマヌエーラとなるそうだが、エレノールだけは母国語風にマヌエラと呼んでいる。




スパニヤ王国第三王女エマニュエルはエレノールからすれば年子の妹にあたる。
芳紀十八にして陽光とオリーブの香りあふれる母国よりさらに南方のヴァネシア公国に嫁ぎ、今年二十一になるという。
南海の翡翠。斜陽を知らぬ都。神の恩寵に護られし地。
あまたの形容で古歌にも誉れ高く謳われる都市国家ヴァネシアは、
地形的には限りなく島嶼に近い小半島であり、
異教徒たちが割拠する東大陸から突き出た西南端の半島を
自らの属する文化圏である西大陸に海峡を隔てながらかろうじて結びつける危うい楔のような位置を占めている。
支配領域は三方を海に囲まれた首都とその周辺の岩がちな沿岸線に限られており、
人口の寡小と圧倒的な経済力を背景に、自国の防衛は伝統的に外国人の傭兵に一任してきたというのが実情である。
しかしながら、地の利を最大限に生かして東西中継貿易路を最初に開拓し、
商業上の競争相手たる近隣諸都市を同盟の名のもとに次々と服属させ、
古来より一貫して独占的に繁栄を謳歌してきたのもやはりヴァネシアであった。

造船技術の向上と火薬の伝播により、ガルィアを始めとする諸大国も
軍事的・経済的に有利な陸路海路の開拓に勤しむようになって久しいが、
それでもやはり、この大陸に東方異教徒の国々から目の覚めるような精巧な文物をもたらすとともに
関税や専売制によって各国の重要財源をも提供している大陸間通商
―――いわゆる南海交易は、ヴァネシアの中継なしでは依然として成りたたないといわれている。

専ら交易に拠って立つ小さな都市国家の常として、
ヴァネシアにおいても政治的発言力は君主や貴族議会より主要商会のほうがまさっていることは動かしがたい事実であり、
恣意的な法令でもって大商人たちの利権を侵害した君主が玉座を追われたことも過去に一度や二度ではない。
そのように、王侯貴族にとってはある意味屈辱的ともいえる国情がつづいており、
かつ地理的環境上、常に大陸間の戦火に巻き込まれる危惧を抱いて暮らさざるを得ないことから、
その統治者たる公に嫁ぐのは、いくら莫大な富に囲まれた生活が約束されるとはいえやはり相応の諦観と胆力が必要となろう、
と諸外国の王室からは縁組を敬遠される傾向があるのも否めない事実だった。

アランはこれまで義妹に一度も会ったことがなかったが、
エレノールとはひとつ離れているというのに並の双子以上によく似た妹姫だという旨は侍女たちから仄聞していた。
そのうえ子沢山なスパニヤ王室のなかでもとりわけ仲のよい姉妹だといい、
未婚時代のふたりはいつも一緒にいるがゆえに、
それぞれの侍女は常々己が主人の識別に心を砕かねばならなかったという話である。
ただしエレノール自身はといえば、妹に言及するときは必ず
「あの子はわたくしよりずっと綺麗だから、あなたがお会いになったら心を奪われないかと心配だわ」と、
冗談とも本気ともつかない声で付け足すものだから、アランも女性としての義妹に若干興味を惹かれないでもなかった。
むろん、おおよそは妻の罪のない誇張というか身びいきであろうと思いながら。

何しろ、もともとが肉親に対し情の深いたちだとはいえ、
エレノールがすぐ下の妹について語るときの愛情の込め方には、いつもひとからならぬものがあった。
あの子は小さなときからとても愛らしくて、聡明で、努力家で、思いやりがあるのだと。
その幸せそうな語り口を聞くにつけても、すぐ下の弟ののらくらぶりに自分は幼い頃からどれだけ気を揉まされてきたかを思い出し、
何かこう、世の不公平を感じるアランでもあった。




エレノールが妹を連れ帰ってきたその晩、急ごしらえの宴席にてヴァネシア公妃エマニュエルと初めて対面してみたところ、
容姿においては妻と伯仲であろうという予想は間違っていなかった。
華奢ながら女性らしく優美な体格は言うまでもなく、
飴菓子のように滑らかでつやづやしい小麦色の肌も雨上がりのように潤いを含んだ黒髪も、
そして大粒の宝玉と見紛うばかりの漆黒の瞳もたしかにエレノールと寸分変わらぬ造形というべきであり、
真珠や珊瑚を贅沢に散りばめたヴァネシア風の髪飾りや装束さえまとっていなければ
アランでさえ一瞬妻と見間違えかねないほどの危うさがあった。

しかしながら彼は、無難な時候の挨拶を美しき義妹と交わしながら、
そんな誤りは実際には起こり得ないとじきに確信をもつに至った。
そしてそれこそ、エレノールが「あの子はわたくしよりずっと綺麗だから」と評する理由に違いない、とも思った。
姉姫がそうであるのと同様、エマニュエルも温和で気品に満ちた婦人であるが、
万事におっとりとして他人を信じ込みやすい姉姫に比べ、
彼女のほうは穏やかな態度のなかにも他者に馴れ合いや阿諛を許さない確固とした線引きのようなものが感じられた。
また、王侯貴族の社交の要であり人物評価の基準にもなりうる会話術の巧拙はといえば、
若い女性の常として主題の定まらない話をとりとめなく語りつづけがちなエレノールに比べ、
エマニュエルのほうは常に機知に溢れる会話を整然と主導しなおかつ聞き上手なので、
アラン自身俺はこれほど話術に巧みだったのかと幾度も錯覚を覚えるほどであった。

そして何より姉妹の区別を印象づけるものとして、エマニュエルの瞳には力があった。
石膏に刻みつけられたかのようにくっきりとした二重まぶたも
密林のように濃く長いまつげも森の奥深くで湧きいづる泉のように黒く濡れた虹彩も、
器官としてのつくり自体はエレノールとほとんど変わるところがないというのに、その発する気配が彼女とは全く異質なのだった。
使い古された言い回しではあるが、わが妻が万物に柔和な光を注ぐ月ならこの娘は太陽だな、とアランは思った。
それも炎夏の朝、一日の生命力を燃やし始めたばかりの太陽である。
義妹の美しい瞳にはそれほどの鋭気が潜んでいた。

しかしだからといって、彼女は見るからに気性の激しさを感じさせるというわけでは決してない。
ともに食卓を囲んでいるときの挙措や表情、ことばづかいは、姉姫ほどの柔和な親しみやすさには欠けるとはいえ、
二十歳を過ぎたばかりの年若い娘にはそぐわぬほどの落ち着きと余裕に満ちていた。
いまここには同席していないものの、幼いルイーズもじきにこの美しい叔母に懐くことであろうと、アランには容易に想像がついた。

エマニュエルの物腰には、頭の回転の速い人間にありがちな、ひとを不安にさせるたぐいの尖鋭さは見られない。
いわゆる才色兼備と呼ばれる婦人にありがちな、
美貌以上に才気を評価されたいという欲求さえ感じられない。
控えめに評しても義妹は、己の知性を糊塗できるだけの知性に恵まれていることはたしかだった。
だが、その知性をもってしてもまだ覆い隠せないほどの何かを、
―――情熱と呼ぶべきものを内に秘しているのもまた、本当のようだった。




(たしかに、エレノールが冗談でも不安を口にするだけのことはある)
静かに酒杯を傾けつつ妻とその妹の顔をそれとなく見比べながら、アランは少し酔いの回った頭でぼんやりと思った。
彼女たちは同席するアランに配慮してガルィア語で話を続けているが、
その歓談の盛り上がりようから察するに、
彼が席を外すのさえ待てずに今にも母国語で互いの愛称を呼び合いたいに違いなかった。
それにしてもエマニュエル妃はわが国語に長けている、とアランは密かに感心した。
自他ともに認める随一の文化国家という位置付けから、
ガルィアはその国語さえもがこの大陸の優越者たる地位を占めて久しかった。
いわゆる国際公用語である。
むろん各国とも何よりまず自国語での文芸振興を標榜しているものの、いずれの国であれ上流社会に属する者たちは、
ガルィア語をいかに流暢に使いこなせるかということに貴種としての沽券を賭ける風潮が強かった。
そのような教育方針を何代もとり続けた結果として、
彼らの子女には自国語で手紙を書けない者さえいるというのだからアランなどは失笑してしまうが、
彼が義妹に感服したのは、彼女は母国語や嫁ぎ先の言語は言うに及ばず
ガルィア語も古典語も実に不足なく習得しているからだった。

姉妹それぞれ婚約者が定まっている身ながら十五六ごろには天性の美貌が鮮やかに色づき始め、
スパニヤの宮廷人たちの注視を浴びずにはいられなかったであろうことは想像に難くないが、
聞くところによれば、エマニュエルに懸想する貴公子の数は常に姉姫の倍はあったという。
さもありなん、とアランは思う。
それほどに、温和な物腰と明朗な瞳の裏側に暗い情炎を秘めた、どこか深淵を感じさせる娘なのだ。
この姫が隠そうとしている情熱を引き出せた暁にはどんな悩ましい表情を見せてくれることだろう。
周囲の男の気概をしてそう駆り立てずにはおかない何かが、この娘にはあるのだった。

そしてそれだけに、惜しいことだ、ともアランは思った。
不憫なことだ、と言ったほうが正しいだろうか。
大陸屈指の由緒ある血統はむろんのこと、美貌も知性も社交性もあまねく兼ね揃えたこの娘、
これ以上何も望むことなどあるまいと傍からは思われる年若い貴婦人は、
結婚生活に関してはその美質にふさわしい待遇を与えられているとは言いがたかった。




もとより遠く離れた異国の宮廷の内情であり、アランとてそれほど確信をもって把握しているわけではないが、
南海東部方面の諸国に放っている間諜たちからの定期報告によれば、
―――むろん彼らの第一の任務は当該国の政治経済および軍事上の動向を探ることであり、
君主の私生活に言及するとしたらあくまで備考という域に留めるのみではあるのだが―――
彼女の夫である現ヴァネシア公はくたびれた初老の男であり、
先君である兄の跡目は本来その一人息子が継ぐはずであったのが、
当時東方からもたらされたばかりの流行り病で夭逝してしまったがために、
五十も過ぎてから公位継承権が急遽転がり込んできたのだという。
皮肉なことに、エマニュエルが本来婚約していたのは英名高き公太子のほうであり、
ヴァネシア公は玉座と同時に若く美しい許嫁を手に入れたことになる。
しかしながら彼の評判は将来を嘱望された甥に遠く及ばず、
即位の話がもたらされるまでは諸国の富が集まるヴァネシアの豊かさを享受しながら日がな安穏と暮らしていたためであろうか、
政治家としての手腕もまるで未熟だという話だった。

実際、エレノールに聞いたところでは、彼女たちの父であるスパニヤ国王も、
このような「再嫁」を図ることに若干の躊躇を覚えたというが、それでも結局踏み切るに至ったのは、
中継貿易地としてのヴァネシアの重みゆえであったろう。
それはヴァネシア以北のどの国においても変わらぬ事情ではあるとはいえ、
殊に南海貿易による利潤が歳入の小さからぬ割合を占める海洋国家スパニヤにおいては、
かの公室との紐帯を維持することはまさに喫緊の課題であった。
一度も顔を合わせたことのない夭折した婚約者に対し、
エマニュエルがどれほどの思い入れを持っていたかなど余人には知る由もないが、
エレノール及びその上のエスメラルダといった姉姫たちが年相応の青年貴公子たちに嫁いでゆく一方で、
父親より年上の男のもとに嫁がされることになった運命を一度も嘆くことはなかった、
と断じるのはやはり無理があるだろう。

それでも、たとえ夫が英君たりえなくとも家庭人として思いやりのある年長者であったなら、そこに救いはあったかもしれない。
しかし現実はといえば、ヴァネシア公はエマニュエルを娶ってからも宮中のそこかしこに愛人を侍らせて憚らないのだという。
間諜からの報告を引用すれば、「スパニヤの貴婦人独特の謹厳さに、公はついに馴染むことができなかった」
ということである。

経済的な余裕さえあれば王侯貴族が蓄妾に励むことなどガルィアを始めどこの国でも珍しくなく、
何もヴァネシア公室に限った陋習ではないが、
同一の信教、同一の戒律を奉ずるこの大陸の人間はみな少なくとも法の上では一夫一妻制に服しており、
それは王侯貴族も同じことであって、公式の寵妃といえど神の前で誓約を交わした正妻に対しては顔を伏せるのが当然である。
それだけに、夫の愛人たちが我が物顔で闊歩する宮廷に
正妃として起居しなければならない屈辱は余人には図りしれないものがあり、
またそれだけに、今こうしてともに酒席を囲む当のエマニュエル妃が常に温顔かつ明朗でいられるというのは
賞賛に値する振る舞いだった。

(これも衿持の高さゆえか)
内心の苦痛や葛藤を露わにすること、そして他者の憐れみを向けられることだけは何があっても忌避しようと、
公妃エマニュエルは習慣的に己を厳しく律しつづけているのだろう。
そのきわめて自制的な態度は堅牢の域にさえ達しているが、
一方では確かに姉姫エレノールの芯の強さに通じるものを感じさせ、アランは初対面の席から総じて義妹を好ましく思った。




しかしながら、かねてから聞かされていた賛辞どおり彼女がきわめて玲瓏な貴婦人だということが判明したのはいいが、
アランをやや困惑させたのは、妹に対する妻の度を越した愛着ぶりであった。
レマナ離宮に到着した晩、つまりエマニュエルのために宴席を張ったその晩、
エレノールは夫婦の寝台で珍しく上目遣いになって夫に嘆願したのである。
「ねえアラン、妹がこの地に滞在する間、いま居る城館からこちらの離宮に呼び寄せてもよろしいでしょう?
 私事ですから、従者たちも含めた応接費はすべてわたくしの資産からまかないますわ」
「一個連隊を養うわけでもなし、別にそこまで気を遣わずともよい。
 姉が妹との再会を祝すのに、どうして妨げる理由があろう」
「ではあの子をこちらに迎えてよろしいのですね?ありがとうございます、アラン」
夫の肩に頬を寄せながら、エレノールは濃いまつげに縁取られた大きな黒い瞳を弧のように細めた。
もともとが表情ゆたかな彼女は満面の笑みをこぼすのに吝嗇であったことはないが、
それでもこの笑顔を見るためなら何でもしてやりたい、とアランに思わせるには十分な明るさだった。

「もうひとつ、お願いしてもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「あの子がこちらにいられる期間は限られますから、朝晩できるだけ同じ空間で過ごしたいのです。
 食事もお化粧も、眠るのも一緒に」
「つまり妹御を優先して、俺は独居の身か」
「申し訳ございません。―――お許しいただけましょうか」
エレノ―ルの声は幾分か小さくなっていた。
そもそもこのたび都からはるばる離宮に足を運んだのは、
単に避暑のためだけではなく、公務に邪魔されない休暇をふたりで楽しむためでもあったのだ。
童女でもあるまいし夜ぐらいは夫婦の寝台に戻って来い、とアランはよほど説得したかったが、
妻の黒く潤いある瞳に不安げに見つめられるとその強気もだいぶ失せてしまい、しばらく考えをめぐらすほかなかった。

「―――まあいい。妹御が滞在する間だけ、という約束だ」
「うれしい。ありがとうございます、アラン」
エレノールはふたたび笑顔になって夫に抱きつき、頬や顎に感謝の接吻を降らせた。
「だがその前に」
「え?」
「条件がある。いや、ものごとの理と言ったほうが正しいか」
囁きかけながら、アランは妻の首筋に唇を這わせた。
「しばらくの間そなたは自ら神聖な夫婦の義務を放棄するのだ。その代償は大きいぞ」
「代償」
「今夜は誠意を尽くしてもらわねばな」
「誠意だなんて、……だめ、お待ち下さい……っ」
夫の手が強引に寝衣を剥ぎ取ろうとするのをエレノールは阻止しようとしたが、むろん果たされず、
それどころか裸身を軽々と持ち上げられて彼の腿の上にまたがる姿態をとらされるに至った。
下から無遠慮に見上げてくる夫のまなざしに耐えられず乳房を両手で隠しながらうつむくと、
すでに大樹のように屹立した雄が彼女の視界に堂々と映る。

「アラン、もう、こんなに……」
「そなたのせいだ。明日からは長らく見捨てられる境遇なのだからな。
 せいぜい慰撫してやろうとは思わんか」
「も、もちろん、申し訳なく思ってはおりますけれど」
「思うだけでは同じことだ。行為で示せ」
「でも……」
「そなたの敬愛する聖ギヨームも『教書』後篇第二節で同じことを述べているだろう」
こんなときに聖人を引き合いに出すなんて、とエレノールは本気でアランに腹を立てかけたが、もはや拒む術はなかった。
準備万端に反り返る逞しい彼自身を眼前にして、
己の花芯もひそやかに火照り潤い始めていることを認めないわけにはいかなかったからだ。
(この淫らな身体をどうか、お許し下さい)
世のあらゆる聖者たちに許しを請いながら、彼女は祈るようにこうべを垂れ、
硬直した雄の先端をその紅唇で挟み、いとおしむように優しく吸った。
妻がようやく「誠意」を見せる気になったことをここに確認し、アランは深い満足の吐息を漏らした。




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