遠くで鐘の音が聞こえたように思った。だがまだ目は覚めなかった。
すぐ近くに他人の体温があるのを感じていた。なぜか、それを不思議だと思わなかった。
ただ心地よかった。
おぼろげな夢をさまよった後、まぶたに陽光を感じながら、彼女は徐々に覚醒してきた。
ゆっくりと目を開けると、すぐそこに淡い褐色の双眸があった。
互いの息が一瞬止まる。互いに視線を外しかけては、恐る恐るまた戻ってゆく。
おはよう、と小さなつぶやきがあった。彼の声だった。


「お―――おはようございます」
ふたりとも、しばらく黙っていた。それからまた、アランが先を切った。
「ひとつ訊きたいのだが」
「何でしょう」
「これは何の香りだ」
「白檀ですわ」
「話には聞いていたが、これがそうか。そなた愛用しているのか」
「ええ。わが国では一般的です」
「そうか」
そう言って彼はエレノールの黒髪に顔をうずめ、その匂いをさらにかごうとした。
あまりに自然にやってのけられたので、彼女は押しのけることもできなかった。
(何と慣れておられるのだろうか)
と、憤りをおぼえつつも、自分でかねて思っていたほど不快ではなかった。
「いい匂いだ」
「それは、―――ようございました」
自分でもそれと分かるほど、こわばった声が出てしまった。アランがかすかに笑うのが分かった。
馬鹿にした笑いではない。いつもより少しだけ、常人らしい温度を感じさせた。
もともと母后によく似ている繊細な面差しは、笑うといっそう似てくるようだった。


「褒められたら礼を言うものだ」
ですが、とエレノールは抗いかけたが、唇を唇でふさがれてしまったので、それ以上何も言えなくなった。
婚礼の祭壇で交わしたとき以来、初めての接吻らしい接吻だった。
思っても見ないほど優しい感触に、エレノールは手指の先からつま先まで、全身の緊張が徐々にほどけていくのを感じていた。
このままなかに進入されるのかと思ったが、そうなる前にアランは顔を離した。
しかし彼女の瞳を長い間見つめている。
「そなたに触れるぞ。あの短剣はもう捨てろ」
一方的で高圧的な命令だった。
なんという男だろう、とエレノールは思ったが、もはや抗弁はしなかった。


彼女の沈黙を同意だと見なしたのか、アランがふたたび唇を重ねてきた。
今度は遠慮も容赦もなかった。舌を使ってエレノールの唇をこじあけ、無防備な口腔に侵入した。
エレノール自身の舌はひたすらすくんでいたが、経験を感じさせる技巧によって簡単に絡めとられ、
狩りに長けた猫が手負いの小鳥をいたぶるかのように、余裕綽々と執拗に弄ばれた。
エレノールは努めて平静を装おうとしたものの、呼吸が次第に荒くなってゆくのは隠しようがなかった。
愛撫それ自体よりも、自分自身のこのような抑えがたい反応に対してかつてない恥辱が高まっていった。
エレノールは何とか逃れようと身をよじりつづけたが、彼女の頭部を片手で抱くアランの力がそれを許さなかった。


エレノールはやがて、さらにもう一方の手が、自分の帯のあたりに及んでくるのを感じた。
反射的にそれを取り押さえようとしたが、両手を以てしても相手にならなかった。
アランが自由にできるのは片手だけであるにもかかわらず、実に手際よく帯を解いて彼女の寝衣を脱がせ、さらに肌着に手を伸ばした。
(そんな)
当然予期されることだったとはいえ、エレノールはそれまで以上に強い衝撃と羞恥に震えた。
(いや……っ)
先ほどにもまして真剣に抵抗を試みるも、思うように力が入らない。舌はなお嬲られつづけている。唇の奥に生まれた甘い痺れが、いまや全身に行き渡っていた。
貴婦人の肌着は複雑な留め具をふんだんに用いているが、王太子妃のそれであればなおさらである。
それでもアランの片手はとまどうこともなく、実に慣れた手つきで次から次へとたやすく外していった。
(このかたは)
先程から口中を自在に弄ばれていることへの屈辱感に加え、エレノールは新たな憤りに打たれてこめかみまで熱くなった。
だが、唇は依然ふさがれたままである。声に出して非難することも許されないまま、エレノールは口舌から伝わる愉悦の罪深さに、ただ慄くしかなかった。


気づいたときには、肌着すらすっかり取り払われていた。
次にアランがしたことは、エレノールにとって何にも増して衝撃的だった。
羽毛の掛け布団を完全に払いのけて、彼女の裸形を陽光にさらそうとしたのである。
寝台の上の大部分は、窓にかかるレースを透過した朝日によって明るく照らし出され、白というより暖黄色に浮かび上がっていた。
「だめです」
エレノールはやっとのことでアランから顔を離すと、真っ赤な顔で抗議した。
「夫に隠し事をするのか」
「隠し事なものですか。せめてカーテンを」
「つまらぬではないか」
何がつまらぬものですか、と彼女が言いかけたとき、ふいに部屋の反対側の扉が開きかけた。
それまでもノックをしていたのかもしれない。だがふたりには聞こえなかったのだ。
「誰かしら」
「この部屋はふだん、この時間に来客があるのか」
「まさか、早すぎますもの」
「―――ならば、オーギュストだろう」
舌打ちをする代わりに一瞬苦々しげな顔になり、しかしながら前々から予測していたような声でアランが言った。






「アランにいさま、おはようございます。
 おへやにいないからさがしたんだけど、やっぱりここだったんだね」
元気な声が枕元に届いたときには、寝台の上にはアランの姿だけがあった。
取り払われたばかりの掛け布団の下に、エレノールは大急ぎで身を隠したのだった。
羽根布団ですっかり身を覆うには膝を抱えて丸くならなければならず、きわめて窮屈だが仕方がなかった。
相手が六歳の子どもだろうが、明るいところで肌をさらすなどとんでもないことだ。
(このかたも、もう少し恥じ入られるべきだわ)
このかたとは無論、アランのことである。彼もいつのまにかほぼ半裸になっていたが、別に服を拾いあげるでもなく、そのまま末弟を迎え入れたのだった。


厚い布団越しなので外界の音声はくぐもっているが、それでも兄弟の会話はおおよそ聞こえてくる。
「早いな。どうしたんだ」
「あのね、さっききゅうしゃへお馬を見に行くとちゅうで、よつばをみつけたの。これ」
「それはよかったな」
「これ、にいさまからエレノールねえさまにあげてよ」
「どうしてだ。おまえが見つけたのだから自分のものにすればいい」
「でもぼくもうしあわせになったんだ。これをみつけたときすごくうれしかったもの。
 ねえさまよろこんでくれるかな」
「たぶんな。でもなぜ俺からエレノールに渡すんだ」
「だってねえさまは花嫁さまでしょう。花嫁さまはみんなしあわせなんだって、ばあやがいってた。
 でもねえさまはあんまりしあわせそうじゃないから、これがあると花嫁さまらしいでしょ。
 それに、にいさまからこれをもらったら、ねえさまもっとしあわせなきもちになるよ」


しばしの沈黙が降りた。
羽根布団にくるまれた暗闇のなかで、エレノールは両膝を少しだけ強く、自分のほうへ抱き寄せた。
オーギュストは兄に四つ葉を手渡し、アランはそれを受け取ったのだろうか。
彼女は努めて息を潜めようとしながら、心臓の音が不規則になってゆくのを感じていた。


じゃあね、という声が聞こえたような気がした。オーギュストの用件はそれだけだったのだろう。
小さな足音がさらに小さくなってゆきかけたが、途中で止まり、また寝台の前に戻ってきたようだった。
「にいさま、あれはなに」
「羽根布団だ。丸めてある」
「うそ。おふとんは丸めてもあんなかたちにならないよ。もっとひらたくなる」
「あれはだな、つまり―――」
「わかった。卵をかえしてるんだね」


唐突に、天啓を受けたかのようにきっぱりした声が上がった。
幼いオーギュストは、実に腑に落ちたような顔をして兄を見つめていることだろう。
「だからにいさまは裸なんだ」
一瞬の間が開いた。だがさほど困惑したわけでもなさそうに、アランの落ち着いた声がつづいた。
「よく分かったな」
「すごいなあ、にいさま」
心から感服したような声でオーギュストは応じた。


それから突然、絨毯に軽めのものが落ちるような音がした。オーギュストが急いで靴を脱ぎ散らかしたようだった。
「ぼくも卵をかえしたい」
そのまま寝台に上がってこようとしたのだろう、アランもまた急いでオーギュストを押し留めたらしいのが、エレノールにも分かった。
「だめだ」
「どうして」
「卵を孵せるのは大人だけなんだ。鶏を見てみろ」
「そうか」
残念そうな声ではあったが、オーギュストは聞き分けよく寝台から降りていった。マットのきしみがエレノールにも伝わった。
「卵がかえったらぼくにさいしょにおしえてね。はやくかえらないかな。
 ―――ああ、そうか。だからにいさまはときどき他のひとといっしょに裸でいるんだね」
ふたたび、天啓を受けたような明るい声が上がった。
エレノールは我知らず耳をそばだてた。


アランは無言のままである。エレノールはいまこのときほど、彼の表情を間近で見たいと思ったことはなかった。
オーギュストはといえば、きれいさっぱりと疑問が晴れたうれしさか、勢いよく滔々とつづけていた。
「いつもは女のひとが一人だけど、このあいだの朝は二人の女のひとといっしょにいたよね。
 あのひとたち、ぼくを見てびっくりしてたけど卵をかくしたかったのかな。
 ぼく、とったりしないのに。
 そのまえはにいさまのおともだちが―――ええとだれだっけ―――
 ボーアルネ公爵家のおねえさんとヴァロワ伯爵家のおにいさんがにいさまのとなりでねむってたよね。
 やっぱり一人より二人、二人より三人であたためれば卵もはやくかえるんだ。
 ぼくおもいつかなかったよ。
 にいさまはほんとうにあたまがいいなあ」


(―――いったい、一体なんということを)
両膝をいっそう強く抱き込みながら、エレノールはひたすら自分を抑えこもうとしていた。
とはいっても、身体の奥深くから沸き起こる溶岩のような激情の余震は、もはや布団の外から見ても隠し通せないにちがいない。
もういい、それでも全くかまわないと思うほど、彼女は文字通り怒り心頭に達していた。


「いいなあ。
  ぼくもおとなになったらおともだちをたくさんベッドに呼んで、いっぱい卵をかえそう」
「それでこそ男だ。
 ―――だがまあ、相方はひとりにしておけ。そのほうが無難だ」
「ブナンって?」
「卵が割れにくいとか、卵をめぐって喧嘩別れしないとか、そういうことだ」
「そうか。あんまりたくさんいるとだめになっちゃうかもしれないよね。
 ひとりしかだめなんだ。ぼくはだれと卵をかえそうかな」
声の調子からすると、オーギュストは顔を伏せて神妙に考え込み始めたようだ。
エレノールは思わず身を起しかけ、こちらに背を向けているアランを枕で張り倒してやろうかと思ったが、なんとか思いとどまった。
これほど切実に凶暴な衝動に駆られたのも、彼女の十八年の人生でほとんど初めてのことであった。


「ぼく、くまさんがいいな。大きくて毛がふわふわしててあったかいでしょ。
 いっしょのおふとんにはいったら、きっとすごくきもちいいよ。
 それにぼくの髪や目の色はくまさんと同じ茶色だから、すぐおともだちになってくれるよ」
「そうだな。くまさんに来てもらうといい。そのためには蜂蜜を今から貯えておけ」
「はちみつ?そうだ、もう朝ごはんだね。ぼくいかなきゃ。
 にいさまはねえさまといっしょにたべるんだよね」
「ああ。早く行って来い」
「じゃあね、卵がかえったらぼくにいちばんにおしえてね。
 ねえさまによつばをあげるのもわすれないで」






来たときと同じく、オーギュストはうれしそうな足取りで去っていった。扉の開く音がして、すぐにまた閉められた。
エレノールはやがて、アランが掛け布団に手をかけてくるのを感じた。
中身をそっくり剥き出そうとする勢いだったが、エレノールは今度こそそれを許さなかった。
布団にくるまるような形で肩から下を覆ったまま、無言でアランに再会した。
彼は若干不自然に目をそらしてはいるものの、とくに萎縮しているというわけでもないのが、いっそう腹立たしい男であった。
エレノールにしてみれば、これほど冷ややかな視線を向けるに値する相手というのも初めてである。


「三人で卵を孵すというのは、ずいぶん楽しそうですこと」
「まあな―――いやそんなことはない。というか、あれはきわめて例外的だ」
「そのわりには、弟君の目に二度も留まったようですわね」
「偶然だ」
「―――恥を知るべきは、あなたのほうです」
顔を真っ赤に染めたまま、エレノールはぴしゃりと言った。
罰当たりを極めたこの男のせいで、「三人で」「卵を孵す」といった罪深き表現を口にせねばならないことがまた、消え入りたいほど恥ずかしくも腹立たしい。
だが、自分たちふたりの世界を隔ててきた最後の垣根がいつのまにか崩れていることに、心のどこかで気づいてもいた。
「まあな。悪かった」
「まったくです」


それからまた、少し長めの沈黙がふたりを隔てた。
といっても今回は、それほど緊張を強いるものではなかった。いわば、それぞれが自問するための時間だった。
「それで、どうなさるのです」
最初に静寂を破ったのはエレノールだった。声が震えかけるのを必死で抑え、堂々と聞こえるように振り仰いだ。
「何がだ」
「わたくしと、卵を孵す気はおありなのですか」


アランはそれまでずらしていた視線を正面に戻し、エレノールの双眸をとらえた。彼女は反射的に目を伏せた。
耳まで赤くしている自分の表情を見られたのだと思うと、エレノールはいっそういたたまれない思いがした。
だがアランは何も言わず、あらためて掛け布団に手をかけ、今度こそ本気の力で剥ぎ取っていった。
エレノールはシーツの上に仰向けにされた。
恐ろしさと恥ずかしさで全身が硬直しながら、それでも今度はアランの目を見なければと思った。




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