五人の侍女たちが退室してから、燭台の蝋燭のひとつがそっと尽きた。
エレノールはとうとう、イザベルを控えの間に下がらせた。
イザベルは今夜宿直にあたるが、同輩の侍女と二人体制なので、適宜睡眠をとることはできるだろう。
彼女が立ち去ったあと、寒々しいほどに広い寝室で、一人きりになったエレノールは寄る辺なく立ち止まった。
今夜あのかたをお迎えして、その先にどうなるのだろうか。
エレノールは昼間のことを、それから昨日の夕食時を思い起こした。
(あのかたは今夜こそ、覚悟を固めておられるのだろう)
目の前が奇妙に暗く、胸が重くなったような気がした。恐怖というのではない。
どこにも行き場がないという事実が、これまでよりもなお近く、目をそらすことを許さないほど近くに迫ってきた、それだけのことだった。


ふと、文机の上に置いたままの花冠が目に入り、そちらに近寄った。
昼間の遠乗りで、オーギュストが作ってくれたシロツメクサの冠である。
とはいっても実際には、オーギュストは喜び勇んで花を摘み歩いたはいいものの、その不器用な手先では茎の編み込みはうまくゆかず、
エレノールがほとんど編んでやったのを、オーギュストの手から「ねえさまにあげるね」と進呈されたのだった。
そのときのことを思い出し、エレノールは自然と笑顔になった。
何となく机の前の椅子に座り、花冠を手に取って見やる。
それほど長くはない命だが、しおれるまでは壁のどこかに架けておきたいと思った。
シロツメクサの小さな花弁のひとつが机上に落ちた。燭台の灯火を受けたそれは、少し黄色みを帯びて見えた。






祖国にいたころ、ある春の日の庭遊びで、たんぽぽの花冠を作ったことがあった。
あのときもやはり、小さな末弟にせがまれて作ってやったのだ。
だがエルネストはすぐに飽きてしまい、「こんなの女の子のものだ」と偉ぶったことを言って、輪投げのように無造作に放り出した。
エレノールらと一緒に御苑に出ていたすぐ下の妹マヌエラはそのとき、少し離れた薔薇の生垣の近くにいたが、眉をひそめて「エルネスト!」と厳しい声で弟の名を呼んだ。
だがエレノールは、弟の気まぐれをとうに受け入れてしまっていたので、自分で拾いに行こうとした。
彼女自身はすでに、喜んで花冠をかぶりたがるような年頃ではなかったが、
冬を越えてせっかく咲いた花を何輪も摘んでしまったのに、こんなふうに放ったままではあまりに不憫だと思ったのだ。


そのとき、「レオノールさま」と静かに呼びかけて、エレノールをやんわりと制したのも彼だった。
長身の彼はエルネストの前に膝をついて正面から目を合わせ、穏やかだが芯のある声で説き聞かせ始めた。
彼は幼い王子の身の回りの世話をする一侍従に過ぎず、教育係は別にいるのだが、他ならぬエルネスト自身が彼を連れて歩きたがるので、
そのときも姉弟のごく近くに、目立たぬように控えていたのだった。
簡潔ながら厳しいことばで侍従から理非を諭されている間、エルネストは居心地悪そうにしていたが、結局口答えはせず、自分で花冠を取りに行った。
だが、すでに欲しいという気持ちが消えてしまったのはいかんともしがたく、小さな手で持て余しているのはエレノールにも分かった。


「エルネスト」
「なあに」
「いらないなら、姉さまが欲しいわ。かぶらせてくれる?」
「いいよ」
ほっとしたように弟が駆け寄ってきて、彼のためにかがんでやったエレノールの頭に、正しくは薄絹のヴェールの上にたんぽぽの冠を載せた。
水平な載せ方とはいえず、少し横にかしいでしまったようだが仕方がない。
「ありがとう」
にっこり笑って立ち上がったとたん、花冠はヴェールと一緒に背後のほうに滑り落ちてしまった。
エレノールが振り返る前に、そちら側に控えていた彼がヴェールと花冠を拾い上げた。
エルネストの手に再度渡そうか一瞬迷ったようだが、冠はともかく姉姫のヴェールは王子の背丈を越えるほど長く、扱いは簡単ではない。
結局彼自身が、「畏れながら」と断ってからレオノールの頭部にヴェールを掛けなおし、さらに花冠をそっとかぶせた。
宮中で彼女を取り巻く上級貴族の子弟ならば、何と神々しくも美しい御髪か、という意味のことを、数十倍の語彙を用いて表現してくれるはずだった。
だが彼は何も言わなかった。
夏も終わりに近づいたあの晩、舞踏会を抜け出して訪れた水辺で邂逅したときと全く同じ、淡々と任務にとりくむ男だった。


「これでよろしいかと」
「―――ありがとう」
エレノールが振り向いたときには、彼はすでに数歩後ろに退いていた。
どうして、とエレノールは思った。
どうして、こんな他愛のない遊びのときでさえ、あなたは自分から遠のいてゆくの。
「ねえさま、花嫁さまみたいだね」
エルネストが突然、世界一ふさわしい形容を思いついたような声で言った。
「そうだよね、クレメンテ」
名を呼ばれた侍従は、答えに窮したように少し沈黙を置いてから、そうですね、と幼い主人に向かって微笑んだ。
エレノールのほうは見なかった。
そのほうがいいのだと、彼女自身にも分かっていた。






扉の向こうから、王太子の到着を遂げる侍女の声が届いた。
お入りいただいて、とエレノールは言った。扉越しに伝わるか伝わらないかというほどの、独語のような声だった。
それでも扉はゆっくりとひらかれ、長身の人影が入ってきた。
その背後で扉はまた閉じられ、人影が近づいてくるのが分かった。
だがエレノールは、立ちあがって迎えることができなかった。


立ち上がったあとに何が訪れるのか。互いに義務だと割り切ったくちづけか、抱擁か。その先の何かか。
あの春の宵も、文机のそばでの抱擁だった。
まどろみのように短い一刻だった。それでも鮮明におぼえていた。
あのとき、自分のために神が遣わしてくれたのは彼だけで、彼には自分だけがいた。そう信じられた。
互いの呼吸が聞こえるほどの距離で、長い影が静止した。
エレノールは文机に向かったまま、いつも肌着越しに忍ばせている短剣のことを思った。


「エレノール」
一瞬間を置いてから、彼女は振り向いた。寝衣姿のアランがいた。
だが返事はしなかった。するのが礼儀だと分かっていたが、喉の奥で声がこわばっていた。
アランもひととき彼女の顔を見下ろしていた。
そして黙ったまま、その場に膝をついた。


「―――」
声こそあげなかったが、エレノールは驚愕に目を見開いた。
アランの表情は変わらず、感情の所在を見せなかった。発せられた声も同様に、起伏のないままだった。
「エレノール、あなたに頼みがある。今夜からはどうか私の妻になっていただきたい。
 あなたを長らく孤閨に追いやってすまなかった。
 私に不服なところがおありなら直すよう努力する。
 だから事実上の夫婦となり、いずれ私の子を生んでくださらないか」


「どうして突然、そんなことを」
エレノールは小さな声で尋ねた。口に出しながら、あまりに不遜な問いだと自分でも分かっていた。
一国の継嗣たる者が、正妃に懐妊を望むのは当然のことだ。
だがアランは苛立ちも見せずに、丁重な態度を崩さずに答えた。
「周りがみなそれを望んでいるからだ。あなたのご一門も、私の身内も。
 われわれは幸運だ。そうではないか。愛する人々みなから祝福されて結婚したのだから」


そのとおりだった。エレノール自身がそのことを何よりわかっていた。
ほかならぬ彼が、―――祖国に残した彼が、彼女の幸せを願ってくれていた。
あのことばは真実だった。
だが、あの短い春の宵の抱擁もまた真実だった。あの熱に、嘘はなかった。
エレノールは沈黙し続けたあと、つぶやくように言った。
「わたくしには―――みなから祝福されて結婚したことが、幸運だったとは思えません」


アランは立ち上がった。
ふたりの傍らの机上に燭台があるので、長身の影は彼女の顔には落ちず、アランの表情も隠されなかった。
猛禽を思わせる双眸が見下ろしていた。
エレノールは恐怖に息をひそめた。ひとりの人間としてほとんど知らないこの男が、あまりに瞬時に変貌したことが恐ろしかった。
そして身を引くひまもなく、強い力で襟をつかまれ、意思のない物体を引き上げるかのように荒々しく立ち上がらされた。
喉が苦しかった。だが急速に高まってゆく息苦しさは、物理的な圧迫よりも戦慄と驚愕によるものだった。
かつて誰からも、父母や兄弟からでさえ、これほど乱暴に扱われたことはなかった。
殴り殺されるのかもしれない、とさえ思った。一方で不思議な諦観もあった。
(―――わたくしはずっと、これほどの怒りをこのかたに耐え忍ばせてきたのだ)
という悔恨も、エレノールのなかにはたしかにあった。


空いているほうの夫の手が震えているのが彼女にも分かった。恐らくは、掌に爪が食い込むほど固く握りしめられている。
だがアランは殴らなかった。代わりに彼女の襟元をつかむ手にいっそうの力をこめ、正面から目を覗き込んだ。そして押し殺した声で言った。
「理由を言ってやろうか。
 そなたは母国の宮廷で一介の文官と通じていたのだろう。
 あの侍女たちが寝物語に漏らしてくれたわ。
 おおかたその男は婚礼前にそなたに逃亡をもちかけ、
 それが事前に露見して罪を得たのだろうが、それが俺と何の関係がある。
 わが頼みに応じる気さえあれば、純潔でないことなどこの際目をつぶったものを、
 そなたはいまだ下賎な男への思慕が断ち切れぬとみえる。恥を知れ」


吐き捨てるような最後の一声とともに、襟元がさらに引き上げられた。踵が床から浮きかける。
エレノールは目をつぶった。力任せに叩きつけられるのだと思った。
だが、一瞬の静止後、彼は襟から手を放した。わずかに唇を噛んでいたようにみえた。
安堵というよりもなお恐怖のうちにとどまりながら、エレノールは自分の足で何とか立とうとした。
だがすでに均衡の感覚を失っていた身体は、そのまま床にくずおれていった。
微風のように弱々しい衣擦れの音でさえ、はっきりと聞き取れた。
燭台に立つ蝋燭のはぜる音が耳に届きそうなほど、室内は静寂に満たされていった。


「―――あなたのおっしゃることは本当です」
冷たい床の一点を見つめながら、エレノールは我知らず、口を開いた。
なぜいま彼に告げる気になったのか、自分でも分からなかった。ことばだけが淀みなく流れ出た。
「わたくしは恥を知らない女です。
 あなたには何も非はありません。
 さりながら自分の失った恋に執着するあまり、許されぬほどあなたを、夫たるかたをないがしろにしてしまいました。
 ふたつだけ、間違いがあります。
 わたくしはまだ生娘です。
 そして、婚礼前に連れて逃げてくれるよう頼んだのはわたくしのほうです。
 でも彼は応じませんでした」
エレノールはことばを切った。
しばらく口をつぐんでいたが、やがてためらいがちに開いてつづけた。
「そのかわり、出国する前夜にこの身にくまなく触れて、接吻してくれたのです。
 その記憶をあなたの手で―――他の殿方の手で塗り替えられたくはなかったのです。
 どうしても」


はっ、と鼻で笑う声が頭上から落ちてきた。
エレノールも予想はしていた。だが実際にその嘲笑に触れると、憤るでも苛立つでもなく、ただ目の前が闇に溶けた。
わたくしはひとりだ、と改めて思った。
アランの声がつづいた。先ほどよりは普段の平坦さを取り戻していたが、それでもまだ努力してそれを保とうとしているのは分かった。
「つまりそなたの片恋だったというわけか。
  何をそこまで神妙な顔で語る必要がある。
 あらゆる犠牲を払ってでもその男がそなたを助け出すのが当然だとでも思っていたのか。
 自分にそれだけの価値があると。己が世界の中心だとでも思っているのか。


  冷静に考えてみよ。
 仮にその男がそなたを連れて逃げたとしたら、その一族郎党にどんな累が及ぶと思う。
 スパニヤの刑法についてはよく知らぬが、
 わが国では王族の拉致誘拐を企てた者の身内は三族まで連座する決まりだ。
 たとえその男が心底そなたを愛していたとしても、
 老いた父母を苦役に就かせ兄弟姉妹の未来を闇に葬ってもかまわないとまで思い切るのは、よほど難儀なことだ。
 あるいはその男が孤児だったとしよう。
 それでも上官や同僚といった他者が、監督不行き届きであるとして重い咎めを受けることに変わりはない。
 わが国なら減給どころではすまんぞ。
 最悪で官職剥脱、よくても辺境地帯への左遷だ。
 そなたは王女としての特権はもれなく享受してきたようだが、
 己ひとりの恣意でどれほどの人間に苦労をかけるか想像したことはないとみえる。


 何より、そなたの頼みはその男自身の将来を奪うことになったはずだ。
 ずいぶん有望な官僚だと聞いたが、
 大志ある男なら誰もが望むはずの名誉と栄達につづくきざはしから、恋人を引き摺り下ろしてもそなたは平気だったのか。
 かくも浅薄な王女をかどわかす罪よりは、
 有為有徳の士から国史に名を留める機会を奪い、逃亡者の身へ貶める過ちのほうがよほど重いわ」


叩きつけるように一息に言うと、アランはそこでことばを切った。
次に来る何かを、大いなる反動を待ち受けているようでもある。
だが、エレノールは床から立ち上がらなかった。夫の顔を見上げることもなかった。
ただ床の上の一点を見つめている。
アランのことばこそ世の道理だった。正しいのはこのかただと思った。
間違っていたのは自分だった。でも、そうせずにはいられなかった。
そうしなければ、自分でいられなくなると思った。


「―――許してください」
エレノールは初めて、夫を拒みつづけてきたことを詫びた。
ほんの少し、アランの気配が変わるのを感じた。
だが彼と目を合わせることはしなかった。
何かが触れ合うのを恐れるかのように、エレノールはただまなざしを伏せていた。
夜の裂け目に消え入りたい思いと、悔恨をいま伝えなければという思いが、絡まりあう蔦のように相克していた。


「許してください」
ふたたび、同じことばがこぼれでた。
機械的な繰り返しのように響くかもしれなかったが、そのことばはなお真実だった。
祖国の宮廷で、愛したひとに自分を選んでほしいと願った過ちを、
―――そして花嫁としてこの国に迎え入れられながら、婚儀の不履行を自ら選んだ過ちを、償いたい思いは真実だった。
だが仮に、もう一度最初からすべてをやりなおせるとしても、同じ道を選ぶであろうことも分かっていた。
エレノールは床の上を見つめたまま、微動だにしなかった。
死のような沈黙がふたりを隔てようとしていた。






ふと、静かな声が近くから降りてきた。そうか、という呟きが聞こえたように思った。
その後に少し、間があった。
「その男が、そなたの世界の中心だったのだな」
我知らず、エレノールは頭上を振り仰いだ。
降りてきた声と同じように、アランは静かな面持ちでこちらを見ていた。
蔑みではなかった。憐れみでもなかった。
他者の内側に踏み込んだことに戸惑いながら、それでも深奥に近づこうとするまなざしだった。


エレノールは唇をかたく閉じ、顔をうつむけた。
えぐるように襲い来る、耐え難い痛みに顔をゆがめた。自らを制することができなかった。
褐色の双眸から逃れようとするかのように、両手でゆっくりと顔を覆った。
みんなが、あなたは間違っていると言った。誰より自分がそれを知っていた。
だが本当は、寄り添ってくれる誰かを求めていた。ずっと待っていた。初めてそう分かった。


先ほどまで向かっていた机の上で、すっかり細められた燭台の火がおぼろげに揺れていた。
部屋の光源が失われるのはもはや目前だった。
しかし完全な闇が訪れる前に、男の力で抱き上げられるのを感じた。
殴られるのではないかという危惧を、エレノールはもう抱かなかった。恐れはもうどこにもなかった。
暗闇のなかで寝台の上に横たえられたときでさえ、むしろ奇妙な安堵を感じた。
安堵によって何かを解き放たれたのだろうか、エレノールは男の腕に体重を預けながら、初めて声に出してしゃくりあげた。
一度こみあげた嗚咽は堰をきった奔流のようにあふれだし、夜の底に響きつづけた。




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