琥珀の月二十一日   断続的な小雨ののち晴れ


「アニュータ、わたくし知っているのよ」
鏡のなかのマルーシャ様は満面の笑みでそうおっしゃった。
ご就寝前に御髪をお梳き申し上げているときのことである。
「何をでございましょう」
「あなたの恋人のことよ」
恋人。心あたりがなかったのでわたくしはしばし返事に窮した。
「もう、知らないふりなんかして。ニコラ殿のことよ。オーギュストの護衛の」
「ああ……」
彼は正確には限りなく下僕に近い友人です、とお答えしようかと思ったが、
姫様がすでに構築なさっているご期待を正面から粉砕するのはためらわれたので、曖昧に頷き申し上げるだけにした。

「ふふ、やっぱりそうだったのね。どうしてわたくしに隠していたりしたの?」
「お隠し申し上げていたつもりはございません。ご報告申し上げるに値する事実がそもそも存在しないのです」
「恥ずかしがらなくたっていいのに。
 あのかたは遠目にも分かる美丈夫だし、オーギュストのお話では勤めぶりも大変まじめだそうよ。
 正式なお付き合いをするのに申し分ない殿方だと思うわ。
 眉目が整っているだけではなく、いかにも優しげで聡明そうなまなざしをしておいでだし。
 わたくし自身は数えるほどしかことばを交わしたことがないけれど」
「それがおよろしいかと存じ上げます」
姫様のご夢想をお守りするため、わたくしは衷心から申し上げた。

「まあアニュータったら、わたくしがあのかたと接触をもつことを案じているのね。
 大丈夫、わたくしが心を捧げる殿方はオーギュストただひとりよ」
むしろその点こそがわたくしにとって目下最大の懸案事項なのだが、姫様はお気づきになったふうもなく後をおつづけになられた。
「限られた機会ではあったけれど、ニコラ殿とお話ししてみて、わたくしあのかたの善良さと聡明さをひしひしと感じたの。
 ねえアニュータ、あなたにはぜひあのかたのようなお婿様をもらって幸せになってほしいわ。
 もちろん、結婚してもわたくしの側仕えはずっとつづけてほしいけれど。
 そうだわ、あちらの親族からどんなに高い持参金を要求されても、わたくしがちゃんと支払ってあげるから安心してね」

「―――ご温情に満ちたおことば、誠にかたじけのうございますが」
謝意を申し上げるまでにひととき間が空いてしまった。
婿、結婚、持参金といった具体的な用語も衝撃的ではあったが、
それより何より姫様の放たれた最初の一句がわが思考を一瞬停止せしめたのである。
「恐れながらマルーシャ様、ニコラ殿のご気質が人畜無害なるはともかくとして、何をもってしてあのかたを聡明と評されます」
「まあアニュータ、あなたは同意できないというの?」
姫様は全くもって遺憾だとおっしゃりたげに柳眉を深く顰められた。

「少なくともいまだそこまで言明するだけの判断材料を得ておりません」
ただしそれに相反する判断を下すための材料は十分すぎるほど手元にそろっておりますが、と思わずつづけそうになったが、
あくまで臣礼をわきまえる者として、慎ましく疑念を呈し申し上げるに留めておいた。
姫様はふいに得意そうなお顔になられた。何か揺るぎない確信をもっておられるときのお顔である。
「ふふ、じゃあ教えてあげる。
 あのかたはね、『第五王子殿下は私が存じ上げるなかで最も賢明でお心の優しいかたです』とおっしゃったのよ。
 オーギュストの素晴らしい美質に正当な判断を下せるかたが、どうして愚鈍だなどと言えて?」




だと思った。




ではなく、それはそもそも誠に畏れながら姫様が擁しておられる前提がすでに正当ではないのです、とご指摘申し上げるべきだったが、
例によって頑なに反駁なされるであろうことが予期されたうえ、ご就寝時刻も迫っていたためここではとりあえず議論を回避することにした。
「まあ、それもひとつの価値基準と申せるかもしれません」
「そうよ、それにしてもあなたが嫉妬を見せるなんて……これは本当に真剣な恋なのね!」

姫様の透き通るような水色の瞳の奥で何かが燃え上がるのを見た気がした。
天をも焦がす紅蓮の炎にも似た、何事かに没頭なされようとするときの情熱の色である。
いつの間にか危惧していた事態に陥りつつあるようだ、とわたくしはやや現実的な懸念をおぼえはじめた。
しかしここまで高揚なされたご気分を急直下で突き落とし申し上げるのは、
ニコラ殿が相手ならば何の痛痒もおぼえないのだがまさしく臣下としての良心に堪えかねる非情のわざである。
ゆえに今思うと悔やまれることながら、ついつい議論をすり替えるようなお返事を申し上げてしまった次第である。

「恋と称するのは無理がございますが、真剣といえば常に真剣かもしれません。
 気を抜いているといつの間にか彼の側で独自に解釈を発展させておりますので」
「つまりそれは、ニコラ殿があなたに夢中だということではなくて?」
「まあ、そう言えなくもないかもしれませんが」
「素敵ね。美貌の近衛に愛を捧げられる乙女なんて、まさに騎士物語の王道ではないの」
「わたくしは乙女ではございません。ご承知のように」

「細かいことはいいの。
 ―――わたくし決めたわ。
 ねえアニュータ、オーギュストに頼んで明日ニコラ殿を非番にしていただくから、ふたりでどこかへお出かけするのはどうかしら。
 今日の夕暮れのようすだと明日もきっと秋晴れに違いないから、行楽には絶好のお日和だと思うわ。
 そうね、例えば、郊外の湖で舟遊びとか」
「恐れながら、わたくしには姫様のご身辺に侍るお勤めが」
「明日はあなたもお休みよ、もちろん」
その断固としたお声の調子から、これはいかに反論申し上げても無駄らしいとわたくしは察し申し上げた。
それと同時に、姫様がお心に練っておられる一計の内容も、おおよそ想像がついたのだった。




 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 




琥珀の月二十二日 晴れ


昨晩マルーシャ様が見越されたとおり、本日はまさに行楽日和というべき快晴であった。
頭上の空はどこまでも高く、眼下の湖水は翡翠のように澄んでいる。
昨夜マルーシャ様のお話を承ったときは、この時期に郊外で舟遊びというのはいささか肌寒いのではないかと思われたが、
実際に来てみれば水面にも湖畔の木々の葉にも陽光が躍りきらめき、われわれをとりまく大気はむしろ、清爽と呼ぶべき心地よさに満ちていた。
われわれというのはニコラ殿とわたくしである。

今朝がた寝台のなかで昨夜の読みかけの書物を広げていたところ、
突如お越しになった姫様の厳命により、身繕いもほどほどに彼の二頭立て馬車に乗り込むことになり、
今こうして郊外の湖に舟を浮かべている次第である。

王宮からの道中、馬車に乗り合わせるのはむろん御者とわれわれふたりのみであったが、
少し距離をおいた後方から不審な箱馬車が追跡してくることに気づくのに時間はかからなかった。
どのあたりが不審かといえば、馬も車体も明らかに商人の自家用車や街の乗合馬車などには見えない偉容をそなえていながら、
どこの貴族の所有になるかを示す紋章が車体の前面にも馬の額飾りにも装着されていないという点である。
そしてそもそも、わたくしの記憶力と視力がたしかならば、
あの馬車の輪郭は第五王子ご夫妻が遠出に用いられるそれに実に近似していた。
おおむね予想通りとはいえとはいえ、いや予想通りだからこそ、わたくしはやや筋肉が弛緩するのをおぼえざるを得なかった。




「今日はなんとよき日だろうか、アンヌ嬢」
両手で櫂を漕ぎながら、ニコラ殿が心持ち上気した顔で言った。
もっともこのかたの場合は脳まで筋肉だからかわたくしが見るかぎり常に意気軒昂にして精力に満ちているので、
平素と比べさほど違和感はない。
「ええ。天候に恵まれてよかったこと」
「いや、そうではなく、
 ―――その、秋の晴天の麗しさもむろん格別だが、この景色に真の美を添えるのはアンヌ嬢、貴女だ」
「それはどうも」
最近ではもはやこの種の言辞は起き抜けの寝言あいさつだと思って聞き流すことにしているが、
ニコラ殿のほうもさらりと言ってのければいいものをいつもながら緊張感を漲らせつつ語っている。

「信じていただけないのだろうか、アンヌ嬢。
 あるいは、あまりに多くの男たちに同じような賞賛を捧げられてきたがゆえに聞き飽きてしまわれたのだな。そうに違いない」
「そのような奇特な殿方は滅多におりませんでしたが、
 あなたがこれに類似する賛辞をあまたの婦人に捧げてこられたことは想像がつきます」
「うぅ、よくご存じだ………ひょっとしてアンヌ嬢、貴女もやはりこの私に、私の過去にご興味を」
「それぐらい推察できないほどの不注意者ならば、今ごろあなたとうっかり婚約でもしているところです。
 ご自分の気の多さを多少は省みられませ」
「もっともだ。返すことばもない。
 しかし、その時々でそれぞれのご婦人がたに対しそう感じていたのは本当なのだ。
 阿諛追従を述べていたつもりは断じてない。
 ゆえにアンヌ嬢、たった今貴女に抱いている想いも本物だ。
 ああ、今ここでこの胸を切り開きわが赤誠をお見せすることができたなら!」
「後日にお願いいたします。今あなたに死なれるとわたくしひとりの力では陸まで戻れませんので」

温かい日差しのもとでそのような談話を交わしながら、わたくしはふと、遠方から近づく水音に耳を済ませた。
正確には漕ぎ手であるニコラ殿の背後から近づく音であり、わたくしにとっては向かい側にあたる。
視線を水面に落としてみればそこにも、もうひとつの船体の接近を示す波紋の名残を読みとることができた。
耳を澄ませるかぎり櫂を漕ぐ間隔は慎重そのものではあったが、ひと漕ぎごとに小さな水しぶきが生み出されるのは避けがたいことであった。
それとなく視線を泳がせてそちらを窺うと、われわれが乗っているのと同じくらいの寸法の小舟が、
湖畔から水上へと大きく張り出した茂みの陰に、何とか身を隠そうと試みている。
骨を折っているのは正確には舳先に立つ船頭ひとりであったが、
大きなフードを目深にかぶったその長身はどこか見覚えがあるような気がした。
しかしながら舟の中央では、彼の苦心を正面から無にするかのように、ふたりの乗客がすでに歓談を始めていた。
一応そこには天幕らしきものが張られており、その後ろで交わされる声も低められてはいるのだが、
会話は刻一刻と盛り上がる一方であり、これだけ近づけば聞こえてこないはずがない。
わたくしは極力そちらを見ないように心がけることにした。
言うなればそれが臣下たる者の務めであるからだ。

「オーギュスト、今のニコラ殿の言明をお聞きになられまして?」
抑えられてはいるが、ひどく感銘を受けたようなお声が早くもぽつりぽつりと聞こえてくる。
「ええ、聞こえることは聞こえたんですが……僕たちこんなことしていいんでしょうか、マリー。
 覗き見とか盗み聴きは法律にも触れるんじゃないかなあ」
「何ということをおっしゃるの、オーギュスト」
姫様のお声が突然厳しい響きを帯びた。

「このわたくしがそんな低俗な趣味にあなたを連れまわすなどとお考えでいらっしゃるなんて。
 よろしいですか。これは一介の娯楽やまして犯罪などではなく、いわば、そうね、不文律の義務を履行しているのです。
 あなたの忠実な騎士殿とわたくしの大切なアニュータが近づきつつあるというのだから、
 ふたりの絆を深めるために手を貸さないわけにはいかないでしょう?」
「う、うん。でも、介入するのは実際に本人たちに助けを求められてからでいいんじゃないかなあ。
 貴族の領土問題とか、相続問題とかに対してはそういう態度が望ましいとアラン兄上も言っていました」
「まあ、オーギュスト。人の上に立つ者がそんな怠惰なことでいいと思ってらっしゃるの?
 臣民から窮状の訴えを聞く前に自ら動くことこそ、良君の証ではありませんか。
 ましてこのたびは地上で最も崇高な営み、恋愛の成就に関わることですのよ。
 わたくしたちの知らぬところで事態が風雲急を告げてからでは手遅れなのですから、
 こうしてふたりを背後から見守りつつ待機するのが主君たる者の務めなのですわ。
 いわばそう、高貴なる者の、ほら、ええと……」

高貴なる者の義務、ノブレス=オブリージュでございます、とお耳元で囁き申し上げたかったが、
われわれを取り巻く状況がそれを許しそうにないので口の中で呟くほかなかった。
しかしながらあのぼんくらにしては上出来な幸いなことに、
オーギュスト殿下はしばしの逡巡ののち、姫様の意を汲むことに成功せられたようであった。
「分かった。ノブレス=オブリージュですね、マリー」
「そう、それですわ。やっぱりわたくしのオーギュストは打てば響くように何でも分かって下さるのね」
いくら何でもそれは事実に反していると思った。

と、マルーシャ様はふいに本来の話題を思い出したように続けられた。
「そうそう、忘れてはいけなかったわ。今のニコラ殿のおことば、なんて誠意に満ちているのかしら。
 これはもう、アニュータに身も心も捧げるご覚悟がおありだと見て間違いないわ」
「うん、ニコラは昔からとても誠実な働き者なんです。
 僕の護衛として着任したばかりのころ、兄上たちが忙しくてかまってくれないときによく虫取りや魚取りの供をしてくれました。
 珍しいザリガニを見つけても決して着服せず、いつも僕に譲渡してくれたのです」
「それにあのかた、櫂を漕ぎながらもずっとアニュータのほうを見ておられますわ。
 一心不乱と言っていいくらいに。これこそ恋の魔法のなせるわざではないかしら。
 素敵ね、オーギュスト。あのかたは今まさに、恋の奴隷なのだわ……!」

最後のほうのお声は、高ぶるあまり青空に吸い込まれたかのようにかすれていた。
たとえ天幕のなかを覗けずとも、マルーシャ様が両のこぶしを固く握りしめながら夫君に熱く語っておられるさまが今まさに眼前に浮かぶようである。
ニコラ殿が奴僕であるというご見解はわたくしの生活上の実感にもほぼ合致しており、
若干の修正が必要とはいえ、姫様の卓越したご洞察には深くご賛同申し上げたき所存であったが、
船縁越しに声をおかけするわけにもいかないのが遺憾なところであった。

やがてお声は静まったが、しばらくすると天幕の内側から何やら香ばしい匂いが漂ってきた。
木籠を開けるかたかたという音と共に姫様の小さなご歓声が上がる。
オーギュスト殿下の頬に接吻する音さえ聞こえてきそうな勢いである。
僭越ながらここまでの流れを推察申し上げるに、

 マルーシャ様ご空腹をお覚えになる
→無口になられる
→オーギュスト殿下不安になられる
→ふと気がつき、「こんなこともあろうかと思って」と食べ物を取り出される
→マルーシャ様元気になられる

といったやりとりが展開されたものと思われる。
わたくしが姫様の傍らに侍っていたならば今ごろ軽食の準備どころかすでに食後酒の杯をご用意申し上げているところだが、
まあ遅ればせながらご機嫌は回復された模様であるから、オーギュスト殿下のご対応の遅れはこの際これでよしとしよう。
しかし屋外へ持ち運ばれて久しい食品でありながら、これほど香ばしさが維持されるとは意外であった。
おそらくは竈から出されてまもないバゲットに、仔羊の香草焼きとオリーブの酢漬け、そしてコケモモが添えられたものだろうと思われる。

「今日は本当にいいお日和ね」
マルーシャ様のお声が再び聞こえてくる。
すべてに満ちたりた至福の心地が滲み出ておられるかのようなご風情である。
「爽やかな秋晴れの日に、絵のように美しい湖水に、美味しい食べものに、そしてオーギュスト、あなたがいらっしゃって。
 わたくし本当に幸せですわ」
そして肩を寄せ合うような衣擦れの音が聞こえた。
マルーシャ様におかれてはどうも本来の目的をお忘れになられたようだが、
何であれ今まさに満ち足りておいでならばわたくしもこれにまさる幸せはない。

両肩の筋肉をほぐしながらわたくしは腹を決めた。
かくなるうえは臣下たるもの、ご夫妻のご行楽に余興を供する役割に徹することとしよう。
そう覚悟を決めた瞬間、ニコラ殿が後方を振り向こうとした。
「何かいい匂いが」
「お待ちください!」
わたくしが急いで押し留めると、彼は実に訝しげな顔になった。
そうではないかと思ってはいたが、やはりこのかたは王宮から尾行されてきたことに気がついていないらしい。
精鋭中の精鋭という仄聞は本当なのだろうか。それともこの国の近衛騎士団はよほど人材が枯渇しているのか。

「どうされた、アンヌ嬢。湖畔か水上にでも食べ物を商う店が出ているのではと思ったのだ。
 そろそろ空腹を覚えておいでではないか」
「いえ、大丈夫です。ニコラ殿におかれては櫂を漕いでいただいている分、
 わたくしよりよほど消耗が激しいとは存じますが、願わくばもうしばらくご辛抱いただけますか」
「何のことはない。こうして貴女のお顔を見ることさえできれば、私の心身は満たされるのだ」

「素敵。オーギュスト、いまの二コラ殿のことばをお聞きになって?散文的に食事などしている場合ではありませんわ」
「え?あ、僕まだそれ食べてな……」
あちらの船上では、姫様のご関心はどうやらわれわれに戻ってきた模様である。
食膳を途中で下げられたオーギュスト殿下は誠にお気の毒ではあったが、
何事かに心奪われているマルーシャ様に正面から逆らうのは無益である。
それを経験的に学習しておいでなのか、殿下は涙を飲んで引き下がられたご様子であった。

さて、姫様のご注視を受けている今、忠良なる臣下としてわたくしたちがなすべきはただひとつ、
さらなるときめきの段階へと昇華されゆくご気分を妨げ申し上げないことである。
それゆえに、ニコラ殿がふと左右の櫂を船縁に置き、正面に座るわたくしの両手を静かに取ったときも、敢えて振り払うことはしなかった。
向こうの船から「今からがいいところよ、オーギュスト」という力のこもったお声が風に乗って伝えられてきたが、
ニコラ殿は依然気がつかない模様である。
そして彼はわたくしの目を見つめながら、我が両手の甲に代わる代わる接吻した。
平素以上に持続的な、そして緊迫感を孕んだそれだった。

わたくしは途中で退けることはしなかった。すべてはマルーシャ様のご期待にお応え申し上げるためである。
あるいは別に、何かが少し、自分のなかで揺らいだのかもしれなかった。
だがそれについて思いを致すような非生産的な回顧はわたくしの性分ではないので筆はここで止めることにする。
思い出せるのは、外気がひんやりしているためか、彼の乾いた唇は思っていたより温かったこと、それだけである。

ニコラ殿はようやくわたくしの手元から顔を上げた。
そしてこちらの瞳をじっとのぞきこみながら、張り詰めた思いを抑えがたくなったかのように口を開いた。
「アンヌ嬢、この間の酒席のことをおぼえておいでだろうか。
 主人役でありながら私が先に酔いつぶれて散会となってしまったのは大変申し訳ないが、
 それを除けば、心地よくお過ごしいただけたのではないかと思うのだが」
「ええ」
「それで、その、私たちの仲は当初に比べれば進展しているように思うのだが、どうだろうか」
銀の杯で殴り殴られることを進展と呼べるかどうかは議論の余地があるように思われたが、マルーシャ様の手前ここはうなずいておいた。

「なんと、同意していただけるか。
 それではその、実はこのたび、ささやかな願いごとがあるのだ。聞き入れいただけるだろうか」
「ささやかさ加減にもよります」
「う、うむ、ささやかだと思う。いや、私にとっては一大事なのだが、貴女におかれてはささやかだと思っていただけたら幸いだ」
「では本題を」
「ええと、その、うむ、つまり、―――貴女のことを、アニュータとお呼びしてもかまわないだろうか。
 ふたりきりでいる間だけでもいいのだ」

わたくしは答えず、しばらく逡巡した。
それはすでに予感していたことではあった。このあいだの経緯を思い起こしてみれば、自然な提言である。
というかそもそもわたくしが自分で促したようなものである。
だが実際にその場に臨んでみると、やはり立ち止まらざるをえなかった。
愛称など単なる呼びかけに過ぎないが、それを他者に許すことはやはり、自分の中の原則をひとつ曲げることになってしまうような気がした。
わたくしはニコラ殿の顔を見た。
そしてその肩の向こうに浮かんでいるはずの小舟の存在を思い出したが、
不思議と今は、マルーシャ様のお気持ちにお応えするために、という義務感を捨てていることに気がついた。
誰が見ていようと見ていまいと、これは自分で決めなければならないことだ。
そして少なくともそれぐらいには、このかたのことを重んじているのだ。そう思った。
わたくしは口を開いた。
ニコラ殿が深く息を吸い込んだのが分かった。

「ご随意に」
「なんと、アンヌ嬢……!」
ニコラ殿はふたたびわたくしの手の甲にくちづけ、頬をいっそう上気させながらこちらを見た。
「いや、そうではなかった、―――アニュータ、なんと愛らしい響きだ。美しい音だ。
 ああ、ありがとう、私のアニュータ」
「お待ちなさい!」

背後から突如浴びせられた大音声に、ニコラ殿は一瞬目を丸くしてから振り向いた。
わたくしも彼の肩越しにそちらを見遣った。
殿下ご夫妻の舟はいつのまにかずいぶん接近しており、陸地であればほとんど四五歩ほどの距離である。
そしてその舟縁にはわがマルーシャ様が両脚を踏みしめてお立ちになり、
背後にはよたよたと天幕から出てこようとするオーギュスト殿下の姿が見えた。

「これは、マリー妃殿下、―――オーギュスト殿下も!なんという偶然だろう」
「まさかおまえ、本当に気がついていなかったのか」
声のした舳先のほうを見やると、先ほどまでフードを目深にかぶっていた船頭が、いまは頭髪もあらわにこちらを見据えていた。
競走馬のように堂々たる体躯、浅黒い肌に艶のある黒髪、そして湖水のように淡く青い瞳とくればわたくしの知人のなかではただひとりである。
彼の無二の親友たるニコラ殿としては、わたくし自身も彼を一介の知人ではなく友人と見なして交際を深めてほしいという意向のようだが、
それはほぼ恒久的に不可能であろう。
わたくしが可としても彼の側が肯んずることはまずありえまいと断言できる。

それはさておき、船頭に扮したその男性は当初の予想通りフェルナン殿であり、
これもまた予想通りではあるが、野生味のある端正な顔に脱力しきった表情を浮かべていた。
わたくしと目が合うと「従者が従者なら主君も主君だおまえらは」と言いたげな顔をしたが、もちろん当方は黙殺した。
ニコラ殿が朋輩の姿を認識したのは一瞬間をおいてからのことだった。

「おおフェルナン!なんと、君までこんなところに」
「遺憾ながらな」
「―――そうか、君は口では私の求愛活動に批判的な態度を持しながら、
 こんな草深い郊外まで足を運ぶほどわれわれの恋路をひそかに案じてくれていたのか……!」
「殿下のご用命でやむなく、だ。
 おまえは俺たちの舟の接近に本当に気がついていなかったのか。殿下ご夫妻の会話にも」
「私の目には今の今までアンヌ嬢しか映っていなかった。耳ならばなおのことだ」
「いい医者を紹介してやるから視聴力を矯正してもらえ。今後の人生全般のためだ」

「フェルナン殿、わたくしはまだ、ニコラ殿に言っておかねばならないことがあるのよ」
牽制するようなマルーシャ様のお声が不意に傍らから発せられた。
フェルナン殿はやれやれと言いたげな表情を浮かべつつも、何も言わず舳先の端に退くとふたたび船頭の役割に戻った。
そしてマルーシャ様は水面越しにニコラ殿のほうへ向き直られた。

「ニコラ殿、あなた今なんておっしゃったの?」
「え?あ、アニュータと」
「誰がそんなことを許可したの!」
「アニュータが、いや、アンヌ嬢御自身が」
「だめじゃないの、アニュータ。ほかの人に勝手にそんなふうに呼ばせるなんて」
「ご不興をこうむりましたでしょうか」
ニコラ殿ほどではないにしろ、わたくしもやや意表を突かれながらお答えした。

「もちろんよ、そんなの。  こんな……こんな新顔にわたくしと同じ呼び方を許すなんて。
 ニコラ殿、あなたアニュータと知り合ってどれぐらいなの?」
「さ、三ヶ月ぐらいでしょうか」
「まあ、よくもそれだけの期間でこんな、厚顔も甚だしい挙に出る気になったわね。
 あなたはいま、踏み越えてはいけない一線を越えようとしたのよ」
「え?ええぇっ?」
ニコラ殿は心底困惑した顔でマルーシャ様とわたくしの顔を見比べていた。

「わたくしとアニュータはもう十年近くも一緒にいるんですからね。
 ちょっとやそっと交際をつづけたぐらいで、わたくしたちの間に入ってこられると思ったら大間違いよ」
「い、いや、私は何もそんな、そういうつもりでは」
「ではどういうつもりなの?『私の』アニュータなんて所有格までつけたりして。
 あなたがしようとしたのは立派な、えっけ、えっけん……こういうのはこの国のことばでは何と言うんだったかしら、アニュータ?」
「越権行為、かと存じ上げます」
「そう、越権行為よ、やっぱりアニュータは頼りになるわ。
 そういうわけなの、ニコラ殿。人はみな己の分をわきまえなくてはいけないわ」
「いや、私は、その、分を踏み外したおぼえはないのですが……
 そうだ、オーギュスト殿下!どうか妃殿下の誤解を解いていただけませんか」
ニコラ殿はふと一筋の光明を見出したかのように、マルーシャ様のお隣に現れたぼんやり顔殿下のかんばせを見入った。
それだけでもこのかたがどれほど追い詰められた心地でいたかが察せられる。

「う、うん。マリー、愛称で呼ぶくらい、別にいいのではないでしょうか。
 そもそもふたりの仲を応援していらっしゃったのに」
「それとこれとはまた違うのよ!オーギュストったらもう、どうして乙女心が分からないの」
「え、でもマリーは僕のお嫁さ」
「いいからお聞きになって。
 あなたの騎士殿が『アニュータ』と口にしたとき、わたくし心臓をつかまれるような心地がいたしました。
 何かこう、自分の血肉を削がれるような、貞操を奪われるような、そんな耐え難い責め苦をおぼえたのです。
 アニュータを誰かと共有するなんて、できないわ、そんなこと」

そうおっしゃると、マルーシャ様はひらりとこちらの舟に飛び移ってこられた。
そしてわたくしの隣にお座りになり、御自らをしっかとつなぎとめるようにしてわたくしの胴を抱かれた。
白金色の御髪が目の前で燦々と揺らめき、昨晩お梳き申し上げたときに用いた香油のなごりがあたりに優しく漂う。
正面に座るニコラ殿を見やると、怒るでも抗弁するでもなくただ呆然とこちらを眺めている。
そしてようやく事態の進行を掌握したような顔になると、わたくしの目を見つめて恐る恐る問いかけてきた。
「そ、それで、アンヌ嬢、貴女のご見解は」
「わたくしですか」
考えるまでもないことであったが、一応しばらく黙り込み、考えるふりをしてから口を開いた。
われながら案外優しい人間だと思った。

「臣礼を守りたいと存じ上げます」
「ほらやっぱり!」「そんな!」
マルーシャ様のお声に重なるようにしてニコラ殿は悲壮極まりない嘆声を発したが、
わたくしとしては、うれしそうに頬を寄せてこられる姫様の仔猫のようなごようすがあまりに愛らしいので
この際彼に気を取られている暇はなかった。
そしてマルーシャ様は頭をもたげ、誇らしげにおっしゃった。
「そういうわけですから、ニコラ殿。勝敗は決したようね」
何の勝負だったのかわたくしにもよく分からないのだが、ニコラ殿は従容としてうなだれ、マルーシャ様の宣言を受け入れたようであった。

「―――ええ。どうやらこのニコラ、分不相応な望みを抱いたようでありました」
「分かって下さればいいのよ。
 正しい理解を得たうえでアニュータとお付き合いをしたいというなら、わたくしは何も妨げたりはいたしませんわ。
 狭量の罪を犯すつもりはないのです」
そして立ち上がられると舟縁に御足をお掛けになったが、最後にふと、戒めを垂れるようにしてわれわれのほうを振り向かれた。
「いいこと?くれぐれも一線を踏み越えてはいけないのよ、ふたりきりだからといって」
そしてまたひらりと元の舟に乗り移られると、心配顔のオーギュスト殿下に何事かお声をかけられ、おふたりで天幕のなかに戻ってゆかれた。
それまで沈黙していたフェルナン殿はこちらのほうを向き、親友に何かことばをかけようと試みたようだが、
いまは何を言っても甲斐にはなるまいと思いを改めたのか、そのまま一瞥しただけで櫂を漕ぎ始めた。
殿下ご夫妻は遅延できない公務を午後に控えておられたのだろう。
舟はそのまま船着場に向かって動き出したため、わたくしたちはまた湖上にふたりきりになった。
今度こそ初めて、というべきであろうか。




ニコラ殿はしばし微動もせず黙り込んでいたが、やがて目を伏せたまま両手に櫂をつかんだ。
ひと漕ぎごとに舟の周囲には大きな波紋が生じ、潮が満ちるように湖の縁へ縁へと広がってゆく。
わたくしはふと気が付いた。この舟もどうやら船着場を目指しているらしい。
「今日の舟遊びはこれにておしまい、なのですか」
「貴女はさほど、楽しんでおられたわけではあるまい」
平素の快闊な彼にも似ず、すっかり力を落としたような声だった。
やれやれ、とわたくしは思った。
マルーシャ様が頬を膨らませてお拗ねになるならともかく、大の男が鬱屈するさまは愛らしいも何もないのだが、
それでもやはり、彼の態度を看過しようとしてできないのも事実だった。

「ニコラ殿」
「―――何か」
「わたくしに御不満がおありですか」
「不満というのではないが、―――貴女御自身は、たしかに私に許してくださったはずだ。
 アニュータと、いや、愛称でお呼びすることを。
 それなのに、マリー妃殿下の御一言で」
「申し上げましたでしょう。臣下たる者は相応の節度をふまえなくてはなりません。
 ただ、妃殿下が御自ら御禁じにならなかったことについては、その限りではありませんが」
「え?」
「わたくしがあなたをどう呼ぶかについては、妃殿下は何もおっしゃいませんでした」
「それは、その通りだが……待たれよ!も、も、もしや今後は、私のことをわが君と」
「どこをどうすればそこまで飛躍するのです」
手元に扇でもあったら彼の後頭部をはたいているところだが、
残念なことに何も持ち合わせがないので受け流すだけにしておいた。

「コーリャ」
「え?」
「わたくしの国ではそう言います。あなたと同じ名―――ニコライという名の愛称を」
「―――なんと」
「響きがお気に召さねば取り下げますが」
「とんでもない!つまりそれでは、今後は私を」
「周囲の要らぬ憶測を避けるため、ふたりでいるときだけ、という条件つきですが」

「コーリャ」
そう自身で呟きながら、ニコラ殿の両腕の動きは少しだけ早くなった。
ふと周囲を見渡すと、舳先は徐々に向きを変え、船着場はまた遠のいていくのが分かった。
「アンヌ嬢」
「はい」
「もういちど、呼んでみていただけまいか」
「―――コーリャ」
ニコラ殿は何も言わなかった。
その代わり、舟の動きがさらに加速され、われわれはまた湖の中心へと戻り始めた。
「もういちど呼んでいただけようか」
「コーリャ」
「もういちど」
「コーリャ」

そろそろ面倒になってきたので四回目はありませんと釘を刺しておこうと思ったとき、
ふいにニコラ殿の口から湖上に響き渡らんばかりの歓声が発せられた。
何かが軽やかに弾け飛んだような声だった。
「ああ、なんと心地よい響きだろう!
 たった二音節のなかに、無限に込められた愛をひしひしと感じる」
「錯覚です」
わたくしはそう答えたが、それ以上彼の見解に拘泥することはしなかった。

やがて満身に溢れんばかりの何かを抑えがたくなったかのように、櫂を握るニコラ殿の両腕がいっそう豪快に動き始めた。
それは止むに止まれぬ振り子の反復運動にも似ていた。
舟の自在な旋回に合わせて、周囲の景色も流れるように転変した。
透き通るように青い湖水を赤と黄に染まった広葉樹の森がとりまき、さらにそれが果てるところから紺碧の空が始まる。
秋の日の陽光は淡く、風は母の掌のように優しかった。
舟はひたすら湖面をすべるように進みつづけた。
一体このかたはどこまで漕ぐつもりかと思ったが、
われわれは結局その後、湖上を三周半するはめになった。




(終)













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