「こ、今夜も、わたくしの部屋でお休みになりますか」
アランは妻の顔を見やった。
エレノールは長く濃いまつげの下に目を伏せたまま、目元から頬、耳たぶへと淡い朱色を広げていた。
夕食後に軽めの果実酒をたしなんでいたひと時のことである。
婚礼から半年間、王太子夫妻の夕食の席では、ほかに同席者がない限り、ふたりが言葉を交わすことはなかった。
精緻な蔦文様が組み合わされた高い天井の下には食器の音だけが響き、食事そのものが終わってしまうと、
二人は食後酒をたのしむこともなく、会釈を交わしてどちらともなく席を立っていた。
給仕たちにとってはすでに当然の光景であった。


それだけに、今夜の二人がややぎこちなさを残しながらも会話を試み、
次第に談笑ともいうべき和やかさに包まれるようになると―――打ち解けた笑顔を見せたのは専ら妃のほうであったが―――
給仕たちは常と変わらず自身の職務を忠実に果たしながらも、耳をそばだてないわけにはいかなかった。
そして最後に、今しがたの一言である。
ややもすればグラスの触れ合う音で打ち消されるほどに潜められた王太子妃の声を、かろうじて耳に拾い上げた年若い給仕は、
今夜の勤めが引けた後の休憩室で同輩たちに披露する話柄を、一瞬で心に決めたようなものであった。


「ああ、―――」
言いかけたまま、アランは少し黙っていた。指先につまんだグラスの細い足に施された金細工を見つめている。
「いや、今日はやめておく」
エレノールが初めて顔を上げた。コルクを片付けようとしていた若い給仕も思わず、彼女の顔を注視した。
大きく見開かれた漆黒の瞳は明らかに驚きを浮かべていたが、それは一瞬で収束し、再び元の穏やかな表情を夫に向けた。
「そう、ご多忙ですものね。ご政務で」
その声にも動揺らしい動揺はみられなかった。給仕もなぜか、我が事のように安堵した。
「ですが、どうかお早めにご就寝なされませ」
「ああ。そなたも」
短く答えると、王太子はグラスに残った最後の液体を飲み干し、席を立った。
そして正面に座る妃の傍らに回り、長身を折って彼女の唇の端に短く口づけると、扉へと歩み去っていった。


明くる晩の食事も、ほぼ同じようなやりとりで幕が引かれた。
エレノールは夫のことばを従順に受け入れた。


その次の晩の食事も、前夜、前々夜と同じく終始和やかな空気のもとで進んでいった。
夫妻それぞれが一日の出来事を話し合い、互いの話に最後まで耳を傾けた。
ほぼ出生時からガルィアの王太子との婚約が定められてきたエレノールは、
幼少時からの教育により嫁ぎ先の言語を十分に体得してはいたが、
ほんの稀に母国語の文法にひきずられる所があり、アランはそれらを丁寧に指摘して直してやった。
エレノールはそのたびに礼を述べた。
理想的な新婚夫婦というべき図であった。


前夜と同じく、食後酒の時間になっても二人は席を立たず、ゆったりした空気のなかで語らいをつづけていた。
「―――そこで、ロクサーヌはようやく、本物の猫をオーギュストに返してあげましたの」
「あいつらしい」
「色々あったけれど、あの子たちが仲直りできて、よかったわ」
エレノールは目を細めたまま、そこで一旦ことばを切った。
そして途切れたままになった。
新しい話題について思いめぐらせていたアランは、その沈黙に潜められた緊張を感じ取り、結局口をひらかなかった。


「あの、今夜は」
前夜よりもさらに小さな、ややもすれば消え入らんばかりの声で、エレノールが言った。
「わたくしの部屋へ、おいでになりますか」
やはり前夜と同じように目を深く伏せていたが、やがて自ら顔を上げてアランを見つめた。
まなざしと口元は思いつめたようにこわばっているにもかかわらず、
卓上の燭台の明かりを受けた大きな双眸は、本人の意図とはかかわりなく蠱惑的なほど煌々とした光を放っている。


アランは少しだけ目をそらした。そしてふたたび妻の顔に戻すと、悪いが、と言った。
「今日も片づけねばならぬことがある」
「そう、ですの」
「先に休んでいてくれ。俺にかまう必要はない」
エレノールが返事を発するまでに、少し間があった。
「―――分かりましたわ。先ほどおっしゃっていたように、新しい法令の発布の期日も迫っておりますものね。
 どうか、ご無理をなさらぬよう」
そう言って夫に向けた微笑はごく自然なものであったが、やや不自然なほど長くつづいた。
アランはそれに気づいた素振りは見せず、昨晩と同様に妻に優しい接吻を与え、それから立ち去っていった。







「ねえ、イサベル」
「はい、姫様」
エレノールの豊かな黒髪をくしけずる侍女は、恭しく答えた。
「―――わたくしのほうからアランのお部屋を訪ねてみるのは、
 やっぱり、はしたないことかしらね。
 決して、長居するつもりはないのよ。ただ少し、お気晴らしになったらと思って」
母国から付き従ってきた侍女団のなかでも最も忠実な侍女は、一瞬驚いたように前方の鏡を見たが、
そこに映る表情は、人形のような目鼻立ちをくすませるほどの深い沈鬱に染められていた。
「この夜分ですから、緊急時を除けば、あまり奨励されるお振る舞いではないかと存じますが―――」
「やっぱり、そうかしら」
エレノールは小さな声で言った。そして、何でもないのよ、と安心させるように微笑をみせた。
乳母姉妹として長年仕えてきた姫君のその姿を見ると、イザベルは何ともいいがたい、切ない思いに襲われた。


夫君が寝室の扉をくぐらない、という点では昨晩も一昨晩も同じだったが、昨晩まではまだ救いがあった。
「お忙しいみたいなの」
エレノールの口調はほんの少しだけもの寂しさをにじませながらも、その顔色は決して沈みこんでいたというわけではない。
ところが今夜は、ことばの上ではごく平淡に
「アランは今夜もおいでにならないから、あなたたちも早めにお下がりなさい」
と侍女たちに伝えながらも、その瞳がもはや隠し切れないほど膨張した不安に覆われているのは、誰の目にも明らかだった。
そして、明日の予定の確認も兼ねて最後まで室内に残ったイザベルに対し、王太子妃がようやく打ち明けたのが先ほどの発案だったのである。







イサベルは四日前の夜を思い出した。
王太子が半年ぶりにエレノールの居室を自ら訪れ、最後までそこに留まった晩だった。
その明くる朝、イザベルたち侍女が夫妻の身支度を手伝うため、入室の可否を確かめるべく扉を控えめにたたくと、
「まあ!」という女主人の驚愕したような声があがり、しばしの沈黙ののち、王太子の声で「もうよい。入れ」と返事があった。
イザベルたちが香料や衣服などを入れた編み籠を抱えながら恐る恐る足を踏み入れると、夫妻はまだ寝台の上にいた。
ふたりとも寝衣をはおっていたが、申し訳程度に結われた帯やゆるやかに広がった襟元が、何かを物語っているのは明らかだった。
侍女たちが近づいていっても、エレノールはずっと窓辺のほうに顔を向け、さらに深くうつむいている。
「おはようございます。よきお目覚めでございましたか」
毎朝エレノールの前でおこなってきたように、イザベルが侍女たちを代表して儀礼通りの挨拶を述べると、
エレノールは彼女たちから顔をそらしたまま、「ええ」と小さな声で答えた。
アランは身辺の小姓に対するのと同じように「ご苦労」と短く答えたが、自分で寝台から降りて昨晩脱ぎ捨てたままの靴を履き、イザベルたちに向かって言った。
「俺は自分の浴室を使う。あれに、湯浴みの準備をしてやれ」
そういって新妻のほうを軽く見やると、そのまま扉へ向かった。


「―――かしこまりました」
深く目礼して王太子の背を見送ると、イザベルたちは少しの間固まっていたが、ようやくそろそろと王太子妃のほうへ顔を向け、改めて挨拶を捧げた。
「姫さまにおかれましては、ご機嫌うるわしゅうございますか」
「だ、大丈夫よ。ありがとう」
エレノールは初めて顔を上げ、昔からの忠実な付き人たちを心配させまいとにっこり笑った。
初夏にみずみずしく色づく林檎の花のような笑顔だった。目元も頬も耳も薄紅色に染まっているところは、むしろ林檎の果実を思わせた。
「ご入浴の件でございますが、―――」
「ああ、あれは、そ、そうね。朝に沐浴しても、戒律に触れるわけではないものね。
 準備してもらってもいいかしら。忙しい折りに、今から手間をかけさせて悪いのだけれど」
「滅相もございません。それではまず―――」
「あ、あのね、イサベル」
「何でございましょう」
同輩たちに指示を出しかけていたイザベルはまた主人のほうを向いたが、彼女はことばを探しあぐねたように一瞬黙った。
「―――あのね、アランが先ほどおっしゃったことに、意味はないの。どうか、ふ、深く、考えないでね」
「もちろん、単なるご命令として承りました」
「本当ね。きっとよ」
エレノールは真っ赤な顔のまま念を押した。
ふと、寝衣の下からのぞいて見える小麦色のなめらかな肌が、夜光珠もかくやと思うほどの、輝くような艶やかさを帯びてみえた。
幼少期から彼女を見守ってきたイザベルには、それはうれしくも誇らしい驚きであり、そして少しだけ寂しい発見でもあった。
「手早く準備をいたしますね。朝食まであまり間がありませんから」
「ありがとう。―――ああ、そうだったわ。朝食の時間」
あのかたにすぐにまた会える、という恥じらいとも喜びともつかない何かによってエレノールの表情が満たされてゆくのが、イザベルたちにもはっきりと見てとれた。


「姫さま、御髪のそれは」
「え?」
同輩のひとりが上げた問いかけに、イザベルも目をそちらへやった。
エレノールの耳元に、丸い葉をつけた野草のようなものが差し込まれていた。
よく見れば、四つの葉を茂らせたクローバーである。
幸運を呼び込むという伝承があるのはイザベルたちの祖国スパニヤでも同じだが、姫君が我が身を飾るような代物ではない。
「お預かりいたしましょうか。いずれにしても洗髪の際には―――」
「ありがとう。これは、いいの。―――わたくしの手元に、持っていなければ」
そう言ってエレノールはクローバーを抜き取り、少しの間、窓から差し込む日の光にその葉脈をかざして見ていた。


それが三日前の朝のことである。
エレノールを浴室へ送り、他の侍女たちに湯浴みの世話を任せた後で、イザベルは王太子夫妻の寝台を整えに行った。
ふだんは侍女が二人一組でおこなう作業だが、今朝だけはエレノールが自分ですると言い張った末に、結局侍女団に根負けして
「―――では、イサベルだけに頼むわ」と譲歩した末の措置である。
果たして白いシーツの上に赤黒い血痕を見いだしたイザベルは、ふたたび安堵とも寂寥ともつかぬ思いに襲われたが、むろん黙々と作業を進めた。
しかしそのとき取り替えたシーツは、次の朝になっても、さほどの変化はなかった。
むろん毎日の慣例として新しいものに取り替えたが、その次の朝も、そして今朝もまた、変化というほどの変化はない。
女主人のほっそりした肢体を載せた跡だけを残して、シーツは大きな皺を波打たせるでもなく、
朝の空気にふさわしい清々しいほどの白さを誇っていた。
そしてその上に、エレノールがぽつんと上体を起こしていた。







「そうだわ」
少しだけ快活になった女主人の声で現実に引き戻され、イザベルは瞬きをした。
「寝る前に読む聖人伝か言行録をお借りしにいくというのはどうかしら。
 スパニヤから持参したものは読みつくしてしまったのは本当だし、
 こちらの国にゆかりのある聖者さまの本なら、アランも自室に置いていらっしゃるでしょう」
「それは、なんとも申し上げかねますが……」


半年前の婚礼からほどなくして、エレノールの父であるスパニヤ国王からの「配慮」こと五人の美女をアランは躊躇なく受け取り、
彼女らと歓楽を享受していたことを、イザベルはもちろん承知していた。
「レオノールと王太子との結婚生活が軌道に乗れば、その者たちは穏便に退かせるように」というスパニヤ国王の意向にもとづき、
当の美女たちは莫大な持参金なり不動産なりを保証されて本国へ帰されることになっているが、それでもイサベルとしては今後の不安を払拭できるわけではない。
つまるところ、結婚の秘蹟に対する畏敬の念などほぼ持ちあわせていないとみられるガルィア王太子に対し、
人並みの信仰心を期待することは速断ではないかとイザベルは危惧したのであるが、
エレノールのじつに晴れやかな表情を見ると、胸中の疑念をそのまま伝えることはできなかった。


「イサベル、一緒に来てくれる?」
「もちろん、お供いたします」
ありがとう、と微笑むエレノールの声に一点の曇りもないわけではないことに気づき、忠実な侍女の懸念はより深まった。
(姫さまもやはり、案じておられるのだ)
イザベルはそっと唇を噛んだ。
いざというときには、わたしが姫様をお支えしなければ、と自らに強く言い聞かせた。
夜分遅くに前触れなく夫の部屋を訪れたそのとき、誰かが彼とともにある可能性を、
―――誰かが彼の腕のなかにいる光景を、エレノールもまた、深く恐れているに違いなかった。


アランの居室は、エレノールの居室と中庭を挟んだ反対側の位置にあり、左右対称のつくりになっている。
数歩で行き来できる距離ではないが、エレノールが自分の部屋を出て、
中庭のそこかしこに設置された噴水をカーテンのように透かして眺めれば、相手の部屋の扉がほぼ対面にあることが分かる。
エレノールの居室を後にする間際、イザベルは携帯用の燭台に火をつけ、寝台から降りてまもない主人の足下を照らした。
たとえ灯火がなかったとしても、今夜は月がとくに明るい。対面の扉の前あたりにいる人影も見えてくるようだ。
ふたりきりの主従は、中庭の小径に足を踏み入れた。
趣味よく剪定された低木の間には、澄んだ水が夜間も休むことなく涌きおこりつづけ、その音は通りかかる者の耳を涼しげに潤してくれる。
イザベルは主人を護るようにして先に立ち、王太子の居室の前へ静々と足を運んだ。







「王太子殿下にお伝え申し上げて下さい。エレノール妃殿下がおいでになりました」
王太子妃の傍らに立つイザベルがおごそかに告げると、扉の左右を守る一対の衛兵は姿勢を正して礼を捧げた。
王太子妃主従には訪問の理由を告げる準備もできていたが、
しかし、衛兵たちから返された答えは、彼女たちにとって意外なものだった。
「王太子殿下はご晩餐後に一度こちらへ戻られましたが、いまはご不在です」
「まあ……ではいずこに」
「蒼き峰の塔と承りました」
「塔?」


蒼き峰の塔といえば、王太子夫妻の居住区から少し離れた、王宮の中枢部背面に位置する、七層ほどの建造物である。
外壁からさほど離れぬところにそびえているが、実戦用の物見台を兼ねるというわけではない。
エレノールがこの国に嫁いだ当初に女官長から受けた説明では、かつては宝物庫として使用されていたこともあり、
さらにその前は、政変で敗れた王族や貴族を幽閉する場所でもあったということである。


エレノールはとまどいを隠せない表情を浮かべていたが、やがて問いを再開した。
「おひとりで?」
「はい。護衛の者たちを除いては」
「―――人払いをせよ、とのご意向でしたか」
「はっきりとはそうおっしゃいませんでしたが、側仕えの文官たちには、急を要する用件以外は明日にするようにと命じられ、退かせなさいました」
「そう。
 もうひとつ、訊きたいの。アランは昨晩とその前の晩は、こちらの部屋でご政務を?」
「いいえ。やはり、塔へと赴かれました」
「―――そう」
エレノールはまた黙った。
イザベルはその意味を推しはかりかねたが、次に耳にした「ありがとう」という語の感触から、主人の心が決まったことを知った。


「では、塔のほうにお伺いしてみるわ」
「さようでございますか。ならば、事前に取り次ぎの者を早足で参らせましょう。王太子殿下のご意向では―――」
「ありがとう、それには及びません」
エレノールのことばは常と変わらず穏やかだったが、反駁を許容しないものを感じさせた。衛兵たちもそれ以上は言いつのらなかった。


「それでは、せめて塔の下まで我々がお供いたしましょう」
「大丈夫よ。わずかな距離ですもの」
「ですが―――」
「勤務のさなかに、お邪魔をいたしました」
左右の衛兵それぞれに謝意を示してから、エレノールは侍女のほうを向いて言った。
「参りましょう、イサベル」


当人の返事を待たずに、エレノールはふだんの物腰とは打って変わった俊敏さで踵を返した。
顔を見合わせ合う衛兵たちを尻目に、イザベルも燭台を捧げ持ったまま急ぎ足でつき従う。
中庭をめぐる回廊に立ち並ぶ石柱の間を、ふたりは黙々と通り過ぎていった。







本来ならば、婦人の足では若干の時間と体力を要する距離ではあった。
エレノールよりは肉体労働に慣れているはずのイザベルが、彼女に先んじていくぶん息を切らしかけたそのころ、
いかめしい外壁と夜空を背景に、高くそびえたつ塔の輪郭が視界に入ってきた。


ふいにエレノールが足を止め、初めてイザベルのほうを振り向いた。すまなさそうに目を伏せて言った。
「ごめんなさいね、イサベル。あなたをとても、疲れさせてしまった。
 こんな夜半に、こんなところまで」
「滅相もございません。わたくしの務めでございます」
「ごめんなさい。本当は、あなたには休んでもらって、ひとりで来ればよかった。
 ―――でも、ひとりでは、こわいの」
こわい、ということばは、ふだんなら、この深い夜の闇が恐ろしいのだ、という意味にとれただろう。
まだ少女時代を抜けきっていないあどけなさを残した、イザベルの愛する姫君らしいことばだった。
いつものイザベルなら、わたくしがおそばに侍っております、と力強い声で主人を勇気づけたはずである。
だが今夜は、そのように言上することはできなかった。無意味だと分かっていたからだった。


蒼き峰と呼ばれるその塔は、名前のとおり、真下に立って仰ぎ眺めると天然の高峰を思わせる威厳に満ちていた。
かつてここに幽閉された貴人たちのなかには、飛び降りを図ったり狂死したりした者もいるという噂をイザベルも聞いたことがあるが、
他方では、現王朝に代替わりしてから前王朝の暴政を誇張するために作られた話ともいわれ、いまとなっては真偽を正しようもない。
筒状の塔の壁面にはところどころに窓が穿たれているのが分かる。なかで明かりが灯されているのだろう。
イザベルは塔の最上部に目をやった。
先鋭な装飾を頂点にいただく丸屋根の下にみえるその部分は、おそらく第七層に相当するはずだが、
第六層以下の部分に比べて、窓の数が多いように見えた。
多いというよりも、壁で覆われている部分のほうが少ないのだ。
目測のかぎりでは、第七層の壁はおそらく大人の腰ぐらいまでの高さしかなく、
壁の切れ目から屋根までの空間は、なかばバルコニーのように、外壁沿いの支柱部分を除いた全方位に対して開放されている吹き抜け構造かと思われた。
その階にも明かりはあるように見えなくもないが、おそらく中心部にだけ灯されているので、塔の真下からはよくわからない。
より閉塞した建造物かと思っていたが、意外と鐘楼のような塔だ、とイザベルは思った。


塔の内側へ入る扉は、すぐに見つけることができた。
左右開きの門扉の一方が開放されたままで、かつ屋内の煉瓦壁の手前に松明が赤々と灯されていたからである。
その松明を手にもち不動の姿勢をとっていた複数の衛兵たちは、エレノールたちの輪郭をみとめると一瞬身構えたようだが、
近づいてくる彼女たちの顔を判別すると、軽く驚いた表情を浮かべつつ敬礼を捧げた。
「これは、王太子妃殿下」
「突然、失礼いたしました。アランはこちらへ?」
「七階の、―――最上階のお部屋にいらっしゃいます」
「ありがとう。参ります」
「妃殿下、恐れながらお待ちください。今晩ご面会のお約束がおありとは、王太子殿下からお伺いしておりません」
「約束はありません。直接お伺いしたいのです」
「ならばなおのこと、ただいま速やかに、王太子殿下にお取り次ぎ申し上げます。しばしここでお待ちを」
「ありがとう。無用です」


笑顔で衛兵たちをねぎらいながら、エレノールは譲歩しない声で言った。
イザベルは困惑を深める彼らに同情しつつも、いまこの段階に及んでは、主人を翻意させられないことも分かっていた。
「あなたがたが咎を受けることは決してないようにいたします。安心して」
力強い声で衛兵たちに約束すると、エレノールは彼らの脇を足早に通り抜けていった。
衛兵たちはむろん行く手を遮ることもできたが、王太子妃の語調にやや呑みこまれたように、自分から動き出そうとはしなかった。
寝衣しかまとっていない彼女の身体に直接触れることがためらわれたのでもあろう。


衛兵たちの背後に回り込むと、上層へとつづく階段が始まっていた。
塔の外壁のすぐ内側をめぐるように、ゆるやかな螺旋を描いている。
一定の間隔を置いて内壁に燭台が取り付けられてあるためか、階段に上がってからのほうが、塔の入口よりむしろ明るいようにも見えた。
ほぼ確実に安全な空間とはいえ、万一のことを考えるとイザベルは自分が先頭に立ちたかったが、
エレノールは一歩も緩めることなく彼女の先を行き、石の階段を軽やかに昇って行った。
階段の外側の壁には、これも一定の間隔を置いて小さな円窓が穿たれていた。
彼女たちが歩みを進めるごとに、窓から見える王宮内のほかの建造物の明かりが小さくなってゆくようであった。







「ここが、最上階なのかしら」
階段がようやく途切れたところで、エレノールは初めて足を止めた。
イザベルも一歩遅れて彼女の傍らに立った。
階段が終わって最上階の床に連なる地点の内壁にも、燭台が据え付けられていた。
その明かりに照らされる範囲では、ほかに人間がいないように見えた。
その代わり、塔の外壁の形どおりに丸く広がるこの階の中央部分には、やはり筒状に弧を描く壁に囲まれた小部屋があった。
長方形の扉を除いて、床から天井に至るまで、壁がすっかりつづいている。
ここより上の階に登るとしたら、この小部屋に入らなければならない構造になっているようだった。
この階には、ほかには部屋らしきものは見えない。
目につくものといえば、この階に寝ずの番人を置いた時代のなごりであろうか、燭台の下に置かれた質素な椅子と、その足元に点々とする蝋の跡ばかりである。


「いえ、六階かと存じます」
「やはりそう?わたくしも、数が合わないと思ったの。
 それに、外から見たときの最上階は、こんなふうに四方が壁に囲まれてはいなかったわ」
エレノールもやはり、気がついていたようだった。
「あの扉から入ってゆくしかないのかしら」
主人の視線につき従うように、イザベルも中央の小部屋の扉を眺めた。
なんの変哲もない、木製の扉だった。中からもおそらく錠は下ろされていないだろう。


古い建物独特の涼気と湿気をまとった静けさのなかに、ふたりの呼吸が重なり響いていた。
こちらの物音は聞こえているのかいないのか、小部屋のなか、そして上の階からは何の反応もない。
(あの扉)
自らの呼吸をなだめながら、イサベルは目をやらずにはいられなかった。
(あの扉の向こうでも、吐息が乱れているのだろうか。―――ふたりか、それ以上の)
忌まわしい想像が脳裏に差し込み、イザベルは息が止まりそうになった。必死に思いを振り払い、平静を装って主人に進言を試みた。


「姫様、少しお休みなさいませ。息が上がっておられます。こちらに椅子が」
「ありがとう。でもどうか、あなたが休んで。大変な苦労をかけました」
「滅相もございません。姫様、どうか」
「わたくしは、アランに会わなくては」
「どうしてもお休みにならないのでしたら、それでは、わたくしが先に王太子殿下に姫様のご到着を申し上げます。
 恐れながら、姫様はしばしお下がりくださいませ」
「いいの。階段を昇りながら、心を決めました。ひとりで会います。あのかたに」
「姫様、―――」
「あなたはどうか休んで。お願い」
エレノールは侍女の肩に手を添え、有無を言わせぬように燭台の下の椅子に座らせた。


「姫様」
「いちどは信じると、自分で決めたのだから」
つぶやきのようなエレノールの声が、イザベルの耳に落ちた。
「その結果も、自分で引き受けなければ」
イザベルは胸を突かれたように、主人の顔を見上げた。
「大丈夫」
エレノールは侍女にほほえみかけ、それから彼女を抱擁した。腕に込められた力が強くなった。
「でも、大丈夫ではなかったら、ごめんなさい」
「姫様」
「あなたはここにいてね。わたくしが呼ばない限り」
イザベルが抱擁し返すのを待たずに、エレノールは彼女から離れ、小部屋の扉へと向かっていった。
そして前触れなく扉を開けはなった。一歩踏み込むのと、後ろ手で扉を締め切るのはほぼ同時だった。


エレノールの眼前には階段があった。小部屋のなかにはほかに何もなかった。
先ほど躊躇なく後ろ手で扉を閉めたのは、階段の上から明かりが漏れていたからだった。そうでなければ、さすがに六階の光源を締め切ることはできない。
エレノールは前に進んだ。階段はこれまでと同じ丈夫な石づくりだったが、足元が揺らぐような錯覚をおぼえた。
早く上に行き着かなければ沈んでしまうと思った。
しかし上の階に出たとき、自分の何かが死なないでいられるかは、分からなかった。
最上階にたどりついた。夜風が頬を撫でるのを感じた。







「アラン!」







その名を呼ばれた当人が、部屋の中央で振り向いた。
外観のとおり、室内の形状も果たして丸かった。
床には絨毯も敷きつめられず壁にはタペストリーも掛けられていない、物置のように質素な部屋である。
物置と異なるのは、奥の方に置かれた書棚を除けば家具らしい家具がおよそ見当たらないことであり、全方位の壁の上半分が大きく吹き抜けになっていることだった。
階段の終わった地点、つまりエレノールが踏み入れた地点は部屋の西向きと思われる一隅だった。
階段を昇りきらないうちから、彼女の眼には黒びろうどのような夜空と月と星々が飛び込んできたので、方角を判断することは容易だった。
アランに視線を戻すと、寝衣の上に厚手のショールを羽織った彼は、舶来の磁器の皿に描かれる異教徒の習俗に倣うかのように、
床の上に古い毛布のような布を敷いただけであぐらをかくようにして座っていた。


その前に置かれた背の低い机の上には、大小さまざまな物品が見えた。
三つある枝の一つにだけ火の灯された燭台、その足元の火口箱、幾冊かの厚い図書および筆記帳、羽ペンにインク壺、そして奇妙に大きな機械らしきものである。
黒光りする機械らしきものをよくよく見れば、机に対し垂直に立つ棒状の架台の上に、長い筒状のものが取り付けられている。
やや末広がりなその筒の先は、机に対し鋭角をなしながら、吹き抜けの向こうの夜空に向けられていた。


アランは一瞬面食らったような表情を浮かべていたが、落ち着きを崩さない声ですぐに問いを発した。
「どうした」
「―――」
エレノールはしばらく返事もできず、ただ立ち尽くしていた。
その視線は部屋の隅々までさまよい、最後にまた、夫のもとへ戻ってきた。
「どなたも、いらっしゃいませんのね」
「あたりまえだ」
相変わらず抑揚のない声でアランは答えたが、その奥にはわずかに苛立ちがにじんでいた。
先ほどまで何事かに集中し打ち込んでいたがために、突如中断させられたことに不興をおぼえているようだった。


「どこぞの女でも連れ込んでいると思ったか」
「いえ、その―――」
「俺がこの三晩そなたの元を訪れなかったがために、疑心暗鬼を募らせたと?」
「―――わたくしの、早合点でございました。
 無思慮にお騒がせいたしました非礼を、どうぞお許しください」
ことばではやや口ごもりながらも、エレノールは素直にこうべを垂れた。そして腰を折りながら下衣の裾を少し持ち上げ、丁重に謝罪の意を示した。
アランはそれを受け入れたものの、やれやれと言いたげに付け加えた。
「我々は伴侶となったのだ。少しは信を置いたらどうだ」
「まあ」
エレノールは目を丸くした。よくもここまで自省の念が欠けているものだと思った。
「ご自身が信頼を寄せられるに値する夫かどうか、ご素行を振り返ってよくお考えになられましたら」
「う……」
アランは一転して口ごもる。
「まあ、一理はある指摘だ」
「九割はあなたの非です」
エレノールは反論を許さない調子で言った。
そして、あらためて部屋の内部をぐるりと見まわした。


「昨晩も一昨晩も、このお部屋にいらしたのですか」
「そうだ」
「何のために?」
「そなた、これを見たことはないのか」
そういってアランはすぐ傍らの卓上の器具を指さした。
「望遠鏡、といわれるものですか。戦のとき、物見台などの上から敵方の陣中を偵察するための」
「似たようなものだが、これは空を見るためだ」
「空を」
「正しくは星だが」
そう言って、アランは妻を手招きした。エレノールは恐る恐る歩を進め、彼の隣に腰を下ろした。
「覗いてみよ」
アランは筒状の器物の角度や架台との支点を調節し、エレノールの目線の高さに近づけた。
彼女は少しためらっていたが、ようやく顔を器物の端に近づけ、そこに嵌め込まれたレンズを覗きこんだ。


「まあ」
感嘆の声があがった。
「夜空が、こんなふうに見えるなんて。星々が近づいてきたみたい」
「そのうちもっと、鮮明に見えるようになる。いまはレンズの改良が進んでいるからな」
「天文学が、お好きなのですか」
エレノールは器物から顔を離し、夫のほうを向いた。
「そんな大層なものではない。ただ星を眺めている」
「でも、とても精密に記録をつけていらっしゃるわ」
エレノールは卓上にひらかれた筆記帳に目を落とした。
走り書きではあるが端正な字体で、日付や星や星座の名称、数字や記号、そして天体の配置を示すスケッチが詳細に書き込まれていた。
「気が向いたときだけだ」
「できれば、毎日観測をなさりたいのでは。王立天文台にお通いになったり」
「そんな時間はない。俺の立場では不可能だ」
「でも、もったいないわ」
「俺は凡人だ」
エレノールは大きくまばたきした。この男の口からそんなことばを聞く日がくるとは、ついぞ思ってもみなかった。


「だから、趣味のままでいい」
アランは対面の壁の吹き抜け部分を眺めていたが、ふいに燭台の小さな火を消した。
そして上体を倒し、床に敷いた布の上に仰向けになった。
「お疲れでいらっしゃいますか」
「いや。こうやって、肉眼で仰ぎ眺めるのも好きだ。そなたも気に入ればよいが」
エレノールはしばらく膝をそろえて座ったまま、夜空を眺めていた。
そして頭部を覆うヴェールをそっと外し、自分も夫の傍らに仰向けになった。


「アラン」
エレノールは何かを問うように口をひらきかけたが、ふと小さくくしゃみをした。
「その夜着では寒かろう」
アランは気づいたように言い、先ほどまで羽織っていたショールをそのままエレノールに渡した。
「ありがとうございます。でも、―――こうすれば、ふたりで掛けられますわ」
エレノールは女物よりだいぶ大きいショールを一旦広げて二つ折りに畳みなおし、夫と自分で分かちあうようにふたつの身体の上に掛けた。
アランは黙ってそれを受け入れた。が、じきに身体を少しずらし、ショールの下から抜け出た。
「暑苦しゅうございましたか」
「そうではない」
「では、なぜ」
「そういう気分になる」
「そういう気分?」


エレノールはおっとりと問い直した。一瞬後、両頬が朱色に染まった。
「なにをお考えですの!寝室でもない、こんな開放された場所で」
「ゆえに自制しようとしている」
アランは淡々と答えた。
「俺も、今ここでは事に及びたくない」
「特別な場所だから、ですか」
「それもある」
「この三晩、わたくしの部屋においでにならなかったのは、このため?」
「このためとは」
「ここで、おひとりで過ごされたかったためですか」
エレノールの声はすでに落ち着きを取り戻していたが、その奥にいくばくかの不安と寂寥がにじんでいるのをアランは感じた。
やはり話しておいたほうがよいのか、と彼は思った。あえて口に出すのは彼の流儀に染まなかったが、黙っていればこの娘を傷つけることになると思った。


「そなたとは、数夜離れていたほうがよいと思った。せめて三日ぐらいは」
「どうして」
エレノールの声が小さく、か細くなった。
「わたくしでは、だめなの」
「―――出血させた直後に、つづけざまに抱くのは気が引ける」
「え?」
「まだ少しは、痛むだろう」
どの部位のことを言及されているかに気づき、エレノールは先ほどよりもさらに鮮やかな朱で頬を染め上げた。
「ええ……い、いえ……その、少しは……皆無ではございませんけれど……」
「だろう。そう思うと、気がそがれる。
 ―――女の身体は不思議だ」
「そう、でしょうか」
「全体に男より柔弱だが、何より生命を生み出す場所が、いちばん傷つきやすくできているように思える。
 子を生そうが生すまいが、大事にしたいとは思っている」


エレノールは改めて夫の横顔を見つめた。アランはまだ夜空を見ていた。
言いなれないことを言った反動か、妻が横たわるのとは反対の側へ、視線が少しだけ傾いている。
「お心遣い、ありがたく存じます」
「だから、この部屋を選んだ」
「―――そのつながりが、よく分かりません」
「一晩中でもひとりで没頭できるものがある。情欲のたぐいが、不思議と身体から抜けてゆく。
 これまでも、女をここへ上げたことは一度もない。妹らは別だが」
「まことに?」
「疑り深いことだ」
アランは少し笑った。


「七つか八つのときに、父上よりこの部屋と器具一式を賜ってから、ここは聖域のようなものだ。
 星を見る、そのためだけの部屋だ。
 だから、余計な物も人も情事も、持ち込みたくはないと思ってきた」
「―――ごめんなさい。わたくし、そういう場所だとは、思ってもみなくて……」
「別に、そなたを責めているわけではない」
「あなたにとって大切なもののことを、ずっと、存じ上げずにおりました」
エレノールは小さな声で言った。
半年前に結婚の誓いを交わした青年のことを、いま手を伸ばせば届くほど近くに横たわる青年のことを、彼女はこれまでほとんど何も知らずにきた。
自分から、知ろうとする意思がなかったのだ。
それはとても心無いことだったと、エレノールは初めて自分を責めた。


「天文のこと、わたくしも少し知りたいです」
「幾何は得意か」
「中等までは習いましたが……先生には毎回、苦い顔をされていました」
「まあ、俺も得手というほどではない。何度か類似の問題を解いて、ようやくしっくりと理解できる。
 トマのように、新出の問題を一目見て解を思いつくような才気はない」


弟のひとり、四番目の王子の名をアランは挙げた。
いつ見かけても機械工作に没頭しているか、はたまた新種の設計について熱く語っているあの子はたしかに数理の学が得意なのだろう、とエレノールも思った。
だが、トマひとりだけのことではないのだろうとも思った。
ついさっき、アランは自身のことを凡人だと言った。
たしかに、彼の弟や妹たちは―――いまだ海のものとも山のものともつかない、よく言えば大器晩成の可能性を秘めている末弟オーギュストを除いて―――
自分の愛する領域に対しては寝食を忘れて打ち込むことができ、
かつその道の泰斗に一目置かれるほどの資質を若くして見いだされていることを、エレノールは知っていた。
とはいえアランも、法学や兵学なども含めた大半の学問分野において、偏りなくすぐれた成績を挙げていることをエレノールは知っていた。
彼女が輿入れ前にガルィアの使節たちから聞かされた話にもそうあったし、
婚約時代、何年にもわたってアランと交わしてきた文通の内容も、彼のきわめて高く広範な教養を裏づけるものだった。


なんでもできるひとだと思っていた、とエレノールは心中でつぶやいた。
だから、他者の弱さも浅はかさも、許せないひとなのだと思っていた。


「努力家で、いらっしゃるのですね」
「遺憾ながらな」
「わたくしは、好きです。―――努力するひとが」


アランは初めて、傍らに横たわる妻のほうに目をやった。
エレノールはこちらを見ていなかった。
彼女自身の双眸と同じようにどこまでも深く黒い天空を、やわらかに弧を描く睫毛の下から、ただ仰ぎ眺めていた。
彼女の祖国と、祖国にいる父母たち、兄弟姉妹たちとつながる空だった。
そして、同じ空の下にその男もいるのだ、とアランは思った。
思った瞬間、エレノールがゆっくりと動き、身体ごとこちらを向いた。


「だから、あなたのことを、もっと知ってゆきたいと思います。―――もっと、好きになれるように」
消え入るような声だった。恥じらいとためらいとが混じり合い、吐息に溶け込みかかっていた。
アランは何も言わず、ふと上体を起こし、横向きになっている妻の肩に手をかけてふたたび仰向かせた。
それから顔を落として唇を重ねた。
一連の動作があまりに自然だったためか、エレノールはただその流れに従っていた。
そしてアランが少し顔を離したとき、彼女はようやくわれに返ったように、夫の広い肩を両手でつかんで遠ざけようとした。
「ここは、あなたの聖域だと」
明るい場所でみれば大いに赤らんでいるにちがいない妻の顔を見下ろしながら、アランもおごそかな声で言った。
「そうだ。だから、ここまでにする」
「―――そう」
エレノールの声は安堵したようでもあり、かすかに物足りなさをおぼえているようでもあった。


(いかんな)
目の前の娘のようすを「もの欲しげな」と感じるようになったら、自分自身の制御が難しくなってきたということでもある。
アランは軽く舌打ちしたい気分に襲われた。そして突き放すように言った。
「そろそろ自分の部屋へ戻れ。そなたの侍女らも、この塔のなかで待機しているのだろう。
 その者たちとてまさか、この最上階でそなたが一晩過ごすとは思っておるまい」
「ええ、そうね。そろそろ戻ります。ありがとうございました」


エレノールはショールを夫に返して立ち上がり、髪の乱れを直してから、ヴェールをかぶりなおした。
「今夜はもうしばらく、こちらでお過ごしになりますか」
「ああ。もう少し記録をつけてから、部屋に戻る」
アランのいう部屋は、もちろん彼自身の部屋のことである。
エレノールは予想していたにちがいないが、それでもどこか寂しげだった。
そしてしばらく立ち尽くしてから、意を決したようにアランに問うた。


「明晩からのことですけれど、―――あの」
言い淀むエレノールに、アランは何でもないような表情を保ちながら、つづきを促してみせた。
その実彼は、妻がこの後につづけるであろうことばを推しはかり、
そのときに浮かべるであろう羞恥に満ちた表情を思うと、身体の一部が少なからず熱くなるのを感じていた。
エレノールはまだ、ためらいをつづけている。
「明日か明後日の晩ですが、―――」


明日の晩には、存分に抱いてやる。
熱を帯びた息を抑えこみながらアランが言い添えようとした矢先、エレノールが心を決めたように口をひらいた。
「―――たぶんわたくし、月のものが来ていると思いますの。いつも、とても規則的ですから。
 だから、あなたがわたくしの寝室においでくださるとしても、その、どうか、ご了承くださいませね。
 せいぜい一週間ほどのことですけれど」
そう言って、はにかみがちに微笑んだ。
アランは思わずばね人形のように起き上がった。
「ちょ、ちょっと待った」
「どうなさいました」
「あ、いや。―――なんでもない」
切羽詰まった声を出してしまった己を恥じながら、アランは表情も声もすぐにいつもの平淡なそれへと切り換えた。
そう、とエレノールは少し首をかしげたが、すぐ納得したように、おやすみなさい、と優しく告げた。
そして部屋を出て行った。


(なんという、人騒がせな)
階段を下りるにつれて床に沈むように消えてゆく背中を見ながら、アランは胸中に苦々しくつぶやいた。
エレノールが残していった白檀の香りが、まだそこかしこに漂っていた。
あの娘を思うと心が波立つ、というほどのことはない。そんなことはないと思う。
だが、願わくはあの娘の笑顔を見たい、―――悲しみ以外のあらゆる表情を見たい、と思っている自分がいることは否めなかった。


アランはふたたび床の上の毛布に腰を下ろし、今度は机に向かい座ったまま、正面の壁と天井の間に広がる漆黒を眺めやった。
静かな夜がまた戻った。風の流れを感じられるようになった。
淡く儚く降り注ぐ月と星の光は、この部屋でおよそ十年にわたり浴びつづけてきたものと同じだったが、いまは少しだけ欠落を感じた。
気まぐれな天使の槌で粉々に砕かれたかのような白銀のかけらは、
先ほどまで傍らにいた娘の漆黒の髪や瞳にも宿り、彼女が憤ったり恥じらったりするたびに揺れて躍っていた。
いまではここにその煌めきはない。
彫琢もない質素な卓上には、仄白く浮かび上がる筆記帳がひらいたままになっている。
観測の記録をつづけるには灯がなくてはならない。
アランは火打金に手を伸ばしかけて、結局やめた。
ふたたび燭台に火を灯す前に、もう少しだけこうしていようと思った。







(終)













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