「エレノールねえさまをハクガイしにいくの。オーギュスト、あんたも来なさい」
頭上から一方的に告げられて、六歳のオーギュストは手元の虫籠から顔を上げた。
ふたつだけ離れている姉姫ロクサーヌが案内も請わずに突然この部屋に現れて突然命令を下すのはいつものことだが、
元々の性格がゆっくり生まれついた弟王子には彼女の話についてゆくことは往々にして難しかった。
「エレノールねえさまって、アランにいさまのおよめさまのこと?」
「ほかにだれがいるっていうのよ」
「ハクガイってなにをするの?」
「とうぜん受けるべきむくいを受けさせることよ」
「むくい……」
オーギュストは考えこむように少しうつむいた。
「エレノールねえさまは、ロクサーヌねえさまになにかわるいことをしたの?」
「そんざい自体が悪なのよ。わたしからだいじな地位をうばったんだもの」
「ええっ」
オーギュストは半ば驚きつつ半ば混乱したような声を上げた。
「エレノールねえさまはとってもやさしいひとだよ。じぶんより小さな子どもからなにかとりあげたりなんてしないよ」
「するのよ。あのひとがおよめに来て以来、ばあやから大臣たちまで、王宮のみんなの関心はあのひとひとりに集まっているじゃない。
 話すことといえば、あのひとがどんなにきれいかとか、とついできたばかりで気がふさいでいるようだとか、
 アランにいさまとの間になんとか子どもをもうけてほしいものだとか、そんなことばっかり。
 このままでは、王宮の主役たるわたしの地位があやういわ」
「ねえさまはしゅやくだったの?」
何かにつけて騎士道物語的な思いつきを提案しては上の兄たちにはいはいと体よくあしらわれているロクサーヌの姿しか知らないオーギュストには、
姉の発言は純粋に検討の余地があるように思われたが、彼女の顔色から、それ以上の疑義を呈することは身の危険につながると察したので口をつぐんだ。

「わたしをさしおいて、だれが主役だっていうのよ。
 ナディーヌねえさまははじめから勝負をおりているようなものだし」
彼女のいう勝負とは何を巡っておこなわれるものなのか、オーギュストには今ひとつ判じがたかったが、
上の姉ナディーヌがロクサーヌと同じ足場に立っていない、という意味ならなんとなく理解できた。
今年十五になるこの姉姫は、もうひとりの女きょうだいとは対照的に、
自分が女性に生まれついたことにほとんど意義を見出だしていなさそうだ、というのはいかに幼い彼でも分かるのだった。
弟の困惑になど目もくれず、ロクサーヌは力強くつづけた。
「みんなはわたしのことをまだ子どもだと思ってまじめに聞いてくれないけど、大きくなったらわたしはぜったい、
 宮中のわかものや外国の王子さまたちの求愛をひとりじめすることになるのよ」
「じゃあ、大きくなるまでしゅやくはエレノールねえさまにしてもらえばいいんじゃないかな」
「そんなのいや!」
ロクサーヌは力強いかぶりとともに弟の提案を一刀両断に切り捨てた。
どうしていやなのか、それ以上問う権利が己にはないことをオーギュストは経験的に知っていた。

「いまから行くの?」
「そうよ。あんたはそのバッタかごを持ってきなさい」
「ちがうよ、これはコオロギをかってるんだよ」
「おんなじようなものよ」
「コオロギをどうするの?」
「決まってるじゃない。あのひとのお部屋にばらまいてくるのよ」
「ええっ」
オーギュストは悲しげな声を上げた。
「つがいもいるのに、ばらばらにしたらかわいそうだよ」
「運命でさだめられた相手ならまたどこかでめぐりあえるわよ」
「エレノールねえさまがオスかメスのかたほうを気に入ってかうことにしちゃったら?ずっとはなればなれだよ」
「気に入るもんですか。だいたい、ばらまくのはいやがらせのためなのよ」
「いやがらせ?」
「そうよ、こんな王宮にはこれ以上くらせないって、あのひとに思わせるためなんだから」
「おへやにいつのまにかコオロギがいっぱいいたら、ぼくはすごくうれしいけどな。もっとここにすみたいって思うよ」
「あんたの意見は聞いてないのよ。とにかく、行くわよ」
いつもの如く召し使いか何かのように顎で促されながら、オーギュストはしぶしぶ虫籠を手に取って立ち上がった。
ここで従わなかったら、この姉は彼の大事なぶち猫に毎日先んじて餌を与えた挙句、ついにその身心を籠絡し堕落せしめて
「ざんねんでしたー。あんたの猫じゃないから」と取り上げるぐらいの非道は平気でやってのけるのだ。
その都度翌日には腕の中へ戻ってくるとはいえ、実際のところ、オーギュストが飼い猫の不実に涙を浮かべたことは一度や二度ではなかった。




「しずかね」
エレノール妃の部屋の南面にひらかれた、敷居からほぼ庇の真下まで丈のある大窓のすぐ脇、
秋の日の午後の陽光が燦々と降り注ぐ白壁に姿を忍ばせながら、ロクサーヌは弟王子に囁いた。
オーギュストは当初、王族の誰かの部屋を訪問するときはまず控えの間で侍女に用件を告げて取り次ぎを頼まねばならない、
と行儀作法の教師に教わったとおりのことを主張したが、
「コオロギをお部屋にばらまきに来たって言ってだれが取り次いでくれるのよ」
と無情に切り捨てられ、納得がいかないながらも姉姫とともに身を潜めているのだった。
「おひるねしてるのかなあ」
「ばかね、大人はおひるねなんてしないのよ」
「じゃあ、おひるごはんのあとはなにをするの?」
「それはもちろん、―――たのしいことよ。決まってるでしょ」
以前小耳に挟んだ話の断片を思いだそうとしながら、ロクサーヌはあくまで余裕を見せて言った。

王族のうち年長の者たちが共同で使っている図書室の窓から淡い木漏れ日が差し込んでいたあの初夏の日、
長兄のアランは窓際の厚いビロードのカーテンに頭から膝下までくるまれたまま、
そして扉をひらいて敷居をまたぎかけたロクサーヌの存在に気づかぬまま、
一緒にいる誰かに向かって「この先の娯しみは、昼下がりに取っておこう」とか何とかそのようなことを囁いていたのだ。
その後につづいたのは「まあ、殿下……」という若い女性の従順な声で、
それが長兄の妻エレノールのものでないことはロクサーヌにも聞き取れたが、そんなことはどうでもよかった。
大切なのは、その声が消え入りそうなほどに熱く上ずっていたことである。
応答者の赤々と火照った頬さえ眼前に想起させるような、期待を隠そうとして隠しきれない声だった。
立派な大人がそんなに待ちきれないほどのたのしみなら、それはもうことばにできないほどたのしみにちがいない、とロクサーヌは思った。

「アランにいさま」
くぐもったような摩擦音を何度か立てた後でようやくカーテンの向こうから出てきた長兄に、ロクサーヌは高らかに声をかけた。
その姿を見るや、ふだん滅多に感情をあらわにしない彼の顔は著しくこわばりつき、その後ろに従っていた美しい女性は「まあ!」と言いかけて口を手で覆った。
年齢にひらきがあるのでロクサーヌと直接交遊があるわけではないが、宮中の舞踏会で何度か見たことがある顔だった。
ヌヴェール侯爵家の当主の若妻だったか長男の許婚だったか、とにかくあの家に関わりのある婦人だということは何となく思い出せる。
「ごきげんよう、ヌヴェール侯爵夫人」
誰からも一人前の淑女とみとめられるべく日々研鑽を怠らないロクサーヌは、
このときも実に落ち着き払った物腰で、下衣の裾を少し持ち上げるようにしてゆったりと礼を送った。
侯爵夫人と呼ばれた佳人は、カーテンから出てきたばかりのときは頬を薔薇色に染めていたにもかかわらず、今や額から首筋まで蒼白になっていたが、
さすがというべきかそれ以上の狼狽を見せることはなく、呼吸を整えるような一瞬の沈黙を置いたあと、
ロクサーヌが期待した以上の丁重さを込めて、幼い第二王女に答礼した。
「ごきげんよう、ロクサーヌ殿下」
「にいさま、今日のおひる下がり、わたしもいっしょにいていい?」
「昼下がり?」
「侯爵夫人とたのしいことをするんでしょ」
「……っ」
「やっぱり、するんでしょ。わたしも見てみたいの」
「―――だめだ」
馬鹿め、と言い放つのとほぼ同じ冷淡さを込めて、さらに眉間にはやり場のない苦々しさを浮かべながら、アランは短く拒絶した。
「どうして?」
「どうしてもだ」
「ずうっとしずかにいい子にしているから、オーギュストみたいにしつもんばかりしてじゃましないから、いいでしょう?」
「何と言おうとだめだ」
「にいさまのけーち」
「知らん」
「あの、ロクサーヌ殿下」
彼女の前に身をかがめるようにして、ヌヴェール侯爵夫人が遠慮がちに声をかけてきた。
「今回は、その、どうしても、兄君とわたくしふたりだけでしなければならないお話があるのでお断りしなければならないのですけれど、
 次回は、ご都合がよろしければお声をおかけしますから」
「ほんと?」
「その代わり、これはわたくしたち三人の秘密ですわ。秘密を守っていただけなければ、お誘いすることはできません」

侯爵夫人はものやわらかに一語一語を区切って言い聞かせながら、王太子の妹姫に嫣然と微笑みかけた。
権力も財力もある健康な男女が複数の愛人を抱えるくらいのことはこの国の宮廷では公然の秘密、むしろ自然の権利と見なされているとはいえ、
一夫一婦制を信徒に義務づける教えを国教と奉じている以上、形式だけでも秘密は秘密として取り扱わねばならない、というのもまた王侯貴族間の約束事だった。
その規定から外れて安易に婚外関係をひけらかすような真似をすれば、
社会の支配秩序を軽んずる者として、また別の観点からは雅びとゆかしさに欠ける者として、
自らが属する上流層の輪のなかで却って疎外されかねない。
夫の資産とは別に広大な領地も家臣も私有しているやんごとなき侯爵夫人が、
幼い王女の無思慮な口外とそこからもたらされる結果を案じたのも無理のないことではあった。

「もちろん守るわ」
大人の内緒ごとに交ぜてもらえたうれしさに、ロクサーヌが声をうわずらせながら大きくうなずくと、
長兄とヌヴェール侯爵夫人はようやく安堵したような顔になった。
そしてロクサーヌはふたりに促されるまま自室に帰り、数ヶ月のあいだ待ちつづけ、そのまま今に至っている。
侯爵夫人からの招待は未だ来る気配がないが、それでもあの優しく誠実な口調を思えば、うやむやにされたなどとは決して考えない。
「たのしいこと」の正体は今でも目と鼻の先にあり、ほんのりと薄いヴェールがかかっているだけなのだ。

「たのしいことならぼくもしたい。いっしょにあそんでくれるかなあ」
「ばかね、大人だけのたのしみだって言ったでしょ」
まるで自分も大人の一員であるかのように弟をあしらいながら、ロクサーヌはふと耳をそばだてた。
「しずかに、―――お部屋のなかから、なにか聞こえるわ」
「ほんとだ。なんだろう」
ロクサーヌは人差し指をぴんと立ててオーギュストの口を閉じさせると、おそるおそる頭を乗り出すようにして窓の端から部屋のなかを覗きこんだ。
王宮内では南向きに位置する部屋だとはいえ、面積があまりに広いために午後の陽光は床の半ばほども覆いきれておらず、
廊下に近いほうの壁や家具はあたかも黎明時のような仄暗さのなかに佇んでいた。

「あ、いた」
姉に倣って窓から室内を覗きこんだオーギュストは、薄暗がりのなかに義姉の姿を見出だしてうれしそうな声をあげた。
「しっ」
ロクサーヌは弟を厳しくにらみつけてから、視線をすぐにエレノールへ戻した。
彼女はどうやら寝台に腰かけ、少しうつむいて膝を見つめているようだった。
天蓋から吊り下げられた絹の帳を肩近くまで引き寄せ、顔を隠すようにじっとしているため、ロクサーヌたちのいる窓辺からは、その表情さえ読み取れない。
けれど、肩を覆う帳がかすかに震えていることは、彼らの目にも少しずつ明らかになった。

「エレノールねえさま、ないてる」
しばらくしてから、オーギュストがぽつりと言った。
「そうね」
少しためらってから、ロクサーヌがうなずいた。
「どうしよう?」
弟に返事もせず、ロクサーヌはまたしばらく黙りこんだ。
「やっぱりコオロギをおいていこうよ。きっとげんきになれるよ」
「あんただけよ」
例によって短く切り捨てると、ロクサーヌは有無を言わせぬ力で弟の腕をつかみ、足音に気をつけながら先ほど来た経路を戻り始めた。
「コオロギは?もってかえっていいの?」
オーギュストのおずおずとした問いかけにロクサーヌは無言でうなずいた。少年は安堵の息を漏らしてから、大事なことを思い出した。
「ハクガイは?」
「王宮の主役は、悲しんでるひとにハクガイはしないの」
「よかった」
オーギュストはもういちど安堵の息を漏らした。今度のそれは先ほどよりだいぶ深かった。
けれどふたりの足が、エレノールの部屋がある棟を離れて吹き抜けの回廊へ至ろうというところで、
突然、背後から声がかけられた。

「おまえたち、どうしたんだ」
ふたり揃って振り仰げば、今年十三になる三兄ルネが不安気な顔で立っていた。
いつもは年齢に見合わないほどの澄み切った静謐を湛えた褐色の瞳が、どこか落ち着かなげに瞬きを繰り返している。
なぜこんなところで兄さまに会うのだろう、と幼い弟妹はぼんやり思ったが、それが明確な疑念となる前に、ルネの第二声がつづいた。
「いくらか慌てて戻ってきたように見えたが。―――その、あちらの方角から」
「あそこはねえ、エレノールねえさまのおへやなんだよ」
兄が知らないことを知っている自分がよほどうれしかったためか、オーギュストが珍しく間をおかずに言った。
「ぼくたち、ねえさまをハクガイしにいこうとして―――」
余計なことは言わなくていいの、とロクサーヌは苦々しげにオーギュストの口を押さえたが、ルネの耳にはもちろん届いていた。
「迫害?迫害とはどういうことだ?ひょっとしておまえたち、あのかたを―――」
「でも、しなかったもん」
ロクサーヌがしぶしぶという顔で言った。
「わたしたち、何も、ねえさまにしなかったもん。泣いてたから」
「泣いていた?」
ルネの声が急に緊張の度合いを高めた。
大声を出されたわけではないが、ロクサーヌたちは何となく尋常でない気配を感じとり、却って気楽な肯首ができなくなった。
「そうか、泣いておられたのか」
黙りこんだ弟妹を前にしてルネはひとり呟き、視線を落とした。
そしてしばらく立ち尽くしていたかと思うと、彼らへの挨拶もそこそこに、心ここにあらざるようすで歩き去ってしまった。
ロクサーヌとオーギュストは黙ってその背を見送り、ふたりきりでふたたび歩きだしてからも、何となく黙ったままだった。
その後何度となく廊下を曲がって、オーギュストの部屋と隣り合うロクサーヌの部屋にたどり着いたとき、
春先の川面の氷が緩み出すように、彼らはようやくことばを取り戻した。




「ねえさま、なにさがしてるの」
「いいものよ」
傍らに立ち尽くす弟を尻目に、ロクサーヌは自室の寝台の脇にある小間物用の戸棚の奥から色とりどりのぬいぐるみを引っ張り出していた。
取り出された順に挙げてゆけば、
はるか南国に暮らすという白い象に、同じく南の島でさえずるという赤と緑の大きな鳥、この国の森林地帯でも馴染み深い黄色の狐、それから茶色の子熊
―――いずれもやや古ぼけてはいるが、ビロードの生地はまだ光沢を保っており、瑪瑙細工の飾りボタンは磨けばきちんと光るだろう。
「たくさんあるねえ」
「このなかからひとつあげるの。ねえさまに」
ロクサーヌは高らかにそう宣言し、床に並べたぬいぐるみたちの検分にとりかかろうとした。
「どうしたの?」
ぬいぐるみと視線を合わせるようにして床に座り込んだ姉姫の動きがふと止まったので、オーギュストは心配そうに問いかけた。
ロクサーヌは答えず、久しぶりに再会した過去の遊び相手たちをしばらくじっと眺めていたが、つと立ち上がって寝台に向かった。
柔らかい鵞鳥の羽根がたっぷり詰め込まれた掛け布団の下から取り出したのは、淡い桃色の毛並みをしたうさぎのぬいぐるみだった。

「それをあげるの?」
「―――うん」
「そのうさぎさん、おきにいりじゃなかったの?」
これまで姉とふたりでままごとやごっこ遊びをしたときでも、そのうさぎにだけはめったに触らせてもらえなかったことを思い出して、
オーギュストはふしぎそうに尋ねた。
「大事だけど、―――大事なものだけど、王宮の主役は、主役らしいふるまいをしないといけないの。コウケツなふるまいを」
「コウケツって?」
「そんなことはいいから、オーギュスト、あんたも何かいいものを用意なさい。自分がすてきだと思うものよ。王子さまはコウケツじゃないといけないの」
コウケツの意味を教えてもらえないのにそんなことを断じられても、オーギュストとしては困惑を深めざるを得なかったが、
今しがた姉姫が迷いを重ねたあとに下した決断は、血の巡りがあまり速やかとはいえない彼にも何ごとかを悟らせたようだった。

数分後、自室から引き返してきたオーギュストが姉姫の前に取り出してみせたのは、碧い絹張りの小さな細長い箱だった。
「何よ、それ」
「ぼくが今まであつめたなかで、いちばんきれいなもの」
「宝石?」
「ううん、もっとこわれやすいもの。なんて言うんだっけ、―――はかな、はかないもの」
「はかない?」
「はかないものはきれいだって、ねえさまも前に言ってたでしょ」
「言ったけど、―――じゃあ、あんまりひんぱんに見たりさわったりしないほうがいいの?」
うん、とオーギュストは珍しく譲らないようすで重々しくうなずいた。
どうせわけのわかんないもの持ってきたんだわ、とロクサーヌは胸のうちで決めつけたが、
四面の縁が金細工で密閉された箱のつくりを見るかぎり、ろくでもない生き物を持ってきたわけではなさそうだと確信し、
とうとう「そんなに言うならいいわよ、それで」と弟に負けないくらい重々しい声で許可を下した。




「エレノールねえさま、まだないてる?」
「しっ」
先ほどと同じようなやりとりを繰り返しながら、姉弟はまたエレノールの部屋の窓近くの壁際に身を潜めていた。
「どうやってわたそうか」
「こういうのはね、正面から渡したりしないの。気づかれないようにそっとおいてくるのが、センレンされたおとなのやりかたなの」
「ふうん」
自分より二歳しか年上でない姉姫が大人の作法なるものを得々と語ることにオーギュストは今ひとつ納得できなかったが、
彼女が自分より多くのものごとを知っていることは疑いようがないので、消極的ながらもうなずいてみせた。
「でも、気づかれないようにおいてくるのって、気づかれながらおいてくるのよりたいへんだよ」
「心配はいらないわ。ちゃんといい考えがあるんだから」
「いいかんがえ?」
「あそこにいすがあるでしょう」

ロクサーヌが指さした先、すなわち彼らが身を隠す壁際から離れて大理石のテラスを抜け、さらに十歩ほど離れたところには、
大きな楓の木が広々と枝を張り、さらにその下には籐製とおぼしき東洋渡りの瀟洒な椅子が何脚か並べられていた。
「あのなかのいちばん大きないすをふたりで動かして、この窓の前まですばやくもってくるの。
 運ぶとちゅうでエレノールねえさまが何か気づいて窓辺までやってきても、わたしたちはすぐいすの後ろにかくれることができるでしょ」
「ロクサーヌねえさま、あたまいいなあ」
心底感嘆したような弟の声に気分をよくしながら、ロクサーヌは朗々とつづけた。
「こんなの、かんたんよ。それで、いすを窓の前までもってきたら、すばやくうさぎさんをいすにすわらせて、そのうでにあんたの箱をもたせるの。
 うさぎさんがおくりものをしてくれるみたいで、すてきでしょ」
「うん、それ、すごくいいね」
思ってもみない姉姫の提案にますます尊敬の念を深めながら、オーギュストは頬を上気させてうなずいた。
「うさぎさんがおくりものをくれたら、エレノールねえさま、きっとすごくよろこぶねえ」
「おしゃべりはおしまい。そろそろ実行しないと、ねえさまこっちに来ちゃうかもしれないわ」
そう言うとロクサーヌは、右手にうさぎを抱き左手に弟の手を引いて壁際を離れ、奥行きが短めのテラスを早足で縦断し、木陰の椅子の群れのなかにすべりこんだ。

「これがよさそう」
彼らふたりの身長を隠すに十分な丈の背もたれがある椅子を選びとると、ロクサーヌは座板の右半分に手をかけ、左半分を持つよう弟に目で指示した。
ここまではとても順調に行った。順調に行かなくなったのは、選んだ椅子が想像よりもだいぶ重いことに気づいてからである。
互いの呼吸をなんとか合わせながら、姉弟はどうやら木陰を外れたところまでは椅子を運び出すことができたが、
それ以上の距離となるとずり押してゆくほかなさそうだった。
(どうしよう、じめんを引きずったらきっときこえちゃうよ)
(おちつくのよ、音が出ない引きずり方を考えるの)

「そこで何をしているの?」
突如上方から降ってきた声に、それまで目配せで意思を交わしてきたふたりは心臓が反転するほど驚愕した。
とにかく見つかってはいけないと思ってオーギュストは両手で自分の顔を覆い隠したが、ロクサーヌに力ずくで椅子の背もたれの裏側に引きずりこまれた。
(ばかね、見つかっちゃうじゃないの)
(ごめん、ねえさま)
それからふたりは、背もたれに施された編み模様の隙間から声のしたほうを眺めた。
いつのまに寝台を離れたのか、開け放たれた大窓の敷居近くにエレノールがひとり立っており、ふしぎそうな顔でこちらを見つめている。
泣き止んではいるが、目元はまだはっきりと赤かった。
(どうしよう、ねえさま)
(おちつきなさい、正体は気づかれてないわ。わたしたちの名前をよばないもの)
(そうか)
(わたしはこっそり手だけのばしてうさぎさんをいすにすわらせるから、あんたはそっちがわから手をのばして箱を持たせなさい)
(うん、わかった)
極度の緊張下に置かれていたわりには、姉弟の連携はまずまずなめらかに行われたといえた。
ふたりにとって予想外だったのは、窓辺に立つ義姉が弾んだ声で「まあ、うさぎさん」とも「おくりものかしら」とも言わずに、
ふだんは優しい弧を描く柳眉を心底不可解そうにひそめていることであった。
彼女はそのままじっと椅子の上の布製うさぎと小さな箱を、そして椅子の四本の脚の向こうにちらちらする二足の小さな靴を観察していたが、
やがてこのまま対峙していても時が過ぎてゆくだけだと諦めたのか、自ら口をひらいて問いを発した。

「ロクサーヌ、オーギュスト。どうしたの、そんなところで」
(どうしよう、気づかれちゃった)
オーギュストは不安に満ちた目で姉姫の指示を仰いだ。
ロクサーヌはロクサーヌで、ありうるはずがない事態に遭遇した驚きに深く打たれていたが、
ふと天啓が降りきたるのを感じたかと思うと、会心の出来といえる作り声で椅子の背越しに義姉の問いに答えた。
「うさぎなの」
「え?」
「わたし、うさぎだけど、おくりものをもってきたの」
それを聞くとエレノールの眉間のひそみは先ほどにもまして深まったが、ある一瞬を経ると、夕立の後の夏空のようにすっと晴れわたった。
そして床より少し高い窓敷居をまたいでテラスを抜け、一脚の椅子がぽつんと置かれたほうへゆっくり歩いてきたかと思うと、
椅子の背もたれの後ろに回り込んだ。
「分かったわ、ごっこ遊びね。ねえさまも混ぜてくれるの?」
姉弟は上から見下ろされたままこわばりついた。
実の姉たちからは未来永劫向けてもらえないであろう、親愛がこぼれ落ちんばかりの微笑みを振り注がれて、
オーギュストは硬直が解けるやいなや大きくうなずきそうになったが、ロクサーヌに力いっぱい靴を踏みつけられてなんとか思いとどまった。

「―――ごっこあそびじゃ、ないもん」
姉弟の代表として、ロクサーヌがぼそりと口火を切った。
「そうなの?では、これは―――」
「エレノールねえさまにあげる」
「まあ」
「こっちの箱はオーギュストからだけど」
「まあ、―――うれしいわ。でもどうして?この国では今日が、わたくしの守護聖人の何かにちなむ日なのかしら」
「ちがうの。悲しそうだったから」
「おへやはのぞいてないよ」
このばか、と再び弟の靴を踏みつけようとするロクサーヌをあわてて押し留めながら、エレノールは「あら、まあ、―――」と同じ感嘆詞を口にした。
「それで、このうさぎさんをくれようとしたのね。とってもふわふわでかわいらしいわ。
 こんなに毛並みが気持ちいいうさぎさんに触るのは初めて」
「それと、そのはこもだよ」
「そうだったわ、この箱もね。こんなに美しい箱に入っているのだから、きっとすてきなものにちがいないわ。いま開けてもいいかしら?」
「いいよ」
誇らしげな顔でオーギュストはうなずいた。
「でも、すごくそおっと開けないとだめなんだよ。はかないものだから」
「まあ、では気をつけるわね」
慎重な手つきで小箱の止め金を外したエレノールの目に映ったのは、透明でありつつも枯色蒼然とした筒状のものだった。
オーギュストに戒められた通り細心の注意を払って触れてみると、水分のかけらもないそれは蝶の羽根よりもさらに薄く、
息を強く吹き掛けただけでも崩れ落ちてしまいそうに見える。
儚げな風情を帯びている、と言えばたしかにそう言えなくもない。
エレノールも一瞬反応に困ったようだが、すぐに屈託ない笑顔を見せた。

「ほんとに、きれいだわ。これは、ええと―――」
「へびのぬけがらだよ。しっぽのほうだけだけど」
「きゃあっ」
童女のように高い悲鳴とともにエレノールは箱を取り落としそうになったが、なんとか掌に収めたまま息を整えようとした。
「やっぱりろくでもないもの持ってきたのね」
とロクサーヌが新たな憤怒の面持ちで弟を小突こうとするので、エレノールはそれをなだめつつ、
悲しげな顔をするオーギュストと目線を合わせ、語りかけた。
「ごめんなさいね。思いがけなかったから、少し驚いてしまっただけなの。
 とても珍しいものを選んでくれたのね。
 ねえさまはあなたよりずっと早く生まれたけど、蛇の脱いだ皮を見るのは初めて。光に透けるぐらい薄くて、とてもきれいね」
「ほんと?」
「本当よ」
「じゃあ、このはこはほんとはだいじにしまっておかないとだめだけど、ねえさまはとくべつに、いつも身につけてもちあるいてもいいよ」
「―――ま、まあ、ありがとう」
「あんたはばかなことを言わなくていいの」
得意げな顔のオーギュストを押しのけて、ロクサーヌがまた前に出てきた。

「どうして、だったの?」
「何が?」
「どうして泣いてたの?」
「ああ、―――」
エレノールはやわらかい笑顔のまま、少しの間ロクサーヌの肩の向こうに視線をやり、ふたたび義妹に目を合わせた。
そして、いろいろなことを思い出していたの、と言った。
大人はいつも「いろいろなこと」って言う、とロクサーヌは思った。
けれど、それ以上問い詰めたりはしなかった。
その代わり、しばらく自分の靴を見下ろしながら、爪先で草の上に何度か円を描いていたかと思うと、ふっと顔を上げた。
こんなことを言うのは不本意でしょうがないのだけどと言いたげな、実に神妙で居心地の悪そうな顔だった。

「あのね、ねえさま」
「ええ」
「さびしかったら、ときどき遊んであげてもいいわよ」
「まあ、ありがとう」
祈祷式に臨む司祭のように厳粛な義妹の口調に笑みを誘われつつも、エレノールは真摯な謝意を込めて言った。
ふたりいる義妹のうち、この幼い妹姫からは嫁いできた当初からどことなく敵視されているような気がしていたが、
今こうして向かい合って初めて、この子どもは悲しみに沈む他者を見たときに動かずにはいられない人間のひとりだと知ることができたのだ。
「そうだわ、わたくしの部屋にもお人形がいろいろあるの。見てみる?」
「わたしはもう、お人形あそびなんかしないの」
「まあ、ごめんなさい」
「でも、見るだけなら見てあげてもいいわよ」
そう言いながら、ロクサーヌは落ち着かないようすでエレノールの肩越しに窓の向こうの室内を見やった。
「だんろの上にたくさんかざってある?」
「戸棚のなかにはもっとたくさんあるわ。ふたりとも、お入りなさいな」
穏やかな声に促されて、ロクサーヌはしぶしぶといった態を見せながら、オーギュストは嬉々とした足取りで、義姉のほっそりした背中のあとに附いていった。





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