城外から渡りくる風はすでに冷気をはらんでいた。
けれど同時に、豊かな秋の実りを告げる陽だまりの匂いをも運び来るかのようだった。
アンヌは裾をはためかせながら、西御苑に面した吹き抜けの回廊を歩いていた。
この先は彼女の主人たち、すなわち第五王子夫妻の住まいである離宮へと続いている。
アンヌの灰色がかった金髪は午後の日差しを浴びてやわらかく輝き、
透き通るように淡い灰色の瞳は、空を横切る渡り鳥たちを仰ぐたびにやや細くなった。
彼女は昼餐後の休息を終えて、マリー妃の冬物の衣類を整理するために衣裳部屋へ向かうところだった。

(―――おや)
廊下の外側にそびえる支柱の陰に人影を見出して、アンヌは立ち止まった。
身なりからすると宮中の使用人ではない。
(最近不審な人物がこのあたりに出没すると聞いたが、あの者だろうか)
相手はひたすら廊下の先を見つめており、周囲にあまり気を配っていないようで、
アンヌは足音をしのばせながら容易に不審者に近づくことができた。
(―――まだ子どもだわ。
 袖に紋章が縫いこまれているということは貴族なのね。
 つがいの鹿に十字紋ということは、ポワトゥ伯爵家の若君だろうか)
相手が貴人とはいえ、場合によっては即座に衛兵を呼ぶつもりだったが、
外見や物腰があどけなく隙だらけだということもあり、アンヌはそのまま背後に身を潜めて彼の動向を観察することにした。

赤茶けた髪を肩の辺りで切り揃えたその少年は見たところ十四、五歳だったが、柱の陰から緑色の瞳をじっと凝らし、
肩に蜻蛉が停まろうとも強風が髪を乱そうとも身動きもせず廊下の前方を見つめていた。
(あちらの離れから知り合いが出てくるのを待っているのかしら)
アンヌはそう見当をつけたが、しかし伯爵家の子弟が身を潜めて会いに来る相手というのが誰なのかは測りかねた。
王子オーギュストの学友なのだとしたら、正々堂々と来訪を取り次がせ、控えの間で彼を待てばいいだけである。

ふと少年が身動きした。見れば廊下の端の扉が開き、女性らしい人影が出てきたところである。
彼は自分が身を隠していることも忘れたのか、柱の陰からすっかりはみ出るほど首を伸ばしてその人影を見極めようとする。
近づくにつれて輪郭がはっきりしてきたが、それはオーギュストの妃マリーに仕える侍女のひとり、つまりアンヌの同僚だった。
そうと分かると少年はがっかりしたようにかすかに首をふり、ふたたび柱の陰に全身を隠した。
同僚の侍女は果物が入っているとおぼしき籠を抱えながら廊下を渡ってきたが、
柱にひそむ少年には気づかぬまま、彼のすぐ背後にいるアンヌに軽く会釈すると反対側の棟に行ってしまった。

このとき、彼は初めてアンヌの存在に気がついたようだった。
振り向いて彼女の姿をみとめ、愕然としたように凍りつく。
アンヌは平然として彼を眺めている。
十九歳の彼女は少年にしてみればほんの四、五歳年長にすぎないが、
彼を頭からつま先まで観察しているアンヌのまなざしは年季の入った生物学者のそれであり、
ほとんど老境ともいえるほどに腰が据わっていた。
「き、君は」
「マリー妃殿下の侍女です。あなたさまはここで何をしておいでですか」
「えっ、―――マリー様の?」
アンヌの問いかけを全く無視して貴公子は驚きの声を上げた。見る見るうちに頬が上気していく。
(―――なるほど)
この反応だけでアンヌには状況が大体飲み込めた。
(マルーシャ様の求愛者のひとりというわけね)

この大陸の最北端に位置する辺境国ルースの公女マリー―――アンヌが昔から用いてきた愛称でいえばマルーシャ―――
が嫁いできたこの国では、いわゆる婚外恋愛がさかんである。
とくに有閑階級に限っていえば、あたかも不倫は法律で奨励されているのではないかとさえ思われるほどだ。
マリーと同じくルースの素朴な国風のなかで生い育ってきたアンヌは、
修史官の娘という出自のため女子にしては珍しく識字教育を受け、生来の聡明さもあって外国語の読み書きにも堪能だが、
姫君の嫁ぎ先のこのような風潮については、文明国ゆえの退廃だとして忌み嫌っていた。
しかしながら、彼女の愛らしい主人はこの国の王子に嫁いだ以上、公式行事のたびに人前に現れざるを得ず、
また父君の意向を受けてガルィア宮廷に人脈をつくることに日々心を砕いたので、
その帰結としてか、王侯貴族から届けられる恋文は婚礼以来増える一方であった。

むろん夫と幸せな毎日を送っているマリーは全く相手にしないのだが、
日を追って多くなる求愛者の数に、アンヌは当人以上に危機感を強めていた。
いくら不倫が盛んだとはいえ、上流社会の暗黙の了解として、それは決して表ざたになってはならないものである。
日々マリーのもとに届けられる恋文の中にはほとんど熱に浮かされて書いているようなものもあり、
万が一、彼らのうちのひとりが思い余って人前で露骨にマリーに求愛するようなことがあれば、
彼だけでなくマリーの名誉まで貶められかねない。
ことにマリーは外国の公室から嫁いできた身の上であるから、
彼女が夫をないがしろにして貴公子たちの求愛を許すままにしているなどという噂がオーギュストの父つまり現国王の耳に入れば、
大いに不興をこうむることはまちがいなく、外交にも影響が及びかねない。

(最近は、情熱をもてあましたようなやたら稚拙な恋文が増えてきたと思っていたら。
こんなお若い方なら無理もない)
アンヌはマリーから最も信頼されている侍女として、貴公子たちからの恋文を最終的に焼却処分する任を負っているので、
主人に懸想している人々の内訳もだいたい把握している。
しかし、目の前にいるのがそのなかで最も真摯な者のひとりだとしたら、
王子夫妻の生活空間にまで忍んでくるほどの不行跡を看過するわけにはいかなかった。
(マルーシャ様の名誉のためにも、わがルースの外交政策が順調に実を結ぶためにも、
禍根の芽は早めに摘んでおくに越したことはない)
オーギュストの存在は度外視しつつも、常に理知的な態度を崩さないアンヌは今回もそのように判断し、
貴公子の緑色の瞳を見据えながら口を開いた。

「ここは王族がたの私的空間です。
 たとえ宰相閣下であろうと、無断で侵入するなどということは許されません。
 今回は見逃してさしあげますから、今すぐご退去くださいませ」
「いや、僕はマリー様に直接申し上げたい儀があって参上したんだ。
 君がマリー様付きの侍女だというならかえって都合がいい。
 僕はポワトゥ伯爵の三男フランソワだ。ほら、この紋章を見てくれ。身元は保証されている。
 どうか僕のことを秘密裏に取り次いでもらえないだろうか。
 もちろん礼はする。真珠でも翡翠でも、君の望むものをあとで送り届けよう」

恋を成就させるために侍女を買収する、という騎士道物語じみた手口の常套さに呆れながらも、
アンヌは厳しい表情を保ったまま頑としてはねつけた。
「わたくしの存じ上げる限り、マリー様はあなたさまとご面識はないはずです。
 わが主人に邪な懸想をされるかたのお取り次ぎはいたしかねます」
「この想いが邪だなどと。どうか頼む。
 先月の宮中晩餐会でお見かけしたとき以来、あの可憐なお姿が目に焼きついて離れないんだ。
 まさに北国の雪深い山中に咲く一輪の椿のようだ」
少年は自分のことばに酔ったかのように陶然として廊下の彼方を見やった。

あの方は見た目ほど儚げではありませんが、と思いながらアンヌは辛抱強く言い聞かせる。
「オーギュスト殿下との平穏な結婚生活を乱そうとなさるかたは、わたくしに言わせればみな邪でございます。
お諦めなさいませ。おふたりは神の前で誓い合って結ばれた正式な夫婦でいらっしゃいます」
「あの血の巡りの悪い―――いや、おっとりした王子殿下には、
 マリー様ほど生き生きとして瑞々しく最高に愛らしいお方はあまりにもったいない。
 そもそも、神聖な誓約とはいうが、実質は単なる政略結婚ではないか」
アンヌとしても、この発言の前半部分には大いに賛同を示したかったが、
そうなると不倫の片棒をかつぐ羽目に陥りかねないので聞き流した。
とにかくこの若君を翻意させることが先決だった。

「始まりはさようでございましたが、今や殿下ご夫妻は心から想い合っておいでです。
 絡まりあう蔦のように」
「いいや、そんなものは仕組まれて余儀なくそうなった関係だ。
 僕の燃えさかる恋情をもってすれば、マリー様も真実の愛とはどんなものかをきっと分かってくださるに違いない」
(これだから御曹司というのは)
アンヌはつくづく相手をするのが面倒になってきた。
貴族の独善性というのは別にこの少年に限ったことではないが、フランソワは年若く純真なだけにいっそう頑なである。

(さっさと衛兵を呼んで叩き出そうか)
それでもいずれまたこの貴公子は性懲りもなく忍んでくるに違いない。
アンヌに言わせれば、一途な想い人と執念深い犯罪者というのは紙一重である。
(―――やはりいちど現実を見せておくのがよい。
 ちょうど三時だから、ご公務の合間におふたりが寝室で過ごされるころだわ)
王子夫妻の睦まじさを眼前に示してやれば、さすがに諦めるに違いない。
少々むごいだろうか、という気もしたが、
アンヌにしてみれば見知らぬ貴公子の恋の成就などよりマリーの名誉と身の安全のほうが万倍も大切なので、
それほどためらいもなく少年に提案してみた。

「分かりました、フランソワ様。
 どうしてもマリー様のお側近くに参られたいということでしたら、今日だけ特別にご案内して差し上げましょう。
 ただし、お部屋の外に侍るだけというお約束です。
 決して思い余って侵入したり、呼びかけたりなさってはなりません。
 お誓いくださいませ」
「ああ、ありがとう。君はなんて心優しいんだ。
 もちろん誓うよ。僕は贅沢は言わない。
 あの鈴のようなお声を間近で聞き、御身にまとってらっしゃる香りを知ることができればそれで十分だ。
 今夜はきっとそのひとつひとつを反芻しながら、恋しさのあまり眠れなくなるに違いない」
自慰の種が増えすぎて寝られないの間違いではないか、と思いながらもアンヌは黙って歩き始めた。
御苑のこの一隅を抜ければ王子夫妻の寝室がある棟に行き着く。
フランソワは浮かれるような、そわそわするような足取りでとことこと付き従っていった。




「ああ、ここに……この壁の向こうに僕のマリー様が」
わたくしの姫様がいつからあなた様のものになったのです、と内心咎めつつ、アンヌは貴公子の浮かれぶりを見守っていた。
感慨に打たれたような面持ちでフランソワは煉瓦の壁に手を当て、頭ひとつ分高いところにある窓を眺めている。
葡萄の蔓と小鳥たちが彫琢されたマホガニーの窓枠が陽光を浴びてますます艶やかに照り映える一方、
レースのカーテンは微風にくすぐられるたびそっとはためき、室内の物音や香りをひそやかに運び出していく。
実に穏やかな秋の日の午後であった。

「マリー様は毎日この時間にここで午睡をとっておいでなのか」
フランソワは興奮を隠そうとしつつ隠しきれていない声音で侍女に尋ねた。
ろくに日に焼けていない頬が上気している。
姫君の悩ましい寝姿―――枕の上に散らばる金髪、はしたなく乱れた裾、そこからのぞく白いふくらはぎといった情景が
この少年の脳裏でめまぐるしく回転していることを如実に見て取りながら、
アンヌは淡々と否定した。
「いいえ、オーギュスト殿下をお待ちなのです。
おふたりともちょうど三時ごろご公務の休憩を取られるものですから」
「えっ!では殿下がここに?」
「ええ、そろそろおいでになるころでしょう。―――ほら、扉が開いたようです」

たしかにぎぃっという蝶番の音とともに足音がゆっくりと近づいてくるのが聞こえた。
「オーギュスト」
うれしそうなマリーの声が聞こえる。
声の近さからすると彼女は窓際の椅子に座っていたらしいが、立ち上がって扉近くまで夫を迎えに行ったようだ。
ふたりが何かことばを交わしているのは聞こえるが、内容は聞き取れない。
しかし蜜月が永遠に終わらないかのように睦まじい口ぶりは、窓の下にいても十分感じ取ることができた。
フランソワはだんだん下を向いていく。
「戻りましょうか」
アンヌは静かに尋ねたが、貴公子は首を振って拒んだ。
どうあっても姫君のそばにいたいらしい。

やがて夫妻は寝室の奥に、つまり窓の近くにやってきた。
このあたりに寝台が据えてあるであろうことはフランソワにも十分想像できる。
何事か短くことばを交わしたあと、部屋のなかのふたりは急に沈黙した。
それがあまりに長いので、フランソワはかえってほっとした。
(なんだ、やっぱり午睡の時間ではないか)
すこしだけ元気を取り戻して顔を上げかけたところへ、嬌声にも似た悲鳴が突然聞こえた。

「いやっ……!そこは、いけません、オーギュスト……」
(―――マリー様)
フランソワは愕然として窓を見上げた。
そこにはカーテンレースがはためくばかりで、真下から人影が見えようはずもない。
ふたりの声は、切れ切れながらも継続的に漏れ聞こえてくる。

「……許して……お願い……」
「マリー、ここは……?」
「あぁんっ……そこも、だめっ……いけませんわ、そんな……
 わたくしの、大事なところ……奥まで……かき乱さないで……」
「困ったな……」
本当に困ったような、しかしどこか呑気な調子のオーギュストの声が低く響く。
「……でも、もっといろいろ試してみたい」
「やんっ・・・・・・そこもだめえ……!オーギュストの、意地悪……
 わたくし、このままじゃ、もう……だめになっちゃう……っ」
「だってマリー、あなたがそうしてほしいとおっしゃるから」
「たしかに、お願いしたのはわたくしですけれど……
 でも、こんなふうになさるなんて……いやらしい……わたくしの王子様が……」
「もっと野卑なやりかたもあるにはあります。でも僕はそういうのは好まないので」
「もうっ……これでも十分……ひどうございます……
 わたくしの、弱いところばかり……いけない方……」
「もうやめましょうか」
「……いいえ、どうかつづけて……もっと、したいの……していただきたいの……
 だって・・・・・・あなたのを、いただけるまでは・・・・・・
 わたくし・・・・・・満足できないもの・・・・・・
 どうしても、ほしいの・・・・・・」
「それほど僕のを?」
「もう、オーギュストったら……分かってらっしゃるくせに……
 これ以上……わたくしを、辱めないでくださいませ」
「マリー、どうか機嫌を直してください」

軽くくちづけするような音、そして軽やかな笑い声が聞こえ、ふたりの音声はまた小さくなっていった。
あるいは布団の下にもぐりこんで愛をささやき始めたのかもしれない。
(そろそろ引き上げ時かしら)
自分の本来の意図が果たされたかと思い、アンヌはフランソワのほうを見た。
すると、その生白い顔はいっそう青ざめ、緑色の瞳は地面の一点を凝視していた。
アンヌが袖を引いてもこちらを向こうともしない。
(打撃が強すぎたのだろうか)
温室育ちのぼんぼんとはいえまさかここまで神経が細いとは、とアンヌはなかば呆れつつ、一方で若干の責任を感じてもいた。
何もここまで直截にやらなくてもよかったかもしれない。

「フランソワ様、―――フランソワ様」
押し殺したような声で強く呼びかけられ、貴公子はようやく焦点を合わせて侍女のほうを見た。
その緑色の瞳は揺れるように潤み、なんとか落涙だけは耐えているといった風情である。
「マリー様のお声はすっかりお耳に届いたでしょう。
 さあ戻りましょう。通用門までご案内いたします」
「マリー様が、僕のマリー様が―――こんな昼間から、あんな」
喉から搾り出すような声でフランソワがつぶやく。
「さようです。こんな明るいうちから時間さえあればおふたりは睦みあっておられるのです」
ですから間男の介在する余地などございません、とアンヌはつづけようとしたのだが、
貴公子の真っ赤に染まった目元を見て口をつぐんだ。
彼はもう十分すぎるほど分かっているのだ。いまさら追い討ちをかける必要はあるまい。
年下の少年が肩を震わせて初々しい痛みに耐えている様子を眺めていると、
ふだんは淡白なアンヌもさすがに罪悪感と母性本能を刺激されずにはいられなかった。

マリーが沈んでいるのを慰めるときのくせで、彼女はついフランソワの柔らかい赤毛を撫でてやった。
すると思いがけないことに、まだ背が伸びきっていない少年は侍女の胸に頭を寄せてきた。
いつもならこういう馴れ馴れしい相手はたとえ貴族でもさっさと引き剥がしているところだが、
このときはさすがにアンヌも拒めなかった。
姉になったような気持ちで胸の中に抱いてやる。
「……気持ちいい……」
「え?」
「ここ、すごく、気持ちいい……」
(この童貞は)

アンヌは複雑な気持ちで少年を胸に抱いていた。
(―――まあいい、ひと肌脱ぐことにしよう。私のやりかたも少しは悪かったわ)
この御曹司のマリーへの横恋慕がこれで収束し、
なおかつ自分の罪悪感も払拭できるなら重畳だと思い、アンヌは心を決めた。
そして自分よりやや背丈の低い貴公子の頬を両手ではさみ、顔を上げさせる。
「もっと、心地いいことをしてさしあげましょうか」
冬の空のように淡い灰色の瞳にじっと見つめられて、少年はまばたきもせずに凍りついた。
レースのカーテンが頭上ではためいたかと思うとまた窓枠の中に納まる。
彼は侍女の瞳から目をそらせないまま、ぎこちなくうなずいた。




ふたりは先ほど通り過ぎた御苑の一隅に戻り、アンヌは少年の手を引きながら、午後の光が届かない茂みの奥に入っていった。
「緊張していらっしゃる?」
振り向いて尋ねても、フランソワの返事はない。
自分の意思でついては来たが、不安であることに変わりはないのだ。
「い、いや。少し肌寒い」
アンヌはふっと微笑んだ。
この女が笑うのをはじめて見たとフランソワは思った。
意外にも目元が優しげだった。

「すぐ温かくしてさしあげます。
そちらにお横になってください」
自分が主導しないことには事態が動かないと分かっているので、アンヌは彼の両肩を抱くようにして芝生の上に横たわらせた。
そして自らも地面に膝を突き、貴公子の革のベルトに手をかける。
ここにもまた、伯爵家の象徴であるひとつがいの鹿が刺繍されていた。

「そ、その、や、やはりこんなのはよくないのではないだろうか」
されるがままになっていたフランソワはようやくのことで震える声を発した。
股間をまさぐる侍女の手を恐る恐る押さえようとする。
しかしアンヌは意に介さずに手際よく肌着まで下ろし、十分硬くなったそれを取り出した。
「どうしていけませんの」
熱く脈打つ棹の長さを図るかのように、根元から先端までを白い指の腹でゆっくりとなぞりながら、
侍女は表情を変えずに淡々と尋ねた。

「だ、だって、目下の者に伽を強いるなんて、貴族のすることではない」
「わたくしが自分からご提案したのですよ」
そう言って裏側をひと舐めする。少年はうめき声を発し、しばらく口をきけなくなる。
「―――そ、それはそうだが、……ここ、これは単なる肉欲の充足だ、罪ではないか」
「さようかもしれません。
 けれどもフランソワ様は、これまでマリー様のことを想いながら、
 ご自分の肉欲を満たされたことはありませんの?
 それも罪ではございませんか?
 それともマリー様への清き愛ゆえの手淫は咎にはあたらぬとお考えでしょうか」

フランソワは真っ赤になって反論しようとしたが、口を開きかけただけで何もいえなかった。
その純朴で正直なようすがアンヌの密かな加虐趣味をあおり、口舌の動きをますます滑らかにしていく。
彼女は両手で彼のものをこすり上げつつ先端を舐めてやったりしながら、貴公子の瞳をのぞきこんで淡々とことばをつづけた。

「反論なさらぬということはよほど頻繁に、マリー様を種にした自慰に耽っていらっしゃるのですね。
 毎晩、それとも毎朝でしょうか。
 頭の中であの方のお召し物をゆっくり剥いでゆかれるのね。
 たとえ妄想のなかとはいえ、王子殿下の妃たる方をそんな浅ましい肉欲の餌食にしていいと思っていらっしゃるのですか?
 不敬の極みではありませんこと?」
「ち、ちが……ううっ」
アンヌはそれをすっかり口に含んでしまい、根元から先へとゆっくり吸い上げた。
世の中にはこんな感覚があったのか、と思うほどの劇的な快感が少年の身体をかけめぐる。
アンヌはその愛撫を何度も反復してやりながら、そろそろ挿入したほうがいいかしらと考えている。
(すぐ果ててしまうだろうけど)

そう思った瞬間、彼女の口腔内に振動と熱いものが広がり、フランソワの身体もびくびくと震えた。
(やれやれ)
まあよくあることだと思いながらアンヌは顔を離し、やや咳き込みながら近くの芝生に白い液を戻した。
この苦いものを飲むのが当然と思っている男も世の中には多いが、
そんな傲慢な物言いをまずしないのが童貞のいいところだと思う。
長い振動が収まったあと、フランソワはようやく身を起こしてアンヌを見た。
まだ息が荒いのはもちろんだが、自分のしでかしたことに自分で驚いているような顔だ。

「許してくれ」
「何をです」
「あ、あんな……汚らわしいものを口に、出してしまった」
初めてなのだから仕方ありませんわ、というのが正直な感想だったが、
貴公子の気弱で申し訳なさそうなようすにアンヌの嗜好がふたたび刺激された。
「そうですわね」
立ち上がりながらスカートの下に手を入れ、白い肌着を両脚からそっと引き抜く。
「たいそうなおいたをしてくださいましたこと。
 おうちでの躾が行き届いていないのではなくて?」
貴公子のおびえたような緑色の瞳にアンヌの加虐心はますますあおられ、ふたたび彼を芝生に押し倒す。
そしてまだ硬いままの彼自身をつかむと、着衣のままゆっくりとそのうえに座り込んだ。

温かく柔らかくしっとりとしてきつい、しかし決して目には見えない天国に自身が包まれていくのを感じ、
フランソワは自分がなじられているにもかかわらず夢心地に浸らずにはいられなかった。
アンヌはまだ腰を動かしてもいないのに、彼の身中ではすでに歓喜がふつふつとこみあげてくる。
ものも言えない少年の表情をのぞきこみ、その赤い頬に手を当てながら、侍女は熱い吐息混じりに彼をやんわりと咎めだてた。
「本当にいけない方ですこと。こんなお若いのに肉欲の虜になったりして」
むろん若いからこそ肉欲の虜になるのだが、
騎士道的な純愛こそ真実の愛、人が踏み行うべき道だと信じきっている少年の耳には痛いことばだった。

「い、いや……僕は、そんな、こと……」
「まことに?でもこうされるのがお好きなのでしょう?
 あなた様のものは、今にもわたくしの中ではちきれそうですのに」
「ち、ちが・・・」
「ではおやめになりますか?
 あなた様はご貞操をマリー様に捧げるおつもりでいらしたものね」
「……うぅ……」
フランソワはうめきを押し殺しながらことばを探していた。
むろん彼にも年相応の膂力はあるし、
純潔を守るためにこの女を突き飛ばそうと思えばできるものの、あえてやれるはずがなかった。
こんな天国から途中で引き返すことができたらそれこそ聖人だ、と彼は思った。

「……離れないで、くれ……僕が、僕が悪かった……」
「反省していらっしゃる?」
「う、うん……もう、マリー様に、懸想は……しない……」
「それがよろしいですわね。
 二度とむやみにお近づきにならぬよう、お誓いくださいますか?」
「……ち、誓うとも……」
「いい子ね。ではご褒美を」

アンヌは腰をゆっくりと前後に動かし始め、しだいに緩急をつけていった。
小さな唇からこぼれ落ちる吐息はますます荒くなり、華奢な上体が徐々に弓なりになっていく。
スカートの下で一体何が起こっているのか見当もつかないが、
フランソワは次々とこみあげてくる快感に呆然としながら、侍女になされるがままになっていた。
四方から容赦なくしめつけられる感触は彼からことばを奪い、唇からはただ獣のようなうめきが漏らされるばかりだった。
ひとけのないこの一隅で他に聞こえるものといえば、
まだ緑色を残した葉や梢が風に吹かれる旅に頭上で交わすささやき、
ふたりの衣擦れの音にアンヌの乱れた吐息、
そして彼女の紺色のスカート越しに結合部から響いてくる粘っこい水音だけだった。

「……胸を……」
「え?」
「胸を、見たい」
貴族の矜持も忘れ、フランソワは哀願するような口調でつぶやいた。
「そんなにごらんになりたい?」
「すごく、見たい……触りたい」
「浅ましいこと」
「……すまない……」
腰を休まず動かしながら、アンヌは上体を前に折ると自分の胸元に片手をやり、焦らすようにゆっくりと飾り紐を解いていった。
紺色の上着の下には白いブラウスがあり、豊かなふくらみの輪郭を示していた。
上衣をすっかり脱ぎ去ってしまうとあとが面倒なので、彼女はブラウスの下部のボタンだけ留めたまま胸襟をはだけていく。
ようやく日の目を見た肌着は白いレース状で、その眺めだけでもフランソワには新鮮だったが、アンヌはさらにそれを上にずらした。

あらわになった白すぎる乳房が目の前で揺れるのを、少年はただ呆然と眺めていた。
雪兎のようなふたつの丘にはそれぞれ桃色の頂があり、
誰かが到達するのを待ち焦がれているかのように恥じらいもなく尖っている。
何度か唾を飲み込んだあと、フランソワはようやくみずからの腕を伸ばし、ふたつのふくらみを恐る恐るつかんでみた。
指先に伝わる柔らかさと掌のまんなか辺りを突く硬さ、そのどちらもが嘘のように心地よかった。
「すごい」
突如湧き起こった衝動にたまらなくなり、貴公子は侍女の上体を引き寄せて乳房にくちづけ、その頂をむさぼるように吸う。
彼女は最初痛がってフランソワを注意したが、吸われれば吸われるほどその吐息は荒く熱くなっていった。

乳首への入念な愛撫が惜しまれたものの、やがてアンヌは再び上体を起こし、絶頂への予感に身をそりかえしていく。
フランソワはほとんど爆発しそうになっている。
(わりと忍耐強い子だこと)
ひそかに感心しながらアンヌは内なる疼きの欲するままに腰を動かし、
じわじわと貴公子の純潔を追いつめていった。
そしてある瞬間に腰を浮かし、短い儀式に幕を下ろした。
少年の欲望が凝縮された液体はスカートの内側を遠慮なく汚し、彼女の明るい色の恥毛と太腿をも汚しつくしたが、
アンヌはもはや責めることはしなかった。
自身はいまだ疼きを抱えたままだとはいえ、
とりあえず目的は果たしたことに満足をおぼえ、彼女は無言で貴公子の横の芝生に崩れ落ちた。




「君の名前は?」
長くけだるい沈黙を最初に破ったのはフランソワだった。
場をつなぎたいがために尋ねたのだろう、とアンヌは思った。
子どもが沈黙を恐れるのはよくあることだ。
「名前ですか」
「そうだ」
「―――お見知りおきいただくほどの者ではございません」
我ながら陳腐な物言いだと思いながらも、それ以外に言うべき答えがあるとはアンヌには考えられなかった。
己は任意のひとりであるのが望ましいのだ。
初めての女として名をもち実体をもってしまったら、いらぬ執着を引き起こしかねない。

フランソワは身を起こして侍女の白い顔をのぞきこんだ。
その瞳は真剣な色を浮かべていた。
「どうか教えてくれ」
弱ったこと、と思いながらアンヌは彼の顔を眺め、さらに目をそらして空を見つめた。
日はようやく落ちかけていたが、中天はいまだ、透き通る淡青色を留めていた。
「ないのです、本当に」
「そんなはずは―――」
あるまい、と少年は言いかけたが、途中で口をつぐんだ。
たった今交わした情事の重みというものが、自分とこの女のあいだではあまりに違うのだ、ということをふいに悟ったかに見えた。

そうか、とつぶやいてフランソワはゆっくりと彼女から離れ、身なりを整え始めた。
アンヌもやがて上体を起こした。
たしかに辺りは肌寒くなっていた。
彼女は長い金髪に絡まった草の葉を取りはらいつつ、少年の背中を眺めていた。




※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※




晩秋らしく、その日も夕暮れは唐突に訪ない、そして過ぎていった。
アンヌは一介の侍女とはいえマリーから特別に重んじられているので、
ほかの使用人たちと違って自分専用の居室を与えられている。
その夜、就寝前にマリーの肌と髪の手入れを行うため自室を出ようとしていると、扉を叩く音がした。
開けてみれば同僚の侍女が手に大きな花束をもち、さきほどポワトゥ伯爵家の使いがこれを持って来たのだと言う。
贈る相手に関して、使いの者はその外見的特徴と雰囲気しか言付けされていなかったが、
同僚はおそらくアンヌのことだろうと見当をつけて預かってくれたのだ。

アンヌは礼を言って受け取ると扉を閉め、またひとりになった。
白絹のリボンでくくられた純白の花々のおかげで、部屋にはさらなる明かりが灯されたかのようだった。
よく見ると、リボンと包み紙の間には、伯爵家の紋章が摺られた小さなカードが挟まれている。
(椿の君へ、か)
そういえば御苑のあのあたりには、ひどく硬そうな濃緑の葉をつけた細い樹木が寄り添うように立っていた、とアンヌは思い出した。
彼女はそれが椿の木であることさえ気がつかなかったので、その名を与えられたことがなんとなく可笑しかった。
あるいはあの夢多き少年は、北国から来た娘は椿の花を贈られるのを最も喜ぶ、と思いなしているのかもしれない。
しかし、そろそろ大地が雪に覆われつつある彼女の生国ならともかく、
この温暖な国で今の時期に椿の花を入手するのは難しいことに違いなかった。
最良の品種として選びぬかれた御苑の椿さえ、いまだただひとつの蕾もつけていなかった。

(―――どこから取り寄せたものやら)
半ばいぶかしがりながらアンヌは花束を顔に近づけ、香りをかいでみた。
一足先に清澄な冬の空気に包まれるのを感じた。
淡い灯火のもとでよく見ると、この椿は珍しいことに八重咲きであった。
頭が重いので、ややもすればたちまち萼ごと地に散ってしまうような危うい風情がある。
鞠のような丸々した量感はアンヌの目を楽しませたが、
しかし、花弁の一枚一枚から漂うような、この一途な愛らしさは自分にはそぐわない、と彼女は思った。
屈託なく人を愛し、人から愛されることを感謝とともに受け入れられる娘こそが、
この可憐にして潔い花で飾られるに値するのではないだろうか。
たとえばマリーのように。
ふとそんな気がした。

しばしの逡巡の後、アンヌは一輪だけ抜き取って髪に挿し、残りは卓上に飾った。
これが最後の一輪までしおれるころには、あの少年は新しい娘を見初め、
彼を淡々と男にした名もない女への執着も薄れていることだろう。
しかしそれでも、花の名とともに記憶に留められるのは悪い気分ではなかった。




「まあ素敵、アニュータ」
マリーは自室で侍女を迎えると、彼女のかぐわしい髪飾りに碧眼を輝かせた。
もともとあまり身なりに気を遣わないアニュータが夜遅くにこんなふうに装うなんて何があったのかしら、
と聞き出したくてたまらなそうな顔をしている。
しかしアンヌは礼だけ述べて、黙々といつもの仕事にとりかかった。
鏡台の上に化粧水やクリームや香油やらを一瓶ずつ準備する。
姫君の爪の手入れを終えた年配の侍女は、入れ替わりで部屋を退出していった。

「ねえアニュータ、それは殿方からの贈り物なの?」
マリーは朗らかな声で尋ねた。
アンヌは言いたくないことについては主人に対してさえ絶対に口を割ろうとしないが、万が一ということもある。
マリーはそれに期待していた。
腹心の侍女はええ、とだけ答えた。姫君の顔はますます輝く。
「素敵だわ、どんな方なの?背が高い?恋文をいただいた?どこで見初められたの?」
アンヌが何もいわないうちから、マリーの頭のなかではどんどん物語が構築されていくようであった。

「アニュータ、安心して。周りがどんなに反対してもわたくしが必ず運命のその方と縁結びしてあげます」
マリーはじつに生き生きした瞳で鏡の中のアンヌに語りかけた。
うちの姫様は一体いつからこんな中年婦人じみた娯楽に手を染めるようになったのか、とアンヌはやや嘆かわしい気がしたが、
それはとりもなおさず彼女の人の善さの表れでもあり、
何よりオーギュストとの結婚生活が満ち足りていることを反映しているのだと思えば、むしろ喜ぶべきことであった。

自身ありげな姫君の声に、鏡の中のアンヌはほんの一瞬頬を緩めたが、すぐにまた作業にとりかかった。
主人のまばゆく白光りする金髪の根元から毛先まで、丁重に香油を塗りこめていく。
「ありがたいお申し出ですが、そちらのほうの始末はすでについております。
 ところでマルーシャ様、今日の昼下がりもずいぶんご熱心でしたこと」
「まあ、廊下まで聞こえてしまっていて?」
マリーは口ごもりながら頬を染める。

「いえ、ご寝所の窓の下を通りかかったのです。
 ご精を出されるのもよろしいですが、あまり熱中されすぎて子どものようにお声を上げられるのはお控えくださいませ。
 そろそろ涼しくなってまいりましたから南向きのあのお部屋で午後を過ごされたいのは分かりますが、
 風通しがよいために外までお声がよく通ります」
「だって、―――今日はオーギュストがあまりに手厳しかったから」
「手加減しないで鍛えていただきたいとお願いしたのはマルーシャ様でしょう?」
「ええ、それはそうなのだけど」
「上級者との手合わせを望まれるのは無理もありませんが、とにかく常に平静を心がけられませ。
 チェスを指すときはそれが肝要です」

(やっぱり今日は夢中になりすぎたかしら)
マリーもさすがに自省しつつ、分かりました、と子どものように素直に答える。
しかしながら、昼間オーギュストが指したある一手を思い出すと、
(―――あの局面でキングを取られてしまうなんて)
と無念さを断ち切れない気持ちではあった。
就寝前にもう一局お願いしたら受けてくださるかしら、とぼんやり考えながら、マリーは鏡に映る侍女の仕事ぶりを眺めていた。
ふだんは感情を伝えない端正な横顔が、今夜はほんの少しだけ、思い乱れているように見えた。
ふとアンヌの白い手が後頭部に回され、椿の枝が抜き取られた。
マリーがそのまま見ていると、その枝はゆっくりと、彼女自身の白金色の髪に挿しこまれていく。

「まあ、アンヌ、もったいない。あなたがつけていなければ。
 贈り主の殿方もそれを望んでおられましょうに」
「今はもう、よろしいのです。
 ご就寝までの短い間ですが、よろしければお飾りくださいませ。
 オーギュスト殿下も喜ばれましょう」
アンヌは一歩退いて、鏡に映る戸惑い顔の姫君と、その後ろ姿とを見交わした。
結い上げ髪の根元にほころぶ八重の椿はあまりにゆかしく清冽で、
白いうなじと今にも溶けあうかのようだった。




(終)




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