「母さま、あの木の根元をごらんください。
 もうクロッカスが咲いています」
「あら、もう?」
「―――ああ、通り過ぎてしまった。次に見つけたらすぐにお知らせします」
「ありがとう、アラン」
お母さまにほほえみかけられながら、アランは馬車の座席の上でなんでもなさそうに座りなおしました。
でも、心のなかは春風に包まれたようなうれしさでいっぱいでした。
なぜなら、今日から三日間は―――あるいは車上で過ごす往路復路も含めれば十日間は
―――ずっとこうしてお母さまをひとりじめできるからです。
まだ小さくて手のかかる弟たち妹たちはお父さまといっしょに都の宮廷でおるすばんしています。
アランはもう十一才の男の子ですから、さすがにお母さまのお膝に甘えたりするつもりなどありませんが、
ふたりきりでお話したいこと、弓矢の腕前が上がったこと、幾何が得意になったことなど、
そばにつきっきりで知っていただきたいことがたくさんあるのです。

「大切なかたにお会いするのよ」と告げられて始まった旅行ですが、
いつもと違ってお母さまのすぐとなりに座席を占められるうれしさに、
アランは「大切なかた」がどなたなのかということはさして気になりませんでした。
お母さまもアランをおどろかそうと思ってか、それ以上詳しく語ろうとはなさいません。
旅の目的地から考えて、きっと高名なお坊さまに祝福をさずけていただくことになるのだろう、とぼんやり予想するほかありませんでした。

車輪が大きくきしむ音につられて、アランはまた窓の外を眺めました。
灰色がかった白い空を背景にしてゆっくりと後方にながれてゆく景色は、冬の終わりの単調な彩りをまぬがれてはおりませんが、
よくよく注意して見ていると、さきほどのように色づきはじめた花々を目にする幸いにあずかることもあるのでした。




アランとその母親、すなわちガルィア第七代国王の王太子と王妃は
都から何台もの馬車をつらねてとある修道院に向かっていました。
地名を冠してオアシュ修道院、もしくは創立者の通称にちなんで「丘の上の慈父」と呼ばれるその修道院は、
ガルィア西南端の国境にほど近い丘陵地帯、すなわちスパニヤ王国東部にほぼ隣接する土地に位置しています。
世俗の行政区分からいえばガルィアの管轄下にあるとはいえ、この歴史ある聖域には、
出家をこころざす人々はもちろん、寄進をのぞむ人々、
聖人に列せられた創立者の遺体を拝そうとねがう人々が諸国からあまねくやってきます。
ことに、敬虔な信仰生活で知られる隣国スパニヤからの訪問者数は、ガルィア本国のそれをしのぐほどでした。

スパニヤ王室からガルィア国王クロードに嫁いできた王妃ジュスティーヌ、嫁ぐ前の呼び名でいえばフスティナも、
そのような栄えある聖人ゆかりの地へ足をはこぶことに、そして何よりなつかしき故国へ近づいているという思いに、
胸が満たされるような深いよろこびを味わっていましたが、
実はこのたびの修道院訪問の主目的は、参拝や寄進ではありませんでした。
ジュスティーヌはスパニヤ国王である兄君レオンと相談して、いとこ同士でありいいなずけ同士でもある自分たちの息子と娘を、
両国の国境沿いにあるこの修道院で引き合わせようと計画したのです。
ことの起こりは、ひと月ほど前に兄君からうけとった悲しい知らせでした。

結婚を間近にひかえたいちばん下の妹姫が、いいなずけではない青年貴族とかけおちをくわだてたので、
ふたりをとらえて引き離す処置をとったというのです。
王室法廷での審理の結果、青年は国外に追放され、妹姫は落飾を命ぜられました。
彼女はスパニヤ王室の婦人たちのあいだでもとりわけ美貌のほまれが高いうえに、
気性はごく活発で、誰が見ても僧院生活には向かない娘でしたが、下された裁定にしたがわないわけにはいきません。
かわいい妹がそれほど思いつめて行動を起こし、
ついにはそのような境遇におちいったことに、ジュスティーヌの胸はたいそういたみました。
けれどそれと同時に、別の不安がじわじわとわきあがってもきたのです。

スパニヤ王室でこのような不祥事が起こるのは、ここ百年だけとってみても決して珍しくありませんでした。
幼い頃からとてもきびしい信仰生活を課せられることの反動か、
スパニヤの婦人はその侵しがたいしとやかさばかりでなく、心に秘めた情熱のはげしさでも諸国によく知られています。
ジュスティーヌもわが身にまったくおぼえがないわけでもないだけに、
アランのいいなずけであるエレノール王女が彼の顔も見ないままに童女から乙女へと成長し、
まかりまちがって他の男の人を愛するようになり、秘すべき恋を秘しがたくなる日がくるのではないかと恐れたのです。
もちろん王妃の立場としては、アランとエレノールが生まれてまもないころにとりまとめた婚約がそのような形で破局を迎えては
両国のきずなと信頼のために不幸である、ということを第一に案じたのですが、
同時にまた、かわいい息子がそのような形でいいなずけに棄てられ屈辱と孤独をかこつ、
などという未来を想像するのは耐えがたくもあったのです。
そのような事態はまず起こりえないはずですが、万が一ということはいつかはだれかの身にふりかかってくるものだとも考えられます。

ジュスティーヌは夫であるクロードにも相談せず数日間思いつめ、やがてとてもいいことを思いつきました。
顔も合わせずに育ったいいなずけが別の誰かに恋する可能性をあやぶむのなら、
ごく幼いうちにふたりを引き合わせ、たがいに恋心をいだくようにお膳立てすればいいのです。
そうすれば、ふたりは婚約期間中も互いへのみさおをまもりぬき、
晴れて婚礼を迎えたあとは、あたかも不幸な運命により引き裂かれていた連理の枝がふたたび互いをからませあうように、
ふたりは情熱的に愛し合い赤ちゃんもたくさん授かることでしょう。

ここでむずかしいのは、まだ十歳かそこらの児童ふたりの間にどうやって恋をめばえさせるかということですが、
ジュスティーヌはこれには自信がありました。
少なくとも、エレノールがアランに好意をいだくことはまちがいないと彼女には信じられたのです。
わが子ながら、アランはとても美しく賢い男の子に成長しました。
そのうえ、(ジュスティーヌが見ているかぎりでは)小さい弟や妹たちをいつも気にかけ、
彼らのためなら自分のほしいものを我慢することもできる、りっぱなお兄さんなのです。
アランのような非の打ちどころのない男の子を、同じ年頃の女の子が好きにならないはずはありません。
そして兄君レオンから聞くところによれば、エレノールもやはり周囲に対し心くばりのできる優しい娘で、
はなやかな姉姫と妹姫たちにはさまれているので容姿はあまりめだたないけれども、
時とともに世にも美しい姫に育つことはまちがいない、ということでした。

(兄さまったら、すっかり親馬鹿なんだから)
ジュスティーヌは兄君からの手紙を一読するなりそう思いましたが、
かといって書かれてあることがまったくの嘘だとは思われませんでした。
エレノール王女の肖像画はすでに何枚もガルィア宮中にとどけられておりますし、
それを見る限りでは、気立てのおだやかさが外に現れた愛らしい娘なのはよく分かりました。
アラン自身はいいなずけの肖像画についてとくに何もいいませんが、まんざらでもないようすです。
(顔合わせの舞台さえととのえてあげれば、ふたりはきっと、互いを運命のひとと信じるようになるわ)
ジュスティーヌはそう思いました。
その考えをクロードにうちあけると、王さまは「やあ、それは名案だ」とご賛成なさり、
また、同様にしてその考えをスパニヤの宮廷に書き送ると、兄君レオンのほうも
「ほう。これはまた、両国の未来を見据えた遠謀深慮ではないか」と色よい返事を送ってこられました。
おそらく兄君も、末の妹姫のような悲恋を自分の娘たちにくりかえさせるわけにはいかない、
と心に深く案じておられたのでしょう。

ジュスティーヌの計画を実行に移すための準備は、両国の間で着々とすすめられました。
けれど、いくら友好国同士とはいえ一国の王太子がみだりに国境を越えるわけにはいかないし、
ジュスティーヌは彼に付き添うつもりではありますが、
いったんガルィアに嫁いだ以上は人質の役目も負っているため、おいそれと母国の土を踏むことなど許されません。
いちばん妥当なのは、
政治的重要性も王位継承順位も高くないスパニヤ第二王女エレノールがガルィアまで足を運び、いいなずけに面会することです。
けれどガルィア宮中まで赴いてしまったら万が一にも身柄を拘束されてしまうかもしれない、というスパニヤ側の危惧がありますので、
ガルィアのできるだけ周縁部で、政治的に中立な空間をえらばなければなりませんでした。
そこで邂逅の場とさだめられたのがスパニヤに隣接するガルィア西南部オアシュの地であり、「丘の上の慈父」修道院だったのです。
修道院ですから、本来はもちろん女性の立ち入りが禁止され、
修道士たちが静かでつつましい信仰生活を送るための場所なのですが、
これぐらい由緒と権威のある施設になると、世俗の王侯や使節たちの会合に用いられることも少なくありません。
ましてこのたびはそれよりもずっとささやかで平和的な用途でしたから、
修道院長もスパニヤ王とガルィア王妃のお申し出を快諾なさったのでした。




※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※




冬のなごりの澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込むと、アランはまた、うれしいきもちをかみしめました。
「『大切なかた』との会食がひかえているから、正午までには僧坊附属の迎賓館に戻ってくるのですよ」
とお母さまには念入りに言いわたされていたのですが、そんな約束も忘れてしまいそうなほど、
初めておとずれる大修道院のなかのひとり歩きというのは心おどるものでした。
もちろんお母さまといっしょならなおのことうれしいのですが、どうやら午前中は「うちあわせごと」がおありになるということで、
さきほど院長様の歓迎のあいさつを受けるや、迎賓館の奥のほうへ行かれてしまわれたのです。
けれどアランのような生まれの男の子にとっては、ひとりきりで過ごせる時間というのはまた格別な魅力がありましたので、
不平もなくおとなしくお母さまのお言いつけに従いました。
なんといっても、このたびの旅行には宮廷とちがってきびしい教育係もおりませんし、
護衛の騎士たちはといえば、
「ここは神聖無比な修道院の敷地内なのだから安全に決まっている」というアランの熱弁に納得してくれましたので、
ひとり歩きというのは文字通りのひとり歩き、自由そのものということなのです。

アランは三弟ルネほどには信心深くない子どもでしたので、
修道院の誇る絢爛たる礼拝堂やおごそかな瞑想室、いかめしい鐘楼などには興味が向きませんでしたが、
そのかわり、僧坊の裏手にどこまでも広がる菜園や薬草園の存在を知ると、心が浮き立つのをおぼえました。
王宮のなかの美しい庭園ももちろん捨てがたい遊び場ですが、
一流の庭師にすみずみまで剪定された植え込みとちがって、
いかにもふしぎな草花や生き物がみつかりそうな、野生となかば調和したようなこの場所に足を踏み入れることができるのは、
アランにはずっと魅力的なことに思われたのです。
薬草園のさらに遠方をながめると、どうやら周壁に沿って果樹も群生しているようでした。
修道院附属の農地の大半、作男たちを雇って耕作させる規模の葡萄園や小麦畑はもちろん敷地の外に広がっているはずですが、
いっぽうで修道士たちが日々の労働に励みまた憩う場所として、敷地内にもいくばくかの農林地帯が設けられているのでしょう。




まずは薬草園の入り口にむかって歩き出しながら、アランはいいことを思いつきました。
ガルィアに限らずこの大陸の諸国では一般に、冬至と春分のまんなかにあたる七日間は「息吹の週」と呼ばれ、
かすかな春のきざしとともに、一年で最も不思議な力が地上に満ちる週だと考えられています。
不思議な力がもたらす出来事についての言い伝えは国や地域によって少しずつことなりますが、
ガルィアの王都周辺では昔から、息吹きの週に早咲きのすずらんを見つけた者は、
春の精の眠りをやぶり願いごとを聞き入れてもらうことができると言われています。
修道院に到着した今日は、息吹きの週に入ってからちょうど三日目になります。
そしてアランは、広大な修道院の敷地をひとりで歩く自由を得たいま、ぜひすずらんを見つけだそうと思ったのです。

この修道院はガルィア国内のいちばん西南のほうに位置しているのですから、
早咲きのすずらんとて都で探すよりはずっと見つけやすいに違いありません。
アランはさっそく心を決めると、あたりを注意深く歩き始めました。
タイムやミント、セージ、バジル、ローズマリー、クレソンなど
とりどりの香草や薬草が植えられた畝や貯水池周辺を調べ、
この時期でも葉の落ちないこんもりとした茂みの陰を探り、
つたを幾重にも絡ませた編み垣の裏をたしかめていると、
気づいたときにはお日さまがずいぶん高くなっていました。
それでもやはりあきらめきれません。

薬草園の入り口から離れてしまうことは分かっていましたが、彼はかまわずさらに奥へと向かって歩いてゆきました。
しばらくすると、道の両脇に広がっていた薬草用の花壇はとぎれてしまい、代わりに森がはじまりました。
正しくはそれは果樹用の敷地で、修道士たちの目で見ればせいぜい林とよぶのが妥当な規模でしたが、
狩猟用に切り開かれた御料地の森しか知らないアランの目には、りっぱな森とうつりました。
いまはいずれの木も葉を落とし見るからに寒々としていますが、
夏や秋にこの場所を訪れたならば、みずみずしい果実たちのとりどりの色や香りで目も鼻も楽しめたことでしょう。
道の両脇を見渡しつつ進めば、いちじく、ざくろ、あんず、マルメロなど
高さや幹の太さも少しずつことなる木々の群れが順々に現れてはうつりかわってゆきます。
けれど、土地が肥えているためなのか、品種の特質のためなのか、それらはいずれも枝のはりが非常によいということでは同じでした。




広々としたくもの巣のような影を落とす木々の下をしばらく歩いてから、ようやく開けた場所に出たとき、アランは目をみはりました。
そこは突き当たりになっており、古ぼけた井戸があるきりでしたが、
冬枯れの景色をすみずみまでよく見てみれば、
小さな花を五つほど首に下げたすずらんが井戸の陰にひっそり隠れるようにして咲いていたのです。
やったあ、と駆け寄ろうとしたとき、前方から「まあ、すずらんが咲いてる」と喜ぶ声が聞こえました。
それはアランの国のことばではありませんでしたが、
お母さまが宮廷の内々でお使いになることばと同じでしたので、彼にも意味をとることができたのです。
そして井戸の脇からつと小さな影がすずらんに歩み寄ったかと思うと、匂いをかぐように腰をかがめて顔を近づけるのが見えました。
思いがけなくもほかの人に先んじられてしまったことを知り、アランは胸がはらはらしてきました。
けれどここで引き下がるわけにはいきません。なにしろ大切な願いごとの成就がかかっているのです。

人影を背後からよく見てみれば、それはアランとさほど年格好の変わらない女の子でした。
袖や裾などにひなげしの花が刺繍された異国風の上着はみやびやかで、
腰まで伸びた黒髪のつやづやしさは、鏡の代わりにさえなるのではないかと疑われるほどです。
けれど、それより何より、女の子がふりむいたときにアランははっと息を呑みました。
ガルィアの宮中ではめったに見られないほどまじりけなく黒いひとみは仔うさぎのように愛らしく宝石のようにきらきらとして、
まるでこの女の子自身が眠りからさめたばかりの春の精かと思われるほどでした。
その肌はやはり都ではあまり見かけない小麦色でしたが、お母さまの肌の色に少し似ているので、
それだけでもアランは、この女の子のことが好きになってしまいそうでした。

ところで女の子もまた、アランのことを見つめていました。
彼の赤みがかった黄金色の髪は絹糸のようにやわらかそうで、淡い褐色の瞳はやさしげで、
目鼻だちは宮廷のおかかえ細工師が腕によりをかけて作った人形のように繊細にととのっていたので、
最初は自分と同じ女の子だと見間違えたのですが、身につけている服や靴のようすから男の子だと分かりました。
そして、なんて色白できれいな顔をした男の子かしら、と思ったのでした。
でもすぐに、女の子はがっかりしました。目の前の男の子がこんなふうに口をひらいたからです。
「そこをどけ、じゃまだ。すずらんにさわるんじゃないぞ」

それは乱暴なりに、文法的にはきちんとしたスパニヤ語でしたが、どこか訛りも感じられました。
ここはガルィア領ですし、この男の子の見た目は明らかに北方の人間のそれなので、
この国の法律に守られたガルィア人ということになるのでしょう。
けれどその可能性にひるむことなく、女の子は相手の一方的な宣告に負けじと言い返しました。
「どうしてさわってはいけないの。わたしが先に見つけたのよ」
「おれが先だ。あの木々がとぎれたあたりから、もうちゃんと目に入っていたんだ」
「そうかもしれないけど、でもたどりついたのはわたしが先だもん」

なんてなまいきなやつだ、とアランも女の子に対してがっかりしました。
というよりむしろ、腹が立ってきたというべきでしょうか。
宮中では、妹のナディーヌを除けばかつて自分にこれほど無礼な物言いをする女の子に会ったことがないからです。
一瞬でもこの女の子のことをかわいいと思ってしまっただけに、アランはなおさら深く腹がたちました。
「おまえみたいななまいきな女に用はない。早くどいてどこかへ行け」
「いやよ、ぜったい」

女の子もむきになって言い返しましたが、実はどうしてもすずらんがほしかったわけではありません。
ふだん弟や妹たちのためにがまんすることに慣れているので、男の子が礼儀正しく自分におねがいしてくれさえすれば、
この早咲きの花もすっかりあきらめるつもりだったのです。
ところがこの男の子は、これまで自分をとりまいてきた召使いや貴公子たちのように恭しくかしずいてくれるどころか、
かつて聞いたこともないような勝手なことばかり要求してきます。

こんなおうぼうな男の子なんかに、こんなかわいらしいお花をゆずってあげるもんですか。
女の子はそう思いました。
「どけよ」「いやよ」「どけよ」「いやよ」「どけ!」「いや!」
どれだけ大きな声で言っても黒髪の女の子は引き下がろうとしないので、
これは力にうったえるのがいちばん早そうだ、とアランは思いました。
でも女をなぐったりしたら、お父さまやお母さまに申し上げられない罪をおかすことになり、
これから先何日も気分がわるくなりそうで、本当はそんなことをしたくありません。
このあいだ、妹のナディーヌがあんまりたてつくので肩をちょっと突き飛ばしたときでさえ、やっぱり後ろめたくなってしまったのです。

でも、目の前の女の子があのときのナディーヌ以上になまいきなのはまちがいありません。
まあ、口でおどかすくらいならいいか。アランはそう思いました。
「ほんとになまいきな女だな。なぐるぞ」
「あらそう、やってみればいいわ」
女の子は堂々と言いました。今すぐここにばあやや護衛の騎士が駆けつけてくれる、と信じていたわけではありません。
そうではなく、男の子をよく観察した結果、この子はことばづかいは失礼なほどにえらぶっているけれど、
この上品な装いや人に命令しなれた物腰からして、ちゃんとした家の子にちがいないと思ったからです。
聞くところによれば、ちまたでは妻をなぐる夫、恋人をなぐる青年は珍しくないそうですが、
ちゃんとした家に育った男の子は、女の子には優しくし淑女にはひざまずかなければならないと、しっかりしつけられているものです。
手を上げるなどもってのほかにちがいありません。
だからこの男の子のいうことはおどしにすぎないと、女の子はすっかり安心していたのでした。

実際、アランは振り上げかけたこぶしの振り下ろし先を見失い、きまりわるさを感じていました。
大事なのはすずらんを手に入れることなのだし、一歩ゆずってさっきの言い方をあやまろうか。
アランは一瞬そう思いかけましたが、女の子の得意げな態度を見るとかえって腹立ちがつのってしまい、
こんなやつにぜったい頭を下げてやるもんかと思いなおしました。
女の子のご機嫌をうかがいすずらんをゆずってもらうなどもってのほかで、べそをかかせるほどの意趣返しをせずには気がすみません。

だからといってなぐりつけて泣かせるわけにもいかないので、アランは困ってしまいました。
けれど、すぐにいいことを思いつきました。
さきほど薬草園の門をくぐる前、厩舎のそばを通りかかったとき、なかからふたりの男の言い争う声が聞こえてきたのです。
その荒々しい空気や高ぶった声音からは出家者とは思われず、
おそらく修道院にやとわれている俗人の馬丁であろうことはアランにも察せられました。
この修道院が位置するのは国境地帯であるため、ガルィア領とはいえスパニヤ系住民が多いことでも知られています。
彼らが話しているのもスパニヤ語でしたが、話の筋を追うこと自体は難しくありませんでした。
けれど細かい表現については、
アランのお母さまがお使いになる宮廷ことばとはかけ離れた方言や全く聞いたことのない罵りが山ほど含まれていたために、
半分ほどしか分かりませんでした。

でもアランは、ひとつだけ新たな言い回しを覚えることができました。
「おまえのお袋をはらませてやる」です。
これがどんなにひどい罵りであるかは、馬丁のひとりがこのことばを発したとたんに、
厩舎のなかでふたりを仲裁しようとしていた修道士らしい人物が大変な剣幕で彼を叱りつけたことからも明らかです。
ひょっとしたら、スパニヤでいちばん悪いことばなのかもしれません。
アランはまだ「はらませる」という動詞を習ったことはありませんが、「なぐる」や「けとばす」の仲間のようなもので、
それらよりもさらに重々しい動作を指すにちがいありません。
そんなことばをぶつけられれば、このなまいきな女の子だってきっと泣き出すことでしょう。

そう思いつくとアランはうれしくなり、高らかにそれを宣言しようとしましたが、ふと立ち止まりました。
彼は「おふくろ」が下々のことばで母親を意味することは知っていましたが、目の前の女の子の母親が誰なのかは分かりません。
だから、「おまえのおふくろをはらましてやる」とおどしても、
「やってみればいいわ。あなたはわたしの母さまを知らないくせに」と得意げに言い返されたらそれでおしまいです。
これほど腹立たしいこともありません。
少し考えてから、アランはついに大きな声で言いました。
「おれの言うことを聞かなかったら、おまえをはらましてやるからな!」
井戸の周りの空き地は一瞬静かになりました。
女の子が息を止めたようにこちらを見つめてくるので、アランは「勝った」と思いました。
この女の子はもうすぐ大きな目いっぱいに涙をためて、自分にわびてくるに違いありません。

一方の女の子は、少しちがうことを考えていました。
「はらませる」という動詞の意味を教えてほしかったのですが、正直にそれを口にすれば
「なあんだ。おまえはスパニヤの娘のくせにそんなことも知らないのか」
と、このいばりんぼうの男の子はいっそうえらぶって解説を始めるに違いありません。
そんなのぜったいにがまんできないわ、と女の子は思いました。
そんなわけで、彼女は自分の気持ちを悟られないよう黙りこみ、
できるだけ堂々と見えるよう男の子の目をじっと見返したのですが、動作はそこで固まってしまいました。
でも、このまま黙っていては彼のことばにひるんだと思われるかもしれません。
それもぜったいにいやだわ、と女の子は思いました。そこで勇気を出してこう言いました。
「はらませてみればいいわ。わたしは怖くないもん」
「なんだと?」

こう出られるとは思っていなかったので、アランは少しあせりました。
でもここまできて「はらませる」の中身を知らないなどと白状できるはずがありません。
そんなみっともない真似をしてこの女の子をいっそう得意がらせるくらいなら、その辺の石ころにでもなったほうがましです。
しばらく考えてから、アランはこう言いました。
「いま思い出したけど、はらませるには時と場所をえらぶんだ。いまここではだめだ」
「じゃあ、どこならいいの」
「もっと……もっと、明るいところだ」
「このあたりは木々の影で薄暗いから、だめということなのね」
「そうだ」
「森から離れたところじゃないとだめ?」
「そうだ。だから今はおまえをはらませないでおいてやる」
あなたってどうしてそんなにえらそうなの、と女の子は抗議しかけましたが、ふと思い直したように口をつぐみました。
そして、少し改まった口調で言いました。
「じゃあ、森の入り口まで戻りましょうよ。そのほうがあなたにも都合がいいでしょ」

「いや、おれはまだここにいる。ひとりで帰れよ」
アランはきっぱりと言いました。
「はらませる」の嘘がばれたら困るというのもありますが、
同時にまた、このあたりをもう少しよく探してみれば早咲きのすずらんがほかにも見つかるのではないかとも考えたのです。
女の子は何か言いたそうな顔をしましたが、結局アランに背を向けました。

「いいわ、ひとりで建物のあるところまで戻るから。約束の時間を過ぎてしまったら、ばあやたちに叱られちゃう」
「はん。さっさと戻れよ」
「も、戻るもん。じゃあ、さよなら」
女の子はそう言い残し、アランが歩いてきたのと同じ道を戻りはじめました。
けれど、森のなかに二三歩足を踏み入れたかと思うと、またすぐに一歩あとじさってしまいます。
一体なにをやっているんだろう、とアランはいぶかしく思いましたが、すぐに合点がゆきました。
「おまえ、ひとりで森を通るのがこわいんだろう」
「こ、こわくなんかないもん」
「じゃあなんでそこで立ち止まってるんだよ」
「うー……」
女の子は顔を赤くして、でも本当に困ったように口をもぐもぐさせていました。
目の前にひろがる暗い森を見やったかと思うとアランのほうを見たり、何度もそれを繰り返しています。
けれどついに、女の子は心を決めたように言いました。

「そう。森をひとりで通るのはこわいから、いっしょについてきてほしいの」
「はん」
アランはこれ見よがしに鼻で笑いました。
あまりに予想通りの反応が返ってきたので、女の子はまったく腹にすえかねましたが、なんとかおちついて言い直しました。
「わたしといっしょに、どうかついてきてください」
「ていねいに言い直しただけじゃだめだ。条件がある」
「条件?」
「今夜ひとばんだけそのすずらんをおれに貸すんだ。明日になったら返してやるから」
「今夜だけ?」
「そうだ。おまえは明日もまだ、この修道院にいるだろう?」

そう言いながら、アランは少しどきどきしていました。
実は、眠れる春の精に願いごとを聞き届けてもらうには、早咲きのすずらんを見つけたその晩に、
枕元に生けたすずらんの前で願いを唱えなければならないといわれています。
これはガルィアの畿内では子どもでも知っていることですが、
アランのお母さまはスパニヤから嫁いでくるまで全くご存じなかったといいます。
お母さまの侍女たちも同じように知らなかったようでした。
この女の子は明らかにスパニヤの生まれですから、早咲きすずらんの言い伝えはきっと知らないに違いありません。
でも万が一知っていたら、今夜ひとばんでも決して貸してはくれず、自分で願いをかけてしまうことでしょう。
春の精が耳を傾けてくれるのはすずらん一輪につきいちどきりなのですから、
願いをかける権利をそうそうゆずってくれるはずはありません。
女の子はしばらくふしぎそうな顔をしており、なかなか返事をしないのでアランは手のひらに汗をかいてしまいました。
けれど、女の子はついにうなずきました。
「ええ、いいわ」
アランはほっとして小さく息をつきました。
ですが同時に、何かいやしい取り引きに手を染めてしまった気がして、胸がちくりと痛むのを感じました。




ふたりは並んで歩き始めました。
左右には背の高いいちじくの木々がそびえ、薬草園へ、ひいては僧坊へ通じる小道は森の奥へと吸い込まれてゆくかのようです。
木々は葉を落としていましたが、ふたりの頭上で腕を組むように枝を交差させているので、
森のなかの小道にはあまり光がこぼれ落ちてきません。
来たときはすずらんを探すのに夢中だったので気になりませんでしたが、
いまこうして薄暗くしいんとした周りを見渡してみると、なんだかおどろおどろしい気がします。
アランはほんの少しだけ女の子の近くに寄って、何気ないそぶりで歩きつづけました。
ふと気になっていたことを思い出し、女の子に向かって問いかけました。

「そういえば、おまえはどうしてひとりでこの森を通り抜けてきたんだ。そんなに怖がってるくせに」
「薬草園の花壇でうさぎを見つけて、追いかけてたらここまで来てしまったの」
「うさぎ?」
「そう。息吹の週の間に、白い野うさぎを見つけたらいいことがあるのよ。知らないの?」
「そんなのは知らない。おれたちの習わしじゃない」
「ふうん」
「だいたいおまえ、目にするだけでいいことがあるなら、追いかける必要なんかないだろう」

アランのことばのなかに、ばかなやつ、というひびきを感じとったのでしょうか、女の子はむきになってつづけました。
「必要あるもん。男の子はともかく女の子はね、息吹の週のうさぎにさわるともっといいことがあるのよ。
 結婚したら旦那様に大切にされて、うさぎみたいにたくさんの赤ちゃんをさずかることができるんだもん。
 だからお母さまもばあやも、お庭遊びのときにうさぎにさわることだけは許してくれるのよ。
 とりわけ今回は大切なひとにお会いする前だから、うさぎさんを見つけたらぜひなでておきなさいと言われたの」
「大切なひと?」
「いいなずけに、お会いするの」

これまでとは打って変わった小さな声で、女の子はつぶやきました。
その頬が赤らんでいるのを見てアランは「はん」と思いましたが、なぜそう思ってしまったのかは分かりませんでした。
「おまえ、いいなずけがいるのか」
「ええ、ずっと昔からのとりきめなの。あなたはいる?」
「いる」
「どんな女の子なの?」
アランは少しことばにつまりました。
いいなずけの肖像画は数年前から誕生日ごとにガルィア宮廷へ届けられており、その姿はおおよそ見知っています。
いま思い起こすと、まだ見ぬいいなずけの髪や瞳の色、顔かたちは目の前の女の子と実に似通っているのですが、
同じ国の生まれだからと思えばそれはとくに気になりません。
アランの返事をためらわせたのは、ふたりともよく似た顔立ちでありながら、
この見知らぬ女の子のほうが肖像画のなかのいいなずけよりもずっとかわいらしいと思ったからです。

肖像画のなかのいいなずけはお人形のようにきれいなお化粧をほどこされ、
きらびやかな礼服を着ているけれど、なんだかいつもつまらなそうにすました顔をしています。
けれどこの女の子は、目鼻立ちはいいなずけとほとんど同じだというのに、
表情はずっと生き生きとしてみずみずしく、黒いひとみはいっそう光に満ち優しげなので、
心ひかれるということでは比べものになりませんでした。
アランはこれまで肖像画に描かれたいいなずけの美しさに十分満足していただけに、
目の前のこの事実をいっそうくやしく思いました。
しかしながら、男の沽券にかけても
このなまいきな女の子のほうが将来の自分の花嫁よりもかわいらしいなどとみとめるわけにはいきません。
本人に面と向かっているなら、なおさらです。

「その子、かわいい?」
「もちろん、かわいいさ」
アランは反射的に答えました。でも女の子は満足しないようです。
「どんなふうなの?髪はあなたみたいに金色?」
「髪も目もおまえと同じ黒だけど、おまえよりずっとかわいい」
「まあ!」
「会ったことはないけど、面倒見がよくて気立てもいい子だってみんなが言うし、
 おまえみたいにいちいち男の言うことに逆らったりするもんか」
「そんなにいい子なのに、あなたみたいないばりんぼうのお嫁さまになる運命なのね。かわいそうだわ」
いやみというわけではなく心から思っているような声で女の子がそう言うので、アランはいっそう苦々しく「はん」と答えました。
女の子はまた、自分も何か張り合わなくてはならないと思ったのか、こう付け加えました。

「わたしのいいなずけだって、肖像画ではあなたと同じ淡い髪や目の色をしているけれど、
 あなたなんかよりずっとりりしいんですからね。
 たくさんいる兄弟のいちばん上のお兄さまで、とってもせきにんかんがあって小さい子の面倒見もいいそうよ。
 あなたみたいに身勝手でおうぼうなひととはぜんぜん違うんだから」
「はん」
弟たちのお守りぐらいおれだってやってる、とアランは言い返そうかと思いましたが、それはあまり格好よくない気がしたのでやめました。
けれど、こんななまいきな女の子はどうでもいいはずだったのに、
彼女のいいなずけと比べられたことに気分を害している自分を、アランはふしぎに思いました。
そしてさらにみとめたくないことでしたが、この子についてもう少し何か知りたい、と思いました。

「そういえばおまえ、名前は?」
「わたし?わたしはレオノ……」
言いかけたものの、女の子ははっと口をつぐみました。
そして威儀を正すように背中をまっすぐにしてから、言い直しました。
「淑女の名をたずねたいなら、まず自分からなのるべきだわ」
「淑女?誰がだ」
「わたしよ、もちろん」
女の子は憤りに満ちた声で答えましたが、アランはわざと冷笑するように「はん」と返しました。
「おまえみたいなちんくしゃが淑女なもんか」

こう言ってアランはしばらく待ちましたが、女の子が何も言い返してこないので心配になり、そっととなりをうかがってみました。
女の子はうつむいてはいるけれど、肩をふるわせてはいないようです。
どうやら泣かせたわけではないと分かり、アランは少しだけ安心しましたが、うつむきがちなのがやはり気になります。
声をかけようかどうか迷っていると、女の子がふいに顔を上げて言いました。
大きな黒いひとみには、その声と同じくらいはっきりとした不安がにじんでいました。
「わたし、やっぱりみっともない女の子かしら。
 いいなずけにお会いしたら、きっとすごくがっかりされるんだわ」
殉教者のように思いつめた顔で突然そんなことをたずねられ、アランはあせってしまいました。
この子のことをみっともないとはかけらも思っていないし、さりとて面と向かって本音を告げるのはしゃくにさわります。
そうなればことばをにごすほかありません。

「え?いや、うん、まあ」
「やっぱり?たぶんみんなそう思っているんだわ。
 エスメラルダ姉さまや妹のマヌエラのことはみんながほめるのに、
 わたしのことをだれも口にのぼさないのは、きっと気の毒がっているんだわ」
「そんなことないだろう」
「ううん、本当よ」
「じゃあきっと、おまえの姉さまや妹が人目を引きすぎるんだ。
 おまえひとりを見てれば、はっきり言って、すごく―――」
「すごく、なあに?」
アランはことばにつまりました。
ここで本当のことを言ったらばつが悪いと思ったからです。

「すごくみっともないってことはないけどな」
「そんなのぜんぜんうれしくないわ」
女の子はよそを向いてしまいました。
べつに機嫌をとりたかったわけではないのですが、アランは何か言わなければならない気がして、もごもごとつづけました。
「つまり、べつにかわいくないってわけじゃない。
 まあその、見ようによってはかわいいと言えなくもない。
 だがまあ、そこまで限定しなくても、全体としてかわいいに分類できないでもない。
 つまり、その、おまえはかわいいと思う」
「まあ、―――ありがとう」
「むろん、おれの好みからすればおまえはいろいろと平らすぎるけどな」
「あなたの好みなんて聞いてないわよ」
実に冷ややかな声が返ってきたにもかかわらず、アランは持論をつづけました。

「言っておくが、おれの好みにあわせておいて損はないぞ。
 わがガルィアは文明の頂点にして世界の中心、諸外国のだれもが憧れるみやびの発信地だ。
 おれの意にかなう女が、世界でいちばんいい女とよばれることになるんだからな」
「あなたったら、自分がガルィアの王さまみたいな言い方をするのね」
「もちろんだ。だって―――」
言いかけて、アランは口をつぐみました。
べつに身分を明かしてもよかったのですが、この女の子をあまりおびえさせたくはなかったのです。
口の利きかたは本当になまいきだけれども、なまいきならなまいきのままでいてもらったほうがいいかな、と思ったのでした。




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