「明日の午餐のあと、郊外へ遠乗りをしないか」
抑揚の乏しいアランの声に、エレノールは返事をするまで少し間を置いた。
ひとつには、これが夫の独語ではなく、自分に向けられた問いであることを咄嗟に理解できなかったためであり、
もうひとつには、このような問いにどう答えるべきか咄嗟に判断できなかったためである。
婚礼から半年が経過したにもかかわらず、彼ら夫婦の間には、食事時に会話を楽しむという習慣がそもそもなかった。
ふたりの間には白いレース編みのクロスで覆われた大きな円卓があり、いましがた終えたばかりの晩餐の食器がまだ下げられずに残っていた。
二人分の食器のちょうど中間に位置を占める銀の燭台は、静かに火を灯しつづけている。
エレノールの伏せられた大きな瞳は濃いまつげの陰になっていたが、それでも暖色にいくらか染められ、
本来の漆黒よりも明るい色を湛えていた。


妻の反応をある程度見越していたか否か、アランは自身の眼前に広がった海溝のような沈黙に不快な色を浮かべるでもなく、
新しい情報を添えて、もういちど淡々と言い直した。
「明日の午後は三時の祈祷に参列するまで、貴女にさしたる予定はないことを女官長から確認した。
 天気のほうも、今日の夕暮れから判断すればおそらく荒れないだろう。
 散策のようなものだ。激しい早駆けをするつもりはない。
 横乗りではない通常の騎乗にも慣れておられると、結婚前に交わした書簡でも書いておられたように思う」
「―――ええ」
「もしよければ、オーギュストも連れてゆこう」


自分たち夫婦より十二歳も幼い、今年で六歳になる夫の末弟の名が出たことで、
エレノールはようやく、緊張が解けたように口元をほころばせた。
「そう、ですの。オーギュストも」
「かまわないか」
いまの問いは二通りの意味にとれた。
オーギュストを遠乗りへ同伴することに同意するか否か、あるいはそもそも遠乗りへ同意するか否か。


(―――あの子が一緒だったら、息が詰まるような状況にはならないはず)
というのが、エレノールの正直な気持ちであった。
しかし同時に、そのような考えが最初に思い浮かんだことに後ろめたさをおぼえたのも事実だった。
何の前触れもなくこんな提案をした夫の意図は分からないが、
しかし少なくとも、彼は自分たち夫婦の関係を改善するために
―――ここ数か月ほどは、その意思を放棄しているようにみえたが―――
新しい歩み寄りを示してくれているのではないだろうか。
つまり彼女は、自ら隠忍し譲歩してくれている相手に対して、「このひととふたりきりの外出ならば受け入れがたい」と感じてしまったのだ。
(関係が破綻している原因の大本は、わたくしにあるのに)


エレノールはテーブルの下に隠れた膝の上で、両手をそっと重ね合わせた。
心中に去来する思いが複雑に絡まり合って、自分と夫のどちらかをより強く断罪することもまたできなかった。
婚礼の夜以来、夫との同衾を拒みつづけてきたのはまぎれもなく彼女の意志、彼女の責任だが、
それに先立ち、独身時代に関係を結んだ数々の貴婦人を婚礼のさなかで彼女に紹介し、
今後の長い結婚生活においても自由な婚外交渉を容認するように、と黙契を促したのはアランのほうだった。
そもそも、つい昨日の晩でさえ、彼には一緒に過ごした相手がいることをエレノールは知っていた。


王太子夫妻の居住区画として定められた宮殿の一角において、彼女の居室とアランの居室は小型の中庭を挟んで向かい合っているが、
身支度を整えたエレノールが朝食の席へ赴くために居室を出ようとしたとき、
アランの居室から女性らしい人影がちょうど出てくるところが目に入った。
衛兵たちの間を通り抜ける彼女は、孔雀の尾羽を集めた東洋風の扇で顔の半分ほどを隠していたが、
音を立てない歩き方とすらりとした姿勢、そして理想的な曲線でかたどられた輪郭は隠しようもなかった。
エレノールとその侍女たちの気配に気がつくと、ふと足を止め、じつに優雅な身のこなしで上体を折り
―――挑発を込めてというわけでもなく、恐らくは心からの恭しさを込めて―――こちら側に礼を送ってよこしたのだった。
流行の真珠細工で軽く留められたまばゆい金髪、さらには女性でも一瞬視線を奪われるほどゆたかに盛り上がった乳房が、彼女の前傾に伴い蠱惑的に揺れた。


こうべを上げてこちら側に微笑みかけるその女性が、
宮中でもきわだった妖艶を謳われる某侯爵夫人であること―――つまり夫ある身であること、
そして何より、彼女の物腰や表情に狼狽や罪悪感の影など微塵もないことが、エレノールに改めて深い衝撃を与えた。
アランの妃となって以来、このような場面には何度となく遭遇してきたはずだが、
これまでもこの先も、慣れることはできそうになかった。


「かまわないか」
重ねて発せられた問いかけに、エレノールははっと意識を戻した。
アランの透徹した褐色のまなざしは苛立ちを含むでもなく、ただじっとこちらを見ている。
「―――はい。では、明日の午餐のあとに、乗馬の準備を整えるようにいたします。
 厩舎に最も近い東門の前でお会いするのがよろしいでしょうか」
「そうだな。俺は、―――わたしは、明日の昼は大臣らと会食することになっているが、長引かないだろう。では、一時に東門の前で」
そういうと、アランは軽く会釈して席から立ち上がった。妃と向かい合う席で食後酒を傾けないのはいつものことだった。
エレノールも軽く会釈し、常のように視線を卓上に落としかけたが、ふと顔をあげて、夫の背中を見送った。
ふだんよりも早足になったように見えるのは、彼自身、この提案を口に出すために、よほど己の感情を殺しつづけていたためかもしれなかった。






「ねえさま!」
鉄格子が組み合わされた東門の前で従者たちとともに馬を停めていたエレノールは、声のしたほうを振り返った。
幼いオーギュストがやはり従者たちに付き添われ、こちらへ駆け寄ってこようとしていた。
エレノールは膝を折り、小さな身体を抱きとめて破顔した。
それは単に親愛の情の発露というだけでなく、アランが姿を現すより先に義弟が来てくれたことへの安堵でもあることは否めなかった。
オーギュストはここしばらく義姉から引き離されていたというわけではないが、
まるで久しぶりに再会を果たしたかのように、普段にくらべ明らかに気持ちが高揚している。
長兄夫妻に郊外へ連れ出してもらえるというのは、彼にとって初めてのことなのだ。
非日常のなかに身を置けたうれしさか、抱擁から解放されたあとはエレノールの足元で活発に動き回っている。


そして、所定の時刻から数分遅れて、光沢ある葦毛の馬を引くアランが現れた。背後の少し離れたところには、やはり従者がつき従っている。
「お待たせした」
「いいえ、決して」
礼儀正しくかけられた第一声に、エレノールも礼儀正しく答えた。
今日の会食のようすはいかがでしたか、どなたが出席されたのですか、
―――といった、夫がいましがた出席してきた行事について尋ねるべきであることは、彼女も分かっていた。
いちど沈黙が生まれたら、やはりこれまでの日常の延長線に立ち返るだけだと思った。
それでも、口を開きかけては、結局何も言いだせなかった。


アランは妻の顔を少し見やってから、自分の馬の手綱を握りなおし、門の外へ歩きはじめた。
近くに見当たらない末弟の姿を探しているのだろう。
エレノールもその後につづいた。
若葉の匂いを運ぶ微風を感じながら、わたくしは何を恐れているのだろう、とエレノールは自分に問うていた。
半年の間に定着した習慣を壊すのがこわいのだろうか。
それとも、アランに少しずつ打ち解けることで、
自分たちの関係が少しでも良い方向に進展してしまうのが―――その先にたどりつくのがこわいのだろうか、と思った。


オーギュストは門柱の陰にいた。
自分が兄たちから探されていたことにも気づかずに、彼もまた何かを探しているのだった。
兄の影を頭上に受けて、オーギュストはようやく振り仰いだ。
「バジリクはどこ?」
と愛馬の名前を呼んだ。つい数か月前、父王から賜った栗毛の仔馬である。
「おまえは俺と乗るんだ」
「ぼくも、ぼくも自分のにのりたい」
「おまえはまだ、調教師の付き添いがなければ乗れないだろう」
「今日ちょっとれんしゅうすれば、だいじょうぶだよ」
「今日は練習の日ではない。遠乗りだ」
そういってアランは自分の馬にまたがると、侍従たちの手を借りてオーギュストの身体を抱き上げ、二人乗り用の鞍の前部に座らせた。
「よくつかまっていろ」
「うん。―――大丈夫」
オーギュストの声は、いつのまにか上機嫌を取り戻していた。
父王から選ばせてもらい、名前も自分でつけることを許された仔馬への愛着はむろんひとしおだが、
長兄の堂々たる駿馬の背中から見る景色は、かつてないほど新鮮で魅力的なものなのだろう。


「ねえさま、すごいよ、こんなに高い!」
数歩離れたところに立つ義姉を見つけ、オーギュストは興奮と驚きに満ちた声で呼びかけた。
彼女はまだ馬に乗っていない。
いつも下から見上げるだけの義姉の顔を上から見下ろしていることが、六歳の少年にはふしぎで面白くてしかたないのだろう。
エレノールは思わず笑みくずれながら手を振ってやったが、そのときたまたまアランと目が合って、しばしのためらいののち、そっと視線をずらした。


「よろしいか」
馬上のアランから向けられた問いかけに、エレノールははっとして大きな眼を瞬いた。
出発してよいか、という意味であろう。
ええ、と丁重にうなずくと、彼女も馬上の人となり、夫と義弟を載せる葦毛の馬に自らの白馬を並べた。
前夜のアランの見立てどおり、空は清々しく晴れ渡り、郊外の景色は遠くまでよく見渡せた。
額を優しく撫でて去ってゆく薫風に、エレノールの心も少しずつ軽くなっていくようだった。


「わあっ」
丘を登って見下ろした先に広がるのは、濃淡入り混じる緑の毛氈だった。
その上を渡り来る微風までもが、瑞々しい緑の香りに染まっているかのようだ。
「にいさま、クローバーだよ。ここは、クローバーがいっぱいだね」
馬の背に上がったときにもまして上気した弟の声に、アランもうなずいてやる。
何かに心とらわれたとき、オーギュストは何度も同じことばを繰り返す癖があるのだ。
アランにしてみれば何も興味を引かれる場所ではなかったが、うれしさではち切れそうな弟のようすを見ると、
ここらで少し馬を休ませてもいいかと思い、妻のほうを一瞥して意を伝えた。


従者の介添えを受けながら、エレノールが白馬の背から降りようとしていると、
先に地に降ろされていたオーギュストが、
「ねえさまはシロツメクサ好き?」
と見上げるようにして尋ねてきた。
「ええ、好きよ。かわいらしいもの」
手綱を従者に渡し、乗馬中の向かい風のためにやや乱れた黒髪を直しながら、エレノールは幼い義弟にほほえみかけた。
「じゃあぼくがたくさんつんであげる。
あのね、ばあやはこれでかんむりをつくるのがとてもうまいんだよ」
「そうなの。わたくしも小さいころよく作ったわ。それから四葉を探したり」
「よつば?」
「わたくしの国では、四葉のクローバーは幸せを呼ぶといわれているの」
「そういえば、ばあやもおしえてくれたきがする。
 でもどうしてよつばがしあわせなの?」
「どうしてかしら。昔から伝えられていることだから、としか言えないわね」


エレノールは答えに困って眉を寄せた。
母国に残してきた弟たちも、何かにつけて兄姉を質問攻めにするのが好きな子どもだったが、
そのころはすぐ下の聡明な妹マヌエラがいつもそばにいてくれて、エレノール自身が苦しい解釈を導き出すより先に、
適切な答えを分かりやすく説き聞かせてやったものだ。
さらにその傍らには、そんなやりとりをおもしろそうに見ては、ときどき茶化す兄姉たちがいた。
エレノールの鼻先をくすぐるように、薫風がまた横切っていった。
母国の宮廷ではこの季節、首都の守護聖人の生誕日を華やかに迎えるために、
宮門のアーチや門柱をオリーブの葉で飾り付けては、浮足立って準備を進めているはずだ。
自分が異国に嫁いできたことを改めて思いだし、エレノールは少し胸がきしむような気がした。


「そうかなあ……」
義姉を困らせてしまったことを察した風でもなく、オーギュストは真剣に考えこんでいる。
「でもさいしょにだれかそういったひとがいるんでしょう。
 どうしてそのひとはそうおもったのかな。にいさま、しってる?」
自分と義姉のすぐ隣で鐙を調節しているアランに、オーギュストは助けを求めるように尋ねた。
アランは自分から散策に誘ったにもかかわらず、ここまでの道中エレノールと口をきくことはほとんどなく、
弟に何か聞かれれば答えるか、弟と妻が談笑するのを横で聞いているかのどちらかだった。


鐙の金具の音を止めると、アランは振り向いて弟のほうをみた。
さして愉快そうというわけではないが、いかにも煩わしい、という顔でもなく、淡々と受け止めている。
背中で答えずに弟にちゃんと顔を向けてやるところも含め、
このかたは、こういうところは好ましい、とエレノールは少し前から気づいていた。
アランは弟の顔からその足元のクローバー畑、そしてその背後に広がる丘陵の谷間を縫って流れる小川を目で追いながら、
いくらか思案しているようだった。
赤みがかった金髪が陽光の加減でまだらに輝き、エレノールよりだいぶ色素の薄い瞳は、ややまぶしそうに細められている。


「自然の法則からいえば、四葉のクローバーというのは奇形、つまり異常だ」
「イジョウって?」
「ふつうではない、ありふれてはいないということだ。
幸せもそれと同じでそこらにありふれてはいないものだ。
四葉が幸せをもたらすと最初に言い出した者はたぶんその辺から連想したんだろう。
別に根拠はないはずだ」
「そうか、しあわせはイジョウなんだ」
オーギュストは神妙な顔で、長兄のことばをくりかえした。
エレノールは兄弟の会話を静かに聞いていたが、ふと視線を感じたような気がして目を上げると、
夫の褐色の瞳が自分からそらされようとしているところだった。
王宮を後にしてから、今日はこんなことが何回かあった。


(何か、わたくしと話したいことがおありなのだろうか)
そのことは薄々気がついていたが、自分から問いただすことはできなかった。
ふと、オーギュストが半ば頭を垂れるようにして、若草の上をゆっくりと歩き始めた。
四葉のクローバーを探し出そうというのだろう。
少しずつ離れてゆく小さな背中を見やりながら、アランは末弟に向けたのと同じ平坦な口調で、エレノールに声をかけた。
おそらく今日初めての、夫婦の会話らしい会話だった。


「お疲れか。休憩を入れるのが遅かったかもしれない」
「いいえ、―――お気遣い、ありがとうございます」
「疲れていないのなら、少し、歩こうか」
それだけいうと、アランはエレノールのほうを見ずに、ゆっくり歩き始めた。
オーギュストには専属の従者が影のように従っていることを知っているから、
幼い弟が自由気ままに進む方向に合わせてゆくというわけでもない。
遮るものもない丘陵のなだらかな斜面を、クローバーを踏み分けながら歩いてゆく。
エレノールは少しためらったが、そのまま後を追い、やがて彼に並んだ。
長身のアランは歩幅もかなり大きいはずだが、自分の速度に合わせてくれていることは分かった。


「エレノール」
「はい」
「今日、こうして来ていただいたのは―――」
言いかけたまま、アランはことばを継がなかった。相変わらず、前方だけを見ている。
すこし間を置いてから、思い出したように言った。
「ご両親はお元気か。ご兄弟も」
「え、ええ」
エレノールは困惑がちにうなずいた。
こういうときに家族の話が無難なのは分かるが、話題を突然切り換えられると、はぐらかされたような気がする。
「重畳だ」
「―――ありがとうございます」


ふたたび礼を述べながら、エレノールは夫の母后ジュスティーヌのことを思った。
自分と同じくスパニヤ王室から嫁いできた女性であり、血縁上は叔母にあたる。
エレノールはアランより数か月遅く生まれたので、むろん母国で叔母と一緒に過ごした歳月はないものの、
この国の王室成員のなかでは最も近しい親族である彼女には、当初から親しみと信頼を寄せ、その別荘にしばしば足を運んでいた。
王妃でありながら王宮郊外の別荘に住まうのは、静かな環境のなかで療養をおこなうためであった。
現国王クロードとの間に七人の子をなしたジュスティーヌも、いまでは健康な肉体を失っていた。
見舞いに上がるたびに叔母の笑みがいっそう儚げにみえてくることに、エレノールは胸が痛かった。
自分自身のためというよりは、いずれ遠からぬ先、母国にいる父王に、愛妹である叔母の死去を伝えることになる予感のためだったかもしれない。


数日前にもやはり、別荘を訪れる機会があった。
寝室で叔母にいとまごいをして本館を離れ、侍女たちを従えながら車寄せに向かって歩いてゆくと、
新たな来客の馬車が門を過ぎ、こちらに近づいてきていることが分かった。
エレノールの馬車から車一つ分離れて停められたそれは、アランの馬車だった。
礼儀として、エレノールは自分の馬車に乗りこむのをやめてその場に佇み、馬車から降り立った夫に頭を下げた。
アランも一瞬、驚きをおぼえたようにみえたが、何も言わず軽く会釈を返し、彼女の前を通り過ぎた。
多忙な王太子の日程に付き従う属僚たちは、ごく丁重な礼を王太子妃に捧げると、
歩きながらでも打ち合わせをする必要があるためか、早足でアランの傍らに追いついてゆく。
主従はそのまま本館に入っていった。
半年前に結婚したばかりの長男夫婦が別々に見舞いにやってくるという事態を、王妃はどう受け止めているのだろう。
そのことを思うたび、エレノールは胸が陰鬱にしめつけられるのを感じた。
ごく身近な他者の―――それも、遠からぬうちにこの地上を去ることになるであろう他者の―――心の安寧のために自分にはできることがあるのに、
それをあえて拒みつづけている、そのことを自覚するのが苦しかった。


「わあっ」
義弟の高い声で、去来する思いを唐突に破られた。
声の上がった方向をみれば、石にでもつまずいたのか、
小さな身体が丘の裾に広がる土手を転がってゆき、小川のぬかるんだ岸辺に身を浸すところだった。
「たいへん!」
エレノールは裾をからげて駆け出した。
従者らがついていると思って安心しきり、年長者なのに幼な子に気を配ることを忘れていた。
土手の斜面はごくなだらかだとはいえ、身体のふしぶしを打ったことだろう。
まして、自分で制御できない動きに押し流されるのは、六歳の少年にはとりわけ恐ろしかったに違いない。
エレノールが息を切らしながら岸辺へ降り立ち、オーギュストに寄り添うように膝を折ると、彼は反射的にしがみついてきた。
先ほどまで彼らを包み込んでいた若草の香りとは打って変わった、泥のにおいがする。


「ねえさま、いたいよう」
「そうね、痛かったわね。でも泣かなくて偉かったわ。オーギュストは強い子ね」
「―――うん、ぼく、泣いてない」
オーギュストははっとしたように、これ以上すすり上げるのを何とかこらえようとした。
その様子をいとしいと思いながら、エレノールは彼を抱き寄せ、顔や髪についた泥を手巾で拭ってやった。
「つまずいてしまったの?」
「よつばをみつけたとおもったんだよ。でもそしたら、足がなにかにひっかかって」
「誰でも夢中になると、ほかのことはよく忘れてしまうものね。でも、あなたに怪我がなくてよかった」
「ねえさまにあげようとおもって、さがしてたんだよ」
「まあ、わたくしに?」
エレノールは思わずほほえんだ。細められた目をふちどる長いまつげがかすかにそよいだ。
オーギュストは一瞬、ぼうっとしたように義姉をみつめた。
そのとき彼らの頭上に影がさした。アランが近づいたのだった。
「にいさま」
「大丈夫か、オーギュスト。
 もっと注意深くあれと、いつも言っているだろう。
 ―――すまない、手間をおかけした。服まで汚してしまうとは」
最後のことばはむろん、エレノールに向けられたものだった。
いいえ、とエレノールが遠慮がちに返す前に、オーギュストが快濶な声を上げた。


「にいさま、しってた?」
「何をだ」
「ねえさまは、ほんとに花の精みたいだよねえ。―――そうだ」
痛みも瞬時に去っていったかのように、義姉の膝元から身体を離して、唐突に自分の足で起き上がった。
「シロツメクサで、かんむりをつくってあげる」
勢いよく土手を駆け上がってゆき、草地に出ると、白い可憐な花々を探し始めた。
「今度は、よく気をつけて」
言いかけたエレノールに、上から手が差し伸べられた。
彼女は一瞬だけ硬直したが、素直にアランの助けを借り、ぬかるみの中に立ち上がった。
こんなふうに手を取り合うのは、先月おこなわれた宮中舞踏会以来のことかもしれなかった。


アランはすぐには歩き出さなかった。
自分の顔が見降ろされていることに、エレノールも気がついた。
「泥が」
「―――ええ、服はもう、仕方ありませんわ」
「右頬に」
あら、とエレノールは少し赤くなり、手で確かめてみようとした。
アランは一瞬手を伸ばしかけたが、途中でやめ、代わりに自分の手巾を渡した。
そして向きを変え、小さな弟が楽しげに走り回る丘の上へゆっくりと歩いていった。
エレノールは呼び止めようとしてためらい、結局、数歩を隔てながら後につづいた。
先ほどの会話をつづける機を失ってしまったことが、不思議と心にかかるような気がした。
手渡された無地の手巾には、婦人の焚きしめるような香料らしいものはなかった。
彼がふだん髪に用いる香油の匂いが、霧のようにかすかに移っていた。




(2)













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