琥珀の月 八日 断続的に小雨


明後日はニコラ殿のお部屋を訪問することになった。
前回の非番の日にすでに乗馬の誘いに応じたにもかかわらず、
次なる非番の夕刻もまた彼と過ごすことを約束したのは、
ひとえにわたくしの側に若干の後ろめたさが存していたためである。

すなわち、先日フェルナン殿にご自省とご改心を促すため当方が巡らせたささやかな策謀に
二コラ殿にも無自覚ながらご助力いただいた件について、
またその際こちらの意図する以上にあのかたのご心境に打撃を与えてしまった点について、
わたくしはまだ十分な返報をおこなっていないように感じており、
結局お申し出を拒むことができなかったのだ。
また、このたびのニコラ殿の口説にはいつにもまして熱意がこめられており、
それに引きずられてしまったということもある。




「ぜひ、我が室にご来臨を乞いたいのだ」
両のこぶしを握りつつ、両頬を心なしか染めながら、ニコラ殿はそう言われた。
いつものことではあるが、目元口元を必要以上に緊迫させた面持ちでこちらを正面から見据えてくる。
室というのは、近衛騎士の宿舎内に設けられた彼の私室のことである。
一般の廷臣と同様、騎士たちも王宮の外部すなわち都の市街区に私邸を構えてはいるのだが、
昼夜を分かたぬ勤務の体制上毎日そこから登庁するわけにもいかず、
宿直であれ通常の勤務であれ、非番の日以外は実質的に宮中宿舎に起居しているようなものであった。

むろん彼らの大半は地方の中小領主階級出身であるから、
都の邸宅とは別に父祖代々の領地に本宅を構えており、血縁者も大抵はそちらに暮らしている。
ニコラ殿の場合はすでにご両親がなく、地元の領主館には祖母君と幼い弟妹がお住まいだと以前伺ったことがある。
ほかに放浪癖のある叔父上がおられるそうだが、こちらは領地にはいたりいなかったりで員数外ということらしい。
現在の当主はニコラ殿ながら、実際の領地経営はおそらく祖母君が主導しておられるのだろう。
彼のようなぼんやり者ひとりで家督が保たれていると仮定するのはどうにも無理がある。

「つい先日、田舎の祖母と家宰から領内統治に関する半期報告が届いたのだが、
 それと併せて秋の収穫物の一部も荷馬車に積まれて送られてきた」
「ご領地の豊作、おめでとうございます」
「かたじけない、アンヌ嬢。
 それで、実はその、うむ、―――
 貴女もご承知の通り、わが郷里ブルゴニアはガルィアでも屈指の肥沃な土地とゆたかな水系を誇るがゆえに
 特記すべき農畜産物は枚挙にいとまがないが、ことに葡萄酒の盛名は飛びぬけている」
「ええ、わたくしも仄聞しております。
 古来より貴国中の人々を惹きつけてやまぬ銘酒だと伺いました。
 甘美にして深みのある独特の口当たりのため、ことに婦人に好まれるとか」
「そう、まさにそのとおりなのだ、アンヌ嬢。
 例年どおり今年も祖母から十年物の酒瓶が送られてきた。
 いつもならその開封をもって秋の訪れをしみじみと実感するのだが、独り酒はいかにも寂しい。
 秋はやはり人恋しい季節だと思われぬか」
「いえ、とくに」
「だが夜がいかにも長い」
「読書にあてればよろしいのです」
「それもそうか」
「それに、手酌が寂しいならフェルナン殿を酒席にお誘いすればよろしいではありませんか」
「実はもう誘ったのだ」
「なるほど」
彼は男を優先したらしい。
「フェルナンはフェルナンで自領産の葡萄酒を余らせているぐらいなのだが、
 このあいだは彼の部屋で互いの持ち寄った酒を朝まで痛飲してしまった」
「……楽しそうですわね」
やはりあなたがたの間には尋常ならざる絆が成立しているのではないですかとひとこと尋ねたくなったが、
彼らの仲に深入りする事由もないので黙っておいた。

「つまり、つまるところ、アンヌ嬢」
ニコラ殿の口から不自然な咳がひとつ漏れた。
「わが郷里の自慢の酒を、ぜひ貴女にもご賞味いただきたいのだ。
 願わくば近いうちに、貴女と杯を交わしたい。―――その、我が室で、ふたりきりで」
わたくしは一瞬黙考してから口を開こうとした。
しかしニコラ殿は一語も聞かぬうちに慌てて先を制そうとする。
「いやその、語弊があった。
 ふたりきりというのはあくまでひとつの選択肢であって、
 貴女がお望みならむろんご友人なりご同僚なり愛玩動物なりお誘いあわせいただいて一向に構わない。
 饗応の準備にもますます精が出るというものだ。
 ―――ただその、やはり賓客はあまり多すぎてももてなしが行き届かぬこともあるし、
 でき得れば貴女おひとりにゆったりと試飲を満喫していただければと考えている。
 むろんよこしまな思惑などかけらもない。
 行き帰りの案内人も間違いなく手配申し上げるし、決して夜が更けるまで無理に引きとどめたりは」
「そこまでお気遣いいただかなくとも大丈夫ですわ。ご訪問用の馬はこちらで用意いたしますから」
「ということは、アンヌ嬢、このたびのお誘いに応じて下さると?」
「喜んで」

完全なる社交辞令というわけでもなかった。後ろめたさの払拭という目的もある。
例によって我が手の甲に接吻せんとする騎士の額を押しのけてその場を退出すると、
わたくしは本来の勤務に戻るべくマルーシャ様の御宮室に向かって行った。




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琥珀の月 十日 晴れ


人を呪わば穴ふたつということばがあるが、人を欺いてもやはり穴ふたつであるらしい。
以て今後の自戒としたい。


本日は碧空に一片の曇りもない秋晴れであった。
非番であるがゆえにマルーシャ様のお世話を人手に委ねばならぬ定めはやはり遺憾であったが、
それはそれとして、朝から古書の日干しに精を出したり蔵書目録を作り直したり等、
屋内外の心地よい涼気のなかで余暇を有意義に過ごすことができたように思う。
夕刻には目録も大半が仕上がり、このまま夜半まで寝椅子に横たわって酒杯を傾けつつ読書に耽溺したい誘惑につい駆られかけたが、
ニコラ殿との約束の刻限が迫り来たることを思い出し、その楽しみは後日に取っておかねばなるまいと思い直した。

ここガルィア王国では近衛騎士団は現在五つ組織されており、
それぞれ団員用宿舎や厩舎、馬場や練兵場を宮中内外に賜るなど厚い待遇を受けている。
それだけ歴史が長く、王家からの信頼も岩壁のように揺るぎないということであろう。
王室専属の護衛であればいずれの団も精鋭揃いなのは言うまでもないが、
ことにニコラ殿ならびにフェルナン殿が属する白獅子騎士団は、
剣技はもちろん人品・信仰態度・容貌・家格等あらゆる点での精査に耐えて始めて入団を許可される最難関だという。
ただし上記の内一名を見る限り知性に関してはほぼ不問に付されているようである。
彼らと同じく宮中に暮らして王族に奉侍する身とはいえ、わたくしはいまだ騎士団の宿舎に足を踏み入れたことはない。
王宮の敷地が広大無辺なるは言を待たぬことではあるが、
殊に騎士たちの起居する場はわれわれのような女性王族付きの側用人からは空間的にも心理的にもひどく隔絶の感があった。
徒歩で行けないことはないが、馬なり驢馬なりの背中で揺られてゆくのがおよそ妥当な距離である。

そのようなわけで、このたびニコラ殿のお招きを受けてわが第五王子御夫妻のお住まいより白獅子騎士団宿舎へと向かった道中は
なかなかに新奇な体験であった。
むろん王族や重臣の往来する本道ではなく、
主として宮廷内の物資運搬に使われる馬車道に沿って移動したものである。
当初道の脇には楡並木の向こうに見慣れた建物が並んでいたものの、次第次第にそれらの影も遠くなった。
次いで御苑の一区画を横目に通り過ぎ、尖塔を有する見知らぬ建物の威容に感嘆させられ、
ついには競技場のような開けた空間が出現するに至った。
そこかしこに槍を携えた人馬が行き交っていることからすると、ここは騎士団付きの稽古場のひとつなのだろう。
夕刻だというのにいまだ活気あふれるその広場を遠目に眺めつつさらに駒を進めると、
道の両脇に居並ぶ樹木の種類がこれまでとは異なることに気が付いた。
葉は単調な緑から赤や黄に変わり、その形状も見慣れた楕円ではなく人間の手指に似ている。
そういえば道のようすも、この辺りに来ると運搬路というよりは遊歩道の趣を呈している。

「アンヌ嬢!」
よくとおる声に驚いて前方に顔を向けると、路傍にそびえる小ぶりな楓の木の下に丈の高い人影が見えた。
わたくしが返事をする前に彼は大股でこちらに近づいて来、いつにもまして莞爾とした顔で馬上のわたくしを見上げた。
「よく来てくださった」
「お迎えかたじけなく存じます。お部屋でお待ちくださればよろしかったのに」
「秋の暮れ方の冷気は身体に障ると案じてくださっておいでか。お心遣い痛み入る。
 やはり貴女は厳しいお顔つきの裏側に慈母の恩愛を秘めておられるのだな」

厳しいお顔つきは余計である、というかそもそも馬鹿は風邪をひかないはず
日夜厳しい鍛錬に耐え抜いている武人の肉体が秋風に吹かれたり雹に打たれたりしたぐらいでどうこうなるはずもなく、
わたくしは単に屋外まで出迎えを受けるのが重たく感じられてそう言っただけなのだが、
二コラ殿の手放しでうれしそうなようすを見るとそれ以上は口にできなかった。
「手綱は私が預かろう」
「ありがとう存じます。この辺りからは楓並木なのですね」
徒歩のニコラ殿と並んで馬を進めながら、わたくしふたたび前方を振り仰いだ。
目にも鮮やかな赤と黄を誇らしげにまとった木々が視界の左右を切り取るようにしてそびえ立ち、
あたかもこの道を行き交う者たちの守護者を自任するかのように、思い思いに装った豪奢な梢をわれわれの頭上に差し出している。
その向こうに広がる空にはすでに朱が漂い、まばゆい橙色が淡い水色を懐に抱くようにしてその領域を広げていた。

わがまなざしのたゆたう先を知るかのように、ニコラ殿の歩調がいくらか緩んだ。
それに合わせて馬の歩みも老人のようにゆったりとなる。
人馬が少しずつ進むたび、光沢ある革靴の下で、また年を経た蹄の下でぱりぱりと小気味よい音が立つ。
この時期にしては地に積もる葉が多い気がしたが、昨夜は一時、風がずいぶん強かったことを思い出した。
赤と黄の奔流に囲まれながら、われわれはどことなく無口になる。
楓並木の下には他に誰の姿もなかった。

「貴女のお国にも、紅葉の時期は巡り来たるのか」
ふとニコラ殿が、前方を眺めるままに呟いた。
「ええ、こちらよりはずいぶん短いけれど。都ならそろそろ初雪を迎えてもいいころですわ」
「残念だ。冬の訪れがそれほどに早いとは」
「ですがそれだけ、主の恩寵によって彩りが許される刹那の季節に、木々は狂ったように朱に染まり黄に染まるのです。
 ほとんど死に急ごうとするかのように。そのころの郊外の森の美しさは形容を超えたものですわ。
 わが生国では一年の十番目の月を琥珀の月と呼びならわしております」
「琥珀の月か。貴女がそこまで称揚されるのだから、宝玉にまさるほど輝かしい景観に違いない」

ニコラ殿はそう言って青みがかった黒い瞳を少し細めた。
並木の途切れるその先には、一日の終わりに休息の場を欲する太陽が最後の力を振り絞って燃えるような橙色を放っていた。
「あなたほど虹彩の色が濃くても、やはりまぶしいものはまぶしいのですね」
わたくしのほうはすでに前方を正視できなくなり、半ばうつむきながら声をかけた。
「ああ、―――そうか、貴女がた北国の人々は、われわれよりいっそう難儀をされるのだな」
「慣れておりますから、難儀というほどのことではありません」
「だが貴女の美しい灰色の瞳を伏せてしまわれたのが残念だ。地上に暗黒が満ちわが生命の根源たる泉を奪われた心地がする」

毎度のこととはいえ、一体どの口からこのような繰言が発せられるのか。
しかしわたくしの閉口も意に介さずニコラ殿は深刻な面もちで語りつづけた。
「アンヌ嬢、詩人とはいかなる存在と思し召される」
「詩人ですか」
知り合って数ヶ月になるが、このかたの思考の脈絡は依然として掴みがたい。
この点においてもやはりオーギュスト殿下の規格に準じる傾向が強く見られるように思う。
「自らに授けられた天稟を信じ、なおかつ自らたのむことなく日々精進をつづけることのできる者でございましょう。
 芸術の女神に愛でられたあらゆる者たちがそうであるように」
「なるほど。さすがアンヌ嬢、簡潔にして要を得ておられる」
「なぜそのようなご質問を」
「今までは詩人といえば我が身とは隔絶した天界の住人、主に見いだされた一握りの寵児だとばかり思いなしていたのだ。
 宮廷詩人たちが弾き語る新作を耳にするたび、ただただ感服の念を新たにするばかりだった。
 だが最近はそれだけにとどまらず、自分に詩才がないことが心から口惜しく、この上なく歯がゆく思われるのだ」
「なにゆえです」

問いかけた直後にわたくしはやや後悔した。ニコラ殿の顔にかつてない喜色が浮かんだからだ。
長広舌を覚悟せねばなるまい。
「なぜなら貴女のことを考えるたびに、我が胸中は筆舌に尽くしがたい温かい想いに満たされるからだ。
 幸福感というひとことで済ませるにはあまりに多大な甘美と辛苦とに満ち、
 けれど同時に、わが身は天空に舞う羽毛のようにどこまでも自由で軽やかな広がりの中にいる。
 そんな想いをどうにかしてことばにする術があればと、昨今はひたすら煩悶を重ねずにはいられぬのだ」
「お気持ちだけで十分ですわ」
わたくしは本心から言った。
これまででも十分過剰だというのに、
このうえ絞りたての生乳並に濃厚な、職人的技巧を施されたことばを連ねられては天地に身の置き場がない。

「いや、それだけでは私の気がすまないのだ。
 貴女を想うことが私にとってどれほどの喜びであるか、
 それを舶来の繻子織のように洗練されたことばでお伝えできたならと願わずにはいられない。
 たとえ時として犬猫のようにあしらわれるこの身ではあっても」
「よくお分かりではありませんか」
「だが何とかして人間に昇格したいと思っている。そのためにも貴女の歓心を買いたいのだ」
「その種の思惑は通常、当人の前では隠しておくものです」
「そうだアンヌ嬢、いっそのこと貴女にわが詩作をご指導願えないだろうか。
 御身は外国の生まれとはいえ、ガルィアの国文学には私などよりよほど通じておられるに違いない」
「自分に捧げられる予定の詩を自分で添削するなどという法がありますか」
「合理性の極みではないだろうか。まさに貴女の人生哲学そのものだ」
「ニコラ殿」

確実に脱力感が募り来たっていたが、わたくしは教え諭すように言った。
「あなたのその、素のままのおことばだけでわたくしには十分なのです。
 虚飾に満ちた韻文作法とはどうか無縁でありつづけてくださいませ」
「アンヌ嬢……!」
ニコラ殿は厚い落ち葉の層を踏みしめたまま突如立ち止まると、初々しい感激に満ちた表情でこちらをじっと見上げてきた。
経験上、わたくしとしては反射的に身構えざるを得ない。
「そのようなおことばをかけていただけるとは、このニコラ、凍結した大河の底から燦々たる陽だまりに引き上げられたような心地だ」
「さようですか」
そこまで虐げられている実感がありながらよく求愛を諦めないものだ、と半ば感心しながらわたくしは答えた。
「素のままの私でいい、そうあるべきだ、と理解してよろしいのだろうか。
 近年わが国の詩文が繁縟にして装飾的傾向を増していることは私も存じている。
 たしかに、貴女への至純の想いを表現するためにそのような当世風にのっとって詩作するのはあまりに軽薄というもの。
 アンヌ嬢、貴女の寛容にして教唆に満ちたおことばを胸に私はこれからもひとり精進を重ねることにしよう。
 一句たりとも職業詩人の手を借りずに、いつの日かわが入魂の作を貴女に献上したいものだ」
微妙に話が通じていない気もするが、とりあえず当面は詩を贈られる心配がなくなったことに慰めを見出さねばと思った。

二コラ殿はふたたび前を向いて歩きだした。
わたくしの乗る馬もゆるりゆるりと彼に足並みをそろえる。
靴の下に踏む落ち葉の厚みがだいぶ薄くなってきたように感じられる。
今にも闇に溶けんばかりの朱色の斜光を幹に浴びながら、長かった楓並木もそろそろここに終わろうとしていた。
「本当に、美しかったこと」
わたくしは思わず母国語でつぶやいた。
他者の前でそのように気を緩めることはめったにないのだが、
その想いが心からのものであり、なおかつ視界から去ってゆくものへの寂寥のためについ自制できなかったのかもしれない。
このつぶやきの意味が分かったはずはないが、二コラ殿は前を向いたまま口を開いた。

「貴女は抒情詩がお好きだろうか」
「たまに耳にする分には」
「私もとても好きだ。
 だが自然物のたゆまぬ美しさを余さず表現するには、この身はあまりに力不足だ」
「ご自覚があるのはよろしいことです」
「だから今日こうやって、貴女とここを歩くことができてうれしかった」
「お出迎えにいらしたのでしょう」
「もちろんそのために参ったのだが、それだけでなく、何よりも、―――貴女とこうして、美しい眺めを共有したかった。
 こと晩秋に限れば、この楓並木は宮中一の景勝だと私はひそかに思っている。
 だからどうしても、貴女と並んでここを歩いてみたかった。
 同じ視界のなかで同じ美しさを分かち合いたかったのだ。
 詩人から与えられたことばを通じて、聴衆が美しいものをひとしく分かち合うように。
 同じものに心を奪われ、同じようにこの一刻を記憶に留められればと思った」

そう、とわたくしは言った。
落日の名残がついに地平から消え去ろうとしていた。
晩秋らしいしめやかな冷気が今さらのように四肢を覆いはじめる。
地上に体温を有するのは、まるでふたりだけのような気がした。




白獅子騎士団の館舎は楓並木からはほど近く、建築年代を反映したものか、双鷹様式と呼ばれる重厚な門構えや柱頭が印象的だった。
ニコラ殿の部屋は主翼の東端にあった。
天井は礼拝堂に準じるほど高く、
羽目板づくりの床は年を経てますます艶を増したかのような淡い褐色の光沢を放ち、
その内装は外観に劣らず繊細にして優美、かつ重々しさを同時にそなえている。
神業のような幾何学文様が織り込まれた南海渡りの羊毛絨毯や、その彫琢様式から一世紀以上前に制作されたと思しき銀の燭台など、
調度品ひとつとっても騎士団に対する王家の深い愛顧が滲み出るかのようである。
ひとしきり部屋のなかを見せていただくと、暖炉の前の長椅子を勧められるがまま、ニコラ殿と並んで腰を下ろした。
椅子の前に据えられた方形の小卓にはすでに銀製の酒杯やどっしりとした酒瓶が玩具の兵士のように整然と並べられており、
その奥では陶器の皿に盛られた各種のチーズが芳醇な香りを放っている。
年若い従僕が暖炉の火を調節してから退室してしまうと、
ニコラ殿はふいに筋肉が凍りついたかのように小卓のほうを向いたまま固まってしまった。
日頃は労使関係が固定されている仲だとはいえ、本日のわたくしは一応客人なのでしおらしく受け身になり彼の出方を待とうとした。

と、ニコラ殿は肩で風を斬るようにこちらを振り向いた。
その切実に思いつめたような面もちは、どう見ても酒肴を楽しみつつ談笑しようとする青年のそれではない。
「アンヌ嬢」
「はい」
「ここに居並ぶのが、先日領地より送られてきた葡萄酒だ」
「果樹園の所在地や製造年月日まで瓶に記してあるのですね。
 長い歳月をかけて寝かせた大切なお酒をご相伴させていただき、ありがとう存じます」
「いや、これしきの田舎酒、何を惜しむことがあるだろうか。
 私にとっては貴女とふたりきりで過ごせる今こそがいかなる美酒にも勝る至福のときなのだ。
 ―――だがもし、どうしても謝意を表明してくださりたいというのなら」
「すでに申し述べたつもりです」
「もしどうしてもさらなる謝意を表明して下さりたいというのなら、アンヌ嬢」
わたくしの返事を聞かなかったことにしつつ、ニコラ殿の声に潜む切迫感がいっそう増した。

「わが郷里ではその年の秋初めて十年ものを開ける際、一種のしきたりが伝えられているのだ。
 私のためだと思って踏みおこなっていただけまいか」
「しきたり?」
「その、喉越しをいっそう甘美にし楽園の果実にも等しき味わいを醸し出すために欠かせないものなのだ」
「あなたは辛口がお好きだと伺っておりましたが」
「そういえばそうであった。今のは忘れていただきたい。修辞の練習をしてみようと思っただけなのだ。
 要点はつまり、その儀式を経ることによって美酒がますます美酒たりえるということなのだ」
「いいでしょう。わたくしにできることならお手伝いいたします」
「そ、そうか。かたじけない。では申し上げる。
 葡萄酒にも色々あるが、わが郷里の地酒は人肌ほどの温度で飲むのが最もよいと言われている。
 そして人間の体温というのは口腔内の温度と変わらぬそうだ」
「つまり」
「つつつまり、貴女の唇からくく口移しで飲ませていただきた」

頭蓋と金属との短い衝突音が室内に響いた。
中身がどれほど詰まっているか疑わしいわりには、案外重々しい音をたてるものだと思った。
さすがに日ごろの鍛錬の賜物と言おうか、ニコラ殿は額を押さえてうつむいただけで呻き声ひとつ上げなかった。
「あなたはもう少しご自分の立場をお弁えになったほうがよろしいのではないかしら」
銀の酒杯を卓上に置き直しながらわたくしは言った。
「なぜだろう。いかなる難攻不落の貴婦人でもこのように懇願すれば必ずうまくいくと教えられたのだが」
「ご友人はよくよくお選びなさいませ」
「いや、友人ではない。教えてくれたのは叔父なのだ。
 ようやく巡り逢えたわが運命のひとは鉄壁の淑女だった、と手紙で愁嘆をかこっていたところ、
 このたび田舎からの収穫物に添えて詳細な方法を書き送ってくれた」
「なるほど。血縁者は選べませんわね。今度お出しになる手紙は絶縁状と題されてはいかがです」
「最初に読んだときは素晴らしい名案だと思ったのだがなあ……」
「おそらく、叔父上もまさか実行に移されるとは予想しておられなかったのではないでしょうか」
「ひょっとして、後者の案を採用するべきだったのか……!」
「後者?」
「それを試すにはわれわれの現今の間柄は未だ十分に熟していないと思ってあきらめたのだ。
 だがよく考えたら、こちらのほうが貴女に酒を献上するという本来の目的に叶っている」
「すなわち」
「私から貴女に、口移しで」
「叔父上には呪詛を送るが妥当でしょう。手紙よりも」

未開封の酒瓶の細長い首を指先でこつこつと叩きながら、わたくしは所見を申し上げた。
これだけ中身が入っていれば、ガラス瓶と人間の頭蓋のどちらにひびが入るか、若干興味を引かれぬでもない。
今度はニコラ殿も往生際悪く世迷い言をのたまうような真似はせず、粛然とした面もちでわたくしの言を納れたように見えた。
「う、うむ。呪う呪わないはともかく、叔父の助言はひとまず忘れることにする」

「それがよろしゅうございますわ。
 心を入れ替えたとおっしゃるのなら、わたくしもあなたにお持ちしたものがございます。
 今宵お招きいただいたことへの心ばかりのお礼ですが」
より正確には先日着々と利用させていただいたことに対する謝意が込められているのだが、その点はとりあえず伏せておいた。
「貴家の葡萄酒のように長い歳月をかけて熟成した品でないのが申し訳のうございますが、
 火酒はもともとそのような寝かせかたに向いておりませんので」
「これが音に聞く火酒と言うものか。貴女がたの北国では水のように愛飲されているという」
身に携えてきた布包みからわたくしが細長い瓶を取り出すと、ニコラ殿は珍貴な蝶の剥製でも扱うような手つきで恭しく受け取った。

「かたじけない、大切にいただこう」
「自室で細々と蒸留したものですから、たいそうな銘酒などではありませんわ。
 ただお酒は辛口がお好みだとおっしゃるなら、蜜酒をお贈りするよりもよろしいかと思いましたの」
「何と、アンヌ嬢お手ずから造ってくださったというのか……!」
わたくしの説明を最後まで聞かぬうちにニコラ殿は火酒の瓶をかかえ直し、
その側面や底面に丁重な接吻を加えていった。
このかたは開栓もせぬうちから酩酊なされたのかといささか不安をおぼえぬでもなかったが、
とりあえず小卓に用意された青チーズを賞味しながら生温かい目で見守ることにした。

二コラ殿のご郷里は葡萄づくりのみならず酪農もなかなか盛んだということであり、
供されたチーズはさすがに香り高く美味であった。
しかしこの国の人間はよくもカビの生えた乳製品などを食することを覚えたものだと思う。
最初にそれを試みた者の蛮勇というか進取の態度に改めて感服をおぼえざるをえない。
このガルィア王国の住人は王侯から平民にいたるまで、
大体が未知の快楽を手に入れるためなら己が妻子を抵当に入れることさえ辞さないような罰当たりぞろいだが、
そのような放恣極まりない気風を礎として青チーズのような美味を発掘するに至ったとするなら、
退廃にも見るべきところはあると認めねばなるまい。
かくして異文化への思いを馳せているうちに、ニコラ殿がようやく酒瓶への接吻を止めてこちらに向き直った。
その顔には未だ感激の色が根強く浮かんでいる。

「アンヌ嬢、この栓を開けるのはあまりに惜しい気がする。
 貴女が丹精込めてお造りになった美酒を数日のうちに干してしまうなどと」
「一口ご賞味なされてお気に召していただけたら、また新たに造ってお贈りいたしましょう。
 わが国の産物をご愛好いただけるのはうれしいことです。
 むろん人とお酒には相性がありますから、無理には―――」
「私なら大丈夫だ。いつでも貴女のご相伴を勤める用意がある。
 こう見えても、同輩たちのなかでもかなり強い部類なのだ」
「それではどうぞ遠慮なくご開封下さいませ。お嗜みぶりを拝見いたしましょう」
「ああ、かたじけない。では貴女にはわが郷里の酒を召し上がっていただかねば。
 この甘さとなめらかさはどんなご婦人の口にも合うようにできているのだ。どうか心赴くままに杯を傾けていただきたい」
十年ものの瓶を手にとりその小さな丸い口に錫の栓抜きを当てながら、ニコラ殿は少し誇らしげに言った。

暖炉の火が不意に弾けたかのように、コルクがぽんと抜け出す音があたりに響いた。
当たり前と言えば当たり前のことなのに、その摩擦音の軽やかさに何となくふたりとも微笑を誘われる。
あたりには初春の野のように淡く甘い香りが漂い始める。
ふと、わたくしたちの何かが重なり合ったように感じる。
まるでずっと前から互いの呼吸を親密に感じてきたかのように。
ニコラ殿がゆっくりとこちらを向く。
彼の青みがかった黒い瞳に、どこか当惑したような、けれど嬰児のように自らを開け放った幸福の色が浮かんでいる。
ある瞬間、最後の一滴で表面漲力が崩れた水盆のように、わたくしは目を逸らす。
気が緩んでいたのだ、と自らを責めたいような気持ちに襲われる。
そして恐らくは、わたくしも同じ当惑の表情を浮かべていたのだと知る。

「ではアンヌ嬢、こちらを」
ためらうような一瞬の空白ののち、ニコラ殿は再び口を開く。
そして香り高い葡萄酒を銀の酒杯になみなみと注ぎ、わたくしの前に置いてくれた。
答礼としてこちらも彼の杯に三分の一ほど火酒を注ぐ。
「最初はこのぐらいでお試しなさいませ」
「そこまでお気遣いいただかなくとも大丈夫なのに」
そしてふたりでそれぞれの杯を高く掲げ、かちんと軽く打ち合わせる。
「そうだ、乾杯の辞を」
「どうぞ」
「忘れてしまったのだ。丸一日かけて草案を練ったのだが」
「……。ではわたくしが唱えましょう」
「かたじけない」
「今年も貴家の領地に麗しの秋が巡りきたり、果樹園も畑も豊穣に恵まれ、
 ご一門の皆様方がご壮健であられることを祝して、乾杯」
「すばらしい辞だ、かねてより考えておられたのか」
「こういうものはなべて即興でおこなうものです。乾杯」
「即興とはなおのことすばらしい。私もそのような機知を習得したいものだ」
「何でもかまいませんが、人が乾杯と唱えたら杯を掲げるものです」
「申し訳ない。乾杯」

われわれは今度こそ一息に杯をあおった。
なるほど。たしかに二コラ殿が誇るだけあって、
咽喉越しのまろやかさとそれに相反しない味わいの重厚感は特筆すべきものがあった。
甘口はふだん好むところではないのだが、これなら意外と杯を重ねられそうだ。
二コラ殿のほうを見ると、空の杯を握ったまましばらく固まっている。
肌は比較的浅黒いにも関わらず、すでに頬には朱が走っているのがはっきりと分かる。
わたくしとしては万人に喜ばれるものを贈呈したつもりだが、ひょっとして口に合わなかったのだろうか。
危ぶんで肩にそっと手を置くと、彼はびくっとしたようにこちらを見た。
「あ、ああ、アンヌ嬢」
「大丈夫ですか。もしかしたら、強すぎたのかしら」
「いや、そんなことはない。すばらしい飲み口だった。
 きりっと脳天に来るようで、水のように無色無臭なのに咽喉を通るや燃えるように熱く、まさに火酒だ」
「お身体に合うならよろしいのですけれど」
「う、うむ。合っていると思う。合っているはずだ。貴女がお贈りくだされたのだから。
 ところで、これの度数はいかほどだろうか」
「五十度くらいでしょうか」

二コラ殿はふたたび固まったように見えた。
「―――この火酒は、もともと貴女のご嗜好にあわせて個人的に造られたもの、なのだろうか」
「ええ、就寝前にいくらか嗜む習慣です。寝つきがよくなりますので」
「なるほど」
「大丈夫ですか?なんだかお顔色が悪いようですが」
「いや大丈夫、まったく大丈夫だ。
 ところでアンヌ嬢、私の葡萄酒はお気に召していただけただろうか」
「ええ、想像以上にまろやかで優しい口当たりですこと」
「喜んでいただけてよかった。では二杯目を」
そう言って二コラ殿は、わたくしの酒杯にふたたび紅の液体を注いでくれた。
わたくしも彼の杯に火酒を注ごうと手首を動かしかけたが、やはりためらわれた。彼の呂律は早くも怪しくなってきている。
「どうなされた」
「やはり、あなたは葡萄酒にしておかれたほうがよろしいのでは」
「そんなことはない。私を子どもだと思っておいでか」
私見では二十二だろうと二十三だろうと童貞は立派に子どもなのだが、ここまで主張されては断れず、
わたくしは彼の杯にゆっくりと透明な液体を注ぎ込み、さきほどと同様三分の一まで満たした。

二コラ殿はふたたび一息に杯をあおった。
口から漏らされた吐息はあまりに深く、頬の朱色は今度こそ顔全体に広がり始める。
「そのあたりにしておかれたほうがよろしいですわね」
チーズやオリーブなどの酒肴をそれとなく勧めつつ、
わたくしは火酒の瓶を机の端に遠ざけようとした。
だが大きな手がわたくしの手の動きを阻止し、今度は自ら酒瓶を握った。
「ご無理はなさいますな」
「無理ではない。無理などでは―――貴女はこれを日ごろから嗜んでおいでなのだろう。
 まして、貴女の同胞の男たちはより強い酒を飲んでいるにちがいない。
 こんなところで屈するわけにはいかないのだ」
彼の論法の骨子はいまひとつ理解できなかったが、
どうやら自分が飲みたいがためというよりも強迫観念的に杯を重ねようとしているのだということは分かった。
だが理路整然と彼を諌めようとしたときにはもう、
その左手は火酒の瓶を卓上に戻しており、その右手は縁までなみなみと注がれた杯を口元でゆっくりと傾けていた。

彼が最後の一口まで干したとき、わたくしは「二コラ殿」と声をかけた。
返事はない。もういちど呼ぶ。やはり返事がない。
思い切って肩を揺さぶると、二コラ殿は意思も筋力もない傀儡のようにそのまま長椅子の上に仰向けになってしまった。
(―――急性中毒か)
一瞬、心臓を冷たい素手でつかまれたような心地がした。だがすぐにその危惧は去った。
まさに火酒だ、とかなんとか呟きながら酩酊者が軽く寝返りを打ったからである。
よほど頭に冷水を浴びせてやろうかと思ったが、あまりに心地よさそうな表情で惰眠を貪っているため、
ここで覚醒せしめてまた同様の事態を引き起こすのは愚策だと考えを改めた。

せっかくの秋の夜長である。
ここは気分を転換して手酌を楽しむべきであろう。
二杯目に空けた葡萄酒は、女子ども向きの甘さは相変わらずだったがコクは増したように思われた。
青チーズの次は円形の白チーズにナイフを入れてみると、
クリーム菓子のようななめらかな食感がますます酒を進ませる。
だがそのうちやはり慣れ親しんだ切れ味が恋しくなり、つと火酒の瓶に手を伸ばして二コラ殿が残した分を自分の杯に注いだ。
葡萄酒や麦酒など軽すぎて酒とも呼べない飲料はともかく、火酒に関してはわたくしはふだんニ三杯で止めておくのだが、
今夜だけはなぜかそのまま杯を重ねてしまった。
この部屋の空気のせいだったかもしれない。
卓上は酒と酒肴の香りに覆われ、背後では暖炉の火が控えめに爆ぜ、
傍らでは大の男が聞き取れない寝言を呟いてはときどき寝返りを打っている。
心惹かれるような特別な出来事は何もないのに、不思議な調和と静けさに満ちた、
すべてを受け入れるような暖色の広がりがそこにはあった。

だからだろうか。
わたくしは何かから解き放たれたようにゆっくりと杯を重ねつづけ、
火酒の瓶も残り四分の一ほどになったころ、ようやく手を止めて天井をぼんやりと眺めた。
そして今度は眠りこける二コラ殿のほうをそっと見下ろした。
酔いはたしかに回っていたが、そろそろ宮室に帰らねばなるまいということぐらいは弁えていた。
ふと、二コラ殿がわたくしの名を呼んだ。気のせいだったかもしれない。
だが呼ばれたように思った。
酔漢の寝言など無視すればいいようなものだが、このときはなぜか聞き取りたいという思いに駆られた。
彼はたしかに、我が名のあとに何か別の語をつづけていた。わたくしに対する呼びかけの変種だろうか。
その詳細をなんとなく知りたかった。

上体を折り曲げ、端正に引き締まった口元まで耳を近づけてみる。
しばらくのあいだ待ってみたが、聞こえてきたのは吐息ばかりである。
わたくしは諦めてまた身体を起こしかけた。
訪問用に着けてきた金銀細工の髪飾りがうなじの上でしゃらんと鳴った。
だがふとそこで動きを止めた。
今夜はものごとの理に沿わない発作的行動を色々と犯してしまったが、いま振り返ればこれが最も非理性的な衝動であるといえた。
おそらく、わたくしには罪悪感があったのだろう。
葡萄酒の瓶が初めて開け放たれ芳醇な香りが宙に散ったそのとき、
彼が望むように幸福感をともにすることができたのに、反射的に身を退いてしまったことへの、その罪悪感である。
わたくしはニコラ殿の寝顔を眺めた。相変わらず悩みのなさそうな顔だと思った。
そしてほんの少しの間、その唇に唇を重ねた。




「―――アンヌ嬢!?」
一瞬何が起こったのか分からなかった。
胸の動悸を極限まで抑えながら事態を把握し直してみると、順序としてはおそらく、
まずニコラ殿が目を覚まし、次いでわたくしがそれに気づき、顔を離すと同時にニコラ殿が我が名を叫び、
そして今わたくしは長椅子の端まで後退して襟を正し、努めて平静を装おうとしている次第である。
「アンヌ嬢、あ、貴女はいま、ひょっとして」
ニコラ殿は呆然とした顔で起き上がり、おそるおそるわたくしに向き直った。
「御自ら、私に接吻を」
そして返事を待たずにわたくしの面前に顔を近づけた。
「そうなのだな?貴女は私に接吻をくださった」
「―――ええ」
「ああ、アンヌ嬢!つまり、私たちはついに相愛の仲に……!!」
「お待ち下さい」
わが身を抱きすくめようとするたくましい両腕をかろうじてかわしながら、わたくしは淡々と言い聞かせた。

「ニコラ殿、これは夢です」
「ゆ、夢?」
「ええ。あなたの夢のなかの出来事です。現実のわたくしの心情とも挙動とも一切関係ございません」
「そんな馬鹿な。貴女の唇のやわらかさと温もりさえ感じたというのに」
「夢の中でも五感は機能するものなのです。
 あれは今ここにいるわたくしが今ここにいるあなたに差し上げた接吻であって、
 現実世界ではわたくしたちの関係は何らの進歩も発展も遂げておりません」
「そんな!」
「ゆえにあなたは今後とも、
 われわれのあいだの使役−被使役関係が一朝一夕にして崩れるなどという甘い夢想はいだかれませんよう」
「ゆ、夢の中だというのに容赦のないかただ」
「現実が投影された姿ですから」
「言われてみればそうか……しかし、夢の中でぐらい優しくして下さってもいいのではなかろうか。
 昔からの幻想小説などではそうなっている気がするのだが……
 いまの貴女はむしろ、現実にも増して冷血ぶりに磨きがかかっておられるようだ」
どうやら彼は夢の中なら何を言っても無問題だと思っているらしい。
いっそ永遠に目が覚めぬように取り計らってしまおうかと思わぬでもなかったが、ここは寛容が肝心だと思い直して
できるだけ穏やかな物腰を保ちつつ彼に説き聞かせた。

「そのようなわけですから、ニコラ殿、夢の中の出来事に拘泥したところで仕方ありませぬでしょう」
「そういわれれば、そうか……だが残念だ」
「何を口惜しく思われます。記憶に刻んだところで現実が好転するわけでもございますまい」
「そう思うといっそう切ないな」
「なればこそ、現実に戻らずにどうなさいます。夢など所詮ひとときの慰めですわ。
 男子たるもの、あるがままの事実に立ち向かわずにどうなさいます。
 ましてあなたは騎士のなかの騎士、白獅子騎士団の栄光を担う一員ではありませんか」
われながらしだいに何を言っているのか分からなくなってきたが、
どうやら最後のことばはニコラ殿の心の琴線に触れたようであった。

「なるほどそのとおりだ、アンヌ嬢。
 いやしくも騎士たるもの、現実が意のままにならぬからといって都合のいい夢に引きこもってはいけないな。
 ただこの夢は夢のわりに、あまり都合がよくない気もするが」
「細かいことにこだわってはなりません。とにかく、そのとおりですわ。早く現実にお戻りなさいませ。
 ほら、先ほどのように横におなりになって」
「ああ、枕をご用意していただけるとはかたじけない。
 では夢の中のアンヌ嬢、お名残惜しいがしばらくお別れしよう。
 現実のアンヌ嬢にもなんとかわが誠意を伝えられるよう、これからも尽力してゆこうと思う」

しんみりした口調でそう所信を表明するとニコラ殿はまた目をつむり、仰向けのまま動かなくなった。
しばらくすると右向きに寝返りを打ち、その呼吸は少しずつ規則的になっていく。
わたくしはようやく胸をなでおろした。
今このときほどニコラ殿がぼんくらでよかった幼子のように純粋無垢でよかったと思ったことはない。
安堵のついでに、気持ちを静めるためふたたび卓上の瓶に手を伸ばしかけたとき、傍らで突然ニコラ殿が起き上がった。
さきほどとは明らかに異質の、何か決定的な重大事に気がついたような緊迫したまなざしを、射抜くような激しさで投げかけてくる。

「アンヌ嬢!」
「は、はい」
「これはまだ夢だろうか」
「―――ええ」
「夢か。夢ということはつまり、」
ニコラ殿は瞬きもしないうちにわたくしに近づき、両腕でこの身を抱擁したかと思うと長椅子の上に押し倒した。
今度は本当に逃げる間もなかった。
「今だけは、何をしても許されるということだな」
彼は鼻先をわたくしの髪にうずめていた。だからその表情は見られなかった。




迂闊であった。
これ以上ないというほどの、迂闊さであった。
ニコラ殿はさして腕に力を込めているつもりはあるまい。
だがわたくしの渾身の力を振り絞っても、彼を振り払える自信などなかった。
近衛騎士団の精鋭という事実を忘れても、服越しに感じられる鋼鉄のような筋肉は、
一切の楽観と希望を禁ずるに十分な厚さだった。
頭上に感じる彼の吐息は、確実に荒く熱くなってきている。
腕の力がふいに強くなった。そしてニコラ殿の顔がわたくしの左の耳元まで降りてくる。
彼の表情はやはり見えない。

「ああ、―――貴女はなんてやわらかいのだろう。
 貴女のおっしゃったことは本当だ。夢でも五感は機能している」
押し殺したような囁きと吐息の熱が耳朶から全身に伝わってゆく。
わたくしの心を和らげるものはそこには何もない。
意識の大半を占めるのは後悔の念と、いくばくかの寂しさだけだ。残りは無力感と呼ぶべきであろう。恐怖はない。
だが、とわたくしはもう一方で思う。ニコラ殿の指が肩を這うのを感じる。
自分の嘘のために自分で制御できない結果を導いたのだから、後悔するのは当然だ。だがなぜ寂しいのだろう。
わたくしは以前、他ならぬこのかたを自ら同衾にいざなったのではなかったか。

男女の交わりの本質的な意義は、相手の心身の動物的嗜好を確実に掌握し
以て事前事後にこちらの意向に従わせるということにあり、
肌を重ねることそれ自体には摩擦に伴う生理的刺激以上の何かなどないはずなのだ。
あの日の夕刻もその指針にのっとって行動を起こし、ニコラ殿を部屋に招いたのだ。
だから今起こっていることも、そのように割り切ればいいではないか。
技術的には拙劣にしろ、おそらく彼はわたくしに肉体的な充足を与えてくれるだろう。
今は何も考えずにその感覚に没頭すればよいのだ。
一度は目的のために寝ようと思った男である。
いまふたたび彼と『事故で』寝ることになったからといって、何をもの寂しく思うことがあるだろうか。

「アンヌ嬢」
ニコラ殿がわたくしの名を呼ぶ。かつてないほど間近で呼ぶ。
不快ではない。ただ理由のない寂しさだけが募る。
「このときを待っていた」
わたくしを抱く腕の力がいっそう強くなる。重厚感というより、筋肉に圧迫されすぎてほとんど痛みを覚えるほどだ。
一瞬、目の前が赤くなった気がした。
むろん殴られたのではない。この赤は楓並木の赤だ。そして斜光の赤だ。
落日の直前にニコラ殿と通り抜けたあのときの赤だ。
美しいものをともにしたかったのだ、と彼は言った。
わたくしはそれに何と答えたのだろうか。今ならなんと答えるだろうか。
男の声が意識を現実に引き戻した。それはニコラ殿の声ではなく、たしかに「男」の声だった。

「どうか許されよ、アンヌ嬢」
「………いや………」
その呟きはおそらく、彼には聞こえなかったと思う。
自分自身でさえ、こうしてこぼれ出るとは思っていない感情だった。口にしたところで全く無意味なのだから。
だがどうして口にしてしまったのか、口にしないわけにはいかなかったのか、何がそれほど寂しいのか、
わたくしにはこのときようやく分かった。
ニコラ殿とこのような形では結ばれたくないのだ。
わたくしと美しいものを分かち合えて幸せだと微笑んでいたこのかたに、こうして押し伏せられて抱かれたくはないのだ。
けれどそれは今さらどうしようもないことだ。
偽りを並べて吹き込んだ結果、彼の情欲のくびきを解かしめたのは他ならぬこの自分なのだから。




「ア、ニュータ」
「え?」
おぼつかない三音節の囁きに、思わず聞き返してしまった。
「や、やはり発音がおかしいだろうか。こうかな。―――アニュータ」
「あの、ニコラ殿」
「どうだろう、今のは通じたろうか」
「ええ、わたくしに呼びかけられたというのは分かりましたが、―――何をなさろうとしているのですか」
「まさにこれだ。貴女を愛称でお呼びしたかったのだ。ずっと呼んでみたかった。
 だが下手に口にしたらどれだけのお怒りを買うかと思うと、なかなか口に出せなかったのだ」
「怒り?」
「現実の貴女ならば『実質的な下僕の分際で思い上がった真似をするなこの馬車馬が』
 ぐらいのことはおっしゃるにちがいない。だから戦々恐々と口をつぐむしかなかったのだ」
「……いえ、そこまでは言わないと思いますが」
「夢の中だけでも口にできて満足だ。
 アニュータ、アニュータ―――なんと愛らしいひびきだろう」
「アネット、ではないのですか。貴国流に」
「もちろんアネットでもよいのだが、
 マリー妃殿下から『アニュータ』と呼びかけられるとき、貴女はいつもとても幸せそうだ。だからこう呼びたかった。
 貴女の関心事に占めるマリー妃殿下と私の比率にはいまだ雲泥の差があるにちがいないが、
 それでも少しでも妃殿下に近づき、貴女を幸せにできる人間になりたいのだ」
ニコラ殿の吐息が、わたくしの鬢の毛をかすかにそよがせた。
呼吸が絡み合うほどの近しさは同じだったが、それでももはや寂しくはなかった。

「今日はもう、二回、してくださいましたわ」
「二回?」
「わたくしと一緒に楓を見てくださったこと。
 それから、そうね―――いまはもう、あなたの腕の中にいても寂しくないこと」
「アニュータ、それは」
「何でもありません。
 あなたももう、わたくしを愛称で呼ぶのに満足されたことでしょう。
 そろそろ眠りに落ち、現実に戻ってゆかなくては」
「本当に残念だ。いま目の前の貴女は接吻してくださったばかりか、愛称で呼ぶことさえ許してくださったのに」
「『現実の』わたくしにもお試しになったらいかがですか。接吻はともかく、愛称のほうは。
 家畜並みに冷たくあしらわれると決まったわけではありますまい」
「そうかな……そうだろうか」
「もちろん、無理にとは申しませんけれど」
「うむ……そう言っていただくと、勇気を出してみようかという気になる。
 ありがとう、アニュータ」
「どういたしまして」
「現実に戻る前に、もうひとつだけ、許していただけようか」
「何でしょう」
「もういちど、貴女のほうから、その、接吻を」

やれやれ、とわたくしは思った。
これが『現実の』わたくしならたしかに「一度の僥倖で調子づくでない」ぐらいの戒めは垂れたかもしれないが、
これは彼の夢のなかの話である。
夢はなべて、夢を見ているその人に都合のよいものであるべきだろう。
「腕の力を抜き、まぶたを閉じてください」
ニコラ殿はそのとおりに両腕の力を緩め、まぶたを閉じた。
このときふと、わたくしは彼の瞳の色、青みがかった淡い黒が好きなのだと知った。
それが覆われてしまうのはやはり寂しいことだと知った。




二度目の接吻は少しだけ長かった。
顔を離してから髪を整えると、わたくしは立ち上がってゆっくり扉に向かった。
次の間には従僕が控えているはずであり、頼めばすぐに主人には上掛けを、わたくしには帰路用の馬を引き出してくれるだろう。
わたくしは敷居の手前で振り返った。彼はやはり同じ姿勢で灯火の輪のなかに横たわっていた。
「お休みなさい、コーリャ」
それから静かに扉を開けた。
誰かの愛称を自ら口にするのは、姫様を除けば実に久しぶりのことだった。




(終)













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