棚の扉が開かれたとたん、視界が一挙に明るくなったように感じた。
マリーの眼前には一面の白が広がっていた。
マホガニーの巨大な衣装棚から取り出されたそれは
首なしの石膏像に纏われたまま部屋の中央に据え置かれ、
所有者そのひとと同じように、気品と優美が調和した存在感でもって見る者を感嘆させた。

上から順に鑑賞していくと、
首や胸元の布は大胆に省略されつつもその襟ぐりの滑らかさゆえに品位は損なわれぬどころかいや増しており、
肩にかけられた最上級のシフォンは上半身の輪郭を余さず透かし出している。
胴から腰にかけては芸術的とさえ呼べる曲線が描かれる一方で、その下に広がるスカートは、
御伽噺の妖精が身に着けていても不思議ではない、春風のようにふわりとして何層にも重ねられたフリルから成っている。
裾はくるぶしよりはるかに長く、
付き添いの童女たちに端を持ち上げられてもなお地面に引きずって歩くように設計されたものであろう。

しかし、一国の王女の花嫁衣裳である以上は、この程度の奢侈は必然というべきであった。
石膏像の腕もやはり白絹で飾られていた。
肘まである手袋にほどこされた薔薇紋様のレース飾りの精緻さに目を奪われながら、
マリーは何度目かの嘆息を漏らした。

「きれいでしょう、マリーさま」
陶然としてことばもなく石膏像の前に立ち尽くす彼女に向かい、誇らしげな幼い声が腰のあたりから呼びかける。
「でも、これを着たおかあさまはもっときれいだったのよ。
 白ばらの精みたいだったって。
 けっこんしきを見たひとたちはみんなそう言ってるの。おとうさまも」

「―――アランも?」
エレノールはそうつぶやくと、かすかに頬を染め、ほんの一瞬だけまなざしを伏せた。
吐息のような声を耳にして、マリーはそっとそちらを見遣る。
彼女たちにドレスを至近距離から眺めたり触れたりすることを許してくれた所有者そのひとは、
ひとり後方の椅子に座っていた。




マリーからするとエレノールは義姉、正確には夫の長兄の妃にあたる。
十歳ほど年上の大人の女性だとはいえ、優美をきわめた挙措の合間にこういう表情を見せられると、
つくづく少女のように愛らしいお方だと思わざるを得ない。
宮廷ではいつ見ても冷たく無機質な空気をまとっている王太子が、
結婚して十年以上たつというのに側妾も置かずこの美貌の妃を寵愛しつづけているというのも分かる気がした。

オーギュストと結婚した当初、マリーはこの美男だが明らかに彼女の生国の後進性を見下している義兄のことが
―――最初の夫を思い出させるのもあって―――非常に苦手だったが、
王室の成員とはみな家族のようでありたいと願うエレノールが夫の態度を諌めつづけてくれたおかげで、
今ではぎこちないながらもそれなりに良好な関係を築けている。
それに実際時間をかけて付き合ってみると、アランはたしかに傲岸不遜尊大無比ではあるが、
エレノールの言うように、弱い立場の者に対していつまでも冷淡な態度をとることはできない人間だった。
そこが前夫と違っていた。

「どうか、我が君の非礼をお許しくださいね。
 あの方は、―――あれなりにお優しいところもあるのです」
マリーが嫁いできたばかりのころ、
ガルィア宮廷で流行している香水や香油の種類を手ほどきしてくれながら、エレノールは言ったものだ。
「傲慢ですけれど」
そう呟かれたときだけは、天使のようなお顔立ちも何か異様な迫力を秘めていたわ、
とマリーはついでに思い出した。




「ルイーズ、お邪魔をせずにゆっくり見せてさしあげなさい。
 こちらへいらっしゃい」
少女のように頬を赤らめていたのも束の間、すぐに平静に戻ると、
エレノールは穏やかな声で娘をたしなめた。
そして膝元に呼び戻し、隣に座らせて行儀よく鑑賞させようと試みる。
おかあさまのことをほめたのに、とやや不貞腐れながらも
あくまで母親の手を握っていたがるルイーズのようすに、マリーも思わず微笑した。

気持ちのいい午後であった。
南に面した飾り窓から差し込む冬日が絨毯の上に淡い紋様を描く一方、室内は暖炉の熱気で十分に満たされていた。
今日マリーが義姉の宮室を訪れたのは、もともとは先週教わったばかりの編み物のつづきを習うためだったのだが、
その場に居合わせた七歳の姪が、レース編みと聞くや
「おかあさまがおよめに来たときのドレスのかざりがいちばんきれいよ。
 マリーさまにも見せてあげましょうよ。ねえ、おかあさま」
と嘆願を始めたために―――義理の叔母にお披露目するためというより、
ルイーズ自身がそれを何度でも穴の開くほど眺めたいのだということは傍目にも明らかだったが―――風向きが変わってきた。

エレノールは娘のわがままを根気よく戒めたが、
マリー自身の口添えもあって最後には聞き入れることになり、
礼装用の特別な衣裳部屋の奥にしまいこまれた花嫁衣裳一式を運んでくるよう従僕たちに命じたのだった。




「―――夢のように、美しゅうございました」
あらゆる角度からドレスの眺めを堪能したあとで、マリーはため息とともに義姉に礼を述べた。
彼女が自身の婚礼でまとった衣装も、父公がルース公室の沽券を賭けてあつらえさせたものである以上たしかに豪奢ではあったが、
北辺の地でしかとれない白貂の襟飾りやら白狐の裏地やらといった一部の装飾を除けば、
洗練の極みともいえる王太子妃のドレスの前にあってはやはり見劣りがした。

しかしそれは気に病むことでもなかった。
婚儀など過ぎた日のことであるし、母国の国風を反映したような己のドレスの素朴な様式をマリーは愛していた。
何より、神前での誓いのあとに始まり今へとつづいてきた夫との結婚生活のほうが、彼女にとってはずっと大切なものなのだ。
けれどそれゆえに、
乙女として嫁いできた義姉の純潔を如実に証明するような純白の花嫁衣裳を目の前にして、
今ふたたび彼女の胸を去来する思いがあった。

「マリーさま、どうかなさったの」
叔母が急にことばすくなになったことに気づいたのか、小さな顔が下からのぞきこむようにして問いかけてきた。
童女らしく下ろしたままのルイーズの髪は腰まで伸び、身動きするたび母親譲りの光沢ある漆黒が滑らかに波打つ。
肌は父親に似て明るい乳白色なだけに、彼女の黒髪の美しさはいっそう際立っているように見えた。
父方の祖母譲りと思われる瞳の色は、はるか東南方に広がると伝えられる異境の海のように澄んだ青緑色だが、
こんなふうにして下から見上げられるといつもとはまた違った彩りを帯びているようでもある。

そういうマリー自身、北国の人間の常として瞳の色が非常に淡いため、
本来は水色でありながら光の角度によってさまざまに趣が変わってしまい、そのたびに夫に感心されたりしている。
この室内では瞳の色こそ変わらないが、光が注ぎ込む窓辺に近づくたび、
彼女の豊かな白金色の髪は燐粉をまぶしたかのように煌めき立った。

「い、いいえ、なんでもないのよ。大丈夫。
 あまりに綺麗だから、つい目を奪われてしまって」
マリーは微笑してみせた。
そう、とルイーズは納得し、ふたたび母親の胸にもたれかかった。
小さな背の上で絡まりかけた黒髪が、エレノールのほっそりした指で優しく梳かれていく。

「ルイーズがおよめにいくときも、これを着ていきたい。
 いいでしょう、おかあさま」
「あなたのお嫁入りの際にはまた別のドレスを仕立てることになるわ」
「ルイーズはこれがいい。おかあさまと一緒のがいい」
「一生に一度しか着ないものなのですよ」
「いいの。これが着たい」
「わがままを言ってはいけません。
 世の花嫁はみな、まだ誰も袖を通したことのない白い衣装でもって己の純潔を証すものです」
「じゅんけつって?」
「それはつまり、
 一生のうちでお婿さまおひとりにあなたのまごころを尽くし―――」

ここまで言いかけてエレノールはふと口をつぐんだ。
義妹のほうを見遣ると、顔は少しだけうつむき、視線は床の上をさまよっているようだった。
「まあ、マリー、わたくし―――」
義姉が謝罪を口にしかけたことに気づいたマリーはあわてて笑顔を見せ、彼女を押しとどめた。
「考え事をしていただけですの。
 お話の途中でぼんやりとしてしまって、申し訳ありません」

「いいえ、そんな。
 ―――無神経なことを口にしてしまい、どうか、お許しくださいね。
 先ほどは一般的なことを申したまでで、むしろわたくしたちのような身の上の女は、
 政情の変動のため離婚再婚を繰り返させられることのほうが多いくらいですものね。
 まして、あなたは前の夫君とはわずか一ヶ月で死別なされたのですもの。
 何もお気に病まれることはありません。
 乙女の身で嫁ぐ娘たちと全く同様、あなたはオーギュストに男性としての栄誉をお与えになったのですわ」

その情のこもったことばにも、自分の手を包み込むように握る両手の温かさにも嘘がないことを知るだけに、
マリーはますますいたたまれなくなった。
この純白のドレスが目に届かない場所でひとりになりたい気がした。
適当な理由をつけて立ち上がり、まだどこか心配そうな顔をした美貌の母子に交互に接吻すると、彼女は静かにその部屋を辞した。




(巡りあわせとは、どうして、こんなに―――)
大理石の床につくられた光と影のまだら模様を踏みしめながら、マリーはゆっくりと廊下を歩いていた。
(―――もしも、時間を戻すことができたなら。
 お父様にどんなに厳命されても、最初の結婚は拒み通していたのに)
いまさら思っても詮無いことだとは分かっていた。
けれど、現在の結婚生活が安らぎに満ちて幸せであればあるほど、
何かの拍子にふと、やりきれなさと申し訳なさとが交互に頭をもたげてくるのだった。

最初の結婚も今回と同様、父公の意向に従って嫁いだまでであり、
我が身を捧げる相手をマリー自身が好んで選んだわけではない。
エレノールが言外に示したように、いわば国と公室に対する義務を果たしたにすぎない結婚である。
ゆえに良心に恥じることは何もない―――そう自分に言い聞かせても、やはり思い切れないものが残るのだった。

一生にただひとりの相手にしか捧げられない贈り物を、自分を生きた玩具のように扱った男に、
情愛の片鱗も見せてはくれなかった男に差し出さざるを得なかった。
抗えたかもしれなかったのに、結局はその運命に甘んじてしまった。
むろん、近い未来に自分を心から愛してくれるひとと巡り逢えるなどとは微塵も予感していなかったとはいえ、
その過去を思うとマリーはいつも胸が苦しくなった。

ことに、真夜中にふと悪い夢から覚めて、そのひとの腕のなかで―――彼女以外には女を知らず、
それでも満たされていると言うそのひとの腕の中で守られていることを知ったとき、
マリーはいつも安堵と感謝の念をこめて抱き返しながら、同時に、
このかたに嫁ぐまでに自分が純潔を貫けなかったのはやはり罪深いことではないだろうか、
と慄くような気持ちにさえ襲われるのだった。

長い廊下を歩いているうちに、窓から差し込む光はごくわずかだが傾き始めていた。
―――そうだわ、とマリーはふと足を止めた。
靴に施された瑪瑙細工が陽だまりのなかでひときわ輝く。
しかし今浮かんだ考えに気をとられるあまり、マリーの視線は足元に留まることもなかった。
それが正しいやりかたかどうかは分からない。
けれど、そのために骨を折る価値は十分あるように思われた。
(日が沈む前にとりかからなければ)
心に固く決めると、マリーは夫婦の書斎に向かって足早に歩き始めた。




※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※




「マルーシャ様、少しご休憩なされましたら。
 たいそうご熱心でいらっしゃいますこと」
驚いて顔を上げると、いつのまにか侍女のアンヌが椅子の後ろに控えていた。
果実酒とグラスを載せた盆を両手で捧げ持っている。
むろんノックをしたうえで書斎に入ってきたはずなのだが、
書物に集中するあまりマリーは気がつかなかったのだ。
「ま、まあ、アニュータ。ありがとう」
「どういったお調べものでしょうか。
 もうご就寝時刻も迫っていることですし、よろしければお手伝いを」

侍女の身とはいえ、アンヌはもともとルース指折りの修史官の家に生まれた貴族の娘であるため、
外国の古典から現代の公式文書に至るまで、並みの官僚よりもよほど読み書きに通じている。
こんな場合いつもならマリーも喜んで彼女の協力を仰ぐのだが、今夜はなぜだか歯切れが悪かった。
「ありがとう。―――でも、その、大丈夫」

主人のそぶりに何か不自然なものを感じて、アンヌは机の上に積み上げられた何冊もの厚い本の背をざっと眺めた。
茶や黒の革の表紙に縫いこまれた金文字は、彼女たちの母国ルースの古語でつづられている。
どうやらすべて、嫁入りの際にマリーが持参してきた書物であるらしかった。しかも分野が偏っている。
(マルーシャ様がご自身で医学書をお引きになるなんてお珍しい。
 ―――しかも、医学書というより古代呪術の写本のようなものも混ざっているようだわ)

「病やお薬についての解説をご所望でしたら、今からでも侍医なり薬師なりをお呼びいたしましょうほどに」
アンヌはさりげなく訊いてみた。
「いいえ、それはいいの。もう調べたから」
「何をご計画ですか」
口調は相変わらず平坦だったが、その切れ長な灰色の瞳の奥に言い逃れを許さない気配を感じ、マリーはついに観念した。

「わたくし、もう一度処女になるの」
アンヌはかすかに片方の眉を上げた。
姫君の思いつきの突拍子のなさにはご幼少のみぎりから相当慣らされてきたので、
今ではよほどのことがないかぎり驚かないが、
それでも今回の宣言はやや異色であるように思われた。
「なにゆえでございます」
とくに詰問するでもなく、アンヌは静かに尋ねた。

「女はなべて、乙女の身で嫁ぐべきものでしょう。
 前々から思っていたことだけれど、今日はっきりそう悟ったの。
   世の殿方がみなもれなく享受している権利を、オーギュストだけは手にすることができなかったのよ。
 わたくしが再嫁の身であるばかりに。
 あの方に、清い身体を捧げられる方法を探しているの。
 ―――そうして、もういちど最初から愛していただきたいの」

思いが強すぎるあまりか、それとも最後にはしたないことを口にしてしまったためか、マリーの頬にはすでに赤みがさしていた。
しかしアンヌはさほど動じた様子もなかった。
「恐れながら、今夜からでもそれは可能かと存じます」
「ええっ!?どうしたらいいの?」
「『今まで伏せておりましたけれど、わたくし、実は処女ですの』と申し上げれば、
 オーギュスト殿下ならまずまちがいなく『わあ、そうだったんだ。気がつかなかった』と納得してくださいます。
 疑問の余地もございません」
「言われてみればそうね。
 ―――で、でもだめ!たしかにうまくいきそうだけれど、だめよ、そんなの。
 夫婦の間では誠意こそが大切なのよ。嘘はいけないわ」

アンヌにしてみれば、あんなぼんくらにはマリーの処女を奪う権利どころか
指を触れる権利が与えられただけでも身に余る光栄と思えと言いたいところなのだが、
姫君の表情があまりに真摯で深刻な色を帯びているので、意見の開陳はしばらく控えることにした。
「それでね、思い出したの。
 輿入れに際してお父様やお母様がもたせて下さった古書全集のなかに、
 たしか処女性の復活について書かれたものがあったと」
「それがその御本でございますか。
 少々拝見させていただけ―――」
「だ、だめよ。アニュータでも、これだけはだめ」

マリーは慌てて開いたままのその頁を両手で覆った。
ここでアンヌを関与させれば、どのみち何らかの非を指摘されて穏やかに計画を阻止されるに決まっている。
ものが見えすぎる人間の常で、この腹心の侍女はこれまでマリーのたいていの発案を未然に取りやめさせてきたが
―――そして後から考えると彼女の判断は九割九分がた正しかったのだが―――
今回ばかりはそれを許してはならないと思った。
なにしろ、ことは夫婦の愛情生活の根幹にかかわる問題なのだ。

「ですがマルーシャ様、仮に何かご服用なされるのであれば、
 御身に害を及ぼすものでないかどうか事前にたしかめる必要があります。
 それがわたくしたち側仕えの者の務めでございますれば」
「い、いいの。それはもう薬草事典で調べたから。
 調合に必要な材料はどれも無害よ。ふつうの内服薬にも使われるものばかりだもの」
「ですがご承知のように、調薬には化学反応というものが伴い―――」
言いかけたアンヌを制するように、マリーは件の書物を胸に抱いて突然立ち上がり、
無理やり勇気を鼓舞しながら彼女の前を傲然と通り過ぎて退室した。

長年仕えているだけに、主人にこういった反抗的な態度をとられるのは何も初めてのことではない。
アンヌは何も言わずに金髪で覆われたその小さな背中を見送ると、かすかに肩をすくめただけで、
文机の上の整頓と灯火の始末にとりかかった。




「オーギュスト、わたくしお話がありますの」
夫婦の寝室に入ると、マリーは開口一番夫に告げた。
部屋の隅の小卓に向かっていたオーギュストは、なんだろう、という顔で振り向いた。
卓上にはガルィア王室の紋章入りの便箋が二、三枚広げられている。
遠方にいる兄王子たちの誰かから受け取った書簡でも読んでいたのだろう。

ふだんは柔和で愛くるしく、理由もなく抱きしめたくなるような可憐な妻が珍しく厳格で真剣な表情をしているのをみて、
オーギュストはやや気圧された。
僕は最近何かしでかしてしまったろうか、と少し心配になった。

「マリー、とりあえずそちらに座られては」
「いいえ、わたくし、すぐに退出しなくてはなりませんの」
「えっ?でも、もう就寝の時間ではありませんか」
「たいへん身勝手で申し訳ないのですけれど―――わたくし、これから九日間、あなたとは床を別にさせていただきたく存じます」
「ええっ!?なぜです、マリー」

オーギュストは驚いた。
これまで、月の障りのためにマリーに触れられなかった期間はあっても、寝所を別にしたことなど一度もなかったからだ。
「僕、何かお気に触るようなことをしたでしょうか」
「いいえ、そうではないの。どうか悪くお思いにならないでね。
 これもすべて、わたくしたちの愛を深めるために必要な手順なのです。
 九日間精進潔斎を貫き、所定の薬を日に三度服用いたしますれば、
 ―――十日目には、わたくし、処女になっておりますの」

「ええっ!!」
マリーの期待していたとおり、オーギュストは栗色の瞳をいっそう大きく見開いた。
しかしそのようすは驚喜とはいいがたく、むしろ狼狽と呼ぶべきものであった。
「ど、どうしてです、マリー?僕にそんなにご不満が?」
「滅相もありませんわ、どうして?」
「処女とは未婚の娘のことではありませんか。
 僕との結婚を解消したいということではないのですか」
「ちがいますわ、オーギュストったら」
マリーは優しくなだめるように言った。
「たしかに、処女とはおおむねそういう意味ですけれど―――でもわたくしが申しますのは、
 その、つまり、―――あなたを初めての殿方としてお迎えするということですの。
 お分かりでしょう?」
そういってマリーは恥じらいがちに夫の顔を見たが、彼はそれでも喜んでいるようには見えなかった。
どちらかといえば腑に落ちない顔をしている。

「いや、別に、僕は今のマリーのままで―――」
「もうオーギュストったら、気を遣ってくださるのね。
 でもいいのです、わたくし存じ上げております。
 殿方にとっては処女性こそ妻のかけがえのない婚資であり、至宝であり、寝室での歓びを約束するものですものね。
 処女を好まぬ殿方などいるはずがございません」
「知らなかった。今度兄たちに訊いてみます」
「・・・・・・とにかく、九日間です。
 九日我慢していただければ、わたくし、処女性を取り戻すことができるのです。
 そしてもう一度初夜を―――本来の『あるべき』初夜をともに迎えることができるのですわ」

マリーは力強くそう宣言すると、夫の頬に就寝前の接吻をしてあわただしく寝室を出て行った。
あまり長く抱き合って名残を惜しんでいると、つい肌を重ねたくなってしまうことを恐れたのだろう。
オーギュストはいまひとつ事態が呑み込めないまま、ひとり椅子に取り残された。




※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※




「ときに、訊きたいのだが」
白ワインが半分残ったグラスを卓上に置くと、アランは斜め向かいに座る末弟を見やった。
下戸のオーギュストは山羊チーズをひとかけら口に運んでいるところだった。
「何でしょう」
「おまえたちは、―――おまえと妃は最近何かあったのか」
「いいえ、何も」
「ならばなぜ寝所を別にしている。もう七日目になるというではないか」
「ああ、兄上もお聞き及びでしたか。あと二日すればまたマリーは戻ってきます」
オーギュストはふいに幸せいっぱいの表情になった。
しかしアランにしてみれば不可解さが募るばかりである。
やれやれ、という顔で隣に座るエレノールのほうを見た。

もともと彼自身は他人事に干渉するのを好まないたちである。
けれど、気品ある美貌とは裏腹に旅籠の女将なみに世話焼きで情の深い妃をもったばかりに、つい先日、
「実の弟君の家庭が危機に瀕しているかもしれないというのに傍観しているなどという法がありますか、いいえありません」
と反論を許さない調子で迫られ、
いまこうして夫婦だけのくつろいだ酒席に弟を呼ぶ次第になったのだった。
また一方で、父王を補佐し時には代理を努めるのが長子の務めである以上、
王室という巨大な家庭内における治安と調停にはやはり俺が責任を負わねばなるまい、
という感情が作用していたのも確かだった。

義弟の返答に、エレノールもやはり不可解そうな顔をしていたが、その眉からはやや曇りが薄れたようであった。
「それはたしかなのですか」
「もちろんです、義姉上。マリーがそう約束してくれました」
エレノールはかすかに安堵の息をついた。
全く、我が妻ながら他人のことに入れ込みすぎる女だ、とアランはなかば呆れながらも、
長いまつげでふちどられた漆黒の瞳が細められ、
深い呼吸とともに形のよい胸がかすかに上下するさまは目の端でしっかり捉えていた。

結婚前は、どれほどの美女であろうと一月も顔を合わせていれば飽きるだろうと思っていたが、
何かの警句にあるように、善良な女の表情というのは
―――それに首から下の曲線もついてくればなおさらだが―――
どれほど長く生活を共にしてもたしかに見飽きることがなかった。

「それならよいのですが。わたくしたち、とても案じていたのですよ。
 一、二日ならともかく、一週間もその状態がつづくなんて」
「ご心配をおかけしました。喧嘩ではないのです。
 ―――このチーズは美味しいですね。産地はどちらですか」
「マテューの領地からの献上品だ。山麓地帯はやはり酪農に恵まれているな」
「マテュー兄上といえば、僕のところにも最近たよりを下さいました」
「不精なあいつにしては珍しいことだな。
 例によって詩を書き散らしているのか」
「ええ、でも昨今は領地経営に日夜お心を砕かれているようで、抒情詩が途中から森林伐採権の話になっていました。
 ところで兄上、処女はお好きですか」

ごふっ、と聞きなれない音がした。
見ると、常日ごろ一挙手一投足において疎漏のない長兄にしては珍しいことに、
気管支に入ったワインと呼吸を落ち着かせようと苦しそうに身を折り曲げていた。
エレノールがいたわるようにその背中をさすっている。
「大丈夫ですか、兄上」
「どうしたの、あなた。そんなに動揺なさったりして」

妻の掌の動きと声音はいつもどおりおっとりとして優しいが、
その目が笑っていないことは顔を上げないでも想像がついた。
卓上に突っ伏したまま、アランは穏当な答えを探そうとした。
「―――世間一般的には、好まれているな」
「まあアランったら、オーギュストはあなたのご見解を知りたがっておいでなのよ。
 世の人の傾向ではなく。
 そうよね、オーギュスト」
「ええ、でも別に一般論でもかまわ―――」
「ほら、『あなたの』ご意見をうかがいたいのですって。オーギュストが」
(この女は)
弟にこんなことを吹き込んだのはエレノール自身なのではないかと疑いながらも、アランはやや焦燥を隠せなかった。
この心優しい妃は、嘘と不実に対しては異常に洞察が鋭く、なおかつ容赦がないのだ。

「―――なぜそんなことを訊く、オーギュスト」
「男はみな処女が好きなのだと、マリーは信じているのです。
 それで自分も処女になると言って、今回寝所を別々にし、何か服用しているのです」
「処女性を取り戻す薬だと?
 そんな都合のいいものがあれば俺がとうの昔に買い占めて国庫に備蓄
 ―――ではなくてだな、なんだそれは。かの国に伝わる呪術か?」
アランは急に感心できないといった顔になった。
一方のエレノールは卓の下で彼の靴を力の限り踏みつけながら、ふと何かに思い至ったように両手で口元を覆った。

「まあ、マリーったら、あのときのことをそんなに深く考えておいでだったのね・・・・・・・。
 つくづく悪いことを申し上げてしまったわ。
 でも本当に、なんて旦那様思いのいい子なのでしょう。
 オーギュスト、あのかわいらしい奥様のことはどうか大切になさいませね」
「はい、もとよりそうしております」
彼は満面の笑みで義姉に答えた。
エレノールも思わずにっこりとする。
アランだけは妃に靴を踏みつけられたまま憮然としていた。

「おまえは宮中いたるところで処女愛好家率の統計でも取っているのか」
「そんなたいそうなものではありませんが、マテュー兄上やトマ兄上には書簡でお尋ねしました。
 ちょうどおたよりをいただいたばかりなので」
王太子のアランは国政にあずかるため、第五王子のオーギュストは勉学をつづけるため結婚後も王都に留まる一方で、
第二王子のマテューと第四王子のトマは妻帯を機に授封された土地へ移り住んでいた。
宮廷に伺候するのは年に数回を数えるのみである。
都に住む末弟からはるばる届いた書簡を妻子家臣の前で開いたとたん、
「処女はお好きですか」と尋ねられる羽目に陥った弟たちの表情をまざまざと思い描きながら、
アランはふと尋ねた。

「ルネには」
「ルネ兄上は、聖母さまの名を冠した修道院で毎日起居しておられるぐらいだから、
 書簡でお尋ねするまでもないと思いました」
「―――そうだな」
何気なく横目で妻のほうを見やると、伏し目がちな黒い瞳は絹の襞で覆われた膝の上をさまよっていた。
「まあいい。とにかくおまえたち夫妻の仲に異状がないなら、俺も何も言うことはない。
 あと二日せいぜい耐え忍べ」
「分かりました」
オーギュストは元気よく答えた。




末弟を退室させると、アランは妻に向き直った。
「先ほどの答えだが」
「―――何でしょう」
いまだどこか思い乱れたような表情で、エレノールは視線を上げた。
その漆黒の瞳はいつになく無防備で、男の庇護欲をかきたてるような、
同時に汚したい欲求をあおりたてるような、深みのある潤いをおびていた。
アランは細い肩を抱き寄せた。妻が少し身を硬くしたのが分かる。
「処女は悪くない。が、かつて処女だった女も悪くない」
それから耳元に口を近づけた。
「自分で処女を奪った女なら、なおのことだ」
もう、と頬を染めてつぶやきながら、エレノールはそれでも夫の接吻を拒まなかった。




※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※




十日目の夜が来た。
オーギュストが寝室の扉をくぐると、マリーはすでに床に入り、
大きな枕に上体をもたせかけながら本を読んでいるところだった。
彼の姿をみとめると、燭台の光を宿したその水色の瞳はいっそう輝きをまして見開かれた。
ほころんだ薔薇色の唇に触れるのが待ちきれず、
オーギュストは彼にしては珍しく駆け足で寝台に近づき、妻の傍らに上がろうとしたところ、
勢いづくあまり寝台の柱に頭をぶつけた。

「まあオーギュスト、大丈夫?」
「だ、大丈夫です。マリー、恋しかった。たった九夜の別れがこんなに長いなんて」
「わたくしもですわ」
胸があまりに昂ぶっていることの反動か、ふたりはおずおずと接吻を交わした。
まるで、ふたりきりの夜を文字通り初めて迎える恋人たちのようだった。

「マリー、これは?」
オーギュストはふと妻の右手に目を留めた。
おぼろな灯火の下でさえ光沢を放つ白絹のリボンが、いくつもの楕円を描きつつ手首に結わえられている。
「これは、―――なんだとお思いになって?」
訊かれるのを待っておりましたわ、と言いたげにマリーは喜色満面で問うた。
「なんだろう。蝶々が重なった形かな」
「……まあ、そう見えなくもないですわね。
 でも聞いて、オーギュスト。大切なのは形状ではなくて、この色ですの」
「そうか、モンシロチョウか」
「白といえば純潔、そうですわね?」
有無を言わせない調子で迫りながらマリーは夫の手をとった。
そして自分の右手首に誘導し、長く伸びたリボンの一端を握らせる。

「これはつまり、隠喩ですの。
 わたくしが今夜あなたの腕の中で娘時代を終えるということ
 ―――今夜『初めて』をあなたに捧げるということを、このリボンは他でもなく象徴しているのですわ」
自分自身のことばに頬を火照らせ胸をたかぶらせながら、マリーはリボンをほどくよう彼を促した。
しゅるっという軽やかな音とともに手首が解放された瞬間、
身も心もいとしさに満たされながら、彼女はそっと夫の肩に身を預けた。
目を閉じて、次に起こることをじっと待つ。
しかし何も起こらなかった。

「オーギュスト、どうして何もなさらないの」
「いや、だって・・・・・・いつもはマリーのほうから先導してくださるから」
「わたくし、もう処女なのですよ。処女は自分からどうこうしたりせぬものです」
「そ、そうなのですか。すみません」
「分かってくださればよいのです」
マリーを怒らせてしまっただろうかと気にしながら、オーギュストは慎重にことにとりかかった。
考えてみれば、これまで自分が完全に主導権を握っていた夜などというのは一度もありはしないのだった。
どうしたらいいだろう、と彼はのっけから途方に暮れた。

(最初のころみたいに、ずっと正常位でもいいのかなあ。
 マリーとずっと見つめ合っていられるのは、僕は大好きだけど、マリーは飽きないかな。
処女ってそういうのをつまらないと思うものなのだろうか)
そんなことを漠然と考えながら、
オーギュストはマリーの肩を抱き寄せるとその腰帯を解き、寝衣の胸元に手を差し込んだ。

「あっ・・・・・・」
久方ぶりに吐息混じりの愛らしい声を聞き、本物の絹に劣らぬほどきめこまやかな雪肌に触れてみると、
さきほどの逡巡はもはや意味をなさなかった。
とにかく早くこの肌をすみずみまで愛撫し、奥深くつながりたくてたまらない。
やや乱暴ともいえる手つきで妻の肌着を取り払ってしまうと、
オーギュストはそのしなやかな肢体を押し倒し、豊かな乳房の桃色の頂に接吻した。

「はぁっ、あん・・・・・」
「マリー、かわいい」
「もう・・・・・・」
間を措かずに彼の指がマリーの秘所に忍んできた。
やや毛深い黄金色の茂みを越えたその先の渓谷は、すでに温かく潤い始めていた。
二本の指先は、最初は柔らかい花びらをなぞるようにして、次第に中心部のつぼみに近づいていった。

「あっ、だめ・・・・・・」
「マリー、脚を閉じないで」
「だって・・・・・・ふぁ、はぁん・・・・・っ」
すでに膨らんでいるつぼみをそっと挟まれて、マリーは背中を反らせた。
自分の感度が以前と同じ、どころか以前より鋭敏になっているのはおかしいという気がしたが、
久しぶりの愛撫があまりに心地よいので、彼女は深く検討することができなかった。
とうとう奥まったところに指を挿れられて、マリーはまた大きく喘いだ。

唇を噛んで快感に耐えようとする妻の顔をいとしげに見つめながら、
「処女との同衾にあたっては、男にはとるべき態度というものがございます」
と今回の聞き取り調査対象のひとりである廷臣から言われたのをオーギュストは思い出した。
なんだったろう、と彼は急に不安になった。
(こちらからいろいろ教え導かなければならない、とかそんなことだったかな)
そして考えあぐねたすえ、進級のための口頭試問に臨むかのような慎重を極めた口調で報告を始めた。

「マリー、ここはもう、十分滑らかに濡れているようです」
「そ、そんなはずはありませんわ・・・・・・処女の身で濡れるなんて、そんな、嘘・・・・・・」
「だってほら、こんなに」
別に他意もなく、オーギュストは秘裂から指を抜き取り、ぬらぬらと光るそれを彼女の眼前にかざして見せた。
客観的な事実を示せばマリーも自分を信じてくれるだろうと思ったのだ。
「い、いやっ・・・・・・そんなはず、あるわけが・・・・・・」
「でも、濡れたほうが痛くないのだからいいではありませんか」
「それは、そうですけれど・・・・・・」

マリーは言いかけながら、ふと口をつぐんだ。
何かさっきから、身体の芯が熱くなってきたような気がする。
愛する夫と九日ぶりに素肌を重ねているのだから身体が火照るのは当たり前だが、この熱さは異常だった。
体内に住まう見知らぬ獣が吠え立てて揺さぶりをかけてきたかのような、
かつて経験したこともない疼きだった。

(これは、一体・・・・・・・わたくし何か、変な感じ・・・・・
 どうしてしまったのかしら・・・・・・・何が、おかしいのかしら・・・・・・・
 そうだわ、オーギュストが、途中で・・・・・・指を抜いたり、なさるから・・・・・・
 こんな、満たされないままで、放り出されて・・・・・・)

「マ、マリー、どうされたのですか」
オーギュストは驚きを隠せない声でささやいた。
さきほどまで困惑がちに恥ずかしがっていると思ったら、
マリーは突然彼の手をつかみ、ふたたび自分の花園へと導いていったのだ。
のみならず、いちばん感じるところに彼の指が来るように、自分の細い指で押さえつけては動かしている。

「どうって・・・・・・?
 だって、こうしていただくのが、いちばん素敵なのですもの・・・・・・あぁっ・・・・・
 あん・・・・・・・そこ、ですわ・・・・・・っ」
「マリー・・・・・・」
呆然としながら、オーギュストは手を彼女に動かされるままになっていた。
(処女って、すごいんだなあ・・・・・・)
そんなことを考えているうちに、マリーは早くもひとりで達してしまった。
九日間の精進潔斎というのは、彼女にとってもよほど長かったのかもしれない。

「オーギュスト」
絶頂が過ぎ去ると、マリーは固まったままの夫の顔を申し訳なさそうにのぞきこんだ。
「今のこと、お許しください」
「い、いや、少しぐらい慎みを忘れたって、たいしたことでは」
「わたくしったら、自分ひとりで心地よくなってしまって。
 あなたにも歓んでいただかなくてはならなかったのに。
 それが、夫婦というものなのに」

そう言うと、マリーはなんのためらいもなくオーギュストを押し倒して腰帯を解き、手際よく肌着を下ろした。
すでに硬くなっているそれを両手で包むようにして垂直に持ち上げると、
薔薇色の唇を近づけて先端から吸っていった。
ひとしきり吸うと、今度は舌で根元から舐めあげ、また咥えた。

「マ、マリー・・・・・・!」
「もう、こんなに大きくなさったりして・・・・・
 かわいい、オーギュスト・・・・・・」
「い、いや、ちょっ・・・・・」
「もう透明なお汁をこぼしてらっしゃるのね・・・・・我慢できないなんて、いけないかた。
 白いのは、ちゃんと、マリーのなかで出してくださいませね」
マリーは顔を上げて優しくそうつぶやくと身体を起こし、固いものに手を添えつつ、
膝をつきながら夫の下腹部に腰を下ろそうとした。

あまりの光景に、オーギュストはことばも出なかった。
初夜以来マリーに手ほどきを受けて、すでにいろいろ知っているつもりでいたが、
どうやら世の中には自分の知らない営み方というのがまだまだたくさんあるらしい。
そしておそらく、その人の立場によって好ましい体位、奨励される体位というのがあるのだろう。
始めて営む夫婦は見つめあう体位、妊婦はおなかに負担がかからない体位、そして処女は上からまたがる体位というように。

(世の中に処女を好む人が多いというのは、こういうことなのか・・・・・・)
温かい花園に締め付けられるままに上から腰を打ちつけられ、
頭上で大きく揺れる乳房に目を奪われながら、オーギュストはようやく得心のいく気がした。
我慢できずに乳房を両手でつかむと、マリーはひときわ熱いため息をもらしながら、
その手を上から押さえつけた。
桃色のとがった頂が手のひらを突くのが分かる。

「うれしい、オーギュスト・・・・・・」
「あ、ああ、マリー」
「あなたが、こんなに奥深くまでいらして、たくさん、突いてくださって・・・・・・」
「いや、それはどちらかというと、マリーが」
「わたくし、幸せですわ・・・・・こんなに深いところで、つながれるなんて・・・・・
 もっと、もっと突いて・・・・・・もっと奥まで・・・・・・」
なかば恍惚としながらも、マリーは激しい腰使いをやめなかった。
ふたりの接合部から響く蜜の音はしだいに大きくなっていった。
オーギュストは寝台ではそれほど忍耐強いほうではない。
妻の上体を抱き寄せて乳房にくちづけようとしたその一瞬後に、彼は早くも上り詰めてしまった。

「もう、オーギュストったら、せっかちなんだから」
責めるように、だがどこかうれしそうにささやくと、マリーはそっと抜き取るようにして立ち上がった。
ぴんと張った白い糸は伸びきって絶たれてしまうと、彼女の内腿に絡みついた。
「いや、申し訳な・・・・・」
ようやく我に返って上体を起こしたオーギュストが詫びようとすると、マリーはにっこりとしてそれを制した。
「かまいませんわ。だって、すぐにまた、愛していただけるのですもの」
その笑顔は人里離れた渓谷にひっそりと咲く白百合のように無垢そのものだった。
オーギュストもつられて微笑もうとするが、いかんせんまだ息があがっていた。

「ええ、もちろん。ただ、少し休ませ・・・・・・」
「今度は後ろからでも、よろしいでしょうか」
マリーはすでに寝台に肘と膝をつき、さきほどつながっていたばかりの部位を夫の眼前に差し出していた。
その眺めに息を呑みつつも、オーギュストはさすがにすぐには立ち上がれなかった。
「マ、マリー、もう少しだけ、休んでから・・・・・」
「お気に召しませんでしたか・・・・・・?
 もう、マリーのことに飽いてしまわれて・・・・・?」
「い、いや、そんなことは、全く。ただ」
「愛してくださるというなら、早く、ここに・・・・・・
 先ほどと同じ大きくて硬いものを、マリーのここにくださいませ。
 そして、熱いのをたくさん、たくさん出して・・・・・・」

首だけ振り向いて夫を見つめながら、その水色の瞳は潤みを帯びてますます澄んでいた。
やがて耐えられなくなったかのように身体の下をくぐらせて右手を秘所に伸ばすと、
二本の指で花園の入り口を左右に開いてみせる。
たっぷりとした蜜で照り光る桃色の花芯には乳白色の液体がにじみはじめ、じきにあとからあとからこぼれ落ちてきた。
蜜とまざりあったそれはゆっくりと太腿を這い、膝まで伝わり落ちていこうとする。

「ここに、ほしいの・・・・・・・
 ねえ、オーギュスト、くださらないの・・・・・・・?」
涙を浮かべんばかりに哀願するその表情の清らかさは、
夫に見せつけている光景の淫らさとは微塵も相容れないものだった。
衝撃が大きすぎてことばを失いつつも、本能に命じられるまま、オーギュストはふらふらと立ち上がった。
下腹部のものもどうやらすっかり回復したようだ。
(それにしても、処女ってすごいんだなあ)
つくづく感心しながら、彼はマリーの後ろに膝立ちになった。




(一体、どのように進行していることやら)
アンヌは手持ち無沙汰にふたたび蝋燭の芯を切った。
第五王子夫妻の寝室につづく控えの間で、彼女はひとり不寝の番をしていた。
本来、今夜の宿直に当たるのはべつの侍女であり、しかも複数いたのだが、
全員分の責任を全うするからと頼み込んで、なんとか交代してもらったのだ。

樫の木の椅子に腰掛けるアンヌの膝の上には、折りたたまれた白いシーツが置かれていた。
糊の効き具合をたしかめるかのように、彼女はその端を指で少し押さえてみた。
(―――まあ、マルーシャ様ご自身が難儀なさることはあるまいから、この期に及んであまり気に病むまい)
マリーの代わりにその夫が苦労しているのはほぼ確実なのだが、アンヌはそのことについては深く考えなかった。

十日前、マリーに正面から反旗を翻されたあとで、
当然ながらアンヌは主人が服用するつもりだという薬の安全性を危ぶみ、独自に調査を進めていた。
いや、それは調査とも呼べなかった。
これまでの経験から、マリーがものを隠すときはどういう場所を選ぶかということはだいたい見当がついていたので、
アンヌは姫君の居室に敷かれた東洋趣味の絨毯の下に難なくそれを見つけ出し、栞が挟まれた件の頁を開いたのだった。

頁の下半分には薬の材料と調合方法が載っていたのでざっと目を通したが、
なるほど、ルースの山岳部でふつうに入手して食用にできる数種の野草と茸が主成分で、
それ自体に人体を損なう効果があるとは思われなかった。
母国から持参した産物のなかからそれらを見つけ出し、マリーが自身で素人調合したとしても害はないだろう。

しかしその頁の上部、古書らしい華麗な飾り文字で記された項目名を見たとき、アンヌは一瞬固まった。
そこにはたしかに「処女」「復活」という語句はあった。
ただしその後ろに小さな文字で注記された部分も合わせて読めば、それはおおむね
「処女性を取り戻すにも等しいほど妻女を魅力的にふるまわせる薬」といった意味になる。
つまり、一種の催淫薬であった。

(―――マルーシャ様)
誰もいない姫君の居室で、アンヌはかすかに唇を噛んだ。
(あれほど、古典文法の学習をおろそかになさいませんようにと申し上げたのに)
しかしいまさら言っても始まらない。
いちばんいいのはマリーを諭して今回の試みを中断させることだが、
あのように交渉が決裂した以上、そう容易に耳を貸してもらえるとは思えない。
それならせめて薬の中身を何か別の無難なものに取り替えたいのだが、
マリーは件の秘薬を常に身に着けて持ち歩いているらしく、
中身どころか薬瓶に触れる機会さえつかむことができなかった。

そうして十日目の夜になってしまったのである。
これが本物の有害物質であればアンヌは臣下の分を踏み越えてでもマリーの計画を阻止したであろうが、
今回は事情が事情なだけに、彼女は途中で達観するにいたった。
すなわち、
「マルーシャ様がご満足なされてお幸せならそれでよい」
ということであった。

まあおそらく、寝台の上ではとんでもない光景が繰り広げられることになるであろうが、
それを知るのは結局のところオーギュストひとりであるし、疲労困憊するのも彼のほうであろう。
(それにあの薬には忘却効果もあるようだから、
 明朝、処女を捧げたという満足感のみをおぼえてマルーシャ様がお目覚めになるならば、それでよしとしましょう。
 わたくしがなすべきは、あのかたのご満足にほころびが出ないようにすることだわ)
そう腹を決めたがゆえに、アンヌは夜を徹してこの場に控えることにしたのだった。

扉の向こうで姫君が一体どんなことをやらかしているのかと思うと若干不安にならなくもないが、
すでに始まってしまったことであり、夫妻の房事に今さら介入するわけにはいかない。
(ご奮闘くださいませ、オーギュスト殿下)
熱のこもらない声で応援をつぶやきながら、アンヌは蝋燭の芯をまた切り取った。




(―――ようやく、眠ってくださった)
ややもすれば布団の上に倒れこみそうになるのをぐっと持ちこたえながら、
オーギュストは病み上がりの老人のような足取りで寝台から降りた。
途中で何度か意識が遠のいているので正確な回数はわからないが、計五回、
口で果てさせられたのも数えれば七回ほどだろうか。
消耗の度合いはマリーの比ではないはずなのだが、彼女を先に寝付かせた以上、
オーギュストにはやらねばならぬことが残されていた。

(―――この状態のまま明朝侍女たちに起こされたら、
 マリーは恥ずかしくて実家に帰ってしまわれるかもしれない)
しかし必要なものはどこにあるのだろう。
日用品のたぐいは常に従僕たちの責任で管理され、彼らにひとこと尋ねればたちどころに差し出されるが、
逆に言えば彼らがいなければ手も足も出ないのだった。
オーギュストには、いま求めているものの所在はほとんど見当もつかなかった。

寝台近辺の棚や引き出しを洗いざらい開けた挙句、彼はようやく清潔なハンカチのようなものを
―――あとで侍女たちに訊いたところでは予備の枕カバーだったらしいが―――見つけた。
布巾として用いるには糊がききすぎてぱりぱりしているようにも思えたが、
ともかくもオーギュストはそれでマリーの身体を清めようと決め、
小さな紅い唇から真っ白な膝頭のあたりまで、二種類の体液の残滓を丹念に拭い取った。
しかしながら、白い粘液が白金色の恥毛に絡み付いているのを改めて見ると、
これだけ疲労しきっていてもいまだに下腹が熱くなってきてしまうのが不思議だった。
困ったなあ、と彼はひとりごちた。

それにしても、われながら一晩にこれだけというのは信じがたい量だと思う。
それにまだベッドカバーに飛び散った分もあるのだ。
けれどよく見ると、寝台のシーツは主としてマリーの甘酸っぱい愛液を吸い込んだがために濡れているようだった。
(シーツも・・・・・・変えな、ければ・・・・・・)
むろんそんな作業は生まれてこのかたしたことがない。
その未知の労力を思うと今度こそオーギュストは床に崩れ落ちて眠りこけそうになったが、
最後に残った一握りの精神力で己を鼓舞しようとした。
(これを放置したまま朝を迎えたら、マリーが・・・・・・恥ずかしさのあまり・・・・・・
 でも、替えのシーツって、どこにあるんだろう・・・・・・)
そのとき、寝室の扉をそっと叩く音がした。




「だ、れだ・・・・・?」
「わたくしでございます。
 恐れながら、もしよろしければ、ご寝台を整えさせていただけませんでしょうか」
(アンヌはどうして、僕たちの必要とすることがいつも分かるんだろう・・・・・・
 魔法使いみたいだなあ・・・・・)
オーギュストはいつにもましてぼんやりとした頭でつくづく感心し、
よろよろと寝衣を羽織ってから妻の最も信頼する侍女を部屋の中へ呼び入れた。

糊の利いた真っ白なベッドカバーを腕に抱えながら、アンヌは恭しく寝台のそばへ進み寄った。
どろどろに汚れたシーツを見ても彼女は何も言わなかったが、
半裸で眠りこける主人の姿をみとめると、冷静な態度の一角がふいに崩れた。
「ひょっとして―――殿下御自らマリー様の御身を清拭してくださったのですか」
「うん」
「―――なんと、大変な失礼を」

いくら日ごとにそのぼんくらぶりが堂に入っていることを実感させられる相手であるとはいえ、
さすがに一国の王子ともあろうお方に下女のような仕事をさせたと知って、アンヌは少し青ざめた。
マリーの行動力はいささか度が過ぎたようだ。
「申し訳ありません。わたくしがもっと強くお諌めしていれば―――」
「いや、いいよ。
 マリーが僕のためを思って、こうなったわけだし」
「ですが、これはさすがに―――
 マリー様には明朝、厳しく申し上げておきます」

「いやいや、本当にいいんだ。
 だって、マリーもきっと、怖かったと思うんだ。
 宮廷のみんなに聞いてまわったところでは、処女というのはふつう、痛い思いをするんだろう。
 ましてマリーは、前の夫君にはあまり優しくしてもらえなかったみたいだから、
 たぶんそのことについては、ほかの女の人より辛くて怖い記憶しかないと思うんだ。
 それなのに僕のために、今回また処女になろうとしてくれたんだから、マリーを責めたりしたくない。
 だから、叱らないであげてほしい」

言いながら、オーギュストは妻の身体を抱き上げ、ふらふらした足どりで近くの寝椅子に運び寝かせた。
アンヌがベッドカバーを取り替えはじめると、彼も手伝おうとした。
「恐れ多いことでございます。
 わたくしひとりでできますので、ご安心を」
「いや、僕もこういうのを自分でやってみたかった。それにいつか役立つかもしれないし」
ふたたび役立つ日があったらそのときこそ御身は精気を吸い取られて屍になっておられるのではないでしょうか、
とアンヌは疑問に思いながらも、結局は王子の厚意を受け入れた。

「やあ、これでよし。
 ありがとう、アンヌ。おかげで助かったよ」
シーツをすっかり取り替えてしまい、清潔に生まれ変わった寝台の上にマリーの身体をふたたび横たえると、
オーギュストもようやく荷が降りたかのようにどさっとその横に倒れこんだ。
主人夫妻に向かって枕元で深々と礼をすると、アンヌは静かに退出しようとした。
しかしふと頭に浮かぶことがあり、扉の前で立ち止まって振り返った。

「―――オーギュスト殿下」
「うん・・・・・?」
「お休みになりかけたところ大変恐縮でございますが、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「ん・・・・・何だろう」
「殿下におかれましては、
 マリー様が再嫁の身であられることを―――純潔の身ではなかったことを、
 ご婚礼以来不服に思っておいででしたか」
「ううん・・・・・・」
眠りに落ちかけているとも考え込んでいるとも判じかねるくぐもった声を上げながら、
オーギュストはゆっくり答えた。

「そうだなあ・・・・・最初の頃は、やっぱり前の夫君のことが気になったけど・・・・・・
 でもいまは、別にいいかなあ・・・・・・
 僕といっしょにいるときは、僕のマリーだから」

そこまで言うと、オーギュストは妻と肩を寄せ合いつつ、本格的な眠りに落ちたようだった。
あとは規則的な二種類の寝息が寝室に響くばかりである。
―――そう、とアンヌはつぶやいた。
これまでの彼女なら、誰かが主人の名の前に所有格をつけるたびに
「わたくしの」姫様ですと心の中で訂正してきたものだが、
いまはそれほど咎める気にもならなかった。
(それほどおっしゃるなら、今夜だけは「わたくしたちの」姫様ということにしておきましょう)
口の中でつぶやきながら、彼女は寝室の扉を閉めた。




※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※




柔らかい日差しが白金色のまつげを煌めかせはじめたころ、マリーはゆっくりと目を覚ました。
朝日を宿した水色の瞳を瞬かせながら軽く伸びをすると、心地よい疲労が全身を覆っているように感じられた。
ふと隣を見ると、オーギュストは反対側を向いたまま横たわっている。
肩越しに顔を覗き込んでみると、眉ひとつ動かさず死んだように熟睡していた。

(―――お珍しいことだわ。この時刻になってもこんなにも深く眠り込んでいらっしゃるなんて)
いぶかしがりつつも、マリー自身昨夜の記憶が定かではなかった。
朝だというのにいつになく頭はすっきり冴えているのだが、
足の付け根やら顎やら身体の節々がなんとなく痺れる理由は思い起こすことができなかった。

掛け布団をオーギュストに寄せてやるために自分の身体から払いのけると、
下に敷かれたシーツは、いつもの朝と違いあまり皴が寄っていなかった。
ただし、中央部分近くに小さな汚れを見つけた。
(―――?)
マリーが顔を近づけてよく見ると、それは何か赤茶けた液体が四、五滴こぼされた跡であった。
(これはどうやら―――血痕かしら。
 ―――ああ!そうだったわ)

マリーはすべて合点がいった。
思わず両手を打ち合わせ、白皙の顔には心からの笑みが広がる。
(やっぱり、わたくしは間違っていなかったのね。
 アニュータの助けがなくても、やれるときはひとりでちゃんとやれるんだから。
 あまりしっかりと思い出せないのは残念だけれど、きっと―――心から喜んでいただけたに違いないわ。
 この鮮血をごらんになって、オーギュストはきっと、
 『これでようやく僕だけのマリーだ』とかそのようなことをおっしゃって、そして・・・・・・)

そこまで思いを馳せるとマリーは思わず頬を赤らめ、
誰も見ていないとは知りつつも両手で顔を覆わずにはいられなかった。
気持ちを落ち着かせながら再び夫の顔をのぞきこむと常にもましていとしさが募り、
ぴくりともしないその寝顔がたまらなく愛らしいものに思われて―――
アンヌに言わせると「瞳を閉じられたことでいっそう知性の光から遠のいたお顔つき」ということだが―――
いつになく血色の悪いその頬を思わず撫でてみた。

そうこうするうちにくすぐったさを覚えたのか、ふとオーギュストの唇が開きかけ、
ついで栗色の瞳が軽く瞬いた。
気づいたマリーが微笑みかけると、その眼はいっそう大きく見開かれた。
「マ、マリー・・・・・・?」
「おはようございます」
「お、おは・・・・・・・そうか、もう朝なんだ。よかった・・・・・・」
夫の顔には驚愕と憔悴と安心を一度におぼえたような色が浮かんだが、
かつてないほど大きな幸福感に満たされているマリーには、そのあたりの詳細を見極める余裕はなかった。

「オーギュスト、わたくし、こんなにうれしいことはありません。
 昨晩とうとう、誰も触れたことのないまっさらな身体で、あなたの妻にしていただけたのですもの」
「え?う、うん」
「あの、わたくしあまりおぼえていないのですけれど、どのように思し召されましたか」
「ど、どのようにというのは」
「もう、いやですわ、オーギュストったら」
ますます頬を赤らめてうつむく妻の姿を呆然と眺めながら、
王子はただでさえあまりよく働かない頭を早朝だというのに最速で回転させようと努力していた。

「ええと、そうですね、この目が信じがたかった、じゃなくて、ええと、まるで夢かと思いました」
「まあ」
まさにうれし恥ずかしの絶頂に登りつめながら、マリーはふと夫の目元の隈に気がついた。
それをじっと見ているうちに、彼女はやがて昨夜の事態を把握しなおした。
唐突に罪悪感が沸き起こる。

「オーギュスト、わたくし、あなたにたいへんな忍耐を強いてしまったのね」
「え、ええ、まあ、そういわれれば、そう、かも・・・・・・」
「そうだわ、わたくしったら、なんということを。
 自分だけ浮かれてしまっていて、今の今まであなたのご様子に気がつかないなんて。
 昨晩はひどくご自制してくださったのね、ひとえにわたくしのために」
「じ、自制・・・・・・?」
「『初めての身体』だからさぞ不慣れで痛い思いをするだろうと、こんな時まで慮ってくださるなんて・・・・・・
 九夜も独り寝を耐え忍んでいただいた後だというのに。
 本当はあなたも、存分に愛してくださるおつもりだったのでしょうけれど、
 わたくしの身の大事を思って控えてくださったのね・・・・・・
 ええ、そうだわ。昨日の今日だというのに、痛みらしい痛みはほとんどないもの。
 それもすべて、あなたが本当に丁重に扱ってくださったからだわ。
 でもあなたのほうは、オーギュスト、心ゆくまで思いを遂げられなかったばかりに、
 これほどまで憔悴していらっしゃるのね・・・・・・」

感極まったマリーは突然彼の身体に抱きついた。
その柔らかな肌やかぐわしい金髪は通常ならいざ知らず、
今朝のオーギュストにとっては昨晩の壮絶な記憶を生々しく思い起こさせるものでしかなかった。
仰向けに横たわったままの夫の身体がふいに硬直したのを知って、
マリーは心配そうに上から栗色の双眸をのぞきこんだ。

「お優しい方、まだ抑えてくださっているのね」
「いえその、僕は」
「―――もう大丈夫ですわ。
 わたくしの身体でしたらご心配いただくことはありません。
 その、昨晩優しく愛していただいた部位は、まだ少し痺れている気もいたしますけれど、でも決して痛くはないのです」
「そ、それはよかった」
「今度はわたくしが、お返しする番ですわ」
恥じらいがちにそう告げると、マリーは彼の腰帯に手をかけ、ゆっくりと解き始めた。

状況が理解できないままオーギュストは放心の態で妻のなすことを眺めていたが、
帯を解ききったその手が肌着に取りかかろうとするのを感じて、ようやく我に返った。
全身に力が入らない状態だとはいえ、何とかして阻止しようといささかの反抗を試みる。
「マ、マリー、もう朝です」
「分かっておりますわ」
頬をいっそう赤らめつつ、マリーはやんわりと強引に夫の手を押しのけた。

「わたくしだって、こんな明るいうちからだなんて、恥ずかしくて消えてしまいたいほどですけれど、
 でも、そんな身勝手な私情に屈するわけにはまいりませんわ。
 昨晩それほどお労りいただいたのですもの。
 今度はわたくしが、心を込めてお慰めしなければ」
「・・・・・・マママリー、いや本当に、ぼぼ僕はもう」
マリーは恥じらいながらもいっそう大きな微笑みを浮かべ、ほっそりした人差し指を夫の唇に押し当てて囁いた。
「何もおっしゃらないで。あなたのマリーはすべて存じ上げております。
 嫁ぐ前、生国におりましたときに、母に深く諭されましたの。
 夫婦の愛とはすなわち、自己犠牲と献身をおいて他ならないのだと。
 ですからわたくし―――もちろん恥ずかしゅうございますけれど、でも」




(うわあああああ!!!)




断末魔にも似た悲鳴を聞いた気がして、アンヌはふと立ち止まり振り返った。
主人夫妻の寝室につづく扉は閉ざされたままである。
宿直明けの朝はやはり頭も身体も重かった。
けれど、済ませるべきことは休憩前に済ませておこうと思い、
彼女は夜明けとともに控えの間を退出しようとするところだった。
両腕で使用済みのシーツを入れた籠を抱えつつも、左手の小指には包帯を巻いているため
重心はできるだけ右手に引き受けさせている。

アンヌはしばらく黙って耳をすませていたが、やがて誰にともなくうなずいた。
若干憐憫の情が沸かないでもなかったが、まあ、落ち着くべきところに落ち着いたというべきなのだ。
(―――「僕のマリー」とおっしゃったからには、その結果ももれなく引き受けていただかなくては)
それからまたゆっくりと歩き始めた。




(終)




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