翡翠(カワセミ)の月 十四日 昼前から小雨


かくも長く持ちこたえようとは、思いもよらぬことだった。

真夜中の庭での邂逅からまもなく一月が経とうとしている。
しかしながら、当初の予想に反してニコラ殿の求愛活動は未だに続いていた。
というよりむしろ止む所を知らなかった。
あの惚れっぽい男のどこにこれほどの持久力が秘匿されていたのか、実に怪しまれるほどである。
わたくしとしてはあの晩以来一貫して冷たくあしらい続け、
かくも不毛な営為に固執したところで将来的な展望は皆無だという旨を絶え間なく説い聞かせてきたのだが、
馬耳東風と言おうか何と言おうか、
あのかたは外国人であるわたくしの語彙が自身のそれを凌いでいることに感心するばかりで全く話が通じた様子はなかった。

かといってニコラ殿は隙あらば無理に接触を迫ってくるというわけでもなく、
全ては騎士道精神に則ったうえで執り行われなければならないという自身の鉄則に対して
時代錯誤とも思われるほど忠実に振る舞っているため、
彼を犯罪者予備軍扱いして宮中治安部に届け出るにはわたくしもやはりためらいがあった。

しかしとうとう腹を決めた。
時間には限りがある。いつまでもこんな児戯じみた求愛につきあっているわけにはいかない。
微賎の身ながらわたくしとて、マルーシャ様の御身辺のお世話に加え
ガルィア宮廷の政情探査やルース外交筋への情報提供、
エレノール妃殿下への妨害工作牽制活動等々、
日々重大任務を全うする責を負っているのである。

そして何より、ニコラ殿がわたくしに望むものを提供できるだけの心の備えは、わたくしにはなかった。
誰に対してもなかった。
そしてこの後も、永劫にないはずだった。
ゆえに代替物たりうるものを与えて満足せしめ、
それで以てあのかたのわたくしへの関心を終息せしむるのが最も妥当な方策であろうと思われた。

休憩時間にわたくしは自室でペンをとり、二コラ殿への手紙を書いて小間使いにもたせた。
このたび採ることにした手段は簡潔かつ原始的ながらも
確固とした成果を期待できるであろうことに思いを致すと
わたくしはだいぶ気が軽くなった。
けれど同時に、少しだけ胸の奥に苦味を感じたような気がした。




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翡翠の月 十七日 曇りのち晴れ


三日前に招待の手紙を出した後、ニコラ殿からは続けざまに五通も返信が来た。
訪問の可不可と礼を述べる以外に何をそんなに書くことがあるのかと思ったが、
ざっと目を通したところ、
当日の服装や手土産は何がよいかとか果物の砂糖漬けよりも焼き菓子のほうをお好みだろうかとか
もしそれらが貴女のご期待に添えなかったらどうしようかとか
そのようなことがつらつらと、あたかも従軍書記官のような緊張感あふれる筆致で記されていた。

いい成人男子が十代半ばの乙女のようないたいけな不安と期待に身を焦がす図は想像すると大変暑苦しいので
どうか手紙の中だけでも控えられるようにと諭しつつ、
あなたは何も持参なさる必要はないし平服でいらしてくだされば結構ですと三行ほどの返答を使いに持たせると、
(末尾で釘を刺しておかなかったわたくしも悪いのだが)
便箋三枚ほどの返事がたちまち部屋に届けられ、若干の脱力をおぼえるに至った。
著しく筆まめなところまで実に十代少女の規範に則った男である。
わたくし自身もかろうじて十代少女ではあるのだが。




ともあれ、招待の当日になった。
約束の時刻は夕方に定めてある。
夏の夕べはいつでも慕わしいものだが、本日は日中はからりと晴れ渡っていただけに、
この宵口の涼やかさは先ほど沐浴を終えたばかりの肌には殊に心地よく感じられた。
わたくしはふだんはあまり香水を好まないが、
たまにラヴェンダー水などを身体にふりかけてみるのもよいものだと思った。
背に垂らしたままの洗い髪に手を触れるとまだ幾分か湿っている。
刻限まであと半時ほどあるので椿の香油を塗りながらもう少し梳ろうかと案じていたら、
小間使いのジェーニャが廊下から扉越しに呼びかけてくるのが聞こえた。

「騎士ニコラ様がおみえになりました」
「―――早すぎないかしら」
「私もそう申し上げたのですが、
『お部屋の前で待たせていただき、室内で息づかれるご気配を察するだけでも幸せなのだ』と仰せになられて」
「……お通しして」
あまり早くに彼と顔を合わせるのは決して本意ではないかったが、
戦時のように感覚を鋭敏に研ぎ澄ませた大の男が我が部屋の戸の前で
猟犬然として待機するというのはさらに芳しくない展開であったため、
わたくしは仕方なくジェーニャに入室の許可を伝えさせた。




ガルィア宮廷では王族個人の使用人はたいてい二人で一部屋が割り当てられているが、
マルーシャ様のご厚意によりわたくしは独立した部屋をいただいている。
姫様は当初、ルース宮廷にいた頃のようにわたくしをご自身のご寝所の隣に住まわせたがっておられたが、
さすがに今は嫁がれた御身であられる以上その件はご辞退申し上げ、
侍女たちの私的空間である離れの一画に居を賜ることと相成った。

ここは基本的に男子禁制の場ではあるが、
相手がわれわれと同様宮仕えの人間である限り、
また王族の方々の御居室周辺にまで騒擾を及ぼすことがない限り、
親しい関係にある男性を自室に招くことは実際のところ黙認されていた。
むろん侍女というのは身元のたしかさと素行正しさを見込まれて宮中に上がることを許された者であるから、
未婚の身で男性を部屋に上げることなどそうそうあってはならぬはずだが、
たとえば「恋人たちの祝日」と呼ばれる聖エティエンヌ昇天祭の前夜などには
建物に面した中庭の一隅で睦まじく語り合う男女の姿を見かけることがままあるようだ。
ただしこちらの宮廷ではいまだ新参者の身であるため、見てきたように仔細に述べることは慎みたい。

わが居室はひとり住まいにしては広いほうかもしれない。
調度にしても側用人の身には余るほどの瀟洒な品を使わせていただいており、象牙製の置物等、扱いに困るものもある。
すべてはマルーシャ様の篤き思し召しによるものである。
室内の見取りはというと、扉から入って右奥に寝台が据えられ、
その傍らには東南方に面した大きな丸窓が穿たれている。
寝台の対面すなわち左奥には丈の高い衣装箪笥が置かれ、
寝台の対角線上すなわち扉から入って左手には籐細工の文机と椅子が据えてある。
机と衣装箪笥の間の壁にはもともとは盾形のタペストリが何枚か掛かっているのみだったが、
これもマルーシャ様のお取り計らいで書棚を入れていただき
諸国の宮廷儀礼に関する文献やガルィアの最新活版印刷技術により刷られた文学全集などさまざまな分野の本を収納している。
いや、収納という語は実態に即しているとはいえず、
もはや本来の容量を超えているところへ力ずくで詰め込んでいるというのが正しい。
そろそろ衣装箪笥の半分ほどを空にして書庫に充てるべき頃合かもしれない。




ニコラ殿が入室したのは、寝台と反対側の小窓から差し込む西日の名残りが
そろそろ青い薄闇に取って代わられようとしている頃だった。
ちょうどこの時刻、淡い朱に染まる室内が徐々に暗色へ溶け込み、
意識が眠りに落ちる過程のようにその輪郭を失ってゆくさまを眺めるのがわたくしは昔から好きだった。
小間使いに最後に返事をしたあと、扉が礼儀正しい間隔で叩かれたとき、
わたくしは櫛を手に弄びつつ寝台の端に座り少しずつ変化してゆく壁の色をぼんやりと見ていた。

ニコラ殿は粛々と扉を開けて入ってきた。
黒に近い褐色の髪にはこれまでにないほど念入りに櫛が入れられ、
胸部を紐で締める型の上着と亜麻織りの下衣は落ち着いた暗色系でまとめられている。
祭日用と思われる艶やかな黒い革靴を履いた長い脚が軽やかに敷居をまたぐのを見ながら、
この行動の迅速さが思考において再現されることがないのは実に遺憾であると思った
。 部屋の奥にわたくしの輪郭をみとめると、騎士はそのまま数歩手前まで歩みを進めてきた。
「アンヌ嬢、本日はお招きいただき誠にかたじけな」
言い終えないうちに、騎士の顔には一驚が浮かんだ。
廊下にもまだ明かりが灯されていないため、彼の目が室内の薄暗さに慣れるのに時を要さなかったのかもしれない。

「あ、あの、アンヌ嬢、こ、ここ、更衣の途中ならそう言っていただければ廊下で待っていたものを」
「そうではありませんわ。どうぞこちらへ」
寝台までやって来て隣に腰を下ろすようにと、わたくしは目で二コラ殿に促した。
だが彼の長身は動こうとしない。
「い、いや、私は失礼する。失礼しなければ」
「なにゆえです」
「なななにゆえも何も、何かお召しになってからでなければ、向かい合ってお話することもできないではないか」
「お話?」
これまではむしろ疎ましかった彼の初々しさがふと微笑ましく感じられ、少しだけ口元が緩んだ。
そして立ち上がり、身体に巻きつけたシーツの裾に気をつけながら彼のそばへと歩み寄っていった。
失礼するとは言いながらも騎士はその場に杭で打ちつけられたかのように一歩も動かない。
よしなしごととは思いつつも、わたくしとて女であるから虚栄心を若干くすぐられないでもない。
とうとう彼の正面に立つと、嫣然と微笑む、というところまではいかないまでも
己にできる限りの柔らかい表情をつくりつつ語りかけた。

「なにゆえ立ち尽くしておいでです。枕頭までいらせられませ」
「ア、アンヌ嬢、これは一体」
「ずいぶん動転していらっしゃるのね。さように思いがけないことでございましたか」
「お、思いがけないも何も、今日はご居室にて差し向かいでお話できるのだとばかり」
「かような略式はお嫌いですか」
「い、いや、嫌とかいうことではなく、つまりその、そんな、―――一体なぜ」
「お望みにお応えします、と書簡の中で申し上げたはずですわ」
「望み」
「わたくしを、欲しておられるのでしょう」

部屋の中はそろそろ藍色の闇が朱に克とうとしている頃合だった。
まだいくらかためらいはあったが、それでもようやく心を決め、
わたくしは胸元で合わせたシーツの端を開いて肩から滑り落とそうと手をやった。
「だ、だだ、だめだ」
剥製のように硬直していた騎士がようやく身動きし、わたくしの両手首をつかんで止めた。
「なにゆえです」
「なにゆえ、とは……伺いたいのは私のほうだ。なぜ、なぜこんなことを」
「それは先ほど申し上げました」
「私の望みをかなえるということか?」
「今宵だけは貴意のままになりましょう」

騎士の顔を見上げ、青みがかった黒い瞳を覗き込むようにしながらわたくしは言った。
薄闇の中で見下ろされているため、その表情はあまり判然としなかった。
「どうか物怖じなさいますな。
 何もかも導いてさし上げますから、案ぜられることなどございません。
 そうして堪能なさいましたら、これきりでわたくしのことは見切りをつけられませ」
「み、きり?」
「お心残りはなくなりましょうに」
その瞬間、騎士の瞳に奇妙な昏さが宿るのを感じた。
その昏さはやがて静かな怒りとなって四肢に伝播し、わたくしの手首を叩きつけるように放すことでそれは明確に発露された。

「乱暴をなさること」
「知ったことか」
動作以上に粗暴な物言いに、わたくしはいくらか眉をひそめた。
その非礼を糺そうと口を開きかけたとき、彼の端正な面立ちが醜くゆがみかけていることを知った。
ただしそこにあるのは憎悪ではなく、やりきれないほどの痛みをこらえようとしている少年の顔だった。
「―――なぜ、泣くのです」
「泣いてなどいない」
その声は聞き苦しいほどにかすれ、震えている。
何もかもが不可解に感じられた。

「私はかつて貴女にこのような振る舞いを求めただろうか。
 それは、むろん、私にも肉の欲求はある。
 いつか貴女に触れてみたいと望んでいる。
 だが、私は何よりも先に貴女に好きになっていただきたかった。
 私を速やかに退けたいなら、二度と顔を見せるなと言ってくだされば良かったのだ。
 そうすれば身を引いた。どうして」
彼はことばを切った。
部屋に一瞬静寂が戻ってきたかと思うと、何か重苦しいものを嚥下するような音が低く響いた。
「どうして、愛してもいない男にこんなことを」

槌で押しつぶされたような声でかろうじてそうつぶやくと、二コラ殿は身を翻して立ち去ろうとした。
わたくしは彼の腕をつかんだ。
自分でもなぜこんなことをしたのか分からない。
だがたしかに、彼の言うことは正しかった。
本当に退けたいのなら二度と姿を見せるなと言い渡せばよかったのだ。
彼は騎士なればこそ、婦人のそうした要求には従順すぎるほど従順に従うであろうことはわたくしにも分かっていた。

そうだ。たしかに認めなければならない。
ニコラ殿が会いに来ること自体は嫌ではなかった。
直情のままに語り行動する彼のことが嫌いではなかった。
ただ男性としての彼の求愛を―――正しくは、誰の求愛であっても―――受け入れるつもりがないというだけで。
わたくしはなぜこの手段をとることにしたのだろう。
明らかに女を知らないこの騎士相手ならば、こういったやり方が最も簡潔にして効率的であると結論づけたからだろうか。
たまにはこういう男と寝てみるのも一興だと思ったからだろうか。

わたくしにとって男との同衾というものは基本的に手段に過ぎず、それ自体を目的と考えたことはあまりない。
宮廷生活における政治上の意図から起こした行動を含めれば、むろん、こういった試みは初めてではない。
大半は成功を収めてきたが、なかには失敗に終わることもあった。
だが失敗したからとてそれは単に相手の自制心の多寡や性的嗜好の傾向に左右された結果であり、
わたくし自身が傷つくような問題ではなかった。
それなのになぜ今はこれほど呼吸が苦しいのだろう。
二十二歳にもなる大の男が涙を浮かべるのを前にして、見苦しいと思う意外に何を感ずべきことがあるだろうか。




これらのことを心に思ったのはほんの一瞬だった。
その一瞬の間にわたくしの身体は前方から加えられた力で倒れ、床の上に仰向けになった。
厚手の羊毛の絨毯が敷かれているため背中や腰にさほどの衝撃は感ぜられなかったが、
転倒とともに身体の前面に加えられた重みがやや強烈だった。
状況を把握してみるとその重みの正体はニコラ殿の体躯であり、
どうやら立ち去ろうとする彼を引っ張ったわが腕の力が思いがけず強かったため、
彼の両脚の均衡を失わせわたくし自身も巻き込まれたということらしい。
彼は倒れかかる際それを未然に防ごうとしてか身体の向きをこちらに転じたていたので、
わたくしたちふたりは向かい合って身体を重ねるかたちになった。

ニコラ殿はわたくしの顔の真上でしばらく茫洋とした表情を浮べていたが、
やがて状況を呑み込むと慌てて起き上がろうとした。
しかし彼はまたたちどころに凍りつき、しばらく呼吸が止まったような顔をしていたかと思うと
約一秒半後にようやく立ち上がり、今度こそ本気の覚醒を見せるかのように迅速を極めた動きで後ろを向いてしまった。
そのときは彼の挙動の関連性をいまひとつ解しかねたが、ふいに肌寒さをおぼえて自分の首から下を眺めると、
肩からかけていたシーツが転倒時の勢いですっかり左右に開いてしまったことが分かった。
室内は相当暗くなっており、また垂らした髪が肩から腹部にかけていくらか覆いとなっていたので
それほど詳細にわたくしの裸形を見分けられたとは思われないが、
漠然とした輪郭ぐらいは記憶にとどめたのかもしれない。
これが真昼間や火を灯した燭台の真下であれば気分もいささか異なったであろうが、
この件に関しては単純な事故と見なすことにした。
こうなった原因ももとはといえばわたくし自身の挙動に帰せられるものではある。

「ア、アンヌ嬢」
後ろを向いたままのニコラ殿がようやくことばを発したのは、わたくしがシーツを羽織りなおし髪を手櫛で整え終えたころだった。
「何でしょう」
「もも申し訳ない」
「いえ、別に」
「そんな、かまわないはずがあるまい。あんな―――」
「よくある事故ですわ。
 ―――それに、謝らなければいけないのはわたくしのほうですわね」
騎士はゆっくりと振り向いた。
夕闇はすでに彼の体躯さえ呑み込み、その困惑したような眉目に幽妙な陰影を添えていた。

「あなたのお望みは、―――あなたが何を求めておいでかということは、わたくしも承知しておりました。
 それでいながら、貴意のすべてを、あたかもそのすべてを肉欲に還元できるかのような振る舞いに及んでしまい、
 申し訳ないことを致しました。お許し下さい」
「―――い、いや、アンヌ嬢、いいのだ。
 私も、なんというか、その、実を言えば、神の前で申し開きできるほどに
 貴女に対して日々清らかな想いばかり燃焼させているわけではないのだ。
 つねづね、自戒はしているのだが」
「承知しております」
「え?」
「先ほど起き上がられるのに間がありましたゆえ。
 別に咎めだてはいたしませんわ。手淫の種にされたところで実害をこうむるわけでもございませんから」
「いや、そ、それは違うのだ、つつつまり」

この薄闇のなかでもそれと分かるほど耳まで赤くなって長身を折りたたまんばかりに縮こまる騎士の姿には
それなりに感興をおぼえなくもなかったが、面白がってばかりいるわけにもいかない。
どのように決着をつけるべきか。

実際、わたくしはニコラ殿と一体どういう関係でありたいのだろう。
それは先ほどの自問とも重なる問いだった。
本当に絶縁したいのならもうずいぶん前に、いやむしろくちなしの木の下で出会ったあの晩のうちに、
二度と接近させないための対策を講じ成功を収めているはずなのだ。
ご主君に引けをとらないぼんやり者という評価は未来永劫不動のものだが、それ以外に、
わたくしは彼についてどう考えているのだろう。
その求愛を受け入れるつもりはないが、求愛活動を目にする分には愉快や優越を感じていたのだろうか。
それではあのイヴォンヌ嬢と変わるところがない。
だがただひとつ言えるのは、わたくしは二コラ殿について、往々にしてなりばかり大きな童子だとは思っても、
つれづれの余興を提供せしむる相手だと思ったことはないということだ。

ではどのように見なしてきたのだろうか。
正式に知り合ってからまだひと月ほどのこの騎士のことを。
今まさに目の前で、廉恥心に目を伏せつつ居心地悪そうに長身を持て余しているこの男のことを。
説明できるような気もするが、できないような気もする。
自らの思惟を言語化できない状態というのは非常にもどかしく、
しかしどこか自分を甘やかす余地があり、狡猾な状態でもあるのだということをわたくしは今初めて知った。

「アンヌ嬢」
おずおずとかけられた声に、わたくしは自省を中断した。
見上げれば、もはや色も判別しがたくなった黒い双眸が不安そうにこちらをじっと見ていた。
「さきほどのことは大変申し訳なかった。
 つい、出来心でというか、視覚上の要求がわが鋼の意志を打ち砕いたというか、まあその、そういうことなのだ。
 だが、それはそれとして」
彼はまた言いよどんだ。息を深く呑み込む音が聞こえる。
「どうかお聞かせ願いたい。
 貴女は私を厭うておいでなのだろうか。
 私を身辺から遠ざけるためなら、一晩身を任せてもかまわないと思うほどに。
 もしそうなら、私は、―――私は貴女をすっかりあきらめよう」

騎士は息を止めたように、瞬きひとつせずこちらを見ている。
ふと、彼の黒いまつげがひどく長いことに気がついた。
わたくしなどは眉もまつげも金色なので、このようなくっきりした色合いは羨ましい。
刷毛の先のように柔らかそうなそのまつげさえ、わたくしのほうを向きながら、そよとも動くことがなかった。

ああ分かった、とふと思った。
わたくしはこの騎士の子どもじみた真摯さが好きなのだ。
真摯すぎて道化にならざるをえないほどの真摯さが好きなのだ。
彼より聡明な男はいうに及ばず、
彼より美しい男も武術に秀でた男も世間を探せば枚挙にいとまがないだろう。
けれどこれほどの、自らの矜持さえ投げ打ったような真摯さをわたくしに委ねた男はこれまでいなかったし、
おそらく今後も現れないであろうと思った。

答えが得られたことで、わたくしはようやく安堵をおぼえた。
そしてほんの少し悲しかった。
何かに恋着をおぼえ始めている己を見出すといつも少しだけ悲しくなる。
いとおしみを感じたそのときが、すでに喪失の始まりだからだ。
ほかの人々はみなどうやってその恐怖に耐えているのだろう。
このかたは、二コラ殿はその恐怖を予感することさえないのだろうか。

「あきらめるというのは、あなたにとって容易なことなのですか」
「え?」
「なじっているのではありません。純粋に知りたいのです。
 あなたはこれまで数多の婦人に恋をしてはまもなく撃沈してこられたようだけれど、
 そのような営為をくりかえすことに苦痛はおぼえないのですか。
 単に婦人からの拒絶による屈辱感のことを申しているのではありません。
 欲したものをあきらめること、失うこと、―――それ自体に傷ついたり、空虚をおぼえることはないのですか」
「どうだろう。全く傷つかないといえば嘘になるが」
ニコラ殿は少しだけ目を伏せた。
そしてしばらくの間、ことばを探しあぐねるかのように沈黙をつづけた。

「だが、結局は失ってしまうとしても、空しいと思ったことはない。
 これまで遍歴してきた恋はたしかにすべて片思いに終わったが、
 そのときそのときにそれぞれのご婦人をどれほどお慕いしていたか、
 その芳姿をお見かけするたびにどれほど幸せだったか、
 それを思い出すと今でも、どんなときでも、幸せな想いで満たされるのだ。
 たとえそのご婦人自身をあきらめることになっても、
 そのかたにまつわる記憶だけは残されることが、恋に落ちる前から分かっている。
 ゆえに空しいと思ったことはないし、―――ゆえに絶えず恋に落ちてしまうのだろうか」

騎士は自分でも困惑しているかのように、ためらいがちに微笑した。
そう、とわたくしは一言つぶやいた。
ふと窓辺を見やると、燃えるような橙色のひとすじの陽光が
かなたの城壁の上端にかろうじて横たわっているのが見えた。
いちど目を閉じたら次の瞬間にはもう闇にとりこまれているであろう、脆く儚げな光である。
美しいものは常に消滅のときを間近に控えている。
わたくしはいつも思っていた。
どうしてその儚さを知りながらそれを追う人々がいるのだろう。
どうしてその儚さにあえて耐えようと望む人々がいるのだろう。
待ちうけるのは喪失感ばかりだというのに。

だが、今の騎士のことばにひとつの答えを得た気がした。
感情であれ、あるいは実体を伴うものであれ、美しく混じり気のないものたちはみないずれは去ってしまうが、
それが存在したという事実だけはいつまでもわたくしたちの心に留まるのだ。
そして記憶の底の砂からそれを取り出して眺めるたび、美しいものたちは蘇生し、
わたくしたちはたしかに、温もりにも似たささやかな慰めを得ることができるのだ。
それは本当にささやかなものだが、生をつづけてゆくうえでただ無聊をしのぐためのものではなく、
むしろ苦境のときこそ他に替えがたい支えとなる、そのような記憶なのだ。

そして分かってきた。
わたくしはたぶん、その記憶を得るために彼を寝台に誘ったのだ。
彼の恋情が真摯であるうちに、―――美しいものが美しいものであるうちに肌を重ねることで、
ひとつの刻印を得ておこうと思ったのだ。
いつか振り返ったときに、自分にはこれほど真摯に愛を語ってくれた誰かがいたのだと、
それは最後まで変わらなかったのだと、そう思い出すために。

そしてそれは恐怖の反映でもあった。
ニコラ殿が今わたくしに向けている濁りない感情が減速し終息すること、
それは避けがたいことであるとはいえ、いつのまにかわたくしの恐れる喪失のひとつになっていたのだ。
当初はあれほど煩わしく思った求愛行為を、
わたくしはいつのまにか日常の一部として受け入れ、そして炎上しているままで終わらせたいと願うようになったのだ。
そうだ、かなえようとしたのは彼の望みではなく、わたくし自身の身勝手な望みだった。
想いが燃え上がるのも鎮まるのも、結局は彼自身の摂理に従うところであるはずなのに。




「アンヌ嬢、お答えを」
山岳に響き渡る笛の音のように朗々としていながら、どこかおずおずとした声にわたくしは意識を引き戻された。
たしかに、今度こそは誠を尽くして答えるべきときだった。
窓から目を離して再びニコラ殿を見上げると、その面立ちはおどろくほど厳粛な色に染まっていた。

「そうね」
わたくしは口を開いた。
「申し訳ないけれど」
騎士の瞳が大きく瞬いた。
「あなたのお気持ちにお応えすることはできません」
「―――アンヌ嬢」
「単に男女の仲になることならできますが、あなたがお望みなのはそれではない」
「ああ」
「生涯の伴侶なるものをわたくしは必要としておりません。
 わが望みはいつまでもマリー妃殿下のお側に侍り、あらゆる悪意からお守りし、お支え申し上げることばかりです。
 そのためにわたくしはひとりでも強くなければならないし、これからももっと強くなります。
 今後もその決意は変わらぬことでしょう」
「アンヌ嬢」
返ってきた呟きは力ないものだった。
わたくしを見下ろす大きな瞳は、ふたたび潤みはじめたようにも見えた。

「ですが、妃殿下以外誰のことも必要としていないというわけではありません」
彼の双眸に揺らめく己の姿をみとめながら、わたくしはことばをつづけた。
一瞬後、暗色に沈んだ騎士の顔にわずかな変化が現れたかと思うと、
まもなくそれは歓喜の始動として目元口元の筋肉を目覚めさせ、大いに躍動させるに至った。

「アンヌ嬢!それはつまり、いわゆる『親密な友人』なら募集しておいでだということだろうか。
 そしてその後は徐々に道が開かれ、最後には祭壇の前で指輪の交換を」
「顎で使える男ならひとりぐらいいてもよいかと思っております」
「……アゴ?」
「どうされますか。志願なさる?」
「な、なんだか私の期待していたものよりいくぶん過酷なひびきを帯びているようだが」
「嫌ならかまいませんわ、もちろん」
「ま待たれよ!嫌とは申していない。少しばかり心の間隙を突かれただけだ。
 ―――その、貴女の言われる『顎で使える男』だが、ひょっとしたら昇格の見込みもあるのだろうか。
 恋人とか婚約者とか配偶者だとかに」
「その可能性はきわめて低いものとお考え下さい」
「だが皆無ではないのだな?」
ニコラ殿は揺るぎない口調で問うた。
いつのまにか彼の大きな両手はわたくしの両手を包み込むように握っており、
わたくしの目を覗き込むその顔もずいぶんと近づいてきていた。
「絶対に無理というわけではないと、そういうことでよろしいか」
「『絶対』という言辞は往々にして矛盾に陥りやすいため、単に濫用を好まぬだけです」
「だがその、『矛盾に陥る』ということが私を恋人に昇格してくださるということで、
 それはありえないことではないと、つまりそういうことなのだな」
やや乱暴な論法だとはいえ、状況が状況であればこの騎士も論理的な思考を働かせることはできるらしい。
わたくしは少しだけ彼に対する見解を改めねばならない必要を感じた。

しかし感心している場合ではなかった。
一瞬の沈黙を肯定と見なしたのか、
ニコラ殿は実に感極まったような顔でわたくしの手の甲に唇を押し付け、しかも長いこと離れなかった。
いつぞやの繰り返しのようである。
ようやく顔を上げると彼はしみじみとつぶやいた。
「ああ、私はなんと幸せな男だろう。
 私ほどの幸運児は世にふたりといないに違いない!」
実際、女から顎で使える男に指名されてうれしがるのは世の中広しといってもこのかたぐらいだと思われたが、
その喜びは本物であるようだった。
あまりに本物であるため、いまさらわたくしが付言して『昇格』の可能性を跡形なく打ち消すことがためらわれるほどに。




まあ、いいか。
そんなふうに思ってしまったのはなぜだったろう。
ふと気がつくと、わたくしたちはすでに椅子に座しており、燭台には火が灯されており、
騎士はわたくしの前に小さな包みを差し出していた。
「これは?」
「よろしければ、召し上がっていただけまいかと。
 城下町の店で見つけてから、どうしてもあなたに食していただきたくなったのだ」
「手土産はお持ちくださらぬようにと申し上げましたのに」
そう言いつつも、騎士が広げた布包みとその下の箱のなかのものを一目見て、わたくしは思わず賞賛の声を上げた。

そこに現れたのは、薔薇の花籠を模した砂糖菓子だった。
一体どれほど熟練した菓子職人の手になるものか、
一枚一枚の花弁も葉も芸術品といってもよいほど緻密に端整に仕上げられ、
たとえこの濃厚な甘い香りがなかったとしても蝶々たちが窓の外からまっすぐに引き寄せられてきておかしくない。
大陸の中枢に位置するこの国は食文化の面でも群を抜いて華やかな発展を遂げていることは承知していたが、
宮廷料理のみならず民間で入手できる菓子でさえこれほどの水準に達していることには驚嘆を禁じえなかった。

わたくしがあまり長い間見とれていたためか、ニコラ殿は不安そうな顔になった。
「貴女のお国ではサトウキビの輸入が難しいゆえ、甘味は蜂蜜が中心だと聞いた。
 何かわが国ならではの珍しい愛らしいものをと思って持参したのだが、こういうのは苦手だろうか」
「いいえ、そういうことでは。
 ただ、あまりに美しいから、手を触れることさえ惜しまれて」
「そうか。美しいと思っていただけて、よかった」
ニコラ殿は笑った。
いつものように顔いっぱいの笑みだった。
わたくしはこのかたの笑顔も好きなのだな、とふと思った。

ようやく砂糖細工の一輪に指を伸ばすと、かぼそい茎はあっけなく折れて重厚な花冠をわが手の内にさしだした。
それを口元に近づけると甘い香りはますます濃厚に鼻腔を刺激し、
思い切って一枚の花弁の先端を口に含むと、見た目よりも抑えの利いた上品な甘さが舌のうえに広がった。
「いかがだろうか」
「美味しいですわ。
 ただ、形を損なってしまうのはやはり残念なこと」
「だが、鑑賞するだけで朽ちさせるのはさらに惜しい」

まことに、とわたくしは思った。
そして手のひらに載せた薔薇の亡き骸を眺めた。
美しいものはいつもこんなふうにたちまち損なわれてしまう。
だが損なわれる過程にまで恐れず立ち会うことで、それを味わったという甘やかな記憶は、
おそらくその温もりを深めてゆくのだ。
失われるさまを目にしているがゆえに、それがかつて与えてくれた甘美をますます慕わしいものと感じるのだ。
きっとそうなのだろうと思った。

「―――粉砂糖が」
ニコラ殿がつと指を伸ばしてわたくしの唇の端を払った。
かと思うと一瞬後、自分のしでかしたことに呆然としたようにそのまま硬直し、
気まずそうに目を伏せた。
「失礼なことをした」
「かまいませんわ。小さい弟君か妹君がおいでなのでしょう」
「えっ!なぜそれをご存知なのだ!」
心から驚愕したような彼の口元に、わたくしも別の薔薇を採ってさしだした。
「あなたも召し上がられませ」
「かたじけない」

気まずそうな雰囲気を留めたまま黙々と食する騎士を見ながら、わたくしはふいに可笑しさをおぼえた。
本来の予定どおりならわれわれは今ごろ、
心地よく疲労した身体を寝台の上に並べて横たえ、
寝物語に興じつつ寝酒など嗜んでいるはずであった。
しかし今目の前にあるのは色鮮やかな砂糖菓子であり、
われわれは着衣のまま淡々とそれをつまんでいる。

ふと二コラ殿が薔薇の葉をくわえたままこちらを見た。
わたくしの口角が若干上がっていたのかもしれない。
「よかった」
「え?」
「貴女に喜んでいただけて、よかった」
騎士はふたたび童子然とした微笑を浮かべていた。
その口の端には白や薄緑色の粉がついている。
わたくしは一瞬迷ったが、指を伸ばしてそのまま払い落としてやった。




(終)













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