ようやくこの夜を迎えることができた。
紅の葡萄酒を干したばかりの杯をてすさびに傾けつつ、
アランは万感の想いを込めて来し方を振り返った。
思えば長い一ヶ月であった。
これがよほど長く感じられるであろうということは
妻の侍女に門前払いを食わされたときから十分予感していたが、
しかしよもやこれほどの不全感を絶えず抱えたまま朝夕を過ごすことになろうとは思いも寄らなかった。

寂寥などということばは用いたくなかった。
健康な成人男子が一ヶ月間もの独り寝に肉の渇きをおぼえるのは当然であり、
そしてそれだけで言は尽くされたはずなのだ。
愛惜の情に侵食されてゆく心理状態、いわゆる感傷など男にとっては厭うべきものでしかない。

だがアランはこのひと月というもの、毎朝目が覚めてまもなく隣に誰もいないことに気づくたび、
荒漠とした見知らぬ土地へ独り放り出されたような、何かひどく空虚な気分をおぼえてきたのだった。
下半身の欲求は自己処理でもなんとかなだめられるが、
本来そこにいるべき存在がいないというこの空しさばかりはいかんともしがたかった。

だがそれも今夜で以て終焉となる。
ひと月の間自室にこもって潔斎を守っていた妃エレノールは、本日の夕方ようやく公の場に姿を現し、
王室附属の聖堂にて祈りを捧げることでこのたびの斎戒月間の締めくくりとした。
そして最後の精進食と沐浴を終え、
アランが待つこの寝室へ―――彼女が本来一日の終わりを過ごすべき場所、
彼とともに朝を迎えるべき場所へと姿を見せるはずであった。
アランは窓の外を見た。
月の形はたしかにひと月前と変わるところがなく、だが今夜だけはひどく優しげな暖かい光を
あたかも慈愛に満ちた大司教の祝福のように絶え間なく王宮へ降り注いでいるかに見えた。

ちょうどそのとき、大理石の扉が丁重に叩かれる音が広大な寝室の静寂を破った。
アランが返事をすると、
妻の筆頭侍女イザベルが―――一ヶ月前憐憫のかけらもなく彼を追い返した張本人が―――
王太子妃殿下ご入室です、と厳かに告げ、ついで衛兵らによって左右開きの扉が重々しい摩擦音とともに開け放たれた。
そして華奢な人影が室内に足を踏み入れると、扉はまたその背後で一分の隙もなく閉ざされてしまった。

「少し痩せたな」
自分が座している寝椅子のもう一方の端に妻が腰を下ろしたとき、アランはぽつりと話しかけた。
一ヶ月間というもの朝に夕に粗食を貫いたのであるから、以前より細身になったのもある意味では自然なことであり、
彼自身予測していなかったというわけでもなかった。

エレノールから返ってきたのは、そうかしら、という呟きだけだった。
とくに気分を害したというわけでも喜んだというわけでもなく、ただ顔を少しうつむけて自分の膝の上を眺めている。
緊張しているのだろうか、とアランは思った。
彼自身はただ無心に、子ども時代の祝日の前夜を思いだすほど混じり気ない喜びとともにこの日を待ち受けていたものだが、
エレノールのほうは必ずしもそうではなかったのかもしれない。
信心の篤さでは聖職者にもひけをとらない彼女が自ら発起して始めた儀式であるから
それが終焉してしまったのを残念がっているということはありうるが、
それよりもむしろ、このひと月かつてないほどに潔斎を徹底したことにより、
男に対峙する際の心がまえまで処女のそれへと回帰してしまったのであろう、とアランにはなんとなく察せられた。
いずれにしても実際、処女でなくなってからエレノールはまだ日が浅いのだ。

横並びに座ってふたりとも正面を向き、顔を合わせないままでしばらく時が経過した。
が、やがてアランは意を決したように妻のほうを向き、ゆっくりと彼女に語りかけた。
「エレノール」
「はい」
「よく戻ってきてくれた。感謝している」
「―――はい」
素直すぎるほど素直な夫のことばに、エレノールはやや戸惑いがちな声で答えた。

「この間の晩は俺が間違っていた。
 人を疑うことを知らぬそなたの純心に何度となくつけこんだ挙句、
 重い禁を犯すような真似をそなたに強いようとしてしまった。
 あれは決して、神への誓約によって結ばれた妻に対して夫たる者がいざなうべき営為ではなかったな」
愛人に対してならいざなってもよいという性質のものでもありませんけれど、と思いながらも、
エレノールは「ええ」と短くうなずいた。

それは謝罪を受け入れるという意味ではあった。
けれど同時に、たったいま聞かされたことばのしおらしさ、殊勝さに、予想を超えた何かいかがわしいものを感じてもいた。
不気味なものと言い換えてもよい。
(これにはきっと何かあるのだわ)
誰かのせいでひと月前に強力な猜疑心を植えつけられたばかりのエレノールは心中ひそかに疑念を吐露しつつ、
けれど一方で、夫の劇的な改心を信じたい気持ちもたしかに芽生えていた。
そもそもこのたびおこなった祈祷の最終最大目的はそれであり、
自分の真剣な祈りが天上ばかりでなく夫の胸にまでしっかりと届いたのだとしたら、
これこそ厳しい斎戒の規律を守りぬいた甲斐があったというものである。




エレノールのその感慨を後押ししたのが寝所の変容であった。
久方ぶりに足を踏み入れた夫婦の閨には祈祷用の香がほのかに満ち、
清浄無垢なる大聖堂の空気を髣髴とさせるほどだった。
それもよく聞いてみれば、一年で最も重要な宗教行事である大斎戒期の終夜祈祷に焚くような、
選び抜かれたかぐわしい乳香である。
部屋をさらによく見渡してみると、三叉の燭台に据えられた蝋燭も寺院で用いるような質朴な形状のものに改められており、
さらに寝台を覆う天蓋の付近には従来掛けられていた王室の紋章に加え、
教会により諸聖人の象徴と定められたさまざまな文様のタペストリが吊るされていた。

(これは一体、どうしたことなのかしら)
わたくしの機嫌をとるためとも考えられるけれど、とエレノールはまず用心深く留保をつけようとした。
宮廷の奥深くで蝶よ花よと善意に囲まれて傅育されてきた彼女は生来、こんな疑い深い気質ではなかったはずなのだが、
やはり誰かにより植え付けられた猜疑心のために一歩立ち止まらざるを得なかったのである。
けれどかくも目覚ましく夫の変貌を物語る品々を見れば見るほど、
いまだ易々と目を合わせる気にはなれないとはいえ、
彼の過ちに対する態度を改め、和らげてやらなければならぬように思われるのだった。




妃が自問自答を繰り返しているうちにも、アランのことばは滔滔とつづけられていた。
独身時代も含めこれまで重ねてきた放蕩の数々を心から悔いていること、
エレノールが指弾し正してくれなければ同様の罪を重ね続け平然としていたであろうこと、
そしてこんな自分の魂の救済のためにさえ祈ってくれる妻を持ち自分はなんと幸運であるかということ。
すべては粛然とした、なんの虚飾もない誠実なひびきに満ちていた。
(―――アラン)
平素尊大に振る舞うこと甚だしい夫の口からかくも恭謙さに満ちた謝罪と自責のことばが発せられている。
その事実が、エレノールの警戒心を静かに着実に溶解させてゆく。
(このかたの重ねてこられた大罪も、いまや過去のものと見なして差し上げるべきなのかもしれない)

ついにエレノールは寝椅子の上でアランに向かい合い、伏せていたまなざしをためらいがちに上げた。
濃いまつげに縁取られた大きな黒い瞳、燭台の灯と共に己の姿を映しているあの懐かしき漆黒の瞳と
一カ月ぶりに相対することが許された王太子は、
もはや自らの挙措に抑制を利かせられないとでもいうかのように力強く妻の肩を抱き寄せ、
もう一方の腕で彼女のほっそりした手首を口元に引き寄せたかと思うとなめらかなその甲に接吻した。
それはおよそ普段の彼の物腰からは考えづらいほど率直な、歓喜と忠節の表明というべきものであり、
その事実がまた、このひとつきというもの朝夕祈祷に励みつつも密かに夫との再会の期日を数えていた妃の心を
劇的なまでに揺り動かした。

「アラン」
しばしの沈黙ののち、小さな声でエレノールは呼びかけた。
そして口にして初めて、このひと月というもの自分はずっと、この簡潔な名前を声に出して呼びたかったのだ、
ということに気がついた。

「アラン、―――わたくし、とてもうれしく思いますわ。
 長いようで短いひと月、たったひと月でしたのに、あなたがこれほどまで如実に、
 天上の主の御おぼえさえめでたくなろうほどに心構えを改めてくださるなんて。
 夫婦の房事に限らず、あなたは常々敬虔な信仰生活というものから少なからず逸した日々を送ってこられましたけれど、
 でもそれは御本意ではないはずだと、わたくし堅く信じておりましたの。
 そう、―――あなたはいわば、退廃を極めたこのガルィアの国風に幼少時から否応なく身を浸してこられたがために、
 堕落を堕落と教えてくださるかたが周囲に誰ひとりおいでにならなかったがために、
 かくも人の子の務めに反する道をとくに疑念も抱かず歩み進めてこられてしまったのですわ。
 わたくし、かねてよりそうではないかと案じておりましたが、今くっきりと疑念が晴れました。
 アラン、あなたはいわば、この国と時代が生み出した爛熟と退嬰の犠牲者なのですわ。
 それは不可抗力というべきものでございましょう。
 わたくしとてやはり、この罰当たり者ばかりの国に生まれていたとすれば、
 一体どのような人間に育っていたことか、自分でも確信はできかねます」
「いやエレノール、そなた自身が疑っても俺は疑うまい」

冷静に考えれば(実情に沿っているとはいえ)相当国辱的なことを言われたにも関わらず、
アランはそんなことは意にも介していないかのように落ち着いて妻の瞳を見つめ返した。
「たとえこの世で最も凄惨で罪深い娼窟に生を享けたとしても、
 そなたはやはり変わらず峻厳な信仰と清らかな身の上を守り抜いたことであろう。
 俺にはそう信じられる」
「まあ、アラン……」

夫のことばには何の誇張や勿体ぶりも感じられなかった。
そこにあるのはただ妻の貞淑さへの絶大な信頼感と賛美の念のみであり、
その裏返しとして自らが重ねてきた放蕩に対し深い悔悟を抱いていることを読み取るのは困難ではなかった。
エレノールはとうとう、夫の腕に抱き寄せられるがままその逞しい肩に頭を委ね、心まで預けきるかのように目を閉じた。
彼女を包み込んでいたのは予期しないほどの幸福感と造物主への感謝だった。
海よりも深き主の恩寵によって、わが祈りはたしかに受け入れられ、報われたのだ。
余人より少し出遅れたとはいえ、アランも以後一心に戒律を守りつづけるかぎり、死後の救済は保証されたとみるべきであろう。

「アラン、わたくし、本当に幸せですの。至誠天に通ずとはまことですのね。
 わたくしたち、これからは清らかな生活を守ってまいりましょうね。
 もちろん、その、子をもうけるという王族の義務も果たさなければなりませぬゆえ、
 修道院のように清らかにというわけにはまいりませんけれど、
 でも俗人として許される限りの清浄な生活を追求することは、アラン、わたくしたちふたりでしたらできるはずですわ」
「むろんだとも」
アランはすべて分かっていると語りかけるかのように、常にもまして優美なまなざしで妻の顔をのぞきこんだ。
その潤いある黒い瞳は、母の膝近くにいる童女のように心満たされ、清澄な光をたたえていた。
そしてふたりはどちらからともなく顔を近づけ、実にひと月ぶりの接吻を交わした。

ようやくのことで唇が離れたとき、エレノールはひどく心細さを感じた。
そして肌の火照りだけが残った。
(接吻への耽溺は肉欲へと通じる道だもの、いけないわ)
そう自戒して小さく首をふる。するとアランがまた彼女に囁きかけてきた。
「どうした」
「いいえ、何も―――それは?」
エレノールが目を留めたのはアランの掌に載せてさしだされた小箱だった。
燭台の淡い光のもとでも、その中に貴金属が収められていることはすぐ分かった。
「まあ、これは―――」
手にとって見ると、一粒一粒に精緻な彫琢がほどこされた数珠状の法具だった。
一般信徒も祈祷の際に用いるが、色や形状からすると聖職者用のものと見るべきである。
そして箱の下層には同じく聖職者用の指輪や腕輪が収められており、主の慈悲と恩愛をたたえる句がくまなく彫りこまれている。
彼の意図するところは明確だった。

「ありがとうございます、アラン。
 わたくし、何と申し上げたらよいか。
 あなたはご自分の不信心を改められただけでなく、
 わたくしの信仰さえ後援し、さらなる高みへと昇華せしめんとしてくださるのね。
 無期限で厳しい戒律を守りながら暮らしている司祭様や尼様がたのようにとはまいらずとも、
 こうして同じ装身具を携えることで、
 いくらかでも出家のかたがたの敬虔なご境地に近づくことができるような気がいたしますわ」
「着けてみるといい」
「ええ。―――あら、ぴったりだわ」
「こういうのもある」
「まあ、これは」

つづいてアランに渡されたのは、ごく質朴な麻織りの布だった。
よく見てみれば修道女がかぶるような頭巾である。
エレノールを初め宮中の貴婦人は日ごろから被り物をしているとはいえ、
それはあくまで身分を示すための装飾のようなものであった。
女性の髪とは虚栄心のおおもとであり、男性の賞賛の対象であり、
教会の定めるところによれば情欲をいざなう罪深い器官であるから、
このような大きな布で頭髪をすっかり覆ってしまうというのはまさに道心の発露そのものである。
それを手に持って丁重に広げながら、エレノールはますます感激を深めていった。
「アラン、わたくし本当に、なんと申し上げたらいいのかしら。
 世の夫は妻を飾り立てることにばかり夢中になっているけれど、
 あなたはこうしてわたくしの虚栄心を戒めて、罪をつくらないように道をひらいてくださるのね……
 あら、この刺繍は」
エレノールは頭巾の端に目を留めた。
まったく無地の布だと思っていたが、よく見るとそこには赤い糸で小さな丸い果実がいくつか縫いこまれ、
「桜桃修道会」と緑色の糸で綴られていた。

  「まあ、かの地よりお取り寄せになったのですか?」
桜桃修道会とはエレノールの生国における代表的な女子修道会であり、
創始者以来列聖された修道女を何人も輩出していることから、外国でもその名はよく知られていた。
すでに二百年以上の歴史をもつ一大組織でもある。
「そなたは常々ここの修道院に送金し、何かと援助をしているだろう」
「ええ、―――でも、よくご入手されましたこと」
「俺が本気で取り計らえば不可能なことは何もない。ほら、これもだ」
「まあ、修道服まで。―――修道服?」
「そなたは祈祷や礼拝の際、これを模したものをまとっているようだが、やはり本物はちがうだろう」
「え?ええ……」
「寸法は合うはずだ。いずれにしてもゆったりしたつくりだが」
「あ、あの、わたくし別に、出家をしたいなどとは一度も」
「むろんだ。ただ着てみてくれるだけでいいんだ」
「―――何のためにですの」
「分かるだろう」
アランは落ち着き払って妻に囁きかけた。
けれど口調の落ち着きとは裏腹に、その褐色の瞳はいつのまにか燃えるような熱を浮かべていた。
「このひと月というもの、ひたすらそなたが祭壇の前で敬虔に祈る姿を思い浮かべては悶々としてきたんだ。
 これだけ我慢を重ねさせたのだから、修道女姿で俺を楽しませてくれることぐらい―――」




前回の経験を反射神経に学習させることができなかったのか、
アランはふたたび正面から枕の殴打を食らった。
そして例によって回復には多少の時間を要した。
「―――どうした、エレノール」
「どうもいたしませんわ。
 ただあなたが地獄行きだということが動かしがたい事実になっただけです」
「何をそんなに怒っているんだ。尼僧プレイは万国共通だと思っていたが。
 修道院らしい雰囲気までこの部屋に再現してみせたというのに」
「お黙りなさい。
 わたくし、今度という今度はあなたのためにお祈りなどいたしません。絶っ対にいたしません!」
「望むところだ、夜は短い。さあ早く着替えを」

枕はもはや振り下ろされることはなかった。
しかしアランは一瞬後、自分が寝椅子の下に蹴り落とされたことを知った。
「足を使うのはさすがにはしたないぞ。王太子妃ともあろう者が」
「正しい目的のためなら許されます。
 ―――起き上がらないで」
寝椅子の腰掛部分に手をかけようとした夫を威嚇するように足を振り上げ、エレノールは低い声で言った。
「起き上がるなも何も、このままでは寝椅子にも寝台にも横になれぬではないか」
「あなたのような救いがたい罰当たり者には床がお似合いです。
 今夜わたくしと同衾しようなどとなさいましたら、本当に国に帰らせていただきます」
冷たく淡々と言い放つと、エレノールはひとり立ち上がって部屋の奥へゆき、
夫に背を向けるようにして寝台に横たわってしまった。
アランはよほど起き上がって弁解と説得を試みたかったが、
妻が背中から発散している寄るな触るなオーラは本物だと確信せられたのでさすがにそれ以上は動けなかった。





※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※





「ルネ」
執務室近くの廊下でたまたますれ違った三弟に、アランは声をかけた。
「おまえは今時間があるか」
「ええ、何か御用でしょうか」
「マテューの寝室に行って起こして来てくれんか。
 はたこうと蹴ろうと引きずろうとあいつが眼を覚ましさえすればどんな手段を用いてもかまわん。
 使い走りのような役目で悪いが、従僕たちに頼むとどうも手加減してしまって結局効をなさんのだ。
 昨年の領内開墾地面積の申告をやつだけが出していない。
 ここらで進捗状況を問いただしておかねばならん」
「ええ、それはかまいませんが・・・・・・アラン兄上は具合がお悪いのですか」
昼まで寝ている次兄を緊急の用事で叩き起こすのは、ふだんなら長兄がじきじきに執り行っている行事である。
正直自分に次兄を起こせるかどうか自信はなかったが、ルネはそれより長兄の身を案じつつたずねた。

「いや、大したことはない。歩くのがやや億劫なだけだ。
 背中と腰が少しばかり痛んでな」
「背中と、腰……」
兄嫁エレノールが昨晩ひと月ぶりに公の場に顔を出し、
長兄夫妻の暮らしも平常に戻ったというのは宮中の誰もが知る事実であった。
夫婦の暮らしが平常に戻るというのはつまり、しかるべき場所でしかるべき時間に同衾するということである。
十三歳のルネにもそれぐらいは分かる。
「……あ、あの、昨晩兄上の身に、何か、その、義姉上が……」
「夫婦の間にはいろいろある」
長兄の目はどこか遠くを見ているようだった。
そしてそれ以上言を重ねることはせず、彼は執務室に入ってしまった。




ルネはマテューの寝室へと向かって、長い廊下を早足で歩き始めた。
(腰と背中が痛くて、義姉上との間に……いろいろ……いろいろ……?)
彼の脳裏ではおびただしい混乱と困惑が生じていた。
ときには下腹部の反応のために、歩行に困難をおぼえるほどであった。
(―――しかたがない)
ルネはやや迷ったが腹を決めた。
すなわち、長兄から仰せつかった役目を果たし終えたなら、
不用意に膨れ上がった妄想と煩悩を収斂させるためにも、
世間をよく知っている次兄に解題を請わねばと思った。




(終)




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