「たくさんあるねえ」
自分より頭ふたつぶん高い棚に並べてあるとりどりの人形を見上げながら、
オーギュストはロクサーヌ所蔵のぬいぐるみを見たときと同じ感心したような声を上げたが、
彼女らは精緻なレース飾りで縁取られた絹の服を着せられているだけで、
犬でも猫でも多足類でもないことでだいぶ興味が薄れたのか、じきに部屋をぐるぐる見回りたそうなようすになった。

「およばれした先のお部屋で勝手に動きまわったり、ものにさわったりしちゃだめ」
ロクサーヌは弟の手をつかみながら、厳しい声で戒めた。
年少者に対する躾としてそれは正しかったが、ほんの小さな子どもたちが借りてきた猫のように緊張しているのを見るのが忍びなかったので、
エレノールはそれとなく話題を変えようと声をかけた。
「そうだわ、料理長が最近、焼き菓子に凝っているの。
 こちらの宮廷の正餐では香辛料を用いた料理をあまり見かけないけれど、あなたたちに気に入ってもらえるかしら」
そして彼らの手をとり、部屋の中程に置かれた樫材の小卓を囲む席に就かせた。
彼女のいう料理長とは母国スパニヤから連れてきた初老の男で、
ガルィア王宮の厨房に口出しする権利はもとよりないが、はるばる異国から嫁いできた王太子妃個人の嗜好を満たすために、
彼女の宮室から遠からぬ一角に独立した小さな厨房と数人の部下を与えられているのだった。

「今日はわたくしが午餐をあまり口にしなかったせいで皆を心配させてしまって、先ほど持ってきてくれたの。
 でも手をつけられなくて、悪いことをしてしまったわ。
 冷めてしまっても美味しいから、よかったら一緒にいただきましょう」
そう言ってエレノールがふたりの前に置いたのは、大きく膨らんだ円形の、色も匂いも実に香ばしい焼き菓子だった。
上面には砂糖煮と思しき黄色い栗の切り身がふんだんに飾られている。
ロクサーヌたちには主たる香りの正体は分からなかったが、よく見れば、生地に混ぜ込まれた巴旦杏や胡桃も香りに深みを添えているようだ。
「とってもいいにおいがする」
「ナツメグというのよ。南の海をずっと渡った先の土地にしか根付かない木なの」
「スパニヤよりみなみ?」
「ええ。貿易がさかんになったおかげで、近年はだいぶ手に入りやすくなったけれど」
「ボウエキっていいひとだねえ」
「そうねえ」
心から賞賛するようなオーギュストの声に小さく笑いをこらえながら、エレノールは焼き菓子をナイフで大きく切り分け、ひときれずつ姉弟の前の小皿に置いた。
狐色の断面も鮮やかな三角形の菓子は、先ほどよりもいっそう濃厚に香りを立ち上らせているかのようだった。

「ねえさま、ありがとう」
大喜びで義姉に礼を述べて皿にフォークを伸ばしかけてから、オーギュストはふとロクサーヌのほうを振り向いた。
食べてもいい?とその茶色の眼が問いかけている。
「い、いいわよ。こういうときはことわったら失礼だものね」
そういうロクサーヌ自身は、フォークをとらずに両手を膝の上に置いたままだった。
「おいしいよ、ねえさま」
ひとしきり賞味したあと、口の回りに菓子の粉をたくさん残しながら、オーギュストはふしぎそうに言った。
エレノールも同様に問いかける。
「あら、おなかが空いていないの?」
「んん、―――ええ」
「では、お持ち帰りなさいな。包んであげるから」
「どうもありがとう。―――うん、でも、ええと」
ロクサーヌの口振りがいつになく迷いがちだった。どうしたんだろう、とオーギュストはいっそうふしぎそうな顔で姉を見ている。
自問自答中とおぼしき苦悩の表情をしばらく浮かべつづけたあと、ロクサーヌはようやく口をひらいた。

「エレノールねえさま、あのね」
「ええ」
「今ここでひときれ食べて、もうひときれほしいって言っても、よくばりって思わない?」
「もちろんよ、残りを全部包むつもりだったのよ。あなたたちふたりでお持ち帰りなさいな」
「わあ」
オーギュストがうれしそうな声を上げたかと思うと、ロクサーヌは牽制の一言を放った。
「あんたにはあげない」
「えっ」
「ロクサーヌ、どうしてそんな意地悪を言うの」
「意地悪じゃないもん」
ロクサーヌは早口につぶやくと弟を尻目に義姉の右耳に顔を近づけ、何事かを小さく囁こうとしたが、
ほぼ同時に強い力で肩を引き離され、思いがけぬほど厳しい声で命じられた。
「座り直しなさい、ロクサーヌ」
柔和な表情と優しいことばのみでできていると思っていた義姉が突然突き放すような厳しさを見せたことに、
ロクサーヌだけでなくオーギュストも凍りついたようにフォークを握りしめた。

「淑女は人前で囁きなどを交わしてはいけません」
「だって、―――人前じゃないもん。オーギュストは弟だもん」
「家族か他人かは関係ありません。
 あなただって、誰かが目の前であなただけを除け者にして内緒ごとを囁き合っていたら悲しい気持ちがするでしょう?
 それがあなたの侍女たちでも、兄君や姉君がたでも悲しいことに代わりはないでしょう。
 いいえ、親しい肉親にそんなふうにされるほうが、赤の他人にされるよりずっと悲しいわ」
ロクサーヌはしばらく唇を噛むようにうつむいていたが、最後にとうとう、ごめんなさい、と呟いた。
「わたくしに謝っても仕方がないわ。オーギュストのほうを向いて言わなければ」
「ぼく、―――ぼく、ぜんぜんいやじゃなかったよ」
オーギュストが心配そうな声で言った。
彼はもとよりエレノールとロクサーヌの話の展開についてゆくのに遅れをとっていたが、
義姉の前でうなだれたままの姉をこれ以上見ているのがつらくなり、口を挟まずにいられなくなったのだ。
「本当に?オーギュスト」
「ほんとうだよ」
「―――あなたが気にしていないなら、これ以上は言わないけれど」
小さな義弟に視線を移してから、エレノールはしばらく沈黙し、やがて義妹のほうに向き直った。

「ねえロクサーヌ、あなたはさっき、わたくしに何を伝えようとしていたの?何をそんなに、秘密にしたかったの?」
「―――お母さまに」
「お母さまに?」
「お母さまに差し上げるからって、そう言うつもりだったの」
それを聞くと、エレノールの表情がふっとやわらかさを取り戻した。
「まあ、とてもすてきな考えだわ。オーギュストに秘密にすることなんて何もないのに」
「わたしだけの考えにしたかったの」
「あなただけの?」
「この子は連れていかずに、わたしひとりだけでおくりものをしたかったの。
 お母さまが、わたしのことだけ余分に好きになってくださるように」
「まあ……」
エレノールはゆっくり瞬きをしながら義妹の小さな顔をじっと見つめた。
平素は淡い桃色を帯びて瑞々しい白皙の肌は、いつのまにかはっきりと赤みを帯びている。
「オーギュストと一緒だと、お母さまはいつも、オーギュストのことばかりお話しになるもの。わたしのことを話すときでも」
それは別にかすれ声ではなかったが、八歳の童女のものとも思えない、引き絞られた弦のように張り詰めた口調だった。
エレノールは何も言わず、小さな横顔をただ見ていた。
嫁いでからの日常において元々さしたる接点のなかった義妹の口からこんなことを告げられるのはむろん初めてだが、
ことばを獲得してからまだ年数の経たない彼女がことばにしようとしてしきれない部分も、聴覚を越えて少しずつ伝わってくるような気がした。

エレノールはこの国の王太子妃として輿入れしてきた数月来、父方の叔母にあたる義母こと王妃ジュスティーヌの病床を、
夫方の親族の想像する以上の頻度で熱心に訪れていた。
エレノールと同い年の夫、王太子アランの母であるジュスティーヌはむろんエレノールが生まれる前に母国スパニヤを後にしていたので、
エレノールにとっては婚礼の日まで全く遠い存在だったが、いざ異国の宮廷に身を置いてみると、
同じ土地の同じことばで育った肉親というだけで、心を寄せる理由になったのだ。
それが病に臥して何年にもなる、自分の母親に近い歳の婦人ならばなおのことである。
実はこのナツメグ入りの焼き菓子もすでに何度か叔母の枕元に持っていったことがあり、
医者の制限内でしか賞味は許されないもののせめて母国の食卓の香りを偲んでもらおうとしたものだが、
エレノールはむろんそれはロクサーヌには言わなかった。
誰であれ「名案」を実行するときは、自分が初めてだと信じたいに決まっている。

代わりに思い出すのは、叔母が何かにつけて末子のオーギュストのことを口にのぼし、
七人の子どもたちのなかでもとりわけ心に懸けていることだった。
同じ年頃の平均的な子どもたちに比べて明らかに発育が遅いように見られるわが子を気に懸けずにいられないのは人の親なら誰しも無理のないことだが、
すでに成人に達している上の子どもたちはともかく、オーギュストとほとんど歳の変わらないロクサーヌにとって、
母親の表情や声音から絶えず感じ取れるそうした心のありようは時として耐え難いに違いない。
エレノールには、病床の叔母が身を起こしながら、下から二番目の娘に優しく話しかけるようすが想像できた。
「ロクサーヌはいつも、オーギュストのいいねえさまね。
 おまえがいてくれるから、母さまはあの子のことを心配しないでいられるわ」
わたしのことを話すときでもオーギュストのことばかりお話しになる、というロクサーヌのことばはつまり、そういうことなのだろう。
小さい子どもというのは概ね自分より大切にされる小さい子どもを嫌うものだが、
それにしてもロクサーヌがオーギュストに対してとる態度には時折理不尽なまでの冷たさが滲む理由が、エレノールはやっと分かりかけてきた。

「ねえ、ロクサーヌ」
長い沈思のあと、エレノールは義妹に話しかけた。
「あなたはとても、お母さまに喜んでいただきたいのね」
「うん」
「あなたがひとりでこれをお持ちしても、お母さまはもちろんとても喜んでくださると思うけれど、
 もしもあなたがオーギュストと一緒にこれを差し上げたら、もっと喜んでくださるかもしれないわ」
「―――知ってるわ。お母さまはオーギュストのほうがお好きだもの」
「聞いてロクサーヌ、そうではないわ。
 あなたひとりで素敵な考えを独り占めすることもできたのに、
 オーギュストも一緒に『素敵なこと』のなかに入れてあげられるお姉さまになったら、
 お母さまは必ずそのことを見抜かれて、あなたのことをいっそういとしくお思いになるわ」
「―――ほんとう?」
「本当よ。それに、とても安心なさる」
「安心?」
「小さな女の子だと思っていたロクサーヌが、もうきちんとした淑女のように、
 自分より小さな子どもを大事にしてあげられるとお知りになったら、安心なさらないはずはないもの」
「淑女」
「ええ、淑女よ」

ロクサーヌはエレノールから目をそらしたまま、しばらく押し黙っていた。
やがて小さく口をひらくと、いいわ、とぼそりとした声で呟いた。
「今度お母さまに会いに行くとき、オーギュストも連れていってあげる」
エレノールは思わず口元をほころばせ、ロクサーヌの艶のある亜麻色の髪をそっと撫でた。
「優しい姉さまね」
「エレノールねえさまは」
「え?」
「一緒に行かないの?」
「まあ、わたくしも誘ってくれるの?ありがとう」
「エレノールねえさまもいっしょなら、アランにいさまもさそおうよ」
およめさまはおむこさまと常に一対で活動するものだと信じるオーギュストが何の気なしに提案した。
ロクサーヌの口は反射的に「このばか」と動きかけたようにエレノールには見えたが、結局彼女は弟をなじることはせず、
「今回は三人でいいの」と断定的に告げただけだった。




(こんな小さな子でも、兄君とわたくしの不仲を感じ取っているんだわ)
表情に愁いを出さないようにしながら、それでもエレノールは居たたまれない気持ちを抑えがたく感じていた。
嫁ぎ先の人々みなに不安をもたらし、こんな小さな子どもにまで気を遣わせている自分たち夫婦の不和の原因が
他ならぬ自分の頑なさにあるという事実を改めて直視することは、やはり罪の意識と向かいあう営みに他ならなかった。
(―――でも)
でも、やはりできない、とエレノールは心に呟いた。
エレノールとて、嫁いでこのかた一度も歩み寄りを考えなかったわけではなかった。
輿入れ行列の美々しい馬車に揺られて国境を越えようとする前から、すでに幾度も自らに言い聞かせていたのだ。
わたくしがかの国で幸せになることを、他ならぬあのかた自身が望んでいらっしゃる。
だからわたくしは夫となるかたを愛し、また愛されるべく努めなければならない、と。
だが婚礼の日に初めて対面した花婿は、彼女がそうあってほしいと願ったような青年ではなかった。
祭壇の前で誓いを交わす限りでは、かねてからの評判どおり端正かつ優美そのものの容姿と挙措に、エレノールの胸とて一度も波立たなかったわけではない。
だがそれだけに、まもなく垣間見せられた新郎の交遊関係は彼女を深く失望させまた憤らせるに十分だった。

王族の婚礼の常として、荘厳な誓約式の後には、
国中の貴族を一堂に会せしめたのかと疑われるほどおびただしい数の賓客たちから挨拶と祝辞を捧げられる時間が始まったが、
そのうちの際立って美しい令嬢や貴婦人たちのうち少なからぬ者は、彼女の夫となったはずのアランとずいぶん長いこと親密な口調で話を交わし、
独身時代の彼と特別な関係にあったことを誇りとするような、それでいながら不思議と奥ゆかしい笑みを浮かべつつ、
この国の王太子妃として迎え入れられたばかりの隣国の王女の指先に恭しい接吻を贈るのだった。
エレノール自身も父母の命により定められた許嫁とは別の青年を愛してしまった身であるだけに、
夫の独身時代の恋人の出現というだけなら寛容を貫く覚悟はあった。
だが、彼女の予想しなかったことには、そういったゆかしい微笑を湛えながらアランと意味深な目配せを交わす佳人は五指を越えても尽きることなく、
さらにあろうことかアラン自身が、彼ら夫妻の前から順々に退出していく彼女たちの背中を見るともなしに眺めながら
「今のは私といささか親密な友誼を築いてこられた婦人がただが、姫におかれてもどうか、追々ご承知おき願いたい」
と隣に立つ花嫁に淡々と語る始末だった。
潔いほどに平坦なその口振りはつまり、結婚後も彼女たちとの交渉を絶つ気はないということであり、
それを受け入れるのは我が妻たる女の義務であることを心得よという宣告に他ならなかった。
嫁ぎ先の宮廷の風紀がいかに糜爛しているかということについては、エレノールは生国にいたころから母親たちにしっかりと吹き込まれ、
「叔母上を見習って、おまえは決してそのような気風に染まってはなりませんよ」と何度も諭し聞かされてきたものだが、
今こうしてその性道徳の退廃ぶりを眼前に突き付けられてみると、予期していた以上に深刻な不快感をおぼえざるを得なかった。

(今夜このまま、求められるがまま応えてしまったら、あのかたに顔向けできない身体になってしまう)
婚礼初日の行事一切が終了したのち、ようやく足を踏み入れた夫婦の寝室で、
枕も褥も幾重もの帳もすべてがまっさらな寝台にひとり腰掛けながらエレノールが思ったのは、祖国の宮廷で別れを告げた恋人の最後の残像だった。
神の前で誓いを交わした以上、妻たる者は身分の貴賤を問わず常に夫に従順で貞節たらねばならないという普遍の道理を越えて、
いまの彼女にはかの新郎に肌を許すことが、結婚の神聖に対する違背よりもさらに罪深い業に思われてならなかった。
(―――あのかたは、あんなに大切に触れてくださった)
エレノールは我知らず、自身のなめらかな左手の甲を右手の指でなぞっていた。
すべては過ぎ去った思い出だと知りつつ、彼があの宵にくれたあの刻印が浮かび上がることを、どこかで期待している自分がいた。

アランと同衾した場合に自分がどのように扱われるかは、生娘の身にすぎない今でさえふしぎなほど仔細に想像できた。
彼はおそらく、その話し方も指先も、最初から最後まで優しさを保ちながら花嫁の心身を解きほぐそうとするだろう。
花嫁がどんなにぎこちなくても、あくまで辛抱強く余裕を持って導いてくれるだろう。
彼はきっと、色々なことばを知っている。
女がどんなことばをどんなときに告げられるのを望んでいるか、おそらくは、女自身より知り尽くしているにちがいない。
そして女の奥深くで自らを解放し、ようやく身体を離す前に、再び顔を下ろして接吻を落とす。
そのとき彼の褐色の瞳に浮かぶものの正体が、エレノールにはなぜかはっきりと分かる。
他の細部は全て想像にすぎないとしても、これだけは奇妙に確信できる。
彼が自分を見下ろすそのときにあの褐色の瞳に浮かぶのは、戦歴に箔をつけたことへの満足の色、それだけにちがいない、と思う。
その感動は同衾を重ねるごとに薄れはしても、この女でなければならないという思いへ転化することがありうるとは思われない。
彼の満足をより深めるすべがあるとしたら、他の女よりいっそう従順に、いっそう放恣に振る舞うことに同意したそのときではないのか。

(―――いやだ)
誰もいない寝室で、エレノールは激しくかぶりを振った。噛み締めた唇が熱くなっていた。
祖国を発つ前に恋人とふたりで過ごしたあの短い晩春の宵を、彼女は忘れたことはなかった。
骨張っているかと思えば案外筋肉がついていた両腕のなかで、恐る恐る力が込められてゆく抱擁、少しずつ短くなってゆく吐息の間隔、
そしてためらいがちに彼女の肌に痕を残した唇の温かさを、わずかな熱の高下に至るまで、彼女は克明におぼえていた。
あのとき、彼はたしかにこの身のことを、地に落ちる前の初雪よりも清らかだと思ってくれていた。
だからこそ、あの王子に触れられるのだけは耐えられないと思った。

(あのひとを受け入れたくない)
彼女は今度こそ自分の気持ちがはっきりと分かった。
それはいわば、王女という出生に当然のように伴う高い矜持とは別に芽生えた、彼女の新しい自尊心だった。
この一点を譲れば、自分の心の一部が永遠に死んでしまうと思った。
だから譲るまいと思った。
それから数刻後、寝室を訪れた王太子の前で、エレノールはおぼつかない手つきで短剣を握った。
自分の手も声も震えていることがたまらなく恥ずかしく、
祖国の名と使命を負って嫁いだ身でありながらこんな行為に及んでいる自身の頑なさが何より恥ずかしく、けれど退くことはできなかった。
そして花婿は、ごく無感動な目で花嫁を一瞥すると、寝室の扉をくぐることはなくなった。




「ねえさま、またかなしそう」
オーギュストの声でエレノールは自室の風景に引き戻された。
ロクサーヌが何かを言いかけようとして止めた。その代わりのように、黙って身体を寄せてきた。
(―――この子は、わたくしがこの子のお母さまのために悲しんでいると思っているのだわ)
そう知った瞬間、エレノールは瞳を閉じた。息をすることさえ憚られるかのようだった。
(すぐそこの離宮には叔母上が病に倒れられて久しく、こうして座る両隣には母君の平安を願ってやまない小さな子どもたちがいるというのに、
 わたくしは今このときでさえ、わたくしの苦しみだけに囚われている)
ことばにならない疚しさと恥ずかしさが、気管をゆっくり締めつけてゆく。
けれど時にこうして己の卑小さを俯瞰したところで、己の思念はすぐに元の場所へと回帰してゆくことも分かっていた。
釈明をすることもできないまま膝に視線を落としかけて、彼女はふとロクサーヌの重みが増したことを知った。
伏せたまつげの間から見れば、無論少女の体重が変化したわけではなく、細い両腕を伸ばしてこちらの胴をしっかりと抱き締めているのだった。

「お母さまが、おっしゃったから」
エレノールが口をひらく前に、ロクサーヌは脈絡もなく怒ったような口調で言った。
「お母さまが?」
「悲しそうなひとがそばにいたら、だきしめてあげなさいって、お母さまが」
威勢よく乱暴に始まった声が、次第次第に細くなってゆく。その代わりでもあるかのように、腕に込められた力はまた強くなった。
エレノールは何かを言おうとして、何も言わないまま義妹の腕の力を感じていた。
「ぼくもする」
相変わらずぼんやり夢見るようなオーギュストの声が、ふいにふたりの空気を弛緩させた。
「エレノールねえさま、いい?」
声に出して許諾する代わりに、エレノールはにっこり笑いかけた。
オーギュストは喜色とともにロクサーヌの反対側から義姉に抱きつき、左胸の横に顔を埋めた。
かあさまとおなじにおいがするねえ、と呟くのを聞いたそのとき、エレノールの胸はふいに静かに満ちあふれた。
誰かを心から愛すると、世界は誰かと自分のことだけでいっぱいになってしまう。
ためらいがちな愛もそうでない愛も、目を開けてみればこんなにすぐ近くにあるのに、自分の心がここにないことが悲しかった。

「―――あ」
しばしの静止を破ってロクサーヌがまぶたを上げたのと、その唇が驚きを発したのとはほぼ同時だった。
「どうしたの、ロクサーヌ」
「うさぎさんが」
「うさぎさん?」
「ほんとだ、うさぎさんが」
エレノールの身体から顔を離したオーギュストもやはり驚きの声を上げ、姉の後につづいて窓際に走り寄った。
(そういえば、ぬいぐるみとあの箱は椅子の上に置いたままにしてしまったのだったわ)
エレノールは手ではっと口を押さえた。
誰かが持っていってしまったのだとしたら、一大決心の末にあれを贈ってくれたロクサーヌたちに申し訳が立つ余地もない。
動悸が早まるのを感じながら義理の弟妹たちが駆けていったのと同じ方角へ目をやれば、半ばひらかれた大窓の向こう、
テラスから数歩離れた芝生の上に籐製の椅子が相変わらずぽつんと佇み、淡い桃色のうさぎもやはり同じ姿勢で椅子の上に鎮座しているのが見えた。
けれどエレノールが安堵の息をつけなかったのは、うさぎの腕のなかにあの小箱だけでなく、
ほとんど抱えきれないほどの薄紫色の花束が置かれていたからだった。

三人で再び芝生に降りてみると、それはサフランの花束だと分かった。
サフランというと通常、薬用として珍重される雌しべのいかにも薬品らしい味気ない匂いのほうが想起されるが、
秋咲きの花は短い間だが薔薇に似た香りを発する。
エレノールはうさぎに顔を近づけて小さく息を吸った。ほのかに頬をなでるような香りだった。
「きれいだねえ」
花束を眼前にして弟の口から漏れた素直な感想に、ロクサーヌはすぐには答えなかった。
その場で石膏像にでも変じたかのように微動だにせず、なめらかな紅玉髄でできたうさぎの丸い瞳を、負けないくらい丸く見開いた眼でじっと見ている。
(あらあら)
エレノールは義妹の真剣な顔を見下ろしながら思った。
この子はきっと、小さな弟が信じた以上に、このうさぎのぬいぐるみは地上の奇跡だと信じたにちがいない。
「―――ねえ、ねえさま」
ロクサーヌがためらいがちに切り出そうとすることばの先をおおむね予測しながら、エレノールは彼女の目線に合わせるようにしゃがみこんだ。
「なあに、ロクサーヌ」
「あのね、このうさぎさん」
「ええ」
「このうさぎさん、あのね、わたしに……」
彼女らしくもなく、ロクサーヌは口をもごもごさせた。エレノールはそこに浮かぶ葛藤をしばらく見守っていたが、やがてそっと後を引き取った。

「姉さまは思うのだけど」
「―――うん」
「うさぎさんはきっと、あなたのお部屋で、あなたと過ごすのがとても好きなのね。だから今、お花を持ってきてくれたのではないかしら。
 申し訳ないけれど、わたしはこちらの見知らぬお部屋では暮らせないから、代わりにこれを受け取ってくださいな、という」
「そう、かしら……そう、かも……」
「だから、こういうのはどう?あなたが贈ってくれたこのうさぎさんは、これからもあなたのお部屋で預かってもらうの。
 姉さまと遊んでくれるときだけ、時々、連れてきてもらっていいかしら」
「……え、ええ!」
ロクサーヌは勢いよく首を振ってうなずいた。灰色がかった大きな緑色の瞳がいつにも増して光を帯びている。
が、その眼はふいに伏せられ、少し間を置いてから、重大な決心を告げるようにまた上げられた。
「やっぱり、だめ」
「あら、どうして?」
「これはもう、姉さまにあげたものだから、返してもらったりはしないの」
「あら、でも、預かってもらうだけなのに」
「同じことだもん。―――王宮の主役は、コウケツでないといけないの。いやしいふるまいはいけないの」
ロクサーヌは難しい顔をしながら呟き、それからまた、重々しげに言明した。
「代わりに、わたしが時々うさぎさんに会いに来てあげる。そうすればさびしがらないでしょ」
「そうね、それもいいわね」
エレノールはほころびかけた口元を隠しつつ、義妹に負けないくらい厳かな口調で承諾の意を伝えた。

「このうさぎさん、すごいうさぎさんだったんだねえ」
あたかも騎馬試合で勝利を収めた意中の騎士に愛の証を捧げる乙女のように、
実に粛々とした面持ちでロクサーヌがエレノールに改めてぬいぐるみを進呈するようすを見上げながら、オーギュストが心からの感嘆を込めて呟いた。
本当にそうね、とうなずいたエレノールは、幼い弟妹に再び室内に戻るように促すと、彼らのあとにつづいて自らもテラスを抜け、窓敷居をまたいだ。
(本当に、どなたが贈ってくださったのかしら)
淡い訝しみを留めつつも、エレノールの心はいつのまにか少しだけ、平安を取り戻しつつあった。
わたしが生けてあげる、と待ちかねたように手を伸ばした義妹に花束を渡したあとも、うさぎ自身のやわらかな生地には甘い香りが残っていた。
エレノールはしばらくその赤い瞳を見つめてから、肌触りのいい小さな額に短く接吻を落とした。




「じきに、宵の礼拝の時間でしょう」
眼球解剖図の模写に没頭したまま背中で問いかけるナディーヌの声に、
ルネは部屋の隅に置かれた足台とも椅子ともつかない荒削りな木細工に腰かけたまま無言でうなずいた。
今の仕草は姉の視界には入らないはずだが、無音の応えでも彼女にはなぜか伝わるのだった。
「戻らなくていいの」
「ええ」
「司祭さまに反抗?」
「まさか、そんなことは」
慌てて抗議の声を上げる弟の律儀さに、ナディーヌは製図ペンの先を調整しながら短く笑った。
二歳上のこの姉は、ことば遣いはともかく生活態度も男みたいに簡素なら興味の赴く先もたいがい男に似ている、とルネは昔から思っているが、
彼女のなかで最も男らしさを感じさせるのは、他ならぬその笑いかたである。
極端に低いというわけではないが、ほどよく深くほどよく突き放すような音の連なりは、
同年代の娘たちの華やいだ嬌声とは似ても似つかぬとはいえ、ルネの耳にはむしろ座りがよかった。
教会が忌むところの人体解剖学などに傾倒するのはどうかと思いつつも、
(ともあれ姉上は、表立って気配りを向けてこられぬのがいい)
と胸中に呟きながら、彼は姉の部屋のほとんど飽和しかけた書架から適当に取り出した革張りの書物を読むともなしにくくっていた。
異教文化圏との接触を経て近年のような医療技術が確立するずっと前に、教会の説く人体観を厳密にふまえて作成された原始的医学の解説書である。

誰とも話をしたくないが誰かの存在を遠からぬところに感じていたい、そんな妙に分裂した思いを御しきれなくなったとき、
ルネは大抵ナディーヌの部屋へ向かった。
姉は別に他人より親切だとか寛容だとかいうわけではなく、
むしろ同輩の令嬢たちのように実像以上に心優しく善良な性質だと思われたいという欲求に乏しい分、
冬の朝のような冷たく乾いた空気を濾過もせずそのまま発するところのある娘だが、
その長所も短所もおおむね把握しているルネにとっては、他者の存在も不在も淡々と受け入れ、その動向に表立った関心を見せず、
かといって見かけほど無関心というわけではない姉のそばは独特の居心地よさがあるのだった。
冷淡なりに配慮がある、という点では長兄のアランもよく似ているが、最近のルネは、彼と一対一で話をすることがなんとなくためらわれるように感じていた。
これといった理由はないが、ただ何となくできないのだった。
それに加え、今回ルネの心に常ならぬ動揺をもたらした事件の遠因は長兄自身にあるのではないかと思われるだけに、
顔を合わせることをいっそう切実に避けねばならぬ気がした。
他方で、アランとナディーヌに挟まれた位置には次兄のマテューがいる。
彼は生来の明るさとそれに輪をかけた軽い物腰で以ていつ誰と一緒にいても全く緊張を感じさせないという、
王族としては長所とも断じがたい性質に恵まれた男であり、ルネにとって兄弟中最も気負いなく話せる相手は実際のところ彼なのだが、
いつも人の輪の中心にいる人間の常というべきか、次兄が本質的には好んで独りになりたがる性分だということも知っているので、
親しい肉親であるからこそ、あまり頻繁に訪ねるのもためらわれるのだった。

「いい匂いがする」
ふとナディーヌが、独り言のように口をひらいた。
「おまえもそろそろ、花とたわむれることをおぼえたの」
「え?」
「物言う花と」
「ああ……」
ルネは言い淀んだが、否定は口にしなかった。
想うべきではないひとのことを思い詰めるあまり愚かしい振る舞いをしたと類推されるより、
歳相応の令嬢たちを相手にした歳相応の遊びに手を染めるようになったと誤解されたほうが、ずっと救いがある気がした。
「姉上も、彼女らのように香水なり香料なりを召されればいいのに」
姉と同じ軽やかな調子をなぞってルネは返した。
「そうすれば僕がこの部屋に来ても、不行跡が浮くことはなかった」
ナディーヌはまた少し笑い、他の香りと混じったところで、元の香りが立ち消えたりはしないのよ、と言った。
「本当に清めたかったら、更衣なり沐浴なりしてきなさいな」
そして、いつまでもこんなところで無為に過ごさず浴室へ行ったら、とでも言いたげに、彼に向かって追い払う手振りをした。
ルネは不承不承というそぶりを見せながらも、その実はいくらかの安堵をおぼえたような顔で席を立った。

ようやく成長期にさしかかろうとする華奢な背中が扉の向こうに消えたあと、
ナディーヌは弟が座っていた部屋の一隅までゆっくり歩いてゆき、まだ幾分瑞々しさを残している小さな薄紫色の花弁を床からつまみ上げた。
あの子にしては珍しく、ややこしいことになってるのかしらね、とナディーヌは思った。
ルネは生来、生活環境の華美を嫌う。
その上曲がりなりにも思春期の少年である以上、よもや自室に飾るために花を摘み歩くことはないだろう。
されば彼は、誰か特別な相手に贈るために、全身に香りが移るほどおびただしい花々を手ずから摘んだということになる。それならばそれでいい。
ナディーヌの心に懸かるのは、それとなく水を向けてみても、彼が最後まで真実を伏せようとしたことである。
信仰生活への傾倒が王族の誰よりも著しい弟は、嘘をつくことに対する嫌悪感も人一倍強い。少なくともナディーヌの知るルネはそうだった。
血を分けた兄弟と言えども、誰にも告げずにひとり変わってゆくものなのだ、と今さらのように思った。

(―――願わくは、あの子の背負う罪の意識が、沐浴で清められるくらいのものであるように)
ナディーヌは掌に置いた花弁をふたたび一瞥した。
そして無造作に掌を返し、床に舞い落ちるままにした。




(終)













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